第16話 草色神官の旅立ち
二度目の呪文を打った途端、膝をついて咳こみだしたカエムワセトに、リラとハワラが駆け寄った。
「殿下!大丈夫ですか!?」
「焦っちゃ駄目だよ。ちゃんと体が戻ってからじゃなきゃ」
リラがカエムワセトの汗ばんだ背中をさすりながら注意する。
蛇が人型に変異した様子を目の当たりにして、急いたカエムワセトは息が整う前に次の呪文を発動させた。
その反動は覚悟していたものよりも大きく、全身は突然、岩のように重くなり、心臓に走った痛みで一瞬息が止まった。それは、立っていられないほどの苦痛だった。
「・・・また仕損じたみたいだね」
顔を上げて神殿内部の気配を探ったリラが、残念そうに眉を下げる。
胸の痛みが引いてきたカエムワセトは、リラに「大丈夫だ」と答え、額に浮かんだ冷や汗を拭った。
「こちらがチャンスを作れば、ライラ達がきっと仕留めてくれる」
膝に手をつき重い身体を持ち上げ、息を整えた。
「殿下・・・」
見上げてきたハワラに、カエムワセトは微笑んでみせる。
「心配しなくていいよ。こう見えて、私は結構タフなんだ」
それはけして出まかせではなく、事実カエムワセトは自分の体力と魔力にそれなりの自負があった。
トトの書をネフェルカプタハの墓から持ち出そうとした時に、彼はネフェルカプタハのミイラから、洪水の如き水攻めや砂と岩で造られた魔獣など、これまで自分が体験した事のない強烈な魔術で応戦された経験がある。その時もカエムワセトは、ライラとアーデスを後ろ手に守りながら、魔術での反撃を繰り返した。その時に比べれば、今回は身体を回復させる余裕があるだけまだいい。
カエムワセトは、前庭で闘っている援軍を見やると、左手を広げて前に伸ばした。
次の瞬間、人型の蛇数匹の足元が爆発したように砂を弾き、その両足を捕えた。ラムセスと兵士がその隙を逃さず、蛇の首を斬る。
「それにね。父上達と主力部隊の援護。その両方ができなければ、私がここにいる意味は無いんだよ」
眼下で繰り広げられる闘いを見ながら、カエムワセトはハワラに言った。
自分が下に降りて共に闘わずここにいるのは、軍の指揮を滞りなく行う為と、トトの書を用いて主力部隊の力を存分に発揮させる為である。その二つの役目を果たす為には、例え息が止まるほどの胸の痛みに襲われようが、トトの書を使い続ける必要があった。
体力にも魔力にも自信はある。だが、トトの書の反動がこれまでの魔道具に例を見ないほど強いものである事もまた事実である。
カエムワセトは苦々しい笑いに顔を歪めると、術を使うたびに従来の魔術以上に自分の体力をごっそり奪ってゆく、ウアスという幸運の印を象った魔法の杖を、恨めしそうに見た。
―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・
神殿内では、二度目の呪文の発動が確認できたが、蛇の魔物を仕留めたという声は、どこからも上がらなかった。
「また失敗か」
「あいつ、すばしっこすぎるんですよ」
イエンウィアを含む神官3人は、大蛇の魔物の痕跡を探しながら、かつて調理場だったと思われる部屋に足を踏み入れた。
3年前に起こったホルス神殿の火事は、この調理場が出火元と聞いている。確かに、この部屋は最も煤の汚れが酷いように見えた。部屋を構成する石の壁はどこも黒く煤けており、床には片付け切れていない炭化した家具の一部分が散乱している。
イエンウィア達は壊れた家具に足を取られないよう気をつけながら中へと進んだ。
この調理場も、松明に照らされていて明るい。
イエンウィアは松明の一つを手に取り、調理場の奥を照らす。だがどこを照らしても、大蛇の魔物の血痕はみられなかった。魔物はここには来ていないようだ、とイエンウィアは判断する。
「ここにはいないようだ。別の場所を――」
探そう、と仲間達に振り返って口にしかけたところで、後方にある洗いの隅で何かが動いた。
「イエンウィア!危ない!」
槍を持った神官の一人が叫ぶ。
後ろを振り向いたイエンウィアに、大きな塊が襲いかかった。
神殿の奥まで捜索の手を伸ばしていたライラとジェトとカカルの3名は、神官達の叫び声を聞いて急いで駆けつけた。
「どうしたの!?」
最奥の部屋から血相を変えて出てきた一人の神官に、ライラが声をかけた。
「逃げろ!死ぬぞ!」
叫んだ神官の後方から、人一人くらいの大きさの何かが飛び出してきた。それは素早い動きで床を這いまわると、ライラ達に襲いかかった。
「伏せて!」
ライラはとっさにジェトが握っていた槍をひったくると、自分も身をかがめて、飛びかかって来たそれの下に潜り込み、槍で貫いた。
ライラに下から一突きされたそれは、ライラ達三人の頭上を飛び越して地面にぼとりと落ちると、苦しそうにのたくった。
その正体を見たライラ達は、青ざめる。
「うそだろ?」
「どうして神殿の奥から蛇が出てくるのよ!」
蛇は全て外壁の向こうから来襲しており、その全てはラムセスが指揮する援軍が侵入を阻止しているはずである。そんな状態で、蛇が神殿の奥から姿を現すはずがない。
ライラ達の疑問に被せるように、他の組の神官が慌てた様子で走ってきた。彼らは神殿内に蛇が大量発生している旨を告げた。
「そんな・・・何が起きてるの?」
急いで周囲を見渡したが、それだけでは理由が掴めず、ライラは蛇が飛び出してきた調理場に走った。そして、調理場の光景を目の当たりにして息を呑んだ。
そこには身体を横真っ二つに斬られて動かなくなった人間大の大蛇と、神官二人が血を流して倒れていた。
一人は手に槍を握ってはいるものの、首が異様な方向に曲がっており、既に息絶えている事が分かった。
もう一人の神官は、腹に蛇の牙が刺さっており、そこから大量に出血していた。彼の傍には、見覚えのある二振りのケペシュが、刀身に血を付着させた状態で転がっている。
「イエンウィア!」
悲鳴を上げるように馴染みの神官の名を呼んだライラは、腹に牙が刺さった神官に駆け寄り抱き起こした。
ジェトとカカルもライラに続いて駆け付ける。
「大変。凄い血っすよ」
傷口を見たカカルが慌てふためく。
イエンウィアの腹部に刺さった牙は中心が空洞になっており、余計に出血を促していた。
「どういうことだよ。蛇はファラオが阻止しているはずだろ!?」
「水路だ」
殆ど一人で騒いでいるだけのジェトの疑問に、イエンウィアが苦しげに答えた。
「蛇は泳ぐ。給水路からでも侵入できる。盲点だった」
震える手で、調理場の奥にある水路を指差す。
その水路は既にイエンウィアが塞いでいた。給水口だと思われる穴に、イエンウィアが纏っていた草色のショールが丸めて突っ込んである。
「大変だ。早く全部塞がねえと、魔物どころじゃなくなるぜ」
慌てたジェトは、両手をあてもなくバタバタと動かし、続けて頭をかきむしった。
「でもおいらたち、水の出入り口まで把握してないスよ」
カカルの言う通りだった。ジェト達は昼の間にホルス神殿の簡単な見取り図を作り、構造を共有したものの、水路など細かい入口までは把握していなかった。
ジェトは暫く考えていたが、はっと顔を上げると調理場の出口に向かって走りだした。
「ちょっと!?」
呼びとめるライラに、ジェトは立ち止まる事無く振り返って言う。
「王子かリラなら、場所を特定できるかもしれねえ!行ってくる!」
「アニキ待って!」
カカルもジェトを追いかけて調理場を出てゆく。
大した武器も持たず走って行った二人が心配ではあったが、手負いの仲間を放っておけず、ライラはイエンウィアに向き直った。
イエンウィアの顔はすっかり血の気が失せている。止血が先決だった。
カエムワセトとリラの元に行けば、魔術で傷口を塞いでくれるかもしれないとライラは思い立つ。
「立てる?とにかく殿下の所に。早く出血を止めないと」
そう言って、立ち上がらせようとイエンウィアの腕を自分の肩に回した。
イエンウィアは自分の上半身を持ち上げたライラの手を握ると、ゆっくりと首を横に振った。
「クサリヘビの毒牙だ。失血量も多いし、もう助からない」
クサリヘビは毒蛇の一種であり、噛んだ相手の臓器の出血・壊死を引き起こさせ、最後は死に至らしめる。傷口を塞ぎ出血を止めた所で、落命は免れられない。
ライラは悔しさにぎゅっと顔をしかめると、イエンウィアを抱きしめた。
驚いて目を見開くイエンウィアの耳元でライラが言う。
「あなただって、死ぬのは怖いでしょ。抱いててあげるから」
それを聞いたイエンウィアは柔らかく微笑んだ。その目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
イエンウィアは、徐々に力が入らなくなっている腕を持ち上げ、ライラの背中に手を回した。
失血で冷たくなった掌からでも、その下の柔らかな赤毛と、更にその下の温かい背中の感触を感じ取れた。
「ライラ。フイ最高司祭に伝言を。・・・あなたに御仕えできた栄誉は、今生で最高の喜びだった、と」
そしてイエンウィアは、ライラの背中にあった手を後頭部まで滑り上げて、付け加える。
「頼む。必ず、君の口から伝えてくれ」
ライラは涙を流しながら何度も頷き、わかった、わかった、と繰り返す。
「君のお陰で強くなれたというのに、きちんと礼を言えなくて残念だよ・・・」
イエンウィアの声が、掠れて弱々しくなってゆく。
「たとえ見えなくても、私は君達の傍に居る。最後まで、見届ける――」
言葉が途切れ、ライラの後頭部にあったイエンウィアの手がぽとりと落ちる。
イエンウィアが事きれた瞬間をライラは感じ取っていた。それでもライラは、彼の遺体を離す事ができず、ますます強く抱きしめた。
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神殿の屋上の松明の一つが、パチリと弾けて音をたてた。
カエムワセトはその音に、はっと表情を引きつらせ振り返ると「イエンウィア」と呟いた。
神官達の死を感じ取ったリラが、カエムワセトの手をぎゅっと握る。
「今は駄目だよ、ワセト。心を静めて」
普段は穏やかな青年が蒼白の相で手を震わせているのを感じながら、リラは指揮官である彼に平静を取り戻させようと、目を除きこみ、「落ち着くんだよ」と何度も言い聞かせた。
ハワラはそんな二人を不安げに見つめる。
その時、下からカエムワセトを呼ぶ声がした。切羽詰まった二つのその声は、カエムワセトに平常心を取り戻させるきっかけとなる。
「王子!水路から神殿内に蛇が侵入しています!俺らが水路を防ぎますから、お導きを――っていうか何でもいいから目印ください!」
ジェトの要請に頷いたカエムワセトは、杖をつくと、そこに浮かび上がった光の文字を読み上げる。
「『聖なる檻よ。お前はけして綻びを赦してはならない。私がお前の綻びを繕う助けとなろう。今、蒼き光でその穴を示すがいい』」
詠唱を終えると、カエムワセトの左手に青い炎が浮かび上がった。
カエムワセトはその炎を上に投げる。カエムワセトの手を離れた炎は空高く舞い上がると、三つに分離して流れ星のように神殿の方々に散った。
「侵入口は三箇所。外壁に沿って走れ!青い炎が目印だ!」
屋上の手すりから身を乗り出したカエムワセトは、ジェトとカカルに指示を出す。
「がってん!」
ジェトとカカルは言われた通り、外壁に向かって走った。
二人を見送ったカエムワセトは、気遣うように自分を見上げているリラとハワラに気丈な笑顔を向ける。
「すまなかった、二人とも。もう大丈夫だ」
そして、強い決意に眼差しを鋭くした彼は、腕を下ろした先の拳を握りしめた。
「悲しむのは後だ。これ以上の犠牲は、何としても防ぐ」
カエムワセトは前庭で闘っているラムセスを呼んだ。
「父上。援軍の一部を神殿内へ!減った兵の分は私が援護します!」
ラムセスが頷き、近くの兵十数名を神殿に走らせる。
カエムワセトはすかさず左手を前にかざし、蛇の足元を破裂させ動きを防ぐと同時に、右手の杖が発する光の文字を詠唱して神殿内に呪文を放った。
三度目の蛇の悲鳴が、神殿内に響く。
その連続した大技の鮮やかさに、ハワラが「すごい・・・」と呟いた。
間髪置かず繰り出した魔術は、カエムワセトの身体に相応の反動をもたらしていた。
しかし、カエムワセトは膝をつく事も、咳こむ事もしなかった。もう、身体を休ませる暇はおろか、苦しむ余裕さえなくなった。
「ここから先は気力勝負だ。勝ってみせるさ」
そう言ったカエムワセトの表情は、苦しさの中にも、ハワラがこれまで彼に見た事がないほどの闘志が燃えていた。瞳は力強く輝き、口元には薄い笑みさえ浮かべている。
ハワラは、この柔和で優しい王子にもこんな表情ができたのかと、内心驚いた。
賢者と名高い彼のその姿は、勇猛で、戦場でのラムセス二世を彷彿とさせるものだった。
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