第14話 頬に残された遺言

 いよいよ、紅い陽が西のピラミッド群に沈もうとしている。燃えるように輝いていた空は、東の方から徐々に藍色に落ちて行った。

 ホルス神殿では、来るべき夜に向けて松明が並べられ始めた。


 ハワラは二階の窓から、田園地帯の向こうにあるメンフィスの町を見つめていた。だが、やがて意を決したように表情を引き締めると、拳を握り、後方にいるカエムワセトに振りかえる。


「殿下。お願いです!最後に一目、母さんに会わせて下さい!」


 そこには、メンフィス王宮を出た時の面々が揃っていた。イエンウィアは他の神官と共に一階で最後の準備をしている。


 ハワラが日中、ずっと我慢していたであろうことは、そこにいる全員が分っていた。ハワラの母は食事も喉を通らないほどに憔悴していると言っていた。もしかすると寝込んでいるかもしれない。家へ帰るには、これが最後のチャンスである事も承知している。加えて、ハワラの家は、このホルス神殿から目と鼻の先だった。

 だが、闇が迫る中、ハワラを仕掛けの中から放つのは得策とは言えない。


「もう夜だ。神殿から出るのは危険だぜ」


 アーデスがその場に居る全員を代表する形で苦言を呈した。だがそう言ったアーデス自身も、言葉の最後で気の毒そうに視線を落とす。

 しばし続いた気まずい沈黙は、ハワラが折れる形で終了した。


「そうですよね。やっぱり無理ですよね」


 泣きそうになりながらも必死に笑顔を作ろうとするハワラの姿に、部屋のどこからか、ため息が漏れた。


「ジェト。悪いが、ハワラの護衛を頼めないか?」


 突如、カエムワセトが口を開いた。

 指名されたジェトは「え?あ、はい。いいっすけど」と、訳も分らないまま承諾する。

 いち早くカエムワセトの思惑に気付いたカカルが、「あ、アニキが行くんならおいらも」と護衛に立候補した。


「おいワセト!」


 同じくあるじ主の意向を察したアーデスが、短く異議を唱える。


「ハワラは、奴が動くのは皆が寝静まる深夜だと言っていた。なら、きっとまだ大丈夫だ」


 周囲の意見に反する形で指示を出したカエムワセトは、僅かながらの猶予の存在を主張した。


「そもそもは母親に対するハワラの未練が始まりだ。魔物を退けても想いを遂げさせないことには彼は冥界に旅立てず、再びつけこまれる恐れがある。それに・・・」


 そして憎まれ役を引き受けようとしてくれたアーデスに、申し訳なさそうに微笑みながら、「母君を案ずる彼の気持ちは、分らないではないからね」と、付け加えた。


「やれやれ。お前の悪い癖だぜ」


 アーデスは嘆息した。ハワラの一途な気持ちは見事、情にもろい主人の心を動かしたようである。そしてこの頑固な主人がこういう確信犯的な顔をしている時は、絶対に譲らないのもアーデスは知っていた。


 無理を承知で許可を願い出たハワラは、おずおずと、「ほんとにいいんですか?」と確認した。

 カエムワセトは「かまわない」と頷いた。しかしながら、戒めを与える事も忘れない。


「ただし、母君には夢だと思わせるように。冥界の許し無く蘇った者は、生前の自分を知っている者への干渉を禁じられている。これは違反スレスレの行為だ」


 それでもハワラは、目を輝かせて「はい。ありがとうございます」と、力強く頷いた。


「殿下。どうか私にご指示を。こいつらが敵からハワラを守れるとは思えません」


 ライラが片手を胸に当て、身を乗り出した。

 すっかりみくびられた“こいつら”の一人であるジェトは、横目でライラを睨みつけた。


「あのな。俺だって剣くらい使えるんだ」


「おいらは、ちょびっとだけー」


 カカルは相も変わらずヘラヘラと笑っている。


「ライラ、申し出は有難いけれど、暗闇で動くのはジェトとカカルのほうが慣れているはずだ。あとは――」


 そこまで言うと、カエムワセトは右腕をすっと横に伸ばした。次の瞬間、カエムワセトの後方にあった、鴉ほどの大きさの鳥の石像が羽を広げる。


「この隼が、君達を魔物から守ってくれるだろう」


 他の石像と同じく、この神殿が建設された時から何年もそこに佇んでいたであろう隼の像は、積もった埃を散らせながら石の翼を羽ばたかせ宙に浮くと、カエムワセトの右上腕に止まった。


「アニキ。石が飛んだっス・・・」


 リラ以外の全員が、目の前の光景に我が目を疑っていた。

 普段から当たり前にカエムワセトに付き従っているアーデスも、これほどはっきりとした魔術を目の当たりにするのは久しぶりだった。


「確かにこれは石だけれど、ホルス神殿の石像だ。普通の隼より頼りになるはずだよ」


 カカルの台詞をやや間違った方向に解釈したカエムワセトが、にこやかに説明する。


「あー・・・ライラ、大丈夫か?」


 嫌な予感を覚えたアーデスが、先程から隣でぴくりとも動かないもう一人の近臣に、遠慮がちに呼び掛けた。

 ライラは、立ったまま気絶していた。


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・


 町が寝静まる少し前を狙って、ハワラとジェトとカカルの三人はフード付きのローブを被って神殿を出た。

 二階の窓から三人の姿を見送っていたカエムワセトは、三人が門を潜るのを確認すると、右腕に止まっていた石の隼を、腕を振って飛び立たせた。

 カエムワセトの腕から放れた石の隼は、まるで本物のように滑空すると、三つの人影と共に闇の中に消えていった。


「大丈夫でしょうか、あの子たちは」


 ライラはカエムワセトの横に並び、三人が消えていった方を心配そうに見つめた。その表情と声色からは、ライラが心から彼らの身を案じている事が伺える。


「ライラ、すまなかった」


 隣から小さく聞こえた謝罪に、ライラは顔を向けた。

 そこには、自責の念に苛まれているカエムワセトの横顔が、松明の灯りに照らされ揺らいでいた。


「ハワラを生かす為に、私は君の忠義を逆手に取る真似をしてしまった」


 続けて言ったやや俯き加減のその横顔は、悔やむ気持ちが強いのか、はたまた謝罪の相手を直視する決心がつかないのか、どちらにせよ強い後悔が滲み出ていた。

 今朝の出来事を言っているのだと気付いたライラは、曖昧に微笑んで瞼を伏せる。

 確かに心は傷ついたが、ライラは自分に非がある事も認めていた。


「あの時、殿下がああでも言わなければ、私はハワラを殺めていました。殿下は正しい事をなさったのです」


 カエムワセトの判断は最善でなかったにせよ、不運に見舞われた少年の命を救い、忠臣が後悔の念に苛まれる事を防いだ。それは否定できない。

 ただし――、とライラは続ける。


「私は、何があろうと殿下に剣は向けません。殿下の御言葉も、本心ではないと信じております」


『私は君に剣では勝てない』

 カエムワセトは自分に剣を降ろさせる為にそう言ったが、自分がカエムワセトと剣を交える事などはありえない、とライラは主張した。

 主に剣を向けるくらいなら、ライラは死を選ぶ。


「すまない。本当に」


 18にもなる立派な青年が情けない顔で謝罪した。

 例え元は幼馴染でも、今は主従の関係である。いつまでも主人に頭を下げさせている訳にもいかない。ライラは場の空気を変える為にも、努めて明るい笑顔と声を意識して提案する。


「一つ、約束して下さいますか」


 その笑顔と声色は、しょぼくれている主人の顔を上げさせる事に成功した。


「もし危ない目に遭われる時は、私の前になさってください。必ずお守りしますから」


 冷静に考えるまでもなく、それは無理な頼みである。言ったライラも、約束を交わした所で守りようもないものだと承知していた。だがここで大切なのは、ライラの忠誠心の強さを主人に再認識してもらう事にあった。そして、あわよくば失笑してしまうほどに馬鹿馬鹿しい口約束を交わす事で、主人の元気を取り戻せればという狙いもあった。


「分った。お互いにそうしよう」


 カエムワセトはライラの真意を理解し、笑顔で承諾した。

 しかしライラは、カエムワセトの返答に不満げな顔をすると、「あ、あー」と首を横に振った。


「私は必要ありません。殿下より強いので」


 いつもの調子で堂々と胸を張って断言した元幼馴染に、カエムワセトは「まったく、ライラは」と腹を抱えて笑った。


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・

 

 ホルス神殿を出た途端、ジェトは妙な空虚感と寒気に襲われた。立ち止まり、後方のホルス神殿を振り返る。

 人の気配のない夜の畑地帯と星空の下、ホルス神殿は松明の温かな灯りに照らされ、それ自体が生きて輝いているようだった。

 目にして、無性に戻りたくなる。

 その時ジェトは、ホルス神殿がカエムワセトの魔力で満たされ、イエンウィアの結界で守られている事を改めて感じた。だからこその、今の寒さと空虚感なのだ。


「やっぱすげえわ、あいつら」


 ぽそりと口にする。

 見上げると、鳥が夜空で円を描いていた。黒いシルエットとして浮かんでいるだけだが、ホルス神殿の隼の石像だと分る。

 そうだ、自分達はちゃんと守られている。ジェトは安堵した。

 正直、ライラに大見得を切って出てきたが、蛇の化け物相手に自分の剣が通用するとは思えなかった。だから上空に居る隼の存在は心強い。


「アニキ!なに止まってるっス!はやくはやく!」


 先に走っていたカカルが手招きして急かす。


「ああ、悪ぃ悪ぃ」


 フードを深く被りなおしたジェトは、再び走りだした。


 三人は南側の民家の密集地帯に到着した。

 昼間は子供たちや女性の声で明るいその場所も、今は静まり返っている。

 ジェトとカカルは、3メートルほど後ろをキープしながらハワラの後についていった。


「あそこだよ」


 立ち止まったハワラは、ヤシの木に囲まれた小さな一軒家を指差した。


「多分もう、みんな寝てると思う。全員で入ったら気付かれるかもしれないから、二人は中庭で待っていて。そこに寝室があるんだ」


 小声で指示を出したハワラに、二人は頷いた。簡素な門をくぐると、三人は二手に分かれた。

 ジェトとカカルは指し示された中庭へ移動し、ハワラは音が鳴らないよう細心の注意を払いながら、家の扉を開ける。

 中庭に面した奥の部屋へ入ると、そこに懐かしい人が寝ていた。


「・・・母さん。やっと会えた」


 思わず涙が零れる。

 しかし、頬骨が出た母親の酷くやつれた寝顔を見て、ハワラは涙に濡れた目をつり上げた。


「こんなに痩せて・・・妹も弟もいんのに、何やってんだよ」 


 そして、母の寝台にそっと両手をついたハワラは、以前はもっと柔らかな輪郭をしていたその顔を上から覗きこんだ。

 静かな寝息を立てているその顔には、父が死んでも、生活がどんなに貧しくても、明るく笑っていた強い女性の面影はなかった。


「だめだよ、そんなんじゃ・・・!」


 ハワラは母の枕元でうな垂れた。


「・・・たかが一人、息子が死んだだけだろ?そんな事で、母さんまで死ぬつもり?そんなの絶対に許さないからね」


 涙を流しながら、ハワラは掠れるような小声で子供を無くして憔悴している母親を叱った。


「悲しむのはもうやめにしなよ。辛いなら、僕のことは忘れたらいい。全部忘れていいからさ。だから・・・早く元気になんなよね・・・」


 静かに眠っていた母親が、顔をしかめて首を動かした。

 ハワラは急いで体を起こし、近くの窓に手をかける。そして窓枠によじ登ったハワラは、青白い顔で再び眠りに落ちた母親を振り返って微笑んだ。


「・・・じゃあね・・・ばいばい」


 母親の頬には、ハワラの落とした涙が一筋残っていた。


「終わったよ。ありがとう」


 寝室の窓から外に飛び降りたハワラは、窓の横の壁沿いに待機していたジェトとカカルに礼を言う。


「おまっ――お前、いい奴だなぁ!」

「うえー。涙で前がみえないっすー」


 寝室でハワラが話していた声をしっかりと聞いていたジェトとカカルは、二人仲良く嗚咽を漏らしていた。


 それから三人はすぐにホルス神殿へ走った。

 もう人が動く気配は完全になく、全ての家でランプの灯りが消えている。念のため、ジェトはカカルをハワラの横に付かせ、自分は少し後ろを走った。

 帰りを急ぐ途中、ジェトは背筋に寒気を感じて立ち止まった。

 目を凝らし、全身で周囲の気配を探ると、草むらのそこここから、何かがざわざわと嫌な音を立てている事に気付く。


「きやがった!」


 舌打ちしたジェトは、剣を抜くと、前方でこちらを振り返っているハワラとカカルに怒鳴った。


「振り返るな!走れ!」


 その緊迫した声に危機的状況を悟った二人は、脱兎のごとく走りだした。

 左右後方から迫りくる気配を感じながら、ジェトはハワラとカカルの後ろを走り続けた。

 ホルス神殿が目の前に見えた。

 ホッとした瞬間、右側から細長い影が飛んでくるのが見えた。ジェトは剣でそれを払う。

 真っ二つになって地面に落ちた影は、蛇だった。

 一刀両断されてもまだ動いている蛇に、ジェトはぞっとする。

 今度は左側から再び影が飛びかかって来た。隙を突かれたジェトは剣をふる暇がなかった。そこに石の隼が飛び込んできて、体当たりで影を蹴散らした。

 

 ハワラとカカルに数メートル遅れる形で神殿の門を潜りぬけたジェトは、やっと後ろを振り返った。何匹もの蛇が外壁の前で見えない壁でもあるかのようにぐねぐねと蠢いているのを見て、ジェトは鳥肌を立たせた。


「へ、蛇除けの・・・結界だ」


 ジェトはその場にへたりこむ。

 蛇が進めず蠢いているその場所はまさに昼間、イエンウィアが聖水と呪文で結界を張ったラインだった。


「よかった。無事に帰って来たな」


 ホルス神殿の神官達とイエンウィアに迎えられた三人は、肩で息をしながら明々と照らされた神殿内に走り入った。


「すげえなあんた!呪文効いてるぜ」


 息を切らしながら興奮気味に言ったジェトに、イエンウィアは呪文が上手く作動したにも関わらず、厳しい表情で外に目をやった。


「だがこの数だ。長くはもちそうにない」


 神殿の周辺には、メンフィス中の蛇が集まったのかと思うほど、黒く細長い影の大群で埋め尽くされていた。


「ハワラ。こっちだ!」


 礼拝堂からカエムワセトの呼び声が聞こえ、ハワラが慌てて走って行った。

 ジェトとカカルは見晴らしの良い場所から周囲の様子を確認しようと階段に急ぎかけたが、イエンウィアが二人の襟首を引っ張って引きもどした。


「どこに行く気だ?」


 止められた意図が分らず、ジェトは「はい?」とイエンウィアを見上げる。

 イエンウィアは二人の襟首を掴んだまま、顎で礼拝堂を示し「お前達も来るんだよ」と言った。


「・・・どして?」


 カカルが首を傾げて理由を訊ねた。

 その答えは、神官の一人が持ってきた女性物のドレスと鬘で示された。


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・


 ずん!という衝撃音の後、頭上から、くぐもった声が聞こえてきた。


「【罠を仕掛けるとは・・・人間の小僧が、小癪な手を使いおって・・・】」


 アーデス、ライラ、カエムワセトの三人が守る中、ハワラは礼拝堂の中で描かれた結界の中心に立っていた。そしてハワラの隣には、メルエンプタハを抱いたイシスネフェルトも座っている。

 聞き覚えのある声に、ハワラは「来た!」と礼拝堂の天井を見上げた。

 吹き抜けになっている礼拝堂の天井部分は高く、松明の灯りも届かない暗がりだった。その暗がりが、波打つように動いている。


「お前は本当は何者なんだ!?」


 天井に向かって叫ばれたハワラの問いかけに答えは返らず、ただ、暗闇が波打ち、ずずず・・・と何か大きなものを引きずる音がしただけだった。

 その異様な音に怯えたメルエンプタハが、イシスネフェルトにしがみついた。

 アーデスとライラは攻撃に備えて剣と弓を構え、頭上に注意を払う。


「・・・答える気がないならそれもいいだろう。だが、古来よりの闇の主の名を汚すその行為、本物に気付かれたくなければ二人の魂を諦め、早々に立ち去れ」


 カエムワセトが低い声で警告した。

 突如、神殿の壁を揺するほどの大きな笑い声が響きわたる。


「【魔術を使うと言えど、所詮は人の子の力。浅はかな王子が御丁寧に餌まで用意しおって。貴様らもろとも喰らってくれようぞ】」


「ほらやっぱり交渉決裂だ」


 アーデスは言ったが、声色に残念がる様子はみられない。

 イシスネフェルトがその紅い唇を開き、「王子。もういいっしょ?」と女性の割には低い声でカエムワセトに許可を求めた。

 カエムワセトはイシスネフェルトに「ああ」と短く返事を返す。

 その返事を合図に、イシスネフェルトとメルエンプタハが、胸元に下げていた護符を引きちぎった。現れたのは、イシスネフェルトのかつらとドレスを身につけたジェトと、カカルだった。


「あー、ったく!!護符で姿を変えられるんだったら、着替える必要なかったじゃねえか!ご丁寧に化粧までしやがって!!」


 ぶつぶつ文句を言いながら、ジェトは鬘を放り投げ、いつものチュニックの上から着たドレスを脱いで、手の甲で化粧をぬぐった。


「ま、念のためだ念のため」


「に、似合ってたっすよ、アニキ」


 アーデスとカカルは笑いを必死にこらえている。

 天井から、悔しげなうめき声が聞こえた。

 その声を聞いたジェトは、にやりと意地の悪い笑みに口を歪める。


「残念だったなぁ。あんたのターゲットは今頃ペル・ラムセスの宮殿でファラオ軍と神官団にがっちり守られてるぜ。それこそ、ありんこ一匹這い出る隙もねえ態勢っちゅうやつでな」


 ジェトが持ち前の生意気な目つきと口調で、魔物の神経を逆なでした。


「【変身術など使いおって・・・!この程度の檻!食い破ってくれるわ!】」


 爆発するような怒鳴り声が礼拝堂に響き渡る。

 台風のごとく襲いかかって来た強大な魔力の波動に、全員が耐えられず顔をそむけた。

 神殿の壁や天井がビリビリと震え、埃や砂が落ちてきた。これでは本当に神殿ごと破壊され、逃げられかねない。上手く魔物をおびき出せたとはいえ、今の状況ではやはりまだ形成は不利であった。


「お前が、破れない檻に入るほど馬鹿でない事は、我々も承知している」


 カエムワセトは静かに言うと、ショールの下から巻物を取りだした。黒曜石で造られた二本の軸で構成された巻物。トトの書である。


「【まさかそれは】」


 天井の影がびくりと震えたように見えた。トトの書がカエムワセトの手中に戻って来た事は関知していなかったらしい。

 カエムワセトは巻物を広げると、そこにある神官文字を詠唱し始めた。


「『我は知恵の神トト神の名代またはその人なり。

  我は真理より叡智を受けたまう祝福を与えられた。

  よって、我、カエムワセトは、万物を操りし御技を許された者であると、ここに明言する』!」


 朗々とした詠唱の中、プタハ神殿の時と同じく台地が揺れるような地響きが鳴り、神殿が再び震えた。

 地響きと同時に、トトの書がカエムワセトの声に応えるように光りはじめる。そして、カエムワセトが詠唱を終える頃、トトの書は一本の杖に形を変え、地震は止んだ。


 カエムワセトは迷わず杖の先を床に打ちつけた。

 カン!という硬い音が鳴り響いた次の瞬間、杖の先から光が放射状に放たれ、神殿全体を包み込んだ。

 光はすぐに消えたが、明らかに神殿の空気は変化していた。そこには、外部からの魔物を拒む力と、内部のあらゆる魔性のものをそこに封じ込める強い力が同時に備わっていた。


「檻が完成した。お前はもう、この神殿から逃げられない」


 カエムワセトが、目の前に姿を現した大蛇の魔物に形成の逆転を告げた。

 

 ホルス神殿を戦場にした、闘いの幕開けであった。

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