第13話 繋がる絆と秘めたる想い

 ホルス神殿が制圧され、メンフィスの悪党根こそぎと、その首領の遺体がメジャイに引き渡されてしばらくたった頃。プタハ神殿から神官十名を連れて、荷車で武器を運んできたアーデス達が合流した。それから間もなく、カエムワセトとリラもやって来た。


 昼食をたっぷり食べたにも関わらず、ザルいっぱいのナツメヤシをモグモグ咀嚼しながら現れたリラを見たカカルが「なんかあったんす?」と訊いてきた。

 カエムワセトは魔術を使うと体力が削られる事と、リラはそれに加え、空腹をおぼえる事を丁寧に説明した。そう言ったカエムワセトの顔も、プタハ大神殿で別れた時に比べて幾分疲れているように見えた。


 カエムワセトとリラは到着して早速、ホルス神殿の聖なる池と至聖所を確認しに行った。

 蛇の魔物に対峙する戦士が揃い、それぞれが闘いに備えて本格的に、荒れた神殿の片付けや仕掛けの準備に動き出す。

 礼拝堂にあった邪魔な粗大ゴミを外に運び出していたジェトは、外壁の外周に水を撒きながら、呪文らしきものを唱えているイエンウィアを見つけて近づいた。


「何やってんの?」


「聖水を撒きながら蛇除けの呪文を唱えている。結界の働きをしてくれるんじゃないかと期待してるんだが、実際どれほどの効力を発揮してくれるかは、なんともな」


 イエンウィアの歯切れの悪い物言いに、ジェトは「ご謙遜」とにやり笑った。


「書庫であれだけ派手にやっといて、よく言うぜ」


「書庫で起きた現象はトトの書の力だ。私の魔力の大きさではない」


 指をさして茶化してきたジェトの言葉を、イエンウィアはきっぱりと否定した。

 更に彼は、書庫でトトの書を使ったのは、カエムワセトの緊張を和らげるためだとも説明した。未知の領域に足を踏み出すのが怖い時、最初の誰かが一歩進めば決心がつく場合もある。例え悪ふざけでもイエンウィアが一度トトの書を使って見せれば、カエムワセトも腹を決めるだろう、と考えての行動だったらしい。


「まあ、単なる興味も大いにあったが」


 最後に、悪戯っぽく笑ってそう締めくくった。

 意外なことに神官の手本のようなこの男にも、お茶目な一面があったらしい。

 ジェトは今朝から何度も襲ってくる感情に再び見舞われ、「あ~っ!」と叫んで両手で頭を掻きむしった。

 突如大声を出して髪をボサボサにしたジェトに、イエンウィアはぎょっとする。


「いきなりどうした」


「自己嫌悪?羞恥心?よく分んねえけど色々ごめんなさい!」


 頭を抱えてうずくまり何故か謝って来た少年に、イエンウィアはしばらく考えると「懺悔でもしたいのか?」と訊ねた。

 どんびしゃりの二文字を出されたジェトは立ち上がり、「そうだ!懺悔だよ懺悔!」と興奮気味に復唱する。


「カエムワセトもフイもあんたも、俺の知ってる位の高い人間とは全然タイプが違うんだよ。俺、今までの少ない経験と固定観念だけで決めつけて馬鹿な事してたってやっと気付いて、ほんと色々ああぁぁ――」


 その『ああぁぁ』の部分がさっきの『ごめんなさい』なのか、と理解した優秀な神官は、普段は業務にはない“懺悔”というものに付き合う事にした。


「若いな、君は。いいことだ」


 そう言って聖水の入っている壺を足元に置くと、イエンウィアは腕を組んで壁にもたれかかった。ジェトは、この男が初めて姿勢を崩すのを見た気がした。


「環境が変わると当然、多数派少数派は変化する。しかし所詮、そこに集まって来るのは人間だ。どこにでも、色んな人がいるものさ」


 かくいう私も殆ど神殿しか知らないが。と付け加え、イエンウィアは笑う。


「だからって、俺が頭でっかちなことには変わりないだろ」


 ジェトはふてくされたような顔で、イエンウィアの横に大きく足を広げてしゃがみこんだ。俗にいう、うんこ座りである。


 イエンウィアは、おや、と目を丸くして、頑なに自分を卑下する多感な少年の頭を見下ろした。ちょっとやそっとのフォローでは埋められないくらい、ジェトの自責の念は強いらしい。

 乗りかかった船なので、イエンウィアはもう少し浮上に手助けしてやることにした。


「カエムワセトから聞いたが、君はずっと盗賊団にいたんだろう?狭い世界にいたのなら、物の見方が偏るのも仕方のないことだ。君は真っ直ぐな人物のようだし、これからカエムワセトの傍にいれば、もっと多くを知れるだろう」


 カエムワセトの周りには、何故か多種多様な人間が集まるのが常だった。この場に居るだけでも、兵士に傭兵、魔術師に元盗賊に神官、平民である。見事、毛色の違う職業の人間ばかりだ。加えて、人間性もまちまちである。それが皆、各々の意思でカエムワセトという人物の元に集まっている。多様性を学ぶにはうってつけの場所だった。


「俺もカカルも、この仕事が終わったら自由の身になるんだ。王子との縁は多分ここまでだよ」


 達観しているような事を言ってはいるが、ジェトが発したその声に寂しげな色が含まれている事を、イエンウィアは聞き逃さなかった。


「そうか。随分馴染んでいるだけに、残念だな」


 わざと突き放すように言って、心の奥底にある本心をジェトが見つけ出せるよう試みる。

 その思惑に気付いたジェトは、まんまとしてやられた事を悔しく思いながらも、「ありがとさん」とぶっきらぼうに礼を述べた。


 穏やかな空気の中、突如、神殿の二階部分から女性の号泣が聞こえた。驚いたジェトとイエンウィアは身体をびくりと震わせると、声のした方を仰ぎ見る。

 よく通る張りのある声であることから、ライラだと知れた。


「――だからお願い!闘わせて頂戴!」


 上から聞こえてくるライラの泣き声は、誰かに必死に訴えていた。

 それにしても、色気のない泣き声である。

 ジェトは声のする方を見上げたまま、「なあ」とイエンウィアに呼びかけた。そして、「ライラにあんたはもったいなすぎるんじゃねーの」とちょこざいな事を言う。

 イエンウィアはしばらく無表情にジェトを見ていたが、やがて、ふ、と小さく笑った。


「若いのはいいことだが、軽率な発言は控えた方がいい」


 足元の壺を拾い上げると、ジェトの頭頂部に軽いゲンコツを一つ落として懺悔を終わらせた神官は、そのまま神殿に入って行った。


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・


 さて、こちらはホルス神殿内部。イエンウィアがジェトの懺悔を聞いていた丁度その頃。

 神殿の二階部分を片付けていたアーデスは、太陽が西へ傾いていくとともに元気をなくしていく同僚を見やった。

 ホルス神殿奪還作戦では見事単身で神殿に乗り込み、数十人の男達を再起不能にした豪傑のライラだったが、水を得た魚のように活気に満ちあふれていた姿は、今の彼女には微塵もない。

 ライラは部屋の片づけも手に着かない様子で、椅子に座り、壁の角を凝視しながら、「大丈夫、私ならできる・・・」と何度も繰り返しつぶやいている。

 アーデスは半ば精神が崩壊しかけているライラに「よぉ」と声をかけ、隣にしゃがんだ。


「人には、向き不向きってのがある。今回はやめとけ」


 な?と肩に腕を回し、その身体を優しく揺すってやる。


 軍人であるライラの身体は日々の鍛錬で鍛え上げられてはいるが、アーデスや他の兵士達と比べると、明らかに細く小さい。アーデスの片腕にすっぽり収まってしまうサイズのライラは、どんなに喧嘩が強くとも強靭な脚力を持っていても、やはり女性であることに変わりは無かった。

 普段ライラを異性としてみないよう心がけているアーデスだが、ここまで密着すると、つい、髪の匂いの一つでも嗅ぎたくなってしまう。


 三十路に突入した同僚が不埒な葛藤に苦しんでいる事など知りもしないライラは、アーデスの優しさをと包容力の塊を乱暴に払いのけた。続けて「そんな選択枝、わたしには無い!」と言って、膝を抱えて丸まってしまう。

 腕を払われたアーデスは、子供じみた振る舞いで自分の忠告を聞こうとしないライラをじれったく思った。


「だがなあ、お前。そんな調子じゃあ――」


 死んじまうぞ、という決定的な言葉を出しかけ、慌てて飲み込んだ。

 過剰な恐怖は身をすくませ、思考を鈍らせる。そんな状態で戦場に出たらどうなるか、軍人であるライラなら分っているはずである。戦いの幕開けを目前にした今、ライラのトラウマは、もう笑いごとでは済まされない。

 仲間の足を引っ張るかもしれない。自分が命を落とすかもしれない。

 それでも戦線を離脱せずしがみつこうとするのは、彼女が並々ならぬ忠義心を、カエムワセトに抱いているからだ。

 普段は天晴れだと褒めてやれるその忠義も、今この場では足枷同然にライラを苦しめていた。


「いくらあいつに惚れてるからって、そこまですることなかろうが!」


 苛立ちに任せて言ってしまってから、アーデスは失言に気付いて固まった。だが、覆水盆に返らずとはこのことである。

 全身真っ赤になったライラがアーデスを豪快に張り倒したのは、失言から一秒足らずの事だった。


「そそそそそんなおおおぉ恐れ多いこと、あんたよく言えるわね!わたしはねえ!ただひたすら!殿下の御身を!お守りしたいだけなのよ!!」


 ライラは、どもりながら拳を握り、足元に横たわっている男を半狂乱で怒鳴りつけた。


「わかった!俺が悪かった!わかったから落ち着けライラ!」


 過去にも一度同じような目に遭った事のあるアーデスは、くっきりと指の跡がついた左頬を手で覆いながら、戦いを前に無駄にダメージを負う原因となった己の失言を後悔する。

 前回は、今のようにひたすら謝り宥めて、落ち着かせる事が出来た。しかし今回は、どれだけ謝ってもライラは怒りを鎮めてはくれなかった。


「あ、あんたには、まだ言ってなかったけど、わたしは子供の頃、殿下に助けてもらった事があって・・・」


 そしてライラはアーデスに、カエムワセトの従者になる決意をするに至った経緯を話しはじめた。


 ライラとカエムワセトが八歳の頃。二人はナイル川のほとりで、はぐれた雄牛に襲われた。ワニにでも噛まれたのか、雄牛は足を怪我しており、ひどくいきり立っていた。ライラを標的に決めた雄牛は、迷わず突進してきた。

 その時、ライラは不幸にも足首をくじいたばかりだった。それでもライラは、牛がとびかかってくる寸前で身をかわそうと、構えた。そこに飛びこんできたのがカエムワセトである。

 カエムワセトは体当たり同然でライラを雄牛から逃がした。

 二人はそのまま斜面をゴロゴロと転がり、最後は川岸に落ちた。

 雄牛はライラとカエムワセトが転がっている間に、周りの大人達に取り押さえられた。

 身体の回転が止まり、いち早く身を起こしたライラは、目の前でまだ横たわっているカエムワセトの腕を引いて起こすと、礼を言うより前に『何故殿下がわたしを助けるのです!?』と詰問した。

『お言葉ですが、殿下より私の方が――』

 失言を承知で口にしかけたライラに、そうじゃないよ、とカエムワセトは制した。

『足をくじいていたってライラが私より強いのは、私もよく分かっているよ。でも――』


「『ライラには将来、誰かの母上になって欲しいから』って仰ったのよ」


 カエムワセトがライラを守ろうとするのは、女は弱き者。男は弱き者を庇うもの、といった、世間一般的な観念によるものではなかった。

 もし腹を蹴られれば、ライラの場合、子を産めない体になる恐れもある。腹でなくとも、一生患う怪我を負うかもしれない。

『それに、母上が苦しんでいる姿は、見ていて辛いものだよ』

 カエムワセトは、そうも言った。

 目の前にいる少女の未来だけでなく、まだ存在していない少女の子供の事までも。

 彼はただ、実直に他人を思いやっていた。

 道徳に縛られない真の優しさを、ライラは初めて知った。


「びっくりしたのよ。子供心に、こんな人はどこにもいないと思った。同時に、この人は絶対に私が守ると決心したの!」


 そして少女時代のライラは、約束された貴族娘の華やかな将来を捨て、軍人への道を選んだ。


「殿下をお助けする。それが私の幸せで、使命なのよ!だからお願い!闘わせて頂戴!」


 思い出話を終えると同時に懇願し、号泣しだしたライラを前に、アーデスは閉口した。

 ライラがカエムワセトに対して複雑な感情を抱いているのは、アーデスも何となく察していた。しかし、これほどまでにこじらせているとは思わなかった。

 恋と憧れと尊敬と忠義心。

 これらを全て一人の人間に対し抱いているのだから、始末が悪いという哀れというか。


「わかった、もうやめとけなんて言わねえから。とりあえず泣きやめ。そうだ、何か甘いもんでも食うか?」


 幼い子供のように直立姿勢で大泣きするライラに、アーデスは困り果てる。

 泣き声を聞きつけたプタハ大神殿の神官たちが、何事かと覗きに来た。そして、うら若き乙女を泣かせているむさ苦しい男の姿を見た神官たちは、一様にアーデスに非難の視線をあびせた。

 弁明する余地すら与えられず一方的に加害者の烙印を押されたアーデスは「見せもんじゃねえ!」と威嚇して、神官たちを蹴散らした。


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・


「アーデスさん、ライラさんのこと泣かしてるっす。やれやれ、これから戦だってのに、何考えてんだか」


 薪を抱えたカカルが、独りごちながら部屋に入って来た。

 吹き抜けの礼拝堂を挟み、アーデスとライラがいるちょうど反対側。そこでは、ハワラが松明や油の準備をしていた。籠状に編まれた大きな受け皿の中に、薪を組んでいく作業をしている。


「泣いてるって、あのライラさんが?」


 ハワラは作業の手を止め、カカルを振り返った。トラウマを刺激される神・魔談議の最中でさえ、ふんぞり返って虚勢を張った人である。その人物が泣くとは、余程の事があったのだろうとハワラは同情した。

 カカルは肩をすくめると、慣れた手つきで小分けにした薪を麻紐で縛る。


「どうせまたオバケ話で怖がらせたりしたんでしょ。ほんとどうしようもないんだか――ら!」


 言葉の最後で紐をギュッと締めたので、語気が荒くなる。

 続いて、カカルは鼻歌を歌いはじめた。

 

 生きてるうちに楽しみなさい

 上等の布を身にまとい

 オリーブオイルを肌にたっぷり塗って

 倉庫にお宝山ほど貯めて

 心のままにおくらしなさい

 ナイルはいつもあなたの傍で

 きれいな水と美味しい魚をもたらして

 あなたをお腹いっぱいにしてくれるから


 聞いた事のない歌だったが、手仕事には丁度いい。

 最初は黙って聞いていたハワラだったが、楽天的な歌詞の数々に、とうとう我慢できずに吹き出してしまった。


「面白い歌でしょ。お頭がよく歌ってたんすよ」


 盗賊団の?というハワラの問いに、そうスよ。とカカルは答えた。


「ジェトのアニキはねえ、音痴だからめったに人前で歌わないンスよね~。アニキが歌うとね、み~んな耳塞いじゃうんス。だからねあの人、いっつも1人の時にこっそり歌ってんの」


 聞かれてもいないのにジェトの欠点と秘密を暴露したカカルは「キシシ」と笑う。ハワラもつられて破顔した。

 しかし、やがて寂しげな表情を作ったハワラは、視線を落とす。


「カカルはいつも明るいね。友達になれたらよかったのに」


 切なげなハワラの呟きに、カカルは目を丸くして「何言ってんすか。おいらたち、もう友達でしょお?」と言った。

 それを聞いたハワラの両目に涙が膜を張り、溢れた一滴が頬を伝った。ハワラは急いで両手で涙を拭った。


「ありがとう。生きてる時は仕事ばっかりで、遊んでくれる子なんていなかったんだ。だから嬉しいよ」


 明るい笑顔を意識して礼を言うハワラに、カカルは仕事の手を休める事無く「毎日ご飯食べる為には遊んでる暇なんてないスもんね。わかるわぁ~」と賛同した。カカルも、盗賊時代の自分の生活を思い出しているようである。


 ハワラはふと自分の両手を見た。

 十本の指の先全てが黒ずんでいて、ところどころ火傷の痕もある。


「僕ね、装身具職人だったんだ。わりかし評判もよかったんだよ」


 同じような手をしていた父は、ハワラが宝石に上手に穴を開けられるようになった頃、流行病で亡くなった。

 それからハワラは、父の後を継いで工房で働いた。まだ教わっていなかった技術は、先輩の職人から学んだ。

 ハワラの作る装身具が徐々に売れ始め、やっと家族全員が毎日安定してパンにありつけるようになった頃、ハワラ自身も病に倒れた。


「悔しいよ。やっと、これからだ、って時に・・・」


 唇を噛んだハワラはぎゅっと両手を握った。

 カカルは次の薪を束ねながら上半身を左右に揺すり、「ん~・・・」と考えるそぶりを見せる。そして、悪びれず言った。


「でも、死んでから友達になれてよかったっすよ。生きてる時に出会ってたら、オイラ絶対、商品盗んでたもんね」


 カカルは骨の髄まで盗人のようである。

「手癖が悪いなぁ!」と呆れたハワラだったが、やがて悲しげにその笑みを曇らせると「もし・・・」と続ける。


「もし、僕がイアル野に行けたら、そこで皆の装飾品を作って待ってるよ」


 カカルは「え、ホントに?」と目を輝かせた。


「じゃあおいら、金と銀のチョーカーがいいっす」


 屈託ない笑顔で高価な材料を注文してきたカカルに、ハワラは「欲張りすぎだよ!」と笑い崩れた。


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・


 肌を刺すような日差しが柔らかくなり、太陽が西の稜線に近づく頃。ライラはホルス神殿の聖なる池の前で独り膝を抱えて座り、先程しでかした愚行を恥じていた。

 先程の騒ぎは当然、主人であるカエムワセトの耳にまで届いていた。

 豪快に張り倒された上、事情を知らない神官達から悪者扱いされたアーデスは、今、主人に事情を説明し、自分にかけられた嫌疑を晴らしているところだ。

 ライラはアーデスに同行を希望したが、断られ「冷静になってこい」と放り出された。

 本日、水辺で頭を冷やすのは二度目である。


「なんでこうなっちゃったのかしら」


 トラウマと、自分の愚行。この二つをはがゆく思い、ライラはぽつりと漏らした。


「独りなのか?」


 後ろから声をかけられ振り向くと、イエンウィアが歩いてくるのが見えた。肩から斜めがけにした草色のショールが風に揺れていた。


「聖なる池は無事に戻ったようだな」


 ライラの横に立つと、イエンウィアは池を見下ろし、満足げに言った。

 ライラ達がホルス神殿を奪還した時、この池の水は枯れていた。それを、カエムワセトが魔術で水を溜め直したのである。

 イエンウィアは片膝をつくと、水面に右手を差し入れ、ゆっくりとくゆらせた。


「清んでいる。相変わらずいい腕だな」


 後輩の魔術の腕を称賛して微笑むと、水面から手を抜いてさっと振る。

 イエンウィアの手から水滴が飛び散った。その光景と、剣についたセベキの血を払っていた昼間の姿が重なり、ライラは気不味い思いを蘇らせる。


「昼間は悪かったわ。リーダーの居場所を把握してから乗り込むべきだったのに。そのせいで、あなたに人殺しをさせてしまった」


己の詰めの甘さ故に、軍人でも無いイエンウィアに手を汚させた事をライラは申し訳なく思っていた。

 真摯に謝罪してきたライラに、イエンウィアは穏やかに応える。


「剣を持って出た時点で覚悟はしていた。気にしなくていい」


 それに・・・と、少し間を置いてからこう続けた。


「君に剣の腕を披露できたと思えば、そう悪くもないさ」


 思い出しながら語る口調から、ライラを気遣って言ったわけではない事が伺える。

 だが、その言葉を聞いたライラはバツが悪そうに口ごもった。目を泳がせながら、「私、あなたをからかった事なんてあったかしら?」と訊ねる。


 プタハ神殿の書庫で、イエンウィアは剣を覚えた理由として、過去にライラから”からかい”を受けた事を挙げていた。しかし、ライラには、剣の腕でイエンウィアをからかった覚えがない。そもそも、イエンウィアをからかうなど身の程知らずな行いをした記憶がない。


「『からかわれた』というのは少し語弊があったかもしれないが――」


 イエンウィアは口元に手を当て思索した後、「まあ、君に身に覚えがないならないで構わない」と結論付けた。


「お陰で私は荒くれ者達の頭目を倒せるだけの強さを身につけた。今はそれで十分だ」


 言いきった彼の表情は爽やかである。

 実際のところ、イエンウィアが本当に満足のいく結果を得る為には、彼はライラに、自分に対する認識を改めてもらう必要があった。

 その理由は、ライラがカエムワセトの従者として初めてプタハ神殿にやって来た時まで遡る。


 当時、イエンウィアはフイの補佐役に任命されたばかりだった。

 まだ20歳を迎えるか迎えないかの若者が、最高司祭の補佐役に就任したとあって、当時はイエンウィアに対し好奇の視線を向ける者が多く、風当たりも強かった。そんな状況で、イエンウィアも心がくさくさしていたのである。

 そんな時に、エジプト軍に入隊して王子の従者になった、というライラと出会った。

 自分と同じく厳しい環境に身を置き、好奇の目や強い逆風にさらされているであろうライラが、望んでその場所に居ると知った時、イエンウィアは反発心と苛立ちを覚えた。そして、つい皮肉を口にしてしまったのだ。

『ここには君の見合い相手になる様な男は1人もいないのだが』

 まだ顔の端々にあどけなさを残したライラは、きょとんとした顔でイエンウィアを見上げてこう答えた。

『そうね。私も、自分より弱い男は嫌なの』

 そして、蕾のような唇の端を持ち上げ、挑発的に言ったのだ。『あなたもそう(弱い男)なんでしょ?』と。

 その瞬間、イエンウィアは自分がいかに卑小であるか気付いた。というよりは、己を卑小にしていたのは己自身だと知った。イエンウィアがライラにしたことは、完全に八つ当たりであり、それは普段、彼が周囲から受けているものと同じだった。

 自分の無能ぶりを棚に上げて他者を妬む事しかできない同僚達を軽蔑していたはずが、いつの間にか自分も同じところまで落ちていたのだ。

 なんて愚かな事をしていたのだろう、と思った。

 若いうちに、おいそれとは手に入れられない成長のチャンスを与えられたというのに、周囲の思惑に振り回された挙句、自分の心を守る事だけに必死になっていた。自分を今の地位に取り立ててくれた上司達の期待を踏みにじっていた事にようやく気付いたイエンウィアは、自分を恥じた。

 だがそれ以上に、清々しさも感じていた。そして、心に決めた。この場所で、自分に出来得る限りの成長を遂げてみせよう。そして、この少女が認めるだけの強さを身につけよう。

 だから剣は、求める“強さ”の一つに過ぎない。


「いずれきちんと話す。礼も言う。その時は、笑わず聞いてくれ」


 穏やかに微笑んだ彼は、今はもうこれ以上話す気はないようである。

 釈然としない思いを抱きながらも、彼には大事な思い出であろう出来事を忘れてしまった、という弱い立場上、ライラは「はぁ」と返事をするしかなかった。


「それはそうと、さっきはまた随分と派手に泣いていたな」


 イエンウィアが話題を変えた。

 自分の子供じみた泣き声をしっかり聞かれていたと知ったライラは、羞恥心で頬を赤くした。


「耳障りで悪かったわ」


 ばつが悪そうに謝ってきたライラに、イエンウィアは「気にするな」と簡単に慰めただけで、後は何も言わず黙っていた。

 何があったか追及して来ないのが実に彼らしい、とライラは思う。


「・・・ちょっと・・・アーデスと言い合いになって」


 沈黙に耐えられなくなったライラは、自分から号泣の理由を告白した。


「痴話喧嘩か?」「そんなわけないでしょ」


 すかさず質問が投げられ、ライラは更に早いスピードで返した。その反応速度は殆ど反射的と言っても過言ではない。


「失礼した。冗談だ」


 楽しげに笑うイエンウィアに、ライラは憮然とした表情で前髪をかきあげた。


「アーデスは相棒よ。痴話げんかではないけれど、お陰で気持ちを立て直せたわ。癪だけど、感謝しないと」


 基本的に性格が素直なライラは、既に己の非を認め、闘えるだけのコンディションに戻してくれた相棒の存在を有難く思っていた。

 イエンウィアは「それはなによりだ」と微笑み、「いい仲間に恵まれているな」と言い継いだ。

 第三者のような物言いをしたイエンウィアに、ライラが「何言ってるのよ」と笑う。


「あなたも仲間じゃないの。いつも一緒ではないけれど、必要な時はこうやって私たちの傍に居てくれるでしょ」


 神殿の庭に夕日が差し込み、ライラの身体を赤く染めた。燃えるような赤毛と、陽に焼けた肌が一層鮮やかさを増した。

 イエンウィアは夕日に照らされたライラの眼元に、涙で腫れた場所を見つけた。手を伸ばし、親指でその赤く腫れた部分を優しくこすったイエンウィアは、「そうだな」と目を細めた。


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・


「大丈夫かお前、顔色悪いぞ」


 入口の反対側。聖なる池に面した一室で、アーデスはカエムワセトと対面していた。

 床に布を敷き、先程までそこで横になっていたカエムワセトは、明らかに疲労の色が滲み出ており、なんとなく血の気もない。

 心配する腹心の部下に、カエムワセトは少々魔術を使い過ぎただけで、休めば元に戻る旨を伝えると、窓辺に腰を降ろした。

 そしてカエムワセトは、自分が寝ていた反対側の壁際で同じように布を敷いて、静かな寝息を立てているリラを見やり、申し訳なさそうに眉を下げる。


「弟達を父上の元に転移させるには、リラにも随分負担をかけてしまったよ」


 メンフィス宮殿の池とぺル・ラムセスの宮殿の池を繋ぎ、メルエンプタハとイシスネフェルトに加え乳母までラムセスの元に送るという大技をやり遂げたカエムワセトとリラは、相当量の魔力を消費した。それに加え、ホルス神殿の池を清められた水で満たすという作業も行ったことで、二人は直後、非常に強い睡魔と疲労感に見舞われた。


「だが本番はこれからだ。リラにはしっかり休んでおいてもらわないと」


 予定している大舞台が体力・魔力共に著しく消費する戦いになるはずだと予想しているカエムワセトは、厳しい表情を作る。


「起こしちまって悪かった。ちょっと色々あったもんでな」


 アーデスはボリボリと頭を掻きながら釈明した。

 ライラの号泣で飛び起きなければ、カエムワセトはまだリラと同じように眠り続けていたことだろう。

 それに対してカエムワセトは、「いや、感謝しているよ」とアーデスに礼を述べた。


「ライラの事は、私も心配だったんだ。持ち直してくれて本当によかった」


 ライラの際どい精神状態を分っていながら、手を差し伸べる余裕がなかったことを、カエムワセトは申し訳なく思っていた。

 アーデスは名誉の負傷を負った左頬をさすりながら、「ま、結果オーライっちゅうやつだな」と言う。

 しかし、複雑な心境も顔に出さずにはいられなかった。

 プタハ神殿の神官達はアーデスを完全に悪者扱いしてきた。ライラの爆弾に着火したのは失敗であれ、実際に殴られ喚き散らされたのはアーデスである。被害者だと主張する気はないが、やれ無頼漢だの鬼畜だのと責め立てられるのは不本意だった。

 大きな貧乏くじを引く羽目になった気の毒な男に、カエムワセトはすまさそうに笑って「いつも悪いな」と労いの言葉をかける。

 大なり小なり、往々にして同じような貧乏くじに当たっているアーデスは、「まあ、別にいいんだが――」と言いかけると、カエムワセトが座っている窓の外の光景に「ん?」と眉を寄せた。

 眼下に見えるのは、聖なる池とライラである。その隣にいる草色のショールを身につけた神官らしき男は、イエンウィアだろうか。

 窓に歩み寄ったアーデスは、全貌を現したその光景に絶句した。

 そこには、ライラの頬に手を添えるイエンウィアの姿があった。夕日に照らされ池の前で見つめ合っている二人は、非常に仲睦まじい様子に見える。

 平穏無事な時ならいい。だが今は、未知の戦の直前である。


「なに、やっとんじゃ・・・!」


 額に血管が浮き上がるほど怒りだしたアーデスの様子を不思議に思ったカエムワセトが、「どうした?」と同じ方向を見ようとした。


「あっ!ありゃなんだ!」


 アーデスは慌ててカエムワセトの両肩を掴み、室内に方向転換させる。そして、天井の隅に丁度いい蜘蛛の巣を発見すると、「掃除が行き届いてねえなあ!俺が払っといてやるからな!とりあえず休め!」と眉をひそめる主人の両肩をポンポン叩いた。

 恋情とまではいかないまでも、カエムワセトがライラを憎からず思っているのは知っている。よって今、自分達の部隊の指揮官であり、頼みの綱でもあるカエムワセトの気持ちを煽るのは非常にまずい。

 実際のところ、ライラとイエンウィアの間にはアーデスが思うような疾しいやり取りは無かったのだが、大事なのは、二人の様子が他者からどう見えるか、にあった。


 ――どいつもこいつも若い奴は緊張感のねえことで!ほんっと、おめでてぇなあ!


 アーデスはこの日初めて、カエムワセトの部下になった事を後悔した。



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