第4話 苦労という坂を超える時、人間は頭を使う

 ダイニングの柱時計が午前零時を告げた。

 曽田家の人間達はもれなく、ダイニングのテーブルに座っている。

 長倉の死が告げられた時に比べると、それぞれの顔つきが変わっていた。それは、曽田家で生活していた人間が殺されたということ以外に、小峰香の死が二人目である、という事実が大きい理由でもある。

 一つの空席を覗けば昼間と同じ席順である。

 小峰の遺体の発見は茉希から諸角、そしてアリアを含めた居候全員に伝えられた。それと同時に、ダイニングへと集まるようにアリアから伝えられる。

 その結果、この場が設けられた。

 長倉の時と同じである。

「小峰さんは残念でした」

 アリアが口を開いて最初の言葉がそれだった。

 片桐が唸る様な声を出す。

「アリアさん、これは紛れもない殺人です。理解されていますか?」

 飴村の声には憤りが込められていた。

「ええ。分かっています」

「小峰さんは両手首を切断されています。自殺とは考えられません」

 アリアの声に被せるようにして続ける。

「事故では…ないのかな?」

 根来川が恐る恐る尋ねる。それほど飴村が鬼気迫る表情だった。

「何らかの事故ならば、小峰さんの身体の近くに両手が転がっているはずです。それはありませんでした」

 飴村の声だけが響く。彼らに自分の言葉を叩き込むような勢いだった。

「見つかったのは風呂場だよな?」

 片桐が落ち着いた声で語り掛ける。飴村は頷いた。

「工房の他の場所で手を切断しちまって、風呂場で洗おうと思ったんじゃねぇか?ほら、指切った時にとりあえず水で洗うことあるだろう?気が動転してそんなことするかもしれねぇよな?」

 茶化すような態度ではなく、真面目な発言だった。

「二つの理由で否定できます。まず、工房の方で切断してしまったのならば、それなりの出血をするはずです。その痕跡はありませんでした」

 飴村はVサインにしていた指を一つ折る。

「もう一つは、さっきと同じで切断された手首より先の部分が見つかっていません。両手の先から大量出血している小峰さんが手首を隠す理由が…俺には見当たりません」

 その横に座っていた板尾が授業を受けている学生のように手を挙げる。これも茶化すわけではなく、本人はいたって真面目な行動である。

 誰も当てる人間はいないので、勝手に話を始める。

「それに加えて、もう一点です」

 板尾は人差し指を立てた。

「ミス小峰の手首を切断した何かが見つかっていません」

 板尾の声に緊張感があったのは、この場の空気に対してではなく、自分の発言が片桐に向けたものだったからである。

 場が沈黙に包まれる。まだ現実を理解できていないのかもしれないと飴村は思った。

 沈黙を破ったのは石田だった。

「だから、早く警察に連絡した方が良かったんだ」

 僅かに声は震えていた。

「私はこんな殺人犯がいるかもしれないところにいたくはない」

 そう言うと立ち上がる。

「ミスター石田、落ち着いて」

 板尾も立ち上がって宥める。

「私一人でも山を下りる。あなたも一人で帰ってくることができたのでしょう?」

 石田の視線の先には鰻がいた。

「タクシーで、ですよ?」

 鰻は落ち着いていた。人を殺しそうな目をしているが、声は優しい。

「いくら懐中電灯があったとしても、夜中に山道降りていくのはお勧めしませんよ」

 それに、とアリアが続ける。

「何度も言っていますが、明日には警察に連絡します。もちろん、徒歩で山道を降りて、ですが。諸角が夜明けと同時に麓まで下りて、警察に連絡することにしています」

 石田はアリアと目を合わせると、黙って座り直す。

 夜明けまでおよそ六時間、飴村はダイニングにいることを提案する。

「全員でお互いを監視しながら夜明けを待ちましょう。それが最善だと思います」

「トイレは…」

「なるべく二人で行くようにしましょう」

 根来川はうんざりした顔で頷く。

 諸角が飲み物の用意をするために部屋から出て行った。それを見て、板尾が立ち上がり話を切り出した。

「皆さん、よろしいですか」

 全員が板尾を注目する。

「せっかくこうして集まったので、今までの時間、何をしていたか教えていただけますか?」

 話の切り出し方としてはゼロ点だが、話は聞いておかなければならない。

「さっき話したろ?」

「僕もあなたに話しましたよね?」

 片桐と根来川が続けて発言する。板尾はそれぞれの顔を見る。

「存じ上げています。お二人には先程お聞きしましたから、大丈夫です」

「質問する時は手を挙げるのですか?」

 すでに手を挙げているのは塗師だった。

「ミスター塗師、どうぞ」

 笑顔で促す板尾、笑顔で会釈する塗師。

「小峰さんはいつ殺害されたんですかね?もっと言えば長倉さんの場合もいつ殺害されたのか、はっきりしていませんよね?」

 板尾は首を上に向けると目を閉じて考えている。

「確かにそうかもしれません。それをはっきりしておく必要はありますね」

 では、と板尾が各人の席の後ろを歩きながら話を始める。

「長倉君の方から始めましょうか。我々が恐らく生きている長倉君を最後に見た人間でしょうね」

 石田に視線を向ける。すでに落ち着いていた石田は頷く。

「我々は、曽田家所有の発電所の解体および東屋建設に関して、曽田アリア様からご依頼を受けて、本日、長倉君を含めて三人で参りました」

 一歩一歩確かめるようにして板尾は歩いている。

「アリア様とお話をして詳細を詰めた後、我々三人で詳細を打ち合わせさせていただきました。丁度ダイニングの向かいの部屋ですね」

 もう板尾に注目している者は誰もいなかった。目を閉じていたり、天井を見上げていたり、テーブルの上を見ていた。

「打ち合わせ開始時刻は午前十一時頃でしょうか。それから一時間ほどして昼食を頂きました。その時までは一緒に長倉君もいたのです。昼食は三十分ほどでしょうかね。それから再び話し合いに入ろうとした時には長倉君の姿は無かったんです」

 板尾は自分の席に戻ってきた。丁度一周したことになる。

「すぐ探さなかったのですか?」

 鰻が尋ねる。

「探しませんでした。打ち合わせの方を優先してしまったのです。今になってみれば探してみれば良かったのかもしれません…。電話で出て行った程度の事だろうと思っていたんです」

 石田もその点を悔いているようだった。唇を噛み締めている。

「そして…あまりにも遅い長倉君を心配して探しに行こうと部屋を出た時…」

 板尾は飴村の両肩に手を置く。

「ミスター飴村と茉希様に出くわしたのです」

「人を熊みたいに言うな…」

 飴村の呟きは無視された。

「そして十四時半、四人で発電所まで行ったところで…」

 板尾は両手を広げて軽く頭の横まで持ってくる。言わなくても誰もが分かっていたことだった。

「話を総合すると、長倉君は姿が見えなくなった昼食後の午後一時から、発見された午後十四時半の間で殺害され、そして解体されてしまったのです。おっと、女性二人には刺激が強かったですかね」

 板尾は胸に手を当てて、アリアと茉希に視線を送る。

 二人共気にはしていなかったが、茉希は思い出したのか僅かに青ざめていた。

「この時間帯で皆さん、何をされていましたか?」

「私と片桐さんは囲碁を打っていました」

 塗師が真っ先に答える。板尾は頷くと鰻の方を向く。

「鰻さんはお仕事で夜までいませんでしたね」

「ええ。そうですよ」

「わかりました。では、アリア様と東野様、諸角さんはどちらに?」

 指名された三人の内、諸角以外は自室にいたと主張した。

 板尾は頷くと諸角に視線を送る。

「私は皆様の昼食を準備して、その後片付けをしておりました」

「十二時くらいに作業していた俺のところに昼飯持ってきてくれたよ」

 板尾に向けて飴村は補足した。

「十三時半を回った頃でしょうか、飴村様がお皿を持って戻ってこられたので、お皿を受け取ってまた調理室に戻りました。しばらく雑用をしておりましたら…十四時半過ぎに茉希様が血相を変えて戻ってこられました」

 発電所で長倉の遺体を発見度、茉希は邸宅へと諸角を呼びに戻って行った。

「そして茉希様と共に発電室へと向かいました。後は…」

 ご存知の通りでございます、と締めた。

「ありがとうございます」

 板尾は深く頭を下げると、同じ速度で頭を上げる。

「さて、ここまでの事を踏まえて、考えてみます。皆様、実は事件の真相は案外と単純なことなのです」

 再び板尾に視線が集まる。

「長倉さんを殺した人がわかるんですか?」

 塗師が僅かに身を乗り出す。

 板尾は塗師の発言を無視して続ける。

「実行可能性を考えてみましょう。長倉君の姿が見えなくなった十三時から十四時半までの間で、彼を殺害してなおかつ、身体を切断できる人間が、すなわち犯人足りえる人物である、ここまではよろしいですか?」

 誰も板尾に反論しない。

「この時間帯でアリバイが無いのはアリア様とミスター東野です」

 アリアは僅かに表情を変えた。

「おい、人を殺人犯呼ばわりか?」

 落ち着いてはいるが、東野の声に怒りが籠っていた。

「お待ちを。最後まで話を聞いて下さい」

 板尾の口角が上がる。

「アリバイが無い、ということよりも確実なのは、殺害現場にその時間帯にいることができた、という事実です」

 飴村の背筋が寒くなったと感じた。板尾が何を考えているのか理解したからだった。

「ミスター飴村、発電所の調査で午前十一時ごろから二時間、あの空間にいましたね?」

 板尾の表情は穏やかだった。

「おい、今度は俺かよ。なんでそうなるんだ。そもそも長倉さんを何故俺が殺さなければならない?」

「我々のメンバーが一人死んでしまえば、取り壊しの話は無くなると考えたのではないですか?」

 あまりにも短絡的な理由が板尾から語られた。

「確かに、あなたにとってみれば、少なくともこの件に関して、K建設は商売敵ということになりますね」

 アリアが援護射撃を打つ。

「アリアさん、俺はそんなに短絡的ではありません」

「この件から手を引け、というメッセージで切断したのかもしれませんね」

 板尾は話を進めていく。

「おい、勝手に話を進めるな」

「板尾さん、飴村さんがどうやって長倉さんを殺害したんですか?」

 塗師が淡々と質問する。その光景が飴村にとっては恐怖だった。

「では、ミスター飴村がどうやって長倉君を殺害したのか、ご説明しましょう」

 板尾はまた歩き出す。板尾の思考時の癖なのだろうと推測するほど飴村は集中して板尾を見ていた。

「まず、長倉君の行動ですが、彼は今回の仕事にとても情熱を注いでいました。これは石田さんも証言していただけますね」

 丁度、板尾が石田の後ろに差し掛かったタイミングだった。石田は頷く。

「だから、彼は一人で発電所を見ておこうと考えたのです。昼休憩後に姿が見えなくなったのはこのためです」

「だったら、何故あんたらに一言もなかったんだ?」

 少しでも反対意見を言っておかなければ大変なことになると考えて反論する。

「彼は集中するとそれ以外の事が見えなくなってしまう性格なのです。社会人としてはいささか不利な性格でもありますが、まだ成長のしがいがある人材でした」

「まだ若手ですからね。これから伸びる人物だったと思います」

 上司二人からの長倉自身の正確に関する事実は、飴村は知る由もない。

「だから、我々に何も伝えずに出て行った。あなたが一人で調査している発電所に」

 腕時計の位置を正すような仕草をしながら飴村に告げる。

「そこで何があったかは、後程本人から話してもらえると信じて、先に進めます」

「何を勝手に!」

「ミスター飴村、私の話が終わったら、どうぞ反論をして下さい」

 それでも言い返そうとすると、周りの視線に気が付く。これ以上反感は買うべきではないと判断して口を閉じる。

「よろしいですね。争いが会った結果、ミスター飴村は長倉君を殺害します。不測の事態だったのかもしれません、僅かばかりの同情の念は、私にもあります。しかし、人を殺してしまったことには変わりありません」

 声を顰めるようにして、自分の演説を演出していた。

「このままでは、ここにいる自分が殺してしまったことがバレてしまう」

 一旦言葉を切った板尾は歩みを止めてゆっくりと飴村の方に身体を向ける。飴村が座っている席から最も遠い場所だった。

「彼は遺体を切断して、あたかも猟奇的な殺人犯がいたかのように仕向けたのです」

 今度は、断定するかのように力強く言い放った。

「何かご質問は?」

「ありすぎる」

 顔だけ板尾に向けて言った。

「長倉さんの身体を切断する手段を俺は持っていない」

「確かに、こいつが持っている道具の中で人の身体を切断できる道具はなかったな」

 東野が助け舟を出す。

 本人はそう言った意識はなかったかもしれない。

「ええ。ミスター東野も電話機の修理の時にミスター飴村のツールボックスを確認しているはずですね」

 板尾は一切動揺していなかった。

「しかし、皆さんは切断されていた、という事実に縛られてはいませんか?」

 場が静かに動揺していた。それは飴村にも当てはまる。

「刃物が無けりゃ切れねぇだろう」

 板尾の天敵である片桐の発言でも動じている様子はなかった。

「刃物が無くても切断はできます」

 片桐は口を真一文字に閉じて、板尾を見ていた。

「これは、長倉君の遺体の周辺に血液がほとんど漏れていなかったこととも関係しています。この点に関して発電所でミスター塗師も指摘していました。つまり、殺された場所と切断された場所が違う、という問題です」

 塗師はなぜか姿勢を正す。自分に視線が集まっているのを感じたためだった。

「それならば、切断された場所では血痕が遺されていたのか。流石に、そんなことをすればすぐにこちらも分かります。実に合理的な方法で遺体の切断は行われました。血痕が流れても簡単に処理できつつ、刃物を使用せずに切断することができる方法です」

「どうやって?」

 根来川は懇願するように尋ねる。

「ミスター飴村はワイヤーを使ったんです」

「ワイヤー…ピアノ線みたいな?」

「ええ、そうです。ピアノ線は発電所に残されていたものです。何に使っていたかは知る由もありませんが、彼はそれを死体切断に使ったんです」

 格好良く飴村を指差すが、指名された本人は相変わらず呆れている。

「ピアノ線で…そんな簡単に切れるんですか?」

 塗師は首を傾げる。

「もちろん、人体はそんな簡単に切断できません」

 しかし、とじっくり溜めを作る。

「人間以上の力が出せればそれは可能です」

「飴村さんは…改造人間ですか?」

 大真面目に塗師が聞いてくる。

「勝手に仮面ライダーにしないでくれますか?」

 塗師に力強く反論している自分が情けなくなった。

「失礼しました。そんなサイエンスフィクションの世界で我々は生きていません。他の力を使ったと言えばわかりやすいでしょうか?」

「ウィンチを使ったのか?確かあの部屋の天井に設置してあっただろう?」

 東野が思い出しながら指摘する。東野が言っているのは発電所の天井クレーンのことである。

「しかしミスター東野、天井クレーンを使ったということは、その動く範囲、つまりあの空間で切断したということになってしまいます」

 残念でしたね、と腹の立つ顔で東野に言う。普通の感性を持っていればふざけるな、と言われそうなセリフだが、この特殊環境では感性すら麻痺している。

「ワイヤーはこうして使ったのだと思います。まず、ミスター飴村は長倉君を殺害します。これは発電所の中ですね。その後、長倉君の遺体を発電所の裏手へと運んだんです」

 裏手…と根来川が呟く。

「あの発電所は川を跨ぐ様に建てられています。だから裏手には簡単な橋が架けられていますね。スチール製のものだったと思います。その橋の上、多分水が掛かることも考えられますから、グレーチングを使っています。グレーチング、わかりますか?側溝の蓋にも使われていますね。コインや自転車の鍵が側溝に落ちる原因にもなります」

 最後のセリフはジョークのつもりだったのだろうが、誰も笑わない。

「あの橋の上まで死体を運んでから細工をします。首を切断する時を例に上げましょう。まずピアノ線を首に巻きます。反対側の端を今度はバケツに取り付けるんです。バケツは発電所内にスチール製のものがいくつもありました。さて、バケツと首がピアノ線で結ばれたことになります」

 板尾は自分の首から空中に線を描くように指を伸ばして、その先を結ぶ動作をする。そこにバケツがあるのだろう。

「さらにピアノ線をもう一本用意します。それは首と橋の欄干に結びます。これで準備は終わりました。後はバケツを川の中に投げ込むだけです。源流が近いから流速が速いです。バケツによって引張り力が働いて首を切断します。もう一方のピアノ線が首の落下を防ぎますからバケツとピアノ線だけが川を落ちるように流れて行きます」

 板尾の指が空中で円を描くように動く。

「水力発電の場合、羽が川の中にあることが多いですが、すでに使われていない施設です。羽も川から上がっていると思います。そうなると、バケツは川を落ちて行くのでその場に残りません。切断されたパーツが残ります。それに血液はグレーチングから流れ落ちて川に流れ込みます」

 板尾は両手を広げて聴衆に広げるようにして見せる。後はご想像の通り、とでも言いたいのかもしれない。

「バケツにつないだピアノ線は、グレーチングを通すようにした方が確実かもしれませんね」

 真面目に答える塗師に、飴村は一瞬殺意を覚える。

「なるほど。まあ、出来そうではあるなぁ」

 片桐はゆっくりと言った。他に発言する者はいなかった。それが飴村にとっては最悪な状況になっていることが明確になった瞬間でもある。

「飴村さん、あなたが長倉を殺したんですか?」

 緊張感のある声で石田が飴村に尋ねる。

「俺はやってない。信じてください」

「ちゃんとしたことは明け方に警察がしてくれますから、ミスター飴村」

 板尾が詰め寄ろうとしてくる。

「飴村さん、あなた長倉の家族にちゃんと謝ってくださいよ。あいつは実家の宮大工を継ぐのが夢だったんだ。それは親父さんの夢でもあったそうだ。それを…あんたは台無しにした。そんなことってあるか?」

 石田が涙ぐんでいるのが見えた。

「俺は…殺していない。それに…小峰さんは?小峰さんの時はお前と片桐さんのところにいただろう?」

 板尾は目を丸くする。

「それはもちろんです。誰がミス小峰も殺したと言いましたか?」

 次は飴村が目を丸くする。

「ミス小峰を殺害した人物は別にいます」

 再び緊張が走る。飴村以外の人物となれば、今度は自分の名前が挙がるかもしれないのである。

「その犯人は…残念ながら茉希様、あなたです」

「え?なんで?どうしてそうなるのよ」

 茉希は動揺していた。突然、人殺しであると言われているのだから当然である。それも、前提として彼女が犯人ではないのであれば、である。

「あの時、あなたとミスター飴村はミス小峰の所に話を聞きに行こうとしていましたね?」

「この人に頼まれたからね。あなたに邪魔されたけれど」

「そこはご愛敬です。私たちがミスター片桐の部屋に行っている時のあなたの行動を教えていただけますか?」

「それは…しばらくここでお茶を飲んでいて…少ししてから小峰さんと行き違いにならないようにと思って階段裏の扉の前で立って窓から工房を見ていたのよ。諸角さんにも正面玄関の所に立ってもらっていたから。ね?」

 諸角は黙って頭を下げるだけだった。

「なんで諸角さんにも立っていてもらっていたんです?」

 鰻が茉希に尋ねる。

「同じです。小峰さんが正面玄関から戻ってきたときに行き違いにならないようにと思って」

「なるほど。分かりました。その後、私たちと合流してミス小峰を発見したということですね」

 茉希は頷く。

「ちなみに、階段裏の扉の前でどれくらい覗いていたのでしょうか?」

 茉希はテーブルに視線を移して考えている。

「えっと…十分は見ていたかな…はっきりとは言えませんけどそれくらいです」

「皆さん、茉希様が言う工房への扉はご存知ですよね?」

「馬鹿にしてるんか?」

 片桐だけはそう受け取ったようだが、他はアリアを除いて頷いた。

「あの、えっと…ミスター片桐、確認、確認ですから」

 咳ばらいを一つ。

「茉希様はミスター諸角に正面玄関を見ておくよう伝えたということです。さて、ミスター諸角、あなたはどうしましたか?」

 諸角は一瞬不思議そうな顔をするが、すぐに口を開く。

「はい。私は茉希様に言われた通り、正面玄関の…その脇に立っていました。あまり堂々と立つのも憚られましたので、その位置で」

「どちらを向いて立っていましたか?」

「北西の廊下の方ですが…それが何か?」

「つまり、直接茉希様の姿を見ていないというわけですね」

 鰻と根来川が顔を見合わせる。

「ええ。そうですが…」

「その間に茉希様と会話をされましたか?」

「…いえ。ご機嫌が悪かったので私も黙っていました」

「板尾さん、どういうことかしら?」

 アリアが痺れを切らしたように言う。

「工房への扉が大階段の死角にあるということを利用して、茉希様はミス小峰を殺害したのです」

「ちょっと待て。あまりにも偶然に頼りすぎていないか?諸角さんが茉希さんを気にかけて様子を見に来たら破綻だ。それに他の人たちが工房に行ったらすぐに露見するだろ」

「ミスター諸角、あなたは茉希様がそこにいろと言われたら動きますか?」

「動きません。身に危険が及ばない限りは」

「ミス小峰を除いて、皆さんの中で工房に頻繁に通っているのは誰でしょうか?」

「根来川と俺じゃねぇかな。鰻も東野も基本的には外で仕事するから、工房なんて行かないだろう」

 片桐が発言する。

「確かにここ最近行ってないですね」

「行かねぇな」

 鰻も東野も否定しなかった。

「お二人とも私、あるいはミスター飴村と話をしています。特にミスター片桐との会話中に茉希様とミスター諸角はそれぞれの場所に立っていましたから、気にするのはミスター根来川だけで良かった」

 なぜか根来川が狼狽えている。

「あの…じゃあ、もし僕が工房に向かっていたら?」

「ミス小峰と一緒に虹の橋を渡っていたことでしょう」

 うー、と声を上げて椅子に仰け反った。

「と言うわけで、茉希様、残念ながらあなたに殺害できる条件が整っていることになります」

「状況だけでそんなこと言わないでくれる?」

 茉希は立ち上がって憤慨する。立ち上がった拍子に椅子が倒れた。茉希自身もそんな風に椅子から立ち上がったのは初めてなのかもしれない。

「でも、あなたである確率はかなり高いということね」

 アリアが落ち着いた様子で娘を見る。

「お母さん、私が…殺したと?」

「警察が調べるわ。公的機関がもしそう判断したのなら、そういうことでしょう」

 茉希は立ったまま唇を噛み締めている。悔しさと悲しみが茉希の中に湧き上がっているのかもしれない。

「んー、しかし…」

 東野は値踏みするように飴村と茉希に交互に視線を送る。東野だけではなく、その場の大半がこの状況をどうするべきか、決めかねていたのである。

「お二人共、やっていないと主張していますからね…」

 根来川が発現してみたものの、ただ沈黙が怖いだけ、という目的だということは明確だった。

「アリアさんが言った通り、警察に任せるしかないだろう」

 この場をまとめるように片桐は発言するが、効果があったわけではない。

「じゃあ、どうしますか?」

 塗師が無感情に、笑顔で全員に尋ねる。

「どういう意味だい?」

 片桐の問いに、塗師は二人を見ながら答える。

「飴村さんが言ったように、この場で集まって朝を迎えるのか、この二人を隔離して、いつも通りに過ごすか、です」

 場の決断は存外早かった。



 十分前から二人共沈黙が続いていた。

 この部屋に軟禁されてから、それほど時間は経過していない。

 この邸宅の住人たちは、警察が来るまで飴村と茉希を軟禁するという決定をした。

 二人が軟禁されている部屋は邸宅の一階、北東側の一室である。扉の鍵では中から開けられてしまうため、ドアノブへ入念にチェーンを巻き付けた状態だった。

 飴村が生きてきた中で、軟禁されるとは思わなかった。だから、この待遇が果たして良い方なのか、悪い方なのか、わからなかった。

「良い軟禁なんて無いでしょう?最悪よ」

 茉希は部屋の奥の壁に椅子を置いて座っている。機嫌が悪いのは誰が見ても分かる。

 この部屋は客室として使われているらしい。飴村の宿泊のために用意された部屋とは違っているようだった。自分の荷物が置いてなかったからである。

 部屋はソファやベッド、机などがあり、ビジネスホテルよりは十分豪華である。

 夜明けまで後四時間である。

 このまま夜明けが来れば、警察が呼ばれて、捜査が始まる。

「ねぇ、あなたはまだ私の依頼を完遂してないよね?」

 椅子に座った姿勢で茉希は睨み付けるように視線を送る。

 飴村は黙って頷く。

「追加依頼、良いかな?」

 目を細めて茉希を見返す。次の言葉を待っていた。

「この状況をどうにかしてくれない?」

 飴村はすぐに返事ができなかった。ソファに座ったまま、視線を正面に向ける。茉希の方に身体を向けるには九十度回転させなければならない位置に座っている。

「なんでこんなことに…母が仕組んだ?」

 茉希は呟くように言う。

「なんのために?」

「…東屋作るため?」

「その計画は殺人も含んでいるのか?」

 現実的な話ではないだろう。殺人を犯すリスクと釣り合わない。本人が実行した場合ではなくても、示唆したという点でリスクは同じようなものである。

「…いや、罪をなすりつけるというか、冤罪というか…」

「じゃあ、君はやってないんだな?」

「それ本当に言っている?当たり前でしょ。どうして私が小峰さんを殺さなきゃいけないの?」

 茉希の顔が本気だったので話題を変えることにした。

「俺は、今だけだと思うけどな」

「何がよ」

 茉希の目は僅かに潤んでいる。

「早めに出られると思う」

 黙ったままなのは、先を促されていると受け取る。

「あいつが説明した話には、まだ検討されていないところがある」

「警察が検討するんでしょ?」

「いや、それに言及していたら、俺たちを犯人にできなくなるんだ。つまり、あいつは意識的に俺たちをこんな状況に追い込んだ。それはあいつも分かっているんだ。ちゃんと警察が調べれば俺たちが犯人ではないっていうことが明確だからだ」

「邪魔だったっていうこと?」

「そうだな…。発電所を壊して東屋を建てたいっていう、ただそれだけの理由でこんなことしているんだろう」

「最悪…」

「もっとくだらない理由で人を殺す奴もいるだろう?やっていることの違いとか、その結果の差はあるだろうけど、理由が何かなんて問題じゃないだろ」

 茉希は深く溜息を吐くと、立ち上がり扉に向かった。

 鍵は掛けられてはいない。しかし、扉は開かないようにしているらしく。扉を開こうにも動かない。

「それって個人の話?集団での話?」

「集団と個人で違いはあるかな?」

 再び溜息を吐くと、茉希は同じ椅子に戻った。

 飴村はそれを見ながら、考える。

 板尾の説明では、まだ不十分な点がある。全く検討されていないところがあった。

 まず、保安器と電話機の件。外部との連絡を絶ちたいのであれば、どちらか一方で良い。東野がいたから修理ができてしまう、ということであれば、保安器を破壊して持ち去るだけで良い。にもかかわらず、なぜ両方行っているのか。

 飴村がやったことにしたければその両方を行った理由を説明できなければならない。この殺人が計画的なものであり、念を入れて両方破壊した、とも考えられるが、その分、見つかりやすいリスクを取らなければならない。

 小峰の殺害に関しても同じである。

 茉希が殺人を犯したのならば、大階段裏ですっと見ていた、と証言することは自分への疑惑を高めることにしかならない。だから板尾が疑惑を持ったのだと言える。自分が殺人を犯していたら、トイレに行っていたとか、途中で部屋に戻るといった行動で誰か不審な人物がその間に侵入する余地があったと証言するだろう。

 さらに、小峰の切断した両手もまだ見つかっていない。長倉と小峰の事件で違う点として、切断された部位が残っているか否かが挙げられる。板尾が小峰殺害に関しては飴村ではなく、茉希を容疑者としたこともそれが理由かもしれない。

 額から汗が流れ落ちた。その時に、自分がコートを着たままだったということに気が付く。作業用ジャケットを脱ぐとシャツの背中がじっとりと湿っているのがわかる。

「小峰さんは…どんな人だったんだ?」

 諸角が二人は仲が良いと言っていたことを思い出した。

「姉のような人ね。歳は小峰さんの方が二つ年上なんだけれど。居候の人たちの中では最年少で。最後にこの家に来たから…」

 片桐もそんなことを言っていた。同性で年齢も近く、一人っ子だった茉希にとって、姉の様に慕うという理由もわかる気がした。

「初対面の人は話しかけづらい雰囲気を出しているって言うかもね。冷たいしぶっきらぼうだし。でも、それは表面だけしか見ていないからだと思う。ちゃんと話を聞いてみれば普通の事を言っているし。当たり前だけど」

 頷きながら聞いていた飴村は上月の事を思い出していた。

 茉希の言う小峰像とは異なるが、根本では同じだった。

 長く過ごしていれば、雰囲気や人への接し方も個性の一つとして見ることができる。ただ、そこに至るまでに付き合いを諦めてしまったり、離れてしまうことがあると、表面だけの評価になる。

「仕事や日常生活はちゃんとしているから、やっぱり見た目や雰囲気は関係ないと思う。それに休日は町まで遊びに行っていたかな。私もバイクの後ろに乗せてもらって一緒に遊びに行ったの」

 楽しかったな。と最後に付け加えた。

 小峰の事を思い出しながら話す茉希の表情は緩んでいた。それほど茉希の心の中は小峰の思い出で潤っているということである。

「そういえば、小峰さんは部屋に男性を一人で入れないって言ってなかったか?」

 茉希の表情が僅かに曇る。

「私も詳しくは知らない。それってプライベートな事でしょう?普通聞かないって」

 確かに言う通りである。飴村は何度も頷いた。

「でも…部屋でお酒を飲んでいた時に、昔の彼氏の話になって…随分酷いことされたみたい。思い詰めていた時期があるって言ってたかな…。仕事にも行けなくなって、ご飯も食べられなくなったって」

 余程好きな相手だったのだろう。思い詰めるほどに。

「浮気とか?」

「一途な人ではなかったみたいね。暴力もあったって」

「痛々しいな…」

「下衆よ。身体に傷はつけなかったんだから」

 一瞬どういうことかわからなかった。

「体の傷は癒えることもあるけれど、心は無理。だから下衆なの」

 小峰が狭い空間で異性といることが難しいのはそう言った理由があるのだろう。

 心も体も、簡単に傷ついてしまう。タチが悪いのは心の方は目に見えないということである。外見が異常なく見えても、その内側はボロボロになってしまっていることもある。

 大切なことは簡単に観察できない。だから、真摯な態度を持って、接しなければならない。人間も構造物も同じなのかもしれない。飴村はそう感じていた。

「そうだったんだな…」

 それ以外に言葉が見つからなかった。自分はそういう経験が無かったからである。想像は可能だが、その結果紡がれた言葉は、口から出たその瞬間、空気に溶けてしまう。

「今はもう関係は無いって言ってたけれど…本当かどうかはわからない」

 飴村は頷くだけだった。

 ここに住んでいる以上、家の中で会うということは無いだろうし、そんな人物と会おうとは思わないだろう。

 それがあんな結果になってしまった。ツイていない、なんて軽い言葉では表現できない。命まで取る必要はあったのだろうか。飴村は顎を摩る。

「そう言えば…大変って言えば東野さんもそうかな」

「東野さん?なぜ?」

「お酒。アルコールの飲み過ぎで肝臓が悪いの」

「そう言えば、さっきもお酒って言ってたっけ」

「依存症の診断が出ているみたい。諸角から聞いたけれど、医者から止められていて酒は出さないようにって言われたみたい」

「さっきお酒頼んでなかった?」

「お酒飲まなければやってられないんじゃないかな?」

「体壊すのに…」

「体より心の平穏を優先したのね」

 果たして自分が同じ状況だったら、体より心の平穏を選択するのだろうか。想像してみたが結論は出ない。その時の経験や年齢にも関係するかもしれない。今の自分にとってどちらかという選択はできるが、十年後には変わっているかしれない。人間は一生考え方を変えずに生きているわけではない。その都度、自分にとって効率的で有用性の高い考え方を採用して生きているのである。

 茉希と会話をしながら、飴村は事件について考えていたが、結論は見えてこない。

 ここに来てからの様々な情景が頭を流れ始めた頃、扉の外で音が聞こえた。

 巻かれていたチェーンを外しているのだろう。金属が扉にぶつかるような音がした後に扉が開いた。

 そこには、諸角を先頭に、曽田アリアが立っていた。

「ありがとう。扉の外で待っていてください」

 アリアは諸角の顔を見ずに言うと、二人が軟禁されている部屋に足を踏み入れた。

 諸角が扉を閉めきるまで、アリアはそれ以外何も喋らなかった。

「自分の娘と客人を軟禁するのが、曽田家のしきたりでしょうか?」

 これ以上ない皮肉だと考えて発言した。

「ええ。やる時はやる、が曽田家のポリシーです」

 アリアは自分で椅子を持ってきて座る。飴村の正面の位置だった。茉希が座っている場所からは横顔しか見ることができない。

「何しに来たの?私たちが殺人犯だったら、どうするの?簡単に殺されちゃうよ?」

 茉希が悪戯に笑う。

「あら?違うんでしょう?それとも…」

 本当に殺したとか、とアリアも悪戯に笑う。

「母娘のほほえましい会話は後にしてもらいたいですけれど…確かに何しに来たのですか?目的が見えません」

 飴村は正直に伝えた。含ませるような表現ではアリアには届かないと考えたからだった。

「母親が娘の事を心配してはいけませんか?」

「それだけですか?」

 アリアは僅かに目を逸らす。

「あなたの事も心配でしたよ?お客様ですから。大事があってはいけません」

 アリアを正面から見据える。切れ長の目の奥に見える黒目がくるっと動いたような気がした。

「では、ここから出していただけませんか」

「それはできません」

 ゆっくりと首を振る。

「他の皆さんが納得しないからです」

「では、あなたは私たちではないと考えていらっしゃるのですね?」

「どうでしょうね。どちらでも良いと思っています。結果は変わりませんから」

 飴村は困惑した顔をしたが、茉希は平然としていた。

「少し、お話をしませんか?」

「話?俺にですか?」

 アリアは僅かに微笑んで頷く。

「随分悠長ですね」

「こんなタイミングだからこそだと思いました」

 少し早口になっていた。

「あなたと板尾さんはお知り合いなのですね?」

「説明が面倒くさいので、腐れ縁…と説明しています。大きく間違ってはいないのでそれで通していますけれど」

「茉希とは何度も話をしていますけれど、要領を得ないのです」

 困惑している飴村の顔を確認してから続ける。

「なぜ、あの建物を残そうとするのですか?」

「それはどういう意味です?そもそも茉希さんとあなたで発電所に対する考え方が違うため、私や板尾が呼ばれたのでは?」

「ええ。そうです。そうなのですが…」

 アリアは飴村を見たまま、暫し沈黙する。

「それに残そうとするかどうかはあなた方の問題です。俺も、多分板尾の方も依頼されたから、仕事として関わっているだけです」

「その通りですね。では質問を変えましょう。なぜ人は物を残す、継承する、ということを考えるのでしょう?」

「遺産っていうことですか?あなたの父親も財産を残しているでしょう?」

「父が遺したのは自分が興した事業と、この家そしてあの発電室です」

 でも、とアリアは続ける。

「そういうことではありません」

 茉希は黙ったまま目を閉じている。


「後世に伝える、といった行動には、それに伴う結果として、様々な形があります。今あなたが仰った、遺産に代表されるような金銭や権利、そして建物のような現実の物質があります。しかし、それ以外にもありますね?」

 一定の速度で、大きな抑揚もなく作り物のような口から言葉が出てくる。

「技術や知識といった形の無いものですか?」

「ええ。その通りです。そうしたものを所有しようとする、といった人間の行動は理解できなくはありません。そうしたことで幸せを感じる、そういう種類の人間もいるでしょうね」

「あなたはそうではないのですか?」

「私の話をしなければわかりませんか?」

「話の腰を折りましたね。そうではありません」

 アリアの口角が上がっている。

「知識や技術というものは、金銭や権利とは少し違います」

 アリアは頷く。

「貯めたり行使したりするものではなく、蓄積することで、つまりバージョンアップが前提となっていることが違います」

「ええ。その通りですね。では、そうした知識や技術の体系さえあれば、人は必要ありませんね?」

「それらが簡単に閲覧参照できれば良いということですか?」

「必要な時に必要な情報を得ることが可能ならば、誰が使うかは必要ない」

「それは理想かもしれませんね。そんなことが可能ならば熟練した技術が簡単に素人でも使えるようになる」

「現代の技術はそうしたことを目的に発展したと言っても良いのでは?」

「そう…ですね」

「なぜ、そうした技術を持っている人間が重宝されているのでしょうか?」

「やはり、その人でしか出せないものがあるのだと…思います」

「では、それを再現できるような技術があれば熟練した技術を持つ人間は必要ないということですよね?」

 飴村は黙った。確かにアリアが言うことは理解できる。

「つまり代替可能な技術があれば熟練した技術は必要ないと?」

「ええ。そういうことです」

「それが発電所、発電室でしたっけ。それとどう関係があるのですか?」

「直接は関係ありません。ただ本質として共通点があるということです」

「共通点?」

「ええ。寧ろ施設や建物と言ったものの方が単純です。古くなったり壊れたものはすぐに壊して新しいものにした方が良いのではないか、ということです。あなたの仕事はそうした建物を長く使えるようにすることですよね?」

「まあ、そうですね。大筋は」

 飴村は両手を組んでいた。無意識だった。

「構造物は不具合があっても、すぐ壊して新しいものを作るというわけにはいきません」

「なぜかしら?もちろん、その不具合にもよるのでしょうけれど」

「そうですね。そうしたことも俺の仕事ではあります。ですが、例えばあの発電室のような建造物の場合は簡単ではないと思います」

 アリアは首を三度ほど傾けた。

「その構造物に歴史的、学術的な価値がある、ということが大きいです。自治体によっては保護することも考えられます。あの発電室がどうなのかは…わかりませんが。恐らく打診くらいは来ているのではないですか?」

 アリアは何も言わない。茉希を見ると、ゆっくりと頷いた。

「しかし、あれは個人の所有物です。どうするかは私が決めます」

「って、直接担当者に言ったの」

 茉希は呆れているのかもしれないと飴村は考える。

「わかりました。でも、それはその通り、つまりアリアさんの対応に間違いはないと思います。個人所有ですから」

「あの発電室がどういったものか、私は父や幸之進ほど知りません。ですが、古くなっているから壊して、別の新しいものを作ろうということが何故娘から反感を買うのか、それがわかりません」

「それは…時として、歴史的な構造物には時間と共に人間の想いや記憶も刻んでいくことがあるからだと思います。発電室にはあなたのお父さんと幸之進さんだけではなく、発電室に携わってきたすべての人々想いが込められているんです。それを茉希さんは失いたくはないと考えているのではないですか?」

「それは過去の人々に想いを馳せるということですか?」

「極めて単純に考えればそうでしょうね」

「それで人間は前に進めるのでしょうか?」

 飴村は沈黙する。

「常に人類は努力研鑽し、成長していくことが重要だと思うのです。もちろん社会もそれに漏れません。ならば、過去の事を振り返っている暇などないのではないですか?」

「前進すること、成長することは大事なことだと思いますが…過去の事実を踏まえた上で前に進めることもあると思います。反省から学ぶということだってあるでしょう」

 アリアはゆっくりとした動作で椅子から立ち上がる。

「それは情報だけで十分でしょう?すでに過去を集約してまとめられていたりするのではないですか?私は象徴として目に見える形で残しておくことは、前進するための足枷になることはないのか、と思っているのです」

「少し、乱暴な考えではないですかね?」

「そうでしょうか?」

「東屋を立てる場所を変えるという案はダメなのでしょうか?あの場所に拘っているのですか?現実問題として他に立てる場所がないということですか?」

 そんなことではないだろうと思っていたが、聞いていなかったことを思い出して問いかけてみた。

「そんな現実的な問題ではありません。私の目的は発電室を処分することです」

 アリアの主張は明確になった。

「お母さん、私はどうしても壊したくないの」

 黙っていた茉希がアリアに歩み寄る。

「まだ、あの人に拘っているの?」

「違う。お母さんの言うような、破壊と創造だけで人間は進んできたわけじゃない」

 アリアは首を傾ける。

「飴村さんは…どう考えていますか?」

「さっき言った通りです」

「あなたは何を捨てられていないのですか?」

 アリアは射るように目を向けていて、視線を外さないが、飴村の意識は腰にあった。

「お母さん、何を…」

「あなたは知っているはずよ?」

 娘を無視した母親は一歩踏み出す。

「俺は…何も知らない」

「あなたも同じ」

「違う。同じじゃない」

「同じよ?」

 飴村の目前にアリアの顔がある。顎の下を手で持たれており、視線を外せない。それまで下を向いていたのだと、その時に気が付いた。

 細長い目の中に、引き込まれそうな黒目が覗いている。

 黒目はゆらゆらと動く。

「違う。そうじゃない」

 アリアは何も言わない。

 ゆらゆら。

「お母さん、やめて」

 茉希の声が耳に、まだ、届く。

 勢いよく、扉が開く。

「奥様!」

 目の焦点が、部屋全体に戻ってくる。反射的に扉の方を見る。

 そこには諸角が立っていた。

「奥様、根来川様が…」

 その先は言わなくても誰もが分かっていた。分かってしまうということが、この状況に慣れてしまっている自分を再認識させる。

「わかりました」

 突き放すように飴村から離れると、諸角の方に向かう。

「二人はここにいてください」

「私たちも行く」

 茉希は声を上げる。

「まだ二人の疑いが晴れたわけではありません。ここにいてください。諸角、施錠をお願い」

 諸角が頭を下げる横を通りぬけて廊下に出る。

 諸角は無言で扉を閉じると、外でチェーンを巻き付ける音が聞こえた。

「根来川さんも…でも、それなら私たちは関係ない」

「アリアさんも言っていただろう?根来川さんは、どういう状況かわからないけれど、俺たちが関係ないことは明らかだ。でも、他の殺人に関してはまだ容疑が晴れていないっていうことなんだろう」

 それすらも決めつけでしかない。

 根来川がもし殺害されていたのならば、飴村の注意喚起は全く聞き入れられなかったということである。つまり、それぞれが個人で過ごしていたということである。

 茉希と飴村、二人を軟禁したから、もう大丈夫だと考えていたため、死体がもう一人増えてしまったことになる。

 飴村は扉に向かい、ドアノブを回してみる。もともとの鍵は内側についているから、ドアノブは回った。廊下側に押すと、三センチほどの隙間が開いてそこで扉は開かなくなった。

 そこから見える廊下に人影は見えない。根来川の部屋は一階の南東側の廊下、邸宅に入ってすぐ右手の廊下に並んだ部屋の一室である。今、飴村がいる部屋の反対側の廊下に根来川の部屋があるということだ。

 耳を澄ますと数人の声と走っているような音が聞こえた。住人が根来川の部屋に集まっているのだろう。

 力強く扉を開けようと何度か試みて諦めた。扉を閉めて、部屋の中央まで歩く。扉を背に立って考える。茉希はソファに座り、カーペットを見つめていた。

 まずはここから出ないことにはどうしようもない。部屋の入り口はチェーンのかかった扉だけである。

 中からチェーンを切るにも、そんな道具は無い。テストハンマで扉を壊そうかとも考えたが、小ぶりなテストハンマではどれほど時間がかかるかわからないし、そもそも物を壊すために作られてはいない。

「どうやって逃げますか」

 背後から急に声がしたので驚いて振り返る。茉希も気が付かなかったようで、声を上げて驚いていた。

 そこには、塗師が立っていた。

 右手にはチェーンが握られている。そして扉は閉ざされたままである。

 塗師も茉希も状況を理解するのに時間がかかった。

「何してんの?」

 茉希の口から出たのはそれだけだった。そのセリフで飴村の頭は回り始める。

「ここに軟禁する案を出した張本人が何の用事です?」

「決定し、実行したのはここの住人の皆さんです」

 塗師は笑顔で答える。今更、この笑顔が怖いと思った。

「助けに来てくれたの?」

 茉希は塗師に歩み寄る。

「違います」

 塗師の答えはそんな茉希の希望に添えないものだった。

「違うの…?」

「塗師さん、ちょっと教えてくれ。外はどうなってるんだ?」

 遮る様に塗師に質問する。

「根来川さんが殺されました」

「それは確かなのか?」

「間違いないと思います。両手が切断されていましたから」

 一人で両手を切断は出来ない。そして小峰と同じ状況で死んでいたということである。

「小峰さんと同じね」

「でも、小峰さんとは真逆のような状態で見つかっています」

 飴村と茉希は黙って塗師の顔を見ていた。先を促しているのである。

「燃やされているんです」

 五秒ほど沈黙の時間が流れた。先に口を開いたのは飴村である。

「根来川さんが?」

「そうです」

「状況が…」

「遺体を発見したのは片桐さん。朝まで囲碁の相手をしてもらおうと部屋に行ったそうです。そうしたら、扉の隙間から煙が漏れているのに気が付きました。急いで部屋を開けると扉正面の机に突っ伏すように根来川さんが座っていて、その上半身、正確に言えば肩までが炎上していたということでした。私も見ましたが、机の上だけが燃えていたようなイメージです」

 あ、今は鎮火しています、と塗師は付け加えた。

「飛び火してないの?他から出火とか」

 茉希は家の被害の方を気にしていた。

「ええ。発見が早かったので、燃えたのは根来川さんが座っていた机と、接していた壁くらいでした」

 走り回っていたような音は全員で他からの出火を確認していた音だったのだろう。そうなると、塗師がここに来たのも出火の確認という理由だと推測する。

「それ見れるかな…」

「直接は辞めておいた方が良いでしょうね。面倒臭いことになると思います」

 それは飴村も同感だった。

「写真はあるから見ますか?」

 塗師は作務衣の懐から見覚えのあるデジタルカメラを取り出す。石田が所有していたものだった。

「あ、持っていたんだ。タイミング良いな」

「撮影係を任されたので持っていました」

 現場の写真を押さえておく、ということは守られていたようである。

 飴村は塗師からデジカメを受け取ると、再生モードに切り替えて画像を確認する。

 映し出された画像には塗師の言う通りの状況が映し出されていた。燃えたのは机の周りということだったが、飴村の想像よりも広範囲だった。

 一枚目は部屋の入り口から室内を撮影した光景である。正面に机があり、壁に向かって根来川が突っ伏すように両手を机に乗せて座っている。壁は塗師の言う通り黒く焦げており、焦げ跡が天井近くまで上がっている。机周りには他に家具などが無かったためか、延焼を免れたということだろう。

 二枚目がもっと机に近づいて撮影されたものだった。黒こげになった根来川の姿は長倉の時と比べれば精神的な圧迫感が強い。

 これも塗師の言う通り両手の先が無くなっている。そして、上半身を中心に燃えていることも塗師の報告通りだった。

「もちろん、切断された手は見つかっていません」

 塗師は飴村が聞こうとしていたことを予測しているかのようだった。

 デジカメを操作して机の上を拡大する。天板のすべての面が黒く焦げているのがわかる。

「全体的に燃えているわけじゃないんだな」

 根来川の顔を見ないように良く観察すると、天板の表面は隅々まで焦げているが、机の脚や床に近い引き出しなどは元の色が残っているようだった。

「なぜかは知りませんけど、そうですね。本当に見つけるのが早かったんでしょうね」

 再び画像に視線を落とす。茉希は近くに寄ってこなかった。流石に焼死体が映っている画像をじっくりと見ることなど普通したくはない。

 机の上には、電気スタンドらしきもの、書籍らしきものが左手側に置かれている。右手には丸い円筒形の物体に棒状のものが刺さっている。元はペンスタンド、あるいはそれに準じたものであることが予測できる。その隣には恐らくティーカップのようなものがある。机の上はもれなく真っ黒く焦げていた。

 さらに画像を確認してみるが、画角を変えて撮影されている画像ばかりだった。

 無言で塗師にデジカメを返却する。

「それで、何かわかりました?」

 無邪気に尋ねる塗師を一瞥する。

「逆に、今、どう思っている?」

「というと?」

 塗師の黒目がコロコロと転がる様に動く。

「俺らがここに軟禁されているのは、あんたのせいだろう?」

 表情が少し暗くなる。

「確かに計算が狂いました。私の提案は、あなた方を隔離した方が良いと思っての事でした」

「なんで隔離されなきゃいけないの?」

 茉希の言葉に苛立ちが込められていた。

「あなた方が狙われると思ったからです」

 沈黙。口を開いたのは飴村だった。

「ということは犯人が別だと思っているんだな」

「はい」

「なぜさっきその事を言わなかったんだ?」

 一人でも反対意見があればこうなっていなかったはずである。

「あの場では板尾さんの独壇場でした。話の行き先はあなた二人が犯人であるという流れになってしまっていました。反論しようにも別の犯人がわかりませんし、見当もつかなかったから、ただ二人を庇っただけ、ということになります」

 それでも言う意味ありましたか、と塗師は話をまとめた。

 飴村はそれ以上責めなかった。時間がもったいなかった。

「それで、どう逃げたら良い?」

「知りません」

「は?あんた便利屋だろ?何か手を用意してくれてるんじゃないのか?」

「そういった依頼はされていませんね」

「さっき言ったでしょ。この人は私たちを助けに来たんじゃないの」

 茉希が呆れた顔で言う。確かにそう言っていたことを思い出す。

「勝手に逃げるしかないってことか…」

「じゃあ、私は戻りますね。このチェーンはここに置いておきます」

 塗師は扉の脇に放る様にチェーンを投げ捨てる。身を翻して扉を開ける。まだ僅かに邸宅の中が騒がしい。

 塗師は頭だけ廊下に出すと、左右に首を振る。

「ああ、誰もいませんね。良かった。一人でここに来ているときっと怒られてしまいますからね。チェーンをかけ忘れるような気がしますが、私は忘れ物をしないですから、きっと気のせいでしょう。ではお気をつけて」

 最後に振り向くと塗師は廊下に出て行った。

 二人は顔を見合わせるとすぐに扉から飛び出した。

 廊下の左右を見渡すが、塗師の姿はなかった。

「早すぎない?」

「何が?」

 飴村はどう逃げるかを考えていた。

 このまま、ここにいてはどうなるかわからない。警察が来るまでに飴村が殺害したように証拠を揃えられてしまっては手も足もでない。

 そんなことをする人たちではないと思うが、率先しているのが板尾だから万が一と言うこともある。

 ゆっくりと廊下を進み、大階段が見える所まで来る。廊下の入り口、角を曲がれば大階段の広間と玄関がある。顔だけ覗いてみると、根来川の部屋のある廊下から石田と東野が歩いて来るところだった。

「じゃあ、あんたは西側を見てきてくれ」

「わかりました」

 石田と東野が階段を上って行く。二階の確認に行くようだった。

「言い忘れました」

 後方からの声で飴村と茉希は身体を硬直させる。ゆっくり振り返ると塗師が立っていた。

「おい、驚かすなよ」

 小声で注意すると、はあ、とだけ塗師は返した。

「何?」

 茉希が急かすように言う。

「飴村さん、えっと…一時間後くらいに鉄門の方に行った方が良いと思います」

「は?なんで?」

「では伝えましたので。改めて、お気をつけて」

 塗師はそういうと二人の間をすり抜けて広間へと歩み出る。そのまま根来川の部屋の方に向かった。

 塗師が言っている意味は分からないが、どちらにしても逃げる方が先決である。

 耳を澄ませて気配を読む。

 音と気配が正面玄関から遠ざかったように思えた瞬間を見計らい、茉希に合図を送る。

 身体を低くして大階段の下に移動する。

 すぐに階段の裏から身を出して確認する。靴さえあれば工房側のドアから外に出られたが、工房から帰ってきて玄関に靴を戻してしまっていた。だから出るならば正面玄関しかない。

 まだ、先程と同じ状態であると確認して今度は一気に正面玄関まで歩を進める。

 その途中に左手に見える廊下、根来川の部屋がある廊下である。

 そちらに目を向ける。部屋の前に塗師と片桐、そしてアリアの姿が確認できた。

 飴村が顔を正面に戻そうとした瞬間、視界の端でアリアと目が合った。

「待ちなさい!」

 アリアの叫ぶような声が聞こえる。

 すでに茉希は玄関の扉を開けていた。飴村は靴に滑り込ませるように足を入れると、転がる様に外に出る。

 立ち上がると、自分がどちらを向いているのかわからなくなる。その場で見渡すと、茉希がこちらを振り返りながら走っているのを確認する。

 すぐに走って追いつく。茉希が行こうとしているのは発電室の方角である。

 後ろから声が聞こえるが、無視して走る。すでに照明の消えた庭園は邸宅に近いほど明るいが、すぐに暗くなる。

 二人が林道に入る頃には照明が再び灯された。飴村は走りながら振り返ると、片桐や諸角の姿が庭園に確認できた。

 こちらにはまだ捜索の手が伸びていない。

 もし飴村だけだったら、間違いなく真直ぐ歩くことはできないだろう。

 先頭を行くのが茉希だったからこうして歩くことができる。

 斜面の折り返しを過ぎたのが飴村にも分かった。もうすぐ発電室である。

 暗闇にうっすらと建物の影が見えてきた。

「早く」

 再び転がる様に発電室に飛び込んだ。その後ろで扉を閉める音が室内に響いた。

 茉希が扉を閉めたのだ。

「いつまで隠れられるかな」

「さあな。でも見つかったら終わりだろうな」

 立ち上がり周囲を見渡す。五メートルほど先にブルーシートが見えた。

 ここで長倉が死んでいたことを思い出す。

「あと数時間は遺体と一緒か…」

「そう言う言い方は…どうかな」

 茉希は照明を付けようと手を伸ばした。

「あ、待った」

 飴村は制止する。

「ここで照明が点いたらわかるだろう。しばらくは暗闇で我慢だ」

「それは嫌」

 茉希はスマートフォンを取り出してライトを点けると足元を照らした。照らした足元を確認するように歩いて、隅にあるキャビネットに近づく。

 中から懐中電灯を取り出して点灯すると、スマートフォンの代わりに下向きに光を当てて戻ってきた。

「これくらいは良いでしょう?」

「物音がしたら消すぞ」

 そう言いながら自分もスマートフォンを取り出してライトを点ける。

「これからどうするの?」

 茉希の言葉を無視するようにブルーシートへと向かう。

 飴村は勢いよくブルーシートを外した。

「ちょっと、何してんの?」

 その言葉も無視する。切断された長倉の遺体が、スマートフォンのライトに照らされて目の前に横たわっている。

「懐中電灯、俺にも貸してくれ」

「さっき使うなって言ってなかった?」

「物音がしたら消すって言ったんだ」

 茉希から懐中電灯を受け取ると、再び遺体に当てる。

 茉希は離れたところから、飴村を見ていた。

 作業着の上着から軍手を取り出して手に嵌める。長倉の遺体の脇にしゃがみこむと、胴体部分をゆっくりと持ち上げる。血液はすでに固まっていた。

 胴体を中心に星型に配置されていた頭と両手足である。これまで胴体にも針金のようなもので貫かれていると思っていたが、今胴体を持ちあげてみて発見したことがあった。

 胴体には針金が貫かれておらず、ただ置かれていただけだったのである。そして飴村が良く観察した結果、針金ではなく、どちらかと言えば鋼線に近いものだった。直径が四ミリほどのものである。

 胴体以外の五つの身体のパーツが鋼線で繋がれていたのである。そして、両手足の鋼線は一度パーツを貫くように通されていた。つまり、両手は掌から、両脚は膝裏辺りから光線が飛び出ていたのである。頭部だけが首の切断面に光線が呑み込まれているだけで、観察している範囲では光線が外に飛び出てはいない。何より、それらの人体パーツは長い一本の鋼線で結ばれていた。

 横目で茉希を見る。スマートフォンのライトで照らされた顔は嫌悪感のある表情だった。真剣に切断された遺体を観察している人間を見る顔である。

 その感情は飴村にも理解できた。

「戻るか?」

「今更戻れないでしょ?」

 立ち上がると、ブルーシートをかけ直す。茉希の横を抜けて発電室の入り口に立ち、扉に耳を当てる。外から音はしていない。

 なあ、と飴村は呼びかける。

「あんたは誰がやったと思う?」

「殺人のこと?」

 茉希を見ずに頷く。

「さあ、誰かしらね。でも…誰でもできたかもしれない」

 茉希の方を見ると少し俯いていた。

「居候しているみんなが普段どこで何をしているかなんて気にしてないから。家の中ですれ違うことはあるけれど、食事の時くらいしか全員が集まることはないし」

「君にとってあの住人たちはなんなんだ?」

「…一緒に住んでいる人…たち」

「母親も?」

「お母さんが一番何考えているかわからない。さっき部屋であなたと沢山喋っていたけれど、そんなこと考えているなんて思わなかった」

 二人はこの発電室に関して議論をしたと言っていた覚えがあったが、親子として話をしたのだろうか。

 血を分けた親子ですらこうしてすれ違うこともある。ならば、他人と分かり合える、という主張がまるで絵空事のように飴村には思えた。

「私も…あの人みたいになるのかな…」

 心細い声で茉希は呟いた。

「もしそれが嫌だって思ったんなら、もっとちゃんと母親の方も見ろ。あんたは父親の事しか見ていなかったんじゃないのか?二人から受け継いだ命だろ。もし親の様になりたくないっていうのならば、もっとしっかりと向き合え。それでその先に引き継いでいくんだよ」

 茉希の顔を見た。はずだったが、違う風景が飴村の頭には広がっていた。

「ありがとう…」

 茉希が言ったお礼も飴村の耳には届いていなかった。

 どれくらいの時間が経過したのか、飴村には間隔が無かった。

 気が付けば、茉希が至近距離で飴村を呼びかけていた。

 一歩踏み出せば、唇が重なってしまう距離である。

「ちょっと。ねえ。飴村さん?」

 身体まで揺すられていた。その加速度すら感じていなかったのである。

 恐らく息を吸うことも忘れていただろう。身体の機能が戻ってくる。ゆっくりと深呼吸をすると喉の奥が灼ける様に痛む。

「ああ」

 それだけ言うと、ゆっくりと立ち上がる。懐中電灯を持たずに立ち上がっていたことに気が付いて再びしゃがんで拾いあげる。

「何?どうしたっていうの、急に。やめてよね。あなたがおかしくなったら私だけで逃げるからね」

「そうだな。悪い。少し考え事していた」

「考え事する時に息が止まるの?」

「止まらないか?」

 呆れたような顔をして茉希は飴村から離れた。

 飴村は発電室の中、周囲の壁に沿って歩き始めた。壁にある設備や電源盤、棚などを入念に調べ、また元の場所に戻ってくる。

 その間茉希は、置いてあったパイプ椅子に腰かけて黙ってその様子を見ていた。

「何しているの?」

 丁度一周して元の場所に戻ってきたところで茉希が尋ねる。回っている途中に聞いても答えてはくれないだろうという考えだったのだろう。

「ちょっとね」

 大きく溜息を吐く茉希を無視するように入り口に向かい、耳を当てる。

「聞きたいことがあるんだ。もしかしたらすでに聞いていたかもしれないけれど…」

「何?」

「諸角さんっていつからこの家で働いている?」

「えっと確か…ここに来る前まで技術系の仕事をしていて…それを病気で辞めてからお父さんに誘われてウチに来たって言っていたかな。確か、私が生まれてすぐの時だから二十五年…六年くらいになるかも」

 ありがとう、と言って飴村は窓際に向かう。身を低くしてから慎重に窓から顔を出す。視線だけ動かして外を確認した。

「鉄門に行かなきゃならないんだ」

「この状況分かっている?」

 そんなことは十分わかっていたが、塗師の言うことを聞いておいた方が良いと感じていた。

「分かっているよ」

 振り向いて茉希を見据える。

「今度は何?」

「お願いがある」

 ゆっくりと茉希に近づく。その歩みはしっかりとしていた。

「君から警察に話をしてほしい」

 茉希は何を言っているかわからない、という顔をしていた。

「俺がこれから、ここで何が起こっていたかを説明するから、それを警察の前で代わりに説明するんだ」

「ちょっと…何を言っているかわからないんだけど…」

「君が終わらせるんだ。この下らないことを。君しかできない」

 茉希が落ち着いた様子を見せたので、飴村はゆっくりと説明を始めた。




 慎重に扉を開ける。発電室に来た時よりも闇が薄まっていた。それでも、帰り道は懐中電灯を手放せないだろう。

 さらに扉を開けて上半身を表に出した。左右を見て入念に確認してからゆっくりと外に出た。

 その後ろから茉希も出てくる。

「じゃあ、後は頼むぞ」

 振り返ってそう言うと、邸宅へと向かう。

 冷たい空気が流れるが、湿度は高い。とても湿っている。

 咳を二つした。喉が渇き切っている。痛みもあった。いつから水分を摂っていないのだろうと思い出す。

 ずっと立て続けに事件が起こり、最後には軟禁させるまでに至った。人生で最悪な一日であることは間違いない。

「本当に最悪だよ」

「何?」

 呟いたつもりだったが茉希には届いていたようだった。

「え?あーいや、なんでもない」

 発電室のある高台から下り坂に入る。一旦立ち止まって周囲を確認する。邸宅も庭園も照明は灯っているが、人の気配はない。発電室への道にも人はいないように見えた。

「よし、行くぞ」

 ゆっくりと坂を下りる。途中で折り返してさらに下る。しばらく林道を進むと邸宅を囲む塀の端が見える。ふと、左手を見る。山の斜面の一角、蜜に生えている木々の一角だけ開けていた。斜面にはまだ光が照らされておらず、木々の間から町の方向を見ているはずだが、全く見えない。

 視線を戻して先を進むと、左手に堀が並び始める。林道の入り口まで来ると、正面に邸宅の西側の壁が見える。そこの窓から見ればすぐに飴村たちがいることが分かってしまうが、今は仕方がない。

 右手にある工房から光が漏れていた。僅かに人影も見える。誰かが自分たちを探しているかもしれない。すぐにこの場を動かなければと考える。

 邸宅を挟んで左手の庭園、人影はない。

 振り向いて茉希を確認すると、黙って頷いた。

 極力身を低くして走り出す。

 庭園を斜めに突っ切る様に走る。道ではないところも、今は関係なく突き進む。今の飴村には植物を愛おしむ気持ちは無かった。

 庭園の中央に伸びる歩道まであと少しの所で、後方から叫び声が上がる。

「おい、いたぞ」

 声の調子から、恐らく片桐である。

 庭園の手入れに出てきたのかもしれない。

 二人は歩道に飛び出す。舗装されている土の地面より走りやすく速度が上がる。

「待て」

 後方からの声が複数になる。二人は噴水の横を通り抜ける。正門まであと少しである。

 初めて飴村は振り返る。

 追跡者は片桐、東野、鰻そして板尾と石田である。邸宅の玄関から諸角と塗師が出てきたところだった。

 息が切れ始めた頃に鉄門が目前に見えた。走っているのに、歩いているときより長く感じた。

 しかし、あと一歩のところで茉希が躓いて勢いよく転んだ。そのまま地面に身体を打ち、回転して止まる。それほど、速く走っていたことにある。

 すぐに身を翻して茉希の元に向かった。

 三人が走ってくる。自分よりも年齢は上だが、三人とも走るのが早い。すでに噴水を回っている。

「大丈夫か?立てる?」

 頬を擦り剥いているのか、赤く血が滲んでおり、目には涙が浮かんでいるが、茉希は力強く頷いた。

 足を引き摺る様にしている茉希のため、手を飴村の肩に回して鉄門まで移動する。

 額には汗が滲んで、すでに冷えている。茉希と身体を密着しているのに、冷たさしか感じない。

 鉄門の脇に二人して倒れるように到着すると、堀を背にして茉希を座らせる。

 塗師がここに連れてきて何をさせようとしているのか、あるいは何をしようとしているのか、見当がつかない、

 飴村は鉄門に手を掛けるが、施錠されている。閂式の鍵には南京錠が掛けられて動かないようにされていた。

「あいつ…なんだよ」

「おい、お前、そこにいろよ」

「逃げられ…ませんよ」

 片桐と息を切らせた板尾の叫ぶ声が聞こえてきた。今の飴村には、その言葉の意味以上に嫌悪感が沸き上がっていた。

 飴村は茉希の元に向かい、その横に仁王立ちする。それしか今の飴村にはできなかった。腰に手を当てる。

 ひんやりとしたテストハンマのヘッドに触れる。最悪の場合、使わなければならないだろうか。遠心力で振り回せが少しはダメージを与えられるかもしれない。しかし、唯一と言っても良い商売道具である。ハンマ自体も損傷するだろう。

 覚悟を決めてヘッドを握りしめる。

 意識を集中し始めた飴村の耳に、エンジン音が飛び込んでくる。

 近い。いや、近づいてくる。

 それは聞き覚えのある、重厚で乾いた音だった。

 飴村は笑った。

 目前の板尾と片桐が不審な顔をする。

 同時に、大きな金属音がして鉄門が吹き飛ぶように開いた。

 そして。

 飴村の頭の高さから、大きな鈍色の塊が飛び出してきた。

 それは粉塵を巻き上げながら庭園内に着地する。

 僅かに排気ガスの臭いがする。

 飛び出してきたのは黒いバイクで、それも、飴村のバイクだった。

 バイクに跨るのは、まるで修道女のような格好の人物、ハーフのヘルメットにゴーグルを掛けている。

 自分に信仰心があれば、神に祈っていたことは間違いないだろう。

 着地と同時に、前輪にブレーキをかけてロックし、後輪を回転させて、車体を滑らせるように大きく円を描いた。

 巻きあがる土煙に片桐たちの足が止まる。

 運転手と視線が合う。

 運転手はハンドルから両手を離した。右手をゆっくりと顔に持ってきてゴーグルを外す。

「所長、始業時間に遅れますよ」

 その顔に、飴村は口元が緩む。

「今日は午後出勤だよ」

 恐らく情けない顔をしていたのだろうが、関係ない。

 上月は静かに微笑むと。バイク後部に取り付けられていたヘルメットを飴村に投げた。

「帰りましょう」

 上月の向こうに見える追跡者たちは何が起こっているのか理解していないような顔をしていた。立ち止まったまま動かず、先に到着していた鰻と片桐は呆気にとられた顔をしている。その後ろから東野、板尾、石田が追いつき、塗師が最後だった。

 塗師が着くと同時に飴村はバイクの後部に跨っていた。同時に上月はアクセルを回して壊れた鉄門から外に飛び出た。

「下で警察に連絡してきます!」

 走り去る後方で、まだ呆気に取られている片桐たちに飴村は叫んだ。

 塗師が言っていたことはこのことだろうかと考える。なぜ、上月が来ることを知っていたのか、そもそも上月はなぜここに来ることができたのか。

 飴村はバイクの後部で上月の腰に手を回していた。普段から体の線が分かり辛い服を着ているため、思ったよりも腰が細く、少し戸惑っていた。

 そして、事務所には自転車で通勤していた上月がまさかバイクの運転ができたことも驚いていた。人は見かけによらない。

「バイク、運転できたんだな」

 飴村が後ろに乗っているからか、カーブを安全運転で曲がる。綺麗なコーナリングだと感心した。

「はい。乗ったのは今日が初めてです」

 意外な答えが返ってきた。バイクのペーパードライバは、飴村の周辺では聞いたことが無い。

「それは…無茶したな」

 上月は何も言わなかった。コーナで速度を落とし、直線では再び加速するという繰り返し。それを何度か繰り返すと飴村の目に曽田家への目印となる待合所が見えてきた。

「上月、悪い、少しだけ停めてくれ」

 上月は広い道に出る前に路肩でバイクを停車させる。ちゃんとエンジンを切るところが律儀である。飴村はバイクを降りると、ポケットに手を入れてスマートフォンを取り出す。警察へと連絡を入れるためである。

 上月から距離を取ろうと、待合室へと歩き始める。スマートフォンからは呼び出し音がし始めた。

 待合室への道は草が生い茂っており。足元が確認しづらく、歩くのも困難だった。

 繋がった相手のオペレータから名前を聞かれたので、少し考えて諸角の名前を出した。予定では諸角が連絡を入れる予定だったのだから、問題はあるが構わないだろうと考えた。

 待合室の扉を開けて中に入ろうとするが扉に鍵がかかっていた。視線を左手に移すと、山の木々間から発電室の屋根が見えた。待合室の先に川が流れているのだろう。

 電話を終えると上月の元へと戻った。

「随分、茂みに入って電話するんですね。エロ本でも一緒に捨ててきました?」

「八十年代生まれの思春期男子学生の生態を何故知っているんだ?」

「八十年代に限定する必要ありますか?」

 くだらない口論は終わりにしようと、感謝の言葉を告げる。

「ありがとう。ちょっと…ではないけれどデカい問題が起きてさ。警察に電話したのは…」

「殺人ですよね。戻りますか?警察来るんでしょう?」

「え?知っているの?」

 上月は正面を向いたまま頷く。後ろを振り返ることが面倒なのだろう。不誠実な対応だが、飴村にとってはいつもの上月である。一日会っていないだけだが、心の底から按針していた。

「はい」

「そう言えば、なんでここに来れたんだ?」

「電話がありました。所長が危ないから迎えに来てくれって」

 それはあり得ない話だった。飴村の状況を把握してそれを伝えられるのは曽田家にいた人間しかできない。しかし、携帯電話も通じない、固定電話も使用不可能な状況で、どうして連絡ができるはずはない。

「場所は…ここは知っていたのか?」

「事務所で地図、私と見たの、覚えてないんですか?若年性とかですか?」

 確かに、茉希からの依頼について上月と話をしていたのを思い出した。その時、インターネットで衛星画像を上月が調べて、一緒に見た覚えがある。

「そんな言い方するなよ。覚えているよ。忘れていただけ」

「でもちょっと道に迷いました。電話の人から携帯が使えないって言われていたので覚えてきました」

「電話の相手は誰だった?」

 気になっていたことだった。

「名乗らなかったんですよね。普通はすぐ切っちゃうんですけど…」

 上月はエンジンを回し始める。

「昨日、帰ってこなかったから…。まあ、携帯も繋がらなかったし」

 上月は前を向いたままだったが、どういう顔をしているか飴村には理解できた。心臓が緩まるように感じた。

「申し訳ない。運転代わるよ」

 下りようとする飴村を上月は制した。

「大丈夫ですよ。身体しんどいでしょう?」

 飴村は黙って頷く。

「どうするんですか?電話してくるって言ったままでしょう?」

 曽田家に戻るのかどうか、と上月は聞いているのだ。飴村は答えられずにいた。エンジンを回し始めたから、上月の腰に手を回しているが、

 その手に力が入っていた。

 上月はそれから何かを察するように頷くと、首をほんの僅か、飴村の方に動かす。

「じゃあ、私の家に行きましょう」

 そう告げると、クラッチを入れてアクセルを回した。

 その時に上月がどのような顔をしているのか、飴村には想像できなかった。サイドミラーを覗けばそれを確認できるが、それをしなかった。そんなことはしたくなかったし、そこに映し出される顔を、きっと、直視することはできないだろうと思った。

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