第3話 九十五点…なぜ五点が取れなかった?褒めるのはそれからだ

 曽田家邸宅、一階、玄関を入ってすぐ左手の部屋、いわゆるダイニングである。

 映画や漫画などで目にするような豪華絢爛な装飾やテーブル、椅子などは皆無である。

 それでもテーブルはほどほどに長く、良い材質の木で作られている。

 そのテーブルの周りを諸角がお茶を注いで回っている。

 テーブルの上座には、曽田アリアが鎮座している。

 目を閉じ、両手をテーブルの上で組むようにしている。

 この状態で十分経過したところである。

 今この場には、一名を覗き、邸宅にいるすべての人間が揃っている。飴村、K建設、居候、便利屋そして曽田家。



 発電所で発見された長倉の凄惨な遺体。

 石田が邸宅への連絡をお願いすると、茉希は諸角を連れて戻ってきた。

 諸角だけ発電所内に入ってきて状況を確認した。青ざめている諸角に対して、飴村は一度邸宅へと戻り、アリアに伝えることをお願いした。

「石田さん、デジカメ持ってましたよね?」

「え?あ、ああ」

 石田からデジカメを借りた飴村は遺体の写真を撮った。場所をいくつか移動して撮影する。刑事ドラマなどでよく見る光景を、まさか自分がすることになるとは思わなかった。

「け…警察へ」

 発電所の外でスマートフォンを取り出した石田に対して、茉希は携帯電話が繋がらないことを説明する。

「家の中に電話がありますから」

 四人は邸宅へと戻ることになった。

 邸宅へと戻った四人を諸角が迎えた。アリアに伝えたところ、全員をダイニングに集めるよう言われたとのことだった。

「最初に警察では?」

「いえ、まずはダイニングへ」

 焦った様子で詰め寄る石田に落ち着いた表情の諸角は片手でダイニングを示す。

 そうしてダイニングに入った四人は、すでに上座に着席していたアリアにことの顛末を説明した。

 説明は飴村と板尾が交代で説明した。長倉の事に関して飴村は知らないのでその点に関しては板尾が担当した。

 その途中、居候たちがぞろぞろとダイニングに入室してきた。

 最後に塗師が入室してきて、邸宅にいるほぼ全員が揃ったことになる。唯一、まだ外に仕事に出ている鰻和哉はここにいない。

 そして全員が揃ってから簡単に茉希が説明する。飴村と板尾の説明の際は遺体の状況に関して正確な描写はしなかった。刺激が強いと考えたためである。それを茉希は汲み取って、やはり正確な描写はしていなかった。



 それから十分、アリアは黙ったままである。他に誰も喋る人間もいなかった。

「あの…アリアさん、早く警察に連絡を…来てもらいましょう」

 石田が焦った様子でアリアに言う。

 アリアはまだ目を閉じている。

「しかし…人殺しかい?ほんと?」

 片桐が椅子に仰け反りながら言った。

「それは…間違いないと思います」

 茉希が受け答える。

「ギリさん、どういう意味?」

 片桐の隣に座っている東野信也が言う。東野は電気工で、片桐とも年齢が近いのか気軽に話しかけているように飴村には見えた。それでも見た目は若く見える。頭髪は白髪が混じって入るものの、まだ黒髪の割合が多く、また量も豊かで真ん中で分けられている。芥子色のセータにスラックスを着ている。片桐と違う点は体格である。片桐が小柄で痩身なのに対して、東野は年相応に緩んだ体型をしていた。

「ああ?いや、自殺っていうこともあるだろう?」

 茉希の説明ではただ死んでいたというだけだったためか、それだけでは自殺という可能性が出てくるのは当然である。

 あの状況を見ていない人間と見ている人間では可能性の範囲が異なる。

「それはあり得ないと思います」

 片桐の言葉にすぐに返答した。

「なんでだ?」

「その…」

 何故か板尾の顔を見る。板尾は姿勢正しく座っており、飴村の視線に黙って頷いた。

「死んだ長倉さんの遺体はバラバラになっていたんです」

 ダイニングの空気が張り詰めたのが分かった。口が渇いているのが分かったが、目の前の紅茶を飲む期にはならなかった。

「どうバラバラに?」

 小峰が表情を変えずに言った。ショートカットでまだ幼さも覗いている。見た目は二十台前半にだろうか。

「あんまり聞きたくないなぁ」

 根来川がヘラヘラと笑いながら言った。全員の顔を見渡すようにしていたことから、本心ではなく、場を少しでも和まそうと考えての事だと推測できた。

「首、肩、あと…足の付け根、腿くらいですかね。そこからバッサリと切られていました」

 板尾が背筋を伸ばしたまま、首を手で横に切るジェスチャをする。

「血だらけだな」

 片桐はカップを持ち上げて一口お茶を飲む。

「さっきの説明では刺激が強いと思い、伏せていました。この事実からも長倉さんは殺害されたと見て良いと思います」

「できれば次からは隠さずにちゃんと話してちょうだい」

 アリアが気怠そうに言った。

「それで、なんでこうして集まっているんだ?まず、警察じゃないのか?」

 東野が声を荒げる。

 アリアも隅に立っている諸角も誰も動かない。

「奥様、連絡するべきです」

 板尾も進言する。

「諸角」

 アリアは諸角の方向に視線だけ向ける。アリアから信号が発進されたかのように、諸角は歩いてダイニングを出て行く。

 一分ほどしてから、諸角が小走りで戻ってきた。

 アリアの耳元まで行くと何か小声で伝える。アリアは僅かに目を動かした。

「電話線が切られています」

 場が殺気だった。

「おい、諸角、本当か?」

 片桐が眉間に皺を寄せる。

 東野と根来川が立ち上がりダイニングを出て行く。電話機を確かめに行くようだった。

「連絡手段も絶った、と」

 板尾は落ち着いた様子で呟いた。

「駄目だ、完全に切られている」

 戻ってきた東野がうんざりとした様子で言った。

「根元からいかれてますね」

 遅れて入ってきた根来川も言う。

「おい、東野、お前の分野じゃないのか?直せねぇのかよ」

「道具持ってないからなぁ」

 東野は困った表情である。

「なんで持ってねぇんだよ。仕事道具だろう?」

「個人じゃないからな。会社の備品だ。道具は会社にある」

「なら、携帯で」

 石田はスマートフォンを取り出そうとするが、動きを止める。

 誰も石田を見てはいないが、それが意味を持たない行動であることは明確だった。

「圏外…」

「東野さん、道具があれば修理できそうですか?」

「完全に修理できるかは分からない。やってみないとな」

「使えるものがあるかはわかりませんが、車に少し積んであります。取ってきますよ」

 飴村は立ち上がる。

「そうだよ。車があるじゃないか」

 石田が声を上げる。

「それで麓まで警察を呼びに行けば良い」

「車を持っている方は?」

 自分も手を挙げながら飴村は周囲を見渡す。諸角と東野、そして石田が手を挙げる。

「あとは今仕事に行っている鰻だな」

 片桐は腕を組んで言った。

「バイクだけど」

 小峰も手を挙げた。

 それぞれ自分の車両を確認することになった。車両の持ち主以外はダイニングで待機することになった。

 飴村らは鉄門の脇にある自分の車へと向かう。

「ん?鰻さん、車で行ってないのか?」

 東野が諸角に向かって言った。

「失念しておりました。鰻様は本日お付き合いでお酒を飲むということでしたので、バスで出発されていました」

 麓まで降りて国道に出ればバス停があるということだった。そこまでは諸角の車で送ったとのことだった。

「おい、何だこりゃ」

 東野が声を上げる。

「全部…パンクしている?」

 駐車している車両のタイヤすべての空気が抜けていた。

「酷い…」

 石田が困惑した表情で呟く。

 五人全員でそれぞれの車両のタイヤを確認するが、綺麗にパンクしている。

「車を使っての移動は無理っていうことですね」

 地面に這いつくばってタイヤを見ていた飴村は立ち上がる。鰻も帰りは諸角のお迎えはない。麓であれば携帯電話は通じるだろうが、邸宅への電話は通じない。

 鰻の帰宅をどうするのか考えていたが、気が付くと辺りがうっすらと暗くなっている。冬の空は光を届ける時間が短い上、今日は曇りである。

 五人は諦めて邸宅へと戻ることにした。飴村は乗ってきた車から工具が入ったアクリルケースを取り出して邸宅へと持ち込んだ。

 ダイニングに入る前に飴村は切断された電話機を確認した。

 階段脇に置かれた電話台は貴族の屋敷にあるような電話、ではなく、一般家庭に置いてあるようなタイプの電話機だった。しかも子機を設置できるタイプである。本体から電話台の下に向かって伸びている電話線を辿ると、壁の中に入り込んでいるはずの線が千切れて垂れ下がっていた。力任せに引きちぎった、という印象を受けた。

「工具はそれか?」

 後ろに東野が立っていたので、アクリルケースを渡す。

「どうですか?」

 東野はその場でケースの中の工具を確認している。

「うん、基本的なものがあるから、やってみよう」

 アクリルケースを抱えるようにして東野は電話機に向かう。

 東野を電話機の傍に残してダイニングに戻ると、曽田アリアに石田が詰め寄っていた。

「アリアさん、どういうことですか?」

 興奮、というより困惑の感情が勝っている石田を板尾が腕一本で制止している状態である。

「どうしたんですか?」

「奥さんが警察は呼ばないって宣言したんです。英断ですね。尊敬しますよ」

 入り口近くに座っていた塗師が回答した。

 このような場においても笑顔を崩さない。不謹慎だと責められても擁護できない顔である。

「なぜです?」

「わかりません。奥さんじゃないから」

 塗師は飄々と受け答える。その通りだと考えながら、知りたかったのはその結論に至った経緯だったことに気が付く。つまり、そのように聞けば良かったのである。

 塗師はそんな飴村を見透かしたように笑顔で見つめている。

「ありがとうございます」

 それだけ言って石田らの元へと歩く。塗師に対して、思った通りの事を聞けば良かったかもしれないが、自分に腹立たしくなるのではないかと考えてやめた。

「アリアさん」

 飴村が呼びかけると石田が引き下がった。やはり興奮していたわけではなかったようだった。

「何でしょう?」

「警察に連絡しないと聞きました」

「ええ。そう決めました」

「長倉さんの遺体をそのままにするのですか?」

 アリアは短く息を吐く。

「連絡をしないと言ったのは今日だけの事です。電話も果たして修理できるのかわかりませんね?」

「東野さんが今修理しています」

 本人は修理できるかはわからないと言っていたが、そこまで難しい修理ではないと飴村は考えていた。

「終わればすぐに連絡するべきです」

「そこまで急ぐことでしょうか?」

 不思議そうにアリアは飴村を見返す。着席のまま見上げるような格好になる。

「人が死んでいるんですよ?」

「知っています」

「殺されたんだ」

 石田が声を落として言う。

「誰に、でしょうか?」

 石田は口籠る。飴村も何も言えなくなる。

「わかりませんね。それは」

 板尾がそれを引き継いだ。

「急いで連絡したところで犯人は逃げているでしょうから、急ぐ必要もないと思っています」

 アリアは板尾に視線を向ける。

 切れ長の目が動くだけで、その周囲の空間が切り開かれるように飴村は感じた。

「犯人は逃げている?」

 板尾がおどけるように繰り返す。

「なぜそうお考えで?」

「なぜ?外から殺人を良しとする人間が来てこの敷地内で一人殺害してまた逃げていったということでしょう?」

 アリアも不思議な顔で板尾に返答する。

「なんて想像力が豊かな人なんだ。尊敬いたします」

 板尾は会釈程度の角度で頭を下げる。

「では、奥様はこの邸宅に住んでいる人間達が人を殺さないと思っていらっしゃるということですね」

 板尾はわざとらしくダイニングを見渡すようにする。

 片桐と小峰が板尾の方に顔を向ける。

「どうして殺さなければならないのです?」

「それは殺した人に聞いてみましょう。あ、私が知っているわけではありませんよ?」

 微笑みを浮かべるが、この空間で笑っているのは板尾と塗師くらいである。

「おい、あんた、俺等の中にあんたの会社の人間を殺した奴がいるってぇのかよ」

 片桐は大声だったが怒りの感情は含んでなく、煩わしそうに言った。

「失礼、では範囲を広げましょう。この敷地内にいる人間が長倉君を殺した、と言い返させていただきます。ミスター片桐、不誠実な発言お許しください」

 この敷地内にいるのはここにいる人間くらいである。アリアが言う通り、殺人鬼のような属性の人間が隠れている、ということも考慮に入れて板尾は言い直したのだろうが、結果ここにいる全員が含まれることになった。

 言われた片桐は、お、おう、と言うとお茶を一杯飲んで黙った。

「板尾さん、その…そう仰るのは何か理由が?」

 根来川はそっと手を挙げて言った。そうしないと発言が流されてしまう、と考えたからだろう。

「いえ、ありません」

 根来川は、ああ、と言って薄ら笑いを浮かべている。呆れているのである。小峰は椅子に浅く腰掛けて首を曲げて天井を仰ぎ見た。

「ただ、可能性として奥様が仰る外部犯人説と同じくらい、我々の中の誰かが殺したという可能性もあるのです」

 ダイニングは依然として張り詰めた空気のままだった。板尾は満足げにしていたが、聴講者たちは納得している表情はしていない。

「諸角さん、お願いがあります」

 飴村は定位置にいる諸角の方に向かう。

「何でございましょう」

「監視カメラを見せてください」

 全員の視線が飴村に注がれる。

「おお、そう言えばあったな監視カメラ」

 片桐が天井を見上げて言った。

 諸角はアリアに視線を向ける。アリアが頷いたことを確認すると、しばらくお待ちください、と言ってダイニングを出て行った。

 三分後、諸角は戻ってきた。手にはノートPCを持っている。その頃には板尾も石田も着席していた。

「飴村様、スクリーンに映し出しましょうか?」

「お願いします」

 諸角はリモコンを取り出すとスイッチを操作する。ダイニングの入り口側の壁に大型のスクリーンが降りてきた。

 スクリーンの傍に台を持ってきた諸角は壁の下側の一角を開けて配線ケーブルなどを取り出してPCに取り付けていた。

 食事を摂りながら映画などを鑑賞できるようにしているのである。そこはこの家の規模やランクからすればあってもおかしくない設備だった。

 スクリーンに映し出された映像は鉄門の左右に取り付けられた監視カメラの映像である。

 ダイニングのカーテンは閉めていなかったが、照明を消すだけで十分映像を見ることはできた。

「飴村様、動画は今朝からのものでよろしいですか?」

「どれくらい動画は保存されていますか?」

「二十四時間で上書きされて消えて行きます」

「わかりました。では今日の早朝、そうですね、五時くらいからでお願いします」

 諸角が操作すると、画像が再生され始める。時刻は午前五時。

 再生速度を早めて確認することになった。

 途中で飴村の車が映し出され、飴村と諸角が会話をするシーンが映った。音声は入っていないので、内容は聞こえないが、もちろん飴村は覚えがあった。

 そして飴村の運転する車が邸宅内部へ入ると、早送りが再開される。そして、何も変化の無いまま、映像は終わった。

 スマートフォンを取り出して確認するが、現在時刻十七時に対して、映像は十六時で終わっていた。

 諸角は、以上でございます、と言って照明をつけた。

「本日は私もK建設の方々と打ち合わせがありましたし」

 まだ眩しそうに目を細めてアリアはダイニングを見渡す。

「何を確認したかったの?」

 隣の茉希が小声で飴村に尋ねる。

「カメラの映像を見たのは初めてですね。ちゃんと動いていたことが確認できてよかった」

 何度か瞬きをしながらアリアは言った。

「そうですか」

 飴村は感情を込めずに言った。

「でもとても重要なことも教えてくれますよ」

 ダイニングに飴村の声が響いた。

「ここにいる人間以外、誰一人邸宅に入ってくる人も出て行く人もいなかったですよね?」

 確認のつもりで言ったが、誰も口を開かなかった。言い返すことが無いと判断して続ける。

「カメラの死角から侵入を試みても警報機がありますよね?」

 諸角を見た。

 今度は頷いてくれた。

「この邸宅は警報機付きの塀に囲まれて、正面には監視カメラがある。その映像に不審な人間は映っていない。つまり、この敷地内にいる人間はここにいるだけで」

 そこで一旦、言葉を切った。

「長倉さんを殺した人間もここにいる人間の誰かってこと」

 アリアは目を閉じている。表情は変わらない。

「それでも私の考えは変わりません。警察への連絡は明日以降です。電話の修理が終わった段階で行います」

「それで良いんですか?」

「あなたの、飴村さんのご指摘はもう一つのことを教えてくれまます」

 少し身体を上げて背筋を伸ばした。

「つまり、あなたが殺した可能性もあるのですね」

 初めてアリアは笑顔を見せた。



 ダイニングには飴村と茉希だけが残った。アリアが解散を告げた途端に、居候らはぞろぞろとダイニングから出て行った。

「君のお母さんはどういうつもりなんだ?」

 飴村は愚痴る様に茉希に言った。

「知りません」

 茉希は不貞腐れるようにして言った。

「他の人たちもだ。最初は警察を呼ぼうと言っていたのに」

「この家の中では母の決定は絶対です」

「居候だからか?」

「そうかもしれませんね」

 茉希は力なく笑った。

「君はそれでも発電所の解体に反対したんだな」

 茉希はゆっくり息を吐く。

「あの発電室だけは、壊しちゃダメなんです」

 飴村は立ち上がって窓際に立つ。ダイニングの窓は廊下に面しており、さらに廊下から庭園側に窓があるため、庭園を見ることができる。薄暗くなった空に対して、庭園は明るくライトアップされていた。

「父親が…守ってきたからか?」

「それもあるけど…あの発電室は自分が生まれた時からあるの」

 曽田家に婿養子に入って間もなく、幸之進はアリアの父親から譲り受けたはずである。その後に茉希が生まれた。茉希にとっては自分の成長と共にあった重要な場所とも言える。

「あそこで遊んだこともあるし、自分が生きてきた中で特別な場所だったから…」

 子供の頃に遊んだ公園や空き地、その時には何の目的でそこにあるかわからない建物まで、思い出に残っている場所は飴村にもある。

 茉希が特別なわけではない。生まれ育った環境が違うだけである。彼女にとってはこの邸宅や目の前に広がっている庭だっただろうし、父親が守ってきた発電所と言うだけである。

「自分のためでもあると…まあ、その理由の方が健全な気がするな」

「健全?」

「親父さんが守ってたからっていうよりは、自分の原風景を守りたいってことなんだろう?」

 茉希は一瞬目を伏せるが、すぐに飴村を見上げて頷く。

 それを確認すると、飴村は笑みを浮かべた。

「わかった。手伝うよ」

「そうやって依頼しているでしょう?」

「ああ、そう、うん。そうだね」

「何か?」

「何でもないよ」

 再び視線を庭園の方に戻すと、ダイニングの扉が開く。

「ミスター飴村…おっと、お取込み中でしたか?」

 板尾がドアノブに手を掛けたまま言った。その後ろには諸角の姿も見えた。

「何も取り込んでないよ。何?」

「いえ、長倉君の遺体ですが、あのままではどちらにせよ良くないと思います。こっちに戻って来てそのまま議論に巻き込まれましたでしょう?」

 一歩二歩とダイニングに入ってくる。

「せめてブルーシートくらいは掛けてあげないといけないと思いましてね。諸角さんもついてきてくれるらしいですし、一緒に行きませんか?」

「やめてくれ、趣味じゃない」

「いえ、意外とロマンチックな夜ですよ」

「よくそんなこと言えるな…。そもそもなんで俺?」

「ちゃんと遺体を確認したのはあなたと私くらいでしょう?」

「石田さんは?」

「さすがに彼は難しいでしょう」

 いったものの、確かにそうだろうと思う。遺体発見時も動揺していた。

「だからって俺も大丈夫ではない。便利屋だっているだろう。そんな屋号をなのっているのなら、お願いすれば良い」

「あ、いますよ」

 諸角の後ろから塗師が顔を出す。

「尚更、俺いらないでしょ」

 板尾は眼鏡のブリッジに手を掛けると位置を直した。

「是非。人は多い方が良いです。謎の殺人者が現れた時に頼りになりますから」

 笑顔の板尾に殺意を覚えながらも、飴村はついて行くことにした。もう一度、犯行現場を見ておきたいとも考えていたからである。

 ダイニングから出た飴村の目に、床に胡坐をかいて電話を修理している東野が目に入った。

「東野さん、どうですか?工具大丈夫っすか?」

 気怠そうに振り向いた東野は、ああ、と言った。

「工具は大丈夫だよ。しかし、これがな」

 持ち上げた電話機は分解されて中身が露わになっていた。

「開けたんですか?」

「線だけじゃないんだよ。中の基板が少しやられているみたいだ。これは君の工具じゃどうにもならん。とりあえず、応急的な処置をしているよ」

「そんなところの基板って壊れるんですか?」

「いや、普通には壊れん」

「誰かが意図してってことでしょうか?」

 板尾も声をかける。

「断言はできん。可能性だけだったら挙げられるだろうからな」

 溜息か唸りか判別できないような声を上げて東野は立ち上がる。立ち上がってからも腰を叩いていた。

「ただ…俺は自然でこんな壊れ方をする基盤を見たことが無い」

 つまり人為的だということである。

「東野様、お手数ですが、引き続き修理をお願いできますか?」

 東野は片手を挙げて諸角に答える。

 四人が玄関から外に出ようとすると東野が諸角を呼び止めた。

「あ、後で酒持ってきてもらえる?」



 全員で懐中電灯を持ちながら、林道を歩く。庭園のライトが僅かに届いているため、入り口から少しの間は明るかった。

 黙ったまま小脇にブルーシートを抱えた諸角を先頭に発電所へ向けて歩く。ブルーシートは片桐が仕事で使うものを提供してくれたと諸角が説明した。

 塗師以外はジャケットやコートを着て傍観しているが、塗師は室内にいた時のままの作務衣だった。さらに足元は雪駄である。

「寒くないの?」

 あまりに薄着であることを心配して飴村は尋ねる。

「ええ。全然」

 震えることなく笑顔で答えるところを見てもやせ我慢ではないことがわかる。

「羨ましい限りですね」

 前を歩く板尾も話に参加した。

「便利屋ってことだけど」

 板尾が発言を続けなかったので飴村が再び質問する。

 林道には庭園の灯りが届かなくなってきたので、四人は懐中電灯を点ける。

「仕事もその格好?」

「はい。基本的に」

 あっさりと言われると、逆に次の言葉が出てこなくなる。

「その…お客さんとかに不審に見られない?」

「うーん…全く、と言いたいですけど、お客さんが何考えているかわからないですから」

 確かに言う通りである。少なくともまだ便利屋家業を続けていられるということはそれなりに受け入れられているのだろうと想像した。

「ちょっと僕も気になっていたんですけれど」

 四人は坂道に入る。南側、つまり川の下流側を見るとすでに邸宅の塀は途切れている。この下から上ってくるのは極めて難しいだろうと懐中電灯を暗闇に向けながら飴村は思う。ましてや山側からとなるとさらに困難になるだろう。

「なんで腰にハンマつけているんです?」

 いつも通りに説明をする。茉希の時もそうだったが、飴村にとってはたまに聞かれることだった。

「なるほど。お父さんから引き継いだしきたり、ってところですね」

「まあ、そうなりますね」

「お父さんも、そのあなたのおじいさんから引き継いだとかですか?」

「いえ、そうじゃなくて、親父が尊敬する技術者がそうだったって言ってましたね」

「尊敬する技術者」

「ええ。確か吉田徳次郎っていう技術者がいて、コンクリートの技術者だったんですけれど、その人がどの現場に行くときにもこうして点検用のハンマを携えて行ったらしいです」

「吉田先生は私も尊敬するエンジニアですよ」

 板尾は穏やかな声で言った。しかし、息は切らしている。

「先生?エンジニア言ってませんでしたか?」

「大学の先生が本職ですかね。でも、実務でも実績があるからエンジニアといっても過言ではないですよ。素晴らしい方です」

 板尾は息を切らしながらも賞賛の言葉を並べる。飴村はエピソードや実績は知っているが、父や板尾のような賞賛はない。

 川の流れる音が大きく聞こえてきた頃には木々が開けて発電所が見えてきた。

 四つの光の圖司が左右に動きながら、発電所に近づく。

「こんな夜に照明が無ければ完全に廃墟ですね」

 塗師は発電所を見上げて懐中電灯を照らしている。

「非常用電源みたいなものがありましたよね?」

 飴村は諸角に向かって尋ねる。

「ええ。ございます。しばらくお待ちください」

 丁寧に頭を下げた諸角が発電所の崖側に向かう。

 建物の裏手にあたる。

 数分すると、発電所の窓に明かりが灯った。それでも邸宅に比べれば薄い灯りである。しかし、室内で懐中電灯を使うまでではないだろう。

 諸角が戻ってきて頭を下げる。

「じゃあ、行きましょうか」

 心なしか笑顔が消えた板尾の掛け声で四人は発電所に入る。

 ドアの音が室内に響いた。引っ越し前の家でも同じようなことが起こる。家具が少ないことで反響が大きく鳴っているのが原因だが、発電所内でもその数倍も大きいレベルで同じようなことが起こっている。それでも外壁材がレンガのため、多少の吸音作用はあるのだろうと飴村は想像する。

 そして、部屋のほぼ中央、数時間前と同じような状態でそこに長倉が横たわっていた。やはり現実なのだと再認識する。

「うわー、これは…酷い。しかも、針金が刺さって…それにしては少し太いかな…」

 塗師は一瞬顔を顰めるが、顔を背けるようなことは無かった。

「全く…彼のご両親にも連絡をしなければいけませんね…」

「長倉さんのご両親は健在?」

 板尾は頷く。親から見れば、信じ難い光景だろうと考える。

「恐らくですが警察から連絡が行くと思います。彼の実家は自営業ですから、どの時間に連絡が行っても誰かには伝わるとは思うのですが…そう言った意味でも至急連絡を取りたいものです」

 飴村は考える。普通に考えれば、邸宅内部の固定電話が通話できなくなる状態にされていたことを考えれば、ダイニングで監視カメラの映像を見なくても、邸宅内部の人間の犯行であることは想像ができる。その事をあの場で指摘すれば良かったが、アリアの説く外部犯人説を否定するためにも監視カメラの映像は確認しておきたかった。

 結果、外部から侵入した形跡はなかった。つまり、固定電話を通話不能の状態にできたのは敷地内にいる人間しかいない。

「このまま寒空に置いておくのもかわいそうですから、早くブルーシートを掛けてあげましょう」

 板尾の声に現実に引き戻される。

 四人でブルーシートを広げて丁寧に長倉の遺体に被せることになった。

 それぞれが四隅に立ってシートを持とうとしていると、遺体の傍にしゃがみこんでいた塗師が声を上げた。

「この…長倉さんでしたっけ?ここで遺体を切断されたんですかね」

 全員が動きを止めてしまった。

「ミスター塗師、それはどういう意味ですか?」

 飴村の立っている位置から、板尾の眼鏡が光っているように見えた。

「えっ?そのままの意味です」

「ここで長倉君は殺されたということではないと?」

「知りません」

 塗師は素っ気なく言うと立ち上がる。

「それはここが、長倉さんが殺された場所ではない、ということ?」

「わかりません」

 要領を得ない。良く言えば端的、悪く言えば説明不足である。しかし、よく考えれば二人で質問が同じだった。

「えっと、つまり…彼が殺された場所と切断された場所は違う、ということ?」

「それもちょっと…」

 わかりません、だった。

「ミスター塗師、可能であれば説明を…」

「今言えることは少なくとも切断された場所はここじゃないのではないか、ってことです」

「それは同じではないの?」

「いや…違うんじゃないですかね?」

 塗師は腰に右手を当てて、左手で顎を触った。

「まず、ブルーシートを…」

 黙っていた諸角が声をかけて元々の目的を思い出した。塗師も加わりブルーシートを長倉の遺体に掛ける。

「それで、塗師さん、どういうこと?」

「僕、今初めて遺体を見たのですけど」

 そう言うと塗師は今掛けたブルーシートを捲る。諸角が顔を逸らした。塗師が捲ったのは足元の部分、切断面が見えるまで捲った。

「これね、この切断面から流れている血なんですよ」

 切断面からは流れていた血液がすでに固まっている。

「ああ、なるほど」

 飴村は塗師が言いたいことが分かった。

「少ないんですね」

「少ない?」

 頷く塗師に対して板尾はまだ分かっていなかった。

「人間の身体の中の血ってどれくらいあるか僕知りませんけど、地面に流れて固まっている血の量を見ても、少ないなって思うんです」

 塗師が指摘するように、確かに少なかった。今は足元しか見えていないが、他の切断面と地面に広がる血液の量から見れば確かに少ないという塗師の指摘も理解できる。

「つまり、切断されたのはここじゃないかもしれない…と」

 塗師はブルーシートを戻すと、立ち上がる。

「それと、飴村さんはダイニングでも殺害されたって言ってますけど」

 視線をブルーシートに落とす。

「長倉さんの死因って何ですか?」

「それは…」

 確かに切断されたことに気を取られていてそのことについて考えていなかった。

「ミスター塗師、それは長倉君を押さえつけて一本一本切断していったのではないかな?つまり出血多量」

「無いとは言えないですね」

 塗師が頷きながら言った。

 飴村は石田から借りていたデジカメを取り出す。

「諸角さん、もうシート掛けましたから大丈夫ですよ」

 ごめんなさい、と塗師謝りながら、諸角の方に手を置いて振り向かせる。

「医学的な知識を持っている人がいればもっとわかることがあるんだろうけどな」

 デジカメの画像に映し出された遺体の画像を見る。デジカメで遺体の画像を見ることになるとは考えもしなかった。

 いずれにしても、と塗師は言う。

「ここで切断されたのではないってことは確実です。別の場所で切って運んだのですよ」

 板尾と飴村はブルーシートを見ながら悩んだ。

「あの…皆様、ここは冷えますので、戻られてはいかがかと」

 顔面蒼白な諸角が職務を全うした提案を断るわけにはいかなかった。



 すっかり冷え切った身体が再びぬくもりに包まれて間もなく、邸宅の大階段の脇に人が集まっていた。

 そうは言っても、電話機の修理をしていた東野と茉希、そして根来川の三人しかいない。

「どうされましたか」

「電話機の応急処置は終わったんだがな」

 諸角は茉希に向かって尋ねていたが返答したのは東野だった。

「繋がらないの」

 受話器を持っている茉希が続ける。

「東野さん、ちゃんと修理できたの?」

 根来川がおどけた様に言った。

「馬鹿言うな。出来る範囲の事はやった。これで繋がるはずだ」

 声を上げて反論する東野に根来川はすいません、と謝罪する。

「失礼」

 板尾が受話器を茉希から受け取ると耳に当てて番号をプッシュした。

「何ということでしょう。ミスター東野の腕はきっと確かなのでしょうけれど、まさしく、うんともすんとも言わないということですね」

 何度か番号をプッシュして受話器を置いた。

「東野さん、他に原因は?」

「線も繋いだ。基盤も応急にだが修理した。後は…」

 東野は顔を上げる。

「何ですか?」

「保安器だ。それしかない」

「諸角さん、それはどこに?」

「また外になりますが、家の西側の二階、北側の壁にございます」

 言い終わる前に飴村と塗師が飛び出して行った。

 正面玄関を出ると、すぐに右手に折れる。邸宅を右手に走る。廊下の窓越しにダイニングの中も見える。

 邸宅に沿って進み角を右に折れると、邸宅の西側の壁になる。窓は一階と二階に一つずつあり、換気扇の通風孔も四つ等間隔で設置されている。窓は恐らく廊下の突き当りにある窓だろうと想像した。そして、その壁の二階部分北側の窓の傍に保安器が取り付けられているはずである。

 しかし、今、その保安器はケーブルが切断されて垂れ下がっており、本体は無くなっていた。

「ああ。駄目ですね」

 すぐに絶望的な状況だと悟ったのか、塗師が呟く。庭園のライトが僅かに届いているため、懐中電灯無しでも視認することはできたが、飴村は邸宅から持参してきていた。

 光を当ててみるが、状況は変わらない。足元も照らしてみるが、切断されたケーブル以外、足跡などは無かった。

 窓際に保安器が設置されていたのは、メンテナンスの事を考えての事だろうと推測した。

「結局ダメってことか」

 後方から声が聞こえてきたので振り返ると、東野と根来川、そして茉希と諸角が続いていた。発言は東野だった。

「東野さん、あれは修理…できます?」

 急いでいたのかコートを着ていない根来川が身体を震わせながら東野に尋ねる。

「無理だよ」

 保安器を見つめながら一言だけ言う。諦めの感情が籠っていた。

「簡単にケーブル繋げられるわけではないし、保安器自体も大きく破損している」

 そう言うと、邸宅へと帰って行った。

「結局、電話は通じないってことなのね。ここにいても寒いだけだから、私も戻ります」

 茉希の言う通りコートを着ていても寒さが体を突き刺すようだった。

 東野の後ろを追うように根来川と茉希が戻る。飴村と塗師に会釈をしてから諸角がそれに続く。

「後手後手ですね。先回りされている」

 塗師は笑っていたが、諦めのような笑顔に見えた。

「そうですかね」

 素っ気なく飴村が言うと、塗師は不思議そうな顔をした。

「何がですか?」

「塗師さんの後手っていうのはどうかと」

「電話機の修理が終わったっていうときに、この状況ですよ?」

 塗師は保安器を指差す。

「そうなんですけれど…」

 飴村は歩き出し、暖を取るために邸宅へと向かう。

 来た時に走ったからか少しだけ身体は暖かかったものの、すでにその効果も切れている。帰ったら諸角にコーヒーを淹れてもらおうと考える。

「ここに来たことありますか?」

 後ろから塗師が付いてきていることを確認して飴村は語りかける。

「歩き回ることはしませんでした。庭園は中に入る前に見て回りましたね」

「ここに保安器があることを知っていました?俺は知りませんでした」

「知りません」

 飴村が振り向くと、塗師は律儀に首を横に振りながら答えた。

「飴村さんは何を疑問に思うんですか?」

「順番です」

 すでに横に並んだ塗師からは返答がない。考えているようだった。

「つまり、電話が壊されたのが先か、保安器が壊されて持ち去られたのが先か」

「それが…何か気になると?」

「わかりません」

 返答として間違っているとは思ったが、塗師のように答えてみた。発言してからそう思った。

「ただ、そうなると…」

 邸宅の入り口がすぐ前に来ていた。飴村は扉を開ける前に立ち止まる。塗師も立ち止まった。塗師はどうかわからなかったが、早く温かい部屋に入りたかった。なぜ自分でも玄関先で立ち止まったかはわからない。

「電話機を使えなくした人間と保安器を持ち去った人間は別人、ということになるかもしれないっすね」

 塗師は天を見上げながら数秒考えた。

「…どうしてです?」

 丸くした目で塗師を見つめる。

「つまり、電話機を破壊したのであれば、保安器を持ち去る必要はありませんし、保安器を持ち去ったのであれば、そもそも繋がらないのだから、電話機を破壊する必要もない」

「それもそうですね…。そうなると?」

「いや…そこまでしか考えていません」

 笑いながら塗師に言う。塗師も笑った。

「でも、面白いですね。また考えたことがあったら、教えてください」

 飴村が返事をするより先に塗師が玄関のドアを開いて中に入って行った。

 続けて邸宅に戻ると、ダイニングの入り口に諸角が立っていた。

 飴村を見かけると、近寄ってくる。

「お帰りなさいませ。保安器の事は外部と連絡が取れ次第手配を致しますので、飴村様はお部屋の方に。ご用意しております」

「今日は車で寝ようと思っていました。助かります」

 皮肉のつもりで発言した。

「奥様はきっとそうだろうと仰っておりましたが、茉希様が」

 軽く会釈する諸角。

 きっと正直に伝えたのだろう。

 しかし、邸宅の主人からは手厚い待遇は期待できないということがはっきりした。

 その時、後方で玄関の扉を開く音がした。

「お帰りなさいませ、鰻様」

 諸角が深くお辞儀をする。

「諸角さん、何で迎えに来てくれないのよ?」

 曇った眼鏡をかけたスーツ姿の男性が情けない声を上げた。



「俺が酒飲んでるときに、そんなことになってたのか。電話が通じないと思ってたんだよ」

 ダイニングで温かいコーヒーを飲みながら鰻と飴村は向かい合って座っている。

 曇りのとれた眼鏡の奥には、声に似合わない鋭い目があった。

 飴村がこれまでの事を説明するということになり、ついでに諸角にコーヒーをお願いした。雑談をするかのように自己紹介含めてこれまでの経緯を伝えると、ほろ酔いだった鰻の顔はすっかりと元通りになった。

 鰻は元左官工の職人だった。高校を卒業して左官工となってから五年後、曽田家に居候するようになった。それからさらに五年ほど左官工として働いていたが、先行きの不安から市の職員、つまり公務員へと転職を図った。本人の話では職人の頃と仕事への熱は変わらないということだった。それなりにやりがいのある部署に配属になり、中途採用ではあるが、職人の頃とは違った仕事ということが新鮮で今のところ飽きるような要素はなかった。

「まだ街にいる時に警察に電話できれば良かったんだけどな。まあ、その時点ではこんなことになってることも知らなかったからな」

 ネクタイを緩めると脱力するように座り直す。鰻は飴村よりも四歳上である。居候のメンバーで言えば、最年長が片桐、その一つ下に東野、そして鰻と並ぶ。その下が根来川であり、飴村と同い年だった。そして最年少が小峰という並びになる。

「仕方ないですよ。とりあえず明日の朝まで待つという選択を皆さんしていますね」

「随分と突き放した言い方だ。自分はそう思ってない、ってことかい」

 声と見た目のギャップが大きい。役人としてはどうなのだろうと考えながらも言われたことが図星だった。

「それはそうでしょう。明るいうちに山を下りて警察を呼んでくるべきだった」

「これくらい夜も更けると歩くだけで大変だからな」

「良く戻ってこられましたね」

「タクシーって知ってる?」

「そりゃそうですね。俺でもそうします」

 自分の発言が浅はかだったので、苦笑いで苦いコーヒーを飲む。コーヒーの方が真っ当な苦さだと思った。

「朝と同じく夜も迎えに来てくれるだろうって思ったんだけどな」

 停めてある車はすべてパンクさせられていた。諸角は迎えに行きたくても迎えに行けなかったのである。

「今日はずっと仕事ですか?」

「もちろん。外回りだったかな」

 鰻は身を乗り出す。

「市内だし、三人で回っていたから、その間にここに来て殺したわけじゃないよ」

「いや、そういう意味で言ったんじゃなかったんですが…」

「このタイミングで聞かれればそう思うでしょ」

 今度は椅子に背を預ける。

「鰻さんはなぜ左官工になろうと思ったんですか?」

 飴村は思っていたことを素直に尋ねた。

「急に話が変わったな。まあ良いけど。俺が左官工になったのは、まあ、勉強が好きじゃなかったからだな」

「それだけですか?」

「駄目かな?」

「駄目じゃないですけれど…」

 困惑した顔を自分でもしていたのか、鰻は笑う。

「半分冗談だよ。でも半分は本当だな」

 鰻は眼鏡を外してレンズをハンカチで拭いた。

「子供の頃、俺の実家の近くで家の工事をしていたことがあってな。田舎だったけど都会と家の作り方が大きく違う訳じゃない。通学中によく見ていたんだが、少しずつ家の形になっていく、その過程がすごく楽しかった。ああ、こんな風に自分も家を作ってみたいなって思った」

 再び眼鏡をかける。ダイニングの照明が反射する。

「だから、高校を卒業してから大工の所に弟子入りしたんだ。結局、木工や大工仕事は合わなくてね。紆余曲折あったんだが左官工が一番しっくりときた。自分に合ってたんだな」

「職人って結構大変って聞きますけれど、やっぱり厳しかったんですか?大工を続けようと思わなかったんですか?」

 矢継ぎ早に質問してしまったと少し反省する。

 鰻は少し間をあけてから口を開いた。

「俺さ、視力が悪くなったんだよ」

 鰻は眼鏡を指差す。

「医者にも診てもらったがダメでね。今は落ち着いているけど当時は本当に怖かったよ。だんだん視界がぼやけていくっていうのは嫌だね」

 鰻は本当に嫌そうな顔をする。

「大工でも視力が悪かったり、眼鏡かけている人もいるだろうけれど、俺は凄く鬱陶しかった。細かい作業する上でストレスになったんだよね。左官工だったら、そこまでではなかったんだ」

「そうだったんですね」

「まあ、根気がなかったってことで人には話しているよ」

 鰻は笑う。

「視力の方はもう大丈夫なのですか?」

「もう低下はしてない。眼鏡があれば日常生活は事足りるくらい」

 鰻はコーヒーを一口飲む。

「曽田家にはどういった経緯で?」

「親父さん、えっと幸之進さんがね、俺の左官の師匠の知り合いで、生活に困っている若い奴いないかって話があって」

「凄い好待遇ですよね?」

「うーん、そうだね。食事と寝る所があって家賃は無し、好待遇だよ」

「条件は無かったんですか?」

「ここに来ることに?無かったかな。幸之進さんの気まぐれだったと思うけれど」

 飴村は短く頷いた。

「あーでも…。職人は辞めるなって言われたかな。その当時は辞めるつもりはなかったから、もちろんですって答えたけどな」

 結果として左官は辞めて公務員になっている。

「その…それでもここに居れるんですか?」

「アリアさんからは問題ないって言われたよ。もちろん出て行こうとしてね」

 あのアリアがそんなことを言うのかと驚いた。少しは理解があるのだろう。

「他の居候たちも別に何も言わないしね。腹に一物持っているかもしれないけど」

「ここに居候している皆さんも同じような経緯で?」

「まあ大体そうじゃないかな?あ、でも香ちゃんはどうかな…。ほら女の子だし、込み入ったことを聞くのは紳士じゃないじゃん?」

 はあ、と飴村は返す。

「せっかくだから本人に聞いてみれば?今の時間だったら裏の工房にいるだろうから。俺ついて行こうか?」

 それは丁重にお断りをした。男性だからということもそうだが、仕事帰りでそこまで突き合わせるのも申し訳ないと思ったからだった。

 部屋で休むと言って鰻はダイニングを出て行く。明日も仕事だというが、果たして出社できるのだろうか、と思った。

 入れ替わりに入ってきた諸角に小峰の事を尋ねてみる。

「小峰様ですか。この時間ですと、裏手の工房だと思いますが…」

 鰻の言う通りだった。

「ああ、そうですか…」

 迷っているような表情をしていたのか、諸角は再度提案をしてくれた。

「もし、起きていらっしゃったら、茉希様と一緒に行かれてはいかがでしょう?二人は仲良くされていましたし、お話をしてくださるのでは?」

「そうかもしれませんね。そうします」

 飴村は礼を言うと茉希の部屋に向かう。二階に上がって北側の左手方向の廊下に向かう。右手の窓からは下の工房が見える。工房は正面入口の左右に窓が並んでいる。向かって右手の窓は途中で途切れているが、左手の窓は等間隔に設置されていた。その左側の窓に灯りがついている。誰かは確認できないが人が動いているのが見える。

 廊下を進み、茉希の部屋をノックする。

 無言で開けた扉の先には茉希が立っていた。

「あの…」

「あなたはこの家の人間が長倉さんを殺したと思っているの?」

 憎しみを持った目で睨んでいればこちらも、精一杯の反論をするが、茉希の目は感情の籠っていない、純粋な目だった。

 だから、飴村は返答が出来なかった。それは自分が、この邸宅にいる人間にしか長倉は殺害できないということを主張しているからである。

「そう…なら私も容疑者っていうわけね」

「まあ、可能性だけ言えば…」

「そんな容疑者の部屋に何を聞きに来たの?」

 否定することがあるわけではなく、茉希が言っていることに間違いはない。しかし、彼女に突き放されている、見限られるように感じた。

「その…小峰さんのところに行きたいんだ。一緒に来てくれないかな」

「なぜ?」

 飴村は諸角が言っていたことを踏まえて理由を説明する。

「そう。わかった。でもあなたが犯人だったら、私の番ってことね」

「俺は殺していない」

「そう?母もそんなこと言ってなかった?」

「俺が君を殺す理由なんてない」

「そう?そんなのわからないじゃない。それに…」

 私があなたを殺す理由はあるかもね、と無表情で言った。



 茉希は飴村の後ろを歩いていた。大階段を降りると図ったかのように諸角が立っていた。

「滞りなく了承を得られたようで何よりです」

 諸角は頭を下げる。飴村は後ろを振り向く。

 茉希は目を細めて飴村と目を合わせない。

「この状況でよく、滞りなく、なんてワード使えましたね」

 諸角は何も言わない。

「ミスター飴村ぁ」

 東側の廊下から仰々しく手を広げて板尾がやってくる。

「面倒くせぇ…」

「何が面倒くせぇのですか、飴村」

「何で聞こえてるんだよ」

 ボソボソと言ったはずだが、なぜか聞こえている。

「どこにお出かけですか?殺人犯が跋扈しているかも知れない外を出歩くなんて正気の沙汰じゃないです」

「ちょっと工房に行くだけだよ。ここの裏だって」

 板尾は腕を組む。首を傾げて何かを考えていた。

「うん、ではミスター飴村、少しお願いを聞いてもらえませんか?」

「ちょっと勘弁」

「あのですね…」

「話聞いている?」

「今まで根来川さんの所に行っていました。今日一日どう過ごしていたか、聞いていたのです。そしてこれから片桐さんの所に行きます。だから一緒に来ていただけますか?」

「だから、これから工房に行くって…」

「茉希様、彼を少しお借りしたいのですが」

 冷めたような目で見ている茉希に熱い視線を向ける。

「どうぞ。私もただこの人に連れ回されようとしているだけですから」

「だそうですよ。飴村さん」

「私はダイニングにいますから、終わったら来てください」

 言い終わる前にダイニングに入って行く。扉を閉める瞬間、諸角に紅茶を注文していた。

「良かったですね。さあ、行きましょう。早くしないと彼は寝てしまう」

 全く強引なやり方で辟易していた。

「一ついいか?なんで俺も一緒なんだよ。根来川さんの所には一人で話聞きに行ったんだろう?片桐さんの所も一人で行けよ」

「そんな冷たいこと言わないでください。私は長倉君の弔い合戦として犯人を突き止めようとしているのです」

「なら、石田さんを連れて行けよ。適任だろう?」

「見当たらないのですよ」

 飴村の身体が硬直した。

 長倉が殺害された時にも、長倉が見当たらなくなっていた。

 板尾も、そんな飴村の表情を見て察したようだった。

「ああ、ご心配なく、彼はアリアさんのところです。長倉君の穴を埋めようと仕事に熱中していますよ」

「おい、言葉をチョイスしろ。てっきり長倉さんと同じだと思ったじゃないかよ」

「あなたの方は大丈夫ですか?」

 眼鏡の奥の瞳がじっくりと飴村を捉える。

 茉希からの本来の依頼を遂行するには、最終的に現時点であの発電所を管理している曽田アリアを説得するということが不可欠である。

 つまり、調査をして維持保存する価値もその手法も明確になったとしてもそれがアリアに受け入れられないと意味がないのである。

 飴村の仕事のゴール地点はそこである。アリアの主張である発電所の廃棄解体を改めさせることが必要なのだ。

「ご心配どうも。こちらはボチボチやってるから」

 板尾の口元が微かに動いたように見えた。

「ああ、それは大変失礼を。では、片桐さんのところに参りましょう。さあ、私の手を取って」

 社交ダンスのリードをする様に手を差し出す。

「その手はなんだよ。時間もないから、行くぞ。寝ちゃうんだろう?」

 では、と板尾が歩き出す。

 片桐の部屋は玄関側の左手、つまり、南西側の廊下の先にある。ダイニングを通り過ぎる形になる。

 板尾を先頭に歩くと、右手に見えるダイニングで茉希が紅茶を飲んでいるのが見えた。無感情の目から冷たい目に、先程ランクアップしたが、その突き刺すような目線が紅茶のカップとダイニングの窓越しに飴村に突き刺さる。

「茉希さんも快く許して下さって良かったですね、ミスター飴村」

「お前、本気でそれ思っているの?」

「ええ。本気ですよ」

 何も言うことは無かった。

「そう言えば、電話の保安器が持ち去られていたって聞いたか?」

「ええ。聞きましたよ。ネットも使えなくなっていましたね」

「ああ、そういえばネットは使えるんだったな」

「ええ。ミスター石田が本社にメールで助けを呼ぼうと考え、この家のWi-Fiに接続したようですが、電波を検知しなかったようです」

「それは何時ごろ?」

「具体的な時間は覚えてないですが、長倉君のところに行った時には繋がらなかったはずです。私が部屋を出る時にミスター石田がその間に解決すると言っていたので」

「その時には持ちされていたってことか…」

「徹底的に連絡手段を排除したのでしょうね」

 その点については納得だった。

「電話線とネットワークの二つのラインが消された…」

 つまり、あらゆる点で、この敷地内に閉じ込めようとしている誰かがいるということである。無理すればこの山から下りることは可能ではあるから軟禁状態に近い。

 飴村は窓の外に目を向ける。庭園が眩しく感じた。これほど早く朝が来てほしいと思ったことは無かった。

「さあ、到着しました。ノックをどうぞ」

 片桐の部屋の扉を、執事が案内するかのように手で促す。

「いや、あんたがやれよ」

「それでは私が尋ねてきたことになってしまうでしょう?」

「は?」

「あなたが話を聞きたいと言って、私がいっしょに来た、という体で…」

「本当に便利に使うよね。あとで請求するからな」

「請求内容が楽しみです。さ、どうぞ」

 不意に、扉が開く。

「おめぇら、うるせぇ。人の部屋の前で漫才するな」

 大声で片桐が出てきた。

 板尾も飴村も飛び退く。

「あ、ごめんなさい…」

「大変失礼しました」

 二人は素直に謝罪する。

「お前らのどちらが話を聞きに来たとか、どうだって良い。俺は寝るぞ」

 部屋に戻ろうとする片桐を飴村が制する。

「煩くして申し訳ないです。でも、少しだけ、話を聞かせてください」

 片桐は舌打ちをすると部屋の壁に掛けてある、木製の時計を見る。再び飴村と板尾の顔を睨むように見る。

「入れ」

 二人は思わず顔を見合わせた。



「お前らは、いや、お前だけか?俺らの中に人殺しがいるって考えてんだろうが、そんなこと俺らができるわけねぇだろう?」

 片桐の部屋は簡素だった。

 間取りの問題だろうが、一部屋しかない。部屋の奥にベッド、その反対側に木製の棚が一つ、その脇に天板と脚だけの机が置かれている。ベッドや机の手前には大きく絨毯が敷かれており、そこにテーブルがある。入り口脇にポットや湯呑が入った、小ぶりな食器棚が置かれている。

 日常そうしているのか、絨毯に座布団を置いて片桐は座っていた。テーブルを挟んで入り口側に飴村と板尾、上座に片桐という布陣である。

 急須から注がれた日本茶が湯気を立てており、部屋に日本茶の香りが漂っていた。二人の湯呑から立ち上る湯気は緩やかに立ち上っているが、片桐の湯呑からは湯気は上がっていなかった。

 この座り方はまるで説教を受けているような気持にさせた。悪いことをしているかもしれないという思いにさせる。

「えっと…そうっすね…」

 横で縮こまっている板尾を見るが、全く目を合わそうとしない。この狭い空間で他の人間と目を合わさないということは、そこにいないと考えても同じである。

 心の中で舌打ちをしながら片桐を見る。

「それは、警察が来てから決めることですから…俺はただ話を聞きたいだけなんですよ」

 片桐は湯呑を勢いよく傾ける。

「片桐さんはここに来て古いんですか?」

 片桐はゆっくりと湯呑を置く。

「俺は…三番目だな」

「え?でも…最年長ですよね?」

「お前の質問は何だった?」

 掠れた声でゆっくりと尋ねられる。自分の質問も言い返せずにいると片桐は口を開く。

「最年長だからって最古参ではないってことだ。俺に弟子がいたとしたら、ここまで喋らんぞ?」

「はあ、ごめんなさい…」

 板尾を横目に睨む。なぜ自分が怒られなければいけないのか。

「では、先に曽田家に居候していた方がいたってことですね」

 気を取り直して質問し直す。

 片桐は、そう言ってるだろう、と呆れたように言った。

「まあ、ちゃんと言えば、最初の一人目は俺がここに住まわせてもらうことになった時には…いなかったな。もう出て行っていた」

 思い出すように片桐は言った。

「だから、どんな人間かは知らん。未だに聞いてない。俺より先に入ってたのは鰻だ」

「鰻さんが先だったんだ…」

「その次が俺で、東野、根来川ときて、最後が小峰だ」

「おい」

 飴村の身体が硬直する。死体を発見した時よりも生きている人間に脅される方が身体が硬くなる。

「そっちの眼鏡。お前は何も喋らないのか?」

「あ、えーっと、私は付き添いという…」

「お前みたいなやつは俺の事嫌いだろう?長く生きていると分かるんだよ」

 板尾は黙って下を向く。

「だらしねぇ…」

「片桐さんは、なぜ庭師になったんですか?」

 助け舟を出したわけではないが、板尾がいたたまれなくなったのは間違いなかった。

「そんなもん、単純だよ。俺の親父がそうだったんだよ」

「家業を継いだっていうことですか」

「ああ、長男だったからなぁ。俺が家業を継いでやるって思ったんだよ」

「最初から決めていたんですか?」

 片桐は眉をひそめて考え込むように俯いた。

「んー、それしかなかったからな。ガキの頃から手伝ってたから何も考えなかったってやつだな。そんな理由なんか、後からついてくるんだよ」

「でも、自分の道なのだからしっかり考えて…」

「どうだっていいんだそんなこたぁ。いいか、立場が人を作るんだよ。最初っから総理大臣の資質を持ってくる人間なんていねぇだろ?」

 ならば、最初から庭師の資質を持っている人などはいない、ということである。

 殺人も同じだろうか、頭を過る。

 それは、と片桐は続ける。

「あんたも同じじゃないのか?」

 飴村の腰のハンマを指差しながら言った。

「え?これ、話しましたっけ?」

「金槌は門外漢だが、使い込まれた道具は見てわかるって。あんただけでそんなに使い込まれないだろう?自分の師匠筋からもらい受けたんじゃねぇのか?」

「ほぼ正解です。これは俺の親父からもらいました」

 ハンマをホルスタから抜いてテーブルの上に置く。

「道具は本来譲ったりしないんだがな」

 部屋に入って最も穏やかな声だった。視線はテストハンマに向けられている。

「まあ、偉そうなこと言ってるが、俺も親父から譲ってもらったものがある」

 よっ、と立ち上がると、机の引き出しを開く。木製の柔らかな印象の机だった。

「この植木用の鋏だ。もう使ってないがね」

 ハンマと並ぶように置かれた鋏はところどころ塗装が剥げ落ちて、刃も磨いて使っていたのだろうまだ鋭く光っていた。

「月並みですが…年季が入っていますね、触っても良いですか?」

「構わん。だが、もうカシメが馬鹿になっているから開かないでくれ」

 飴村は頷いて鋏を手に取る。ホームセンタで販売されているものと同じ形だが、何かが違う。比較してみれば、その違いが分かるのかもしれない。

 言われた通り開かずに片桐に返却する。

「これは今使えないんですね」

「当たり前だ。壊れてんだからな。ここの庭を手入れする時は工房に置いてある道具を使ってる」

 片桐が幾分穏やかになってきたと感じた飴村は本題を切り出す。

「片桐さん、今日一日はどう過ごしていましたか?」

「なんか警察見てぇなこと聞くなぁ」

「雑談だと思ってください」

「あんたが来る前までは、朝起きて、飯食った後、庭の手入れをしたな。それが午前中だ」

「あれ?俺会いましたっけ?」

「庭いじり終わったら、工房に行ってたからな。会ってないだろ」

 飴村は頷く。この調子で聞いておきたい。

「そこで、根来川と小峰と雑談タイムしてたわ。何か根来川は修理しなきゃいけないって言って作業してたな」

 茉希の箪笥の事だと思い出す。

「途中で茉希ちゃんの部屋に行くって言って出て行って…小峰と雑談してたら昼になって…ここに戻ってくる時にあの便利屋に兄ちゃんに会ったかな。あいつと囲碁の約束をして…後は部屋にいたな」

「囲碁はよくするんですか?」

「下手の横好きってやつだよ。ここに居る連中の中では俺が強いかな。一番」

 右手の人差し指を一本出す。

「でも、あの兄ちゃんには勝てねぇ。あいつがいつまでここにいるか知らんが、いる間に何とか一生勝ちたいもんだ」

「そんなに強いんですか?」

 ああ、という片桐は、それから何も言わずに、じっと飴村の顔を見つめている。

「片桐さん?どうしたんですか?俺の顔、気になりますか?」

「馬鹿言え、野郎の顔見て何が楽しいってんだ。おい、あんた」

 片桐は座り直して前傾姿勢になる。

「迷ってねぇか?」

「何を…ですか?」

「そんなこと俺にわかるかい。顔にな、迷いがあんだよ」

 そう言われても、飴村には心当たりがない。

「心当たりがないか?ならまだ気づいてねぇんだよ。よーく会話するんだな、自分と」

 その言葉は飴村の頭に引っかかった。

「ほれ、もういいだろう?さっさと帰れよ」

 片桐は手を払うようにして二人を促す。板尾と飴村は顔を見合わせて立ち上がる。

「お時間取らせて申し訳ありませんでした。では失礼します」

 飴村がそう言う間に、板尾は扉を開けて頭を下げて出て行った。

「おい、あんた」

 板尾に続こうと扉を振り向いた途端に、片桐から呼び止められる。

「忘れてるぞ」

 テーブルを見るとテストハンマが置いたままだった。

「ああ、ごめんなさい」

「いいか。あんたも職人だろう?職人にとって道具は命だ。特に愛用の道具なら尚更だ。絶対に忘れるんじゃないぞ」

 テストハンマを手に飴村は頷く。分野は違っても、手に職を付けている先輩の助言は有り難くいただくことにする。

 扉を閉めると、廊下を少し行った先で、律儀に板尾が待っていた。

「グッジョブでした。ミスター飴村」

「本当に疲れたよ。マジで請求しようかな」

 ゆっくりと板尾に近づく。

「しかし、そこまで話を聞けませんでしたね」

「怒るぞ?ならあんたが聞けよ」

「まあまあ。しかし、私がさっき聞いた根来川さんの証言と同じところがありましたね」

「根来川さんは何て言ってたんだ?」

「今朝、朝食を済ませて、朝から工房に行っていたそうです。途中で小峰さんが来てハンモック、あ、ハンモックがあるのだそうです。そのハンモックで昼寝をするのが小峰さんの休日の楽しみだそうで…」

「彼女、今日仕事は無かったのか?」

「ええ、休みだったそうですよ」

「わかった。やっぱり小峰さんの話を聞いてみるかな…」

 大階段のある広間に着くと、玄関脇に諸角が立っているのが目に入った。諸角も飴村らを見かけると頭を下げる。

「何しているんです?」

 板尾が生き生きと尋ねる。片桐の時とは打って変わっての態度だった。

 諸角は黙って視線を大階段の方に向ける。

 飴村は少し移動して大階段の裏手が見える所まで来る。階段の裏手には工房への近道である裏口がある。その扉を抜ければ邸宅の裏庭でその先に工房がある。

 その扉の脇に茉希が立っていた。

「何…してるの?」

 茉希は扉に付けられている窓から、工房の方を見ていた。ゆっくりと振り向いて飴村の方に視線を向ける。

「何って、小峰さんが出てこないか見ているの」

「なんで?」

 恐る恐る尋ねる。

「やることないからよ。お茶だってすぐに飲み終わるし、諸角の話は面白くないから、あなたが小峰さんとすれ違いに合わないように工房を見張っていたの。ここで見てれば戻ってきたときに捕まえられるでしょう?」

 苛立ったような口調で言うと、視線を工房へと戻す。

「あー…なるほど。じゃあ、玄関先に立っている諸角さんも?」

「そう。こっちから帰ってくるのは確実だけど、ほら見て、右手の窓は照明が消えているでしょう?万が一、そっちから回って正面玄関から入ってきたらわからないかもしれないでしょ?念のためね」

 飴村は諸角に同情するが、彼の仕事なのだと理解する。

 そして、茉希がこうまでしているのは、自分への当てつけであるとも。

「どちらからもこっちに戻ってきてないから、まだ彼女は工房にいると思う」

「えっと、どうもありがとうございました」

 震えた声で言うと、後方から板尾がやってきた。

「茉希様、こんな冷える場所で。お身体が凍えますよ?」

「今朝から言おうと思ってたんだけれど、あなたちょっと個性的ね」

「これ以上ない褒め言葉です」

 仰々しくお辞儀をする。

「これを褒めていると思うところが、個性的なんだよ」

「ああ、茉希様が工房を見ていてくださったのですね。小峰さんがまだ工房にいらっしゃるのであれば、さあ、ミスター飴村、行きましょう」

 飴村の肩を押さえつけるようにして裏手の扉を開く。いつの間にか持ってきていた飴村と自分の靴をそこに置く。

「もう大丈夫だから、自分の仕事に戻ってください」

 出る前に茉希が諸角に言う。諸角は、これも仕事です、と頭を下げてその場を離れた。

 辟易としながら板尾について行く。先程から主導権を取られてばかりいるが、こうした性格の人物にはある程度流されて行った方が良いのかもしれないと思った。

 茉希も諸角から渡されたサンダルを履いてついてくる。まだ飴村の依頼を律儀に遂行しようとしてくれているのである。

 裏手のドアから迷うことなく真直ぐ進めば工房である。その直線状の地面は他と比べると荒れていた。霜が降りていたため、邸宅との往復で何度も踏みしめられたからだろうと飴村は考えた。

「今更だけどさ、小峰さんの部屋で話を聞けば良かったんじゃないの?」

 工房の入り口で飴村は尋ねる。プレハブ形式の工房の中は壁に嵌められた曇りガラス越しに照明が点いている。

「小峰さんは異性を部屋に入れないの」

 肘を抱くようにして茉希が言った。

「男性恐怖症…でしょうか?」

 板尾も少し寒そうにしている。

「狭い空間に異性といることが嫌だって言ってた」

「工房は大丈夫なのか?」

「多分、駄目だっていう話は聞いてないかな」

 自分の部屋くらいの狭い空間だとそうなるのだろうかと想像する。それは他人からは絶対にわからないことである。それでもここで暮らせているということは、小峰以外の住人の理解と、小峰自身の努力によるものだろう。

 扉のノックは茉希にお願いすることにした。

「香さん、入って良いですか?」

 茉希はドアノブを握る。軽く回った。

「香さーん」

 中を覗くと茉希の上から板尾と飴村も覗く。

 工房は入り口に対して横に伸びている。入口は中央に位置しており、右手にテーブルや根来川の話に出ていたハンモック、そして簡単なキッチンがあり、正面と左手に作業台や工具類が置かれている棚があった。棚の傍には椅子や小ぶりの収納などが並んでいる。根来川の仕事に関するものかもしれない。その他にも壁に木製のタペストリが掛けられていたり、作業台には作りかけの竹細工が置かれていた。

「いませんね…」

 板尾が言うと、ちょっと待って、と茉希が続ける。口元に人差し指を当てている。静かにしろ、という仕草である。その仕草の先には、耳を澄ませろ、という行動がセットだ。

 三人は耳を澄ますと水が落ちる音が聞こえる。発電所を流れる川の音ではない。

 三人は工房の中に入る。

「洗面所?」

 板尾の視線を辿ると、右手奥の壁に扉があった。

「ああ、シャワー浴びているのかな…」

「ここ風呂あるの?」

「簡単なシャワーだけね。浴槽はないの」

 状況を察して茉希だけがそちらへ向かう。シャワー室の扉を叩いく。

「香さん。ごめんなさい。ちょっと話を聞きに来たんだけれど、また来るから」

 叫ぶくらいの声を出すが、中から返事は無い。

「香さん?」

 飴村が駆けるように扉へと近づく。

「小峰さん、飴村です。いますか?」

 扉を強く叩きながら叫ぶ。板尾も二人に近づく。

 返事が無いのを確認すると、飴村と茉希は顔を見合わせる。

 茉希が頷いたことを確認すると、飴村はドアノブに手を掛けて回す。

 鍵は掛かっていない。ゆっくりと回して扉を開く。音はシャワーのものだとすぐに分かった。

 扉のすぐ脇には洗面所、扉の正面にはトイレと思われる扉があった。その脇、扉から見て右手に浴室のドアがある。

 中の照明は点いており、シャワーが流れる音も聞こえていた。

 飴村は中に入り、扉の前に立った。曇りガラスから、中は分からないが、人影のようなものが見えた。

「小峰さん、開けますよ」

 今度はすぐに扉を開けた。

 返答を待つことは無かった。もし文句を言われたら謝れば良いと考えた。

 しかし。

 中にいた小峰から叫ばれることも、シャワーを浴びせられるといった漫画のワンシーンのようなことは起きなかった。

 開けた扉から湯気が湧き出てきた。シャワー室は想像していたよりも広かった。大人三人が入っても十分な広さだった。

 その中で小峰は倒れていた。

 シャワーのお湯が、小峰に絶えず当たっている。

 飴村は動けずにいた。後ろから茉希と板尾が近寄る音が聞こえる。

 茉希が短い悲鳴を上げた。

 板尾の息を飲む音が聞こえてきたように感じた。

 何故か自分が冷静になっているのが不思議だった。

 慣れてしまったのだろうか。こんなことに慣れたくはない。

 シャワー室に倒れていた小峰は、両手がなかった。

 手首から先が消えてしまっている。切断面から流れている血が、排水溝へ水と一緒に流れ込んでいた。

 お湯の当たっていない部分にも血が点いている。壁の下側腰の高さ程度の所にも血が点いている。

 飴村は小峰の首筋に手を当てる。温水が当たるが、全く気にならなかった。

 小峰香は手首を切断されて、シャワー室で死んでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る