第2話 「不可能ですよ」と言われると「やる気がないだけでしょう?」と言い返す
いつも同じ信号機に捕まる。
それ以外の信号機に捕まらずにここまで来ても、この信号機にだけ捕まるのである。
そうなるとビッグスクータのハンドルから手を放して体の横にダランと垂らして信号が変わるのを待つしかない。
飴村一季はヘルメットを掻く仕草をするが、すぐにヘルメットを被っていることを思い出す。
頭が痒かったわけではない。ただの照れ隠しだろうと自分で結論付けた。
信号は暫くすると青に変わる。
飴村はスロットルを回してバイクを発進させる。列の先頭だったから、スタートダッシュを決めたような気分になった。
バイクはすぐに左折する。スタートダッシュを決めてもすぐにレースから離脱するのだからそんなことしなければ良い。
自分で理解していても、癖は簡単には抜けることは無い。ヘルメットをしているのに頭を掻いてしまうのももしかしたらそうなのかもしれないな、と飴村が思い立ったときには、事務所の前に到着していた。
大通りから一本路地に入り、高架下を抜けると、すぐに事務所である。
飴村は一旦道路でバイクを停めて、エンジンを切るとヘルメットを脱いだ。飴村のヘルメットはフルフェイス型である。バイザー部を上げた状態でバイクのハンドル部分に引っ掛けるようにして通す。
いつもバイクは事務所の脇にある駐輪所に停める。駐輪所のスペースが広くないため、直接乗り入れることが難しいから。一旦道路でエンジンを切って押して停めることにしていた。
バイクを停めると飴村はジャケットのファスナを降ろす。この作業だけで額に汗が滲む。この季節、防寒のために着込んでいる。バイクに乗っている時は抜群の防寒性能だが、降りて動くとあっという間に汗だくになってしまう。
グローブを座席下の収納スペースに入れると、額の汗もすっかり引いていた。
事務所の入ったビルの正面に回ると、共通の玄関スペースに置かれているポストを覗く。事務員が先に来ているのは間違いないので覗く必要もないが、一応責任者と言う立場だという薄い責任感がそうさせている。
薄い責任感に見合うように郵便物が中に入っている確率も決まっている、と言うのが飴村自身の得た知見である。一般性は全くと言って良い。
しかし、物事には例外がある。
今日のポストは中に郵便物があった。
「珍し…」
つい声が出てしまうくらい飴村にとってちょっとした事件だった。次に考えたのは事務員がまだ来ていないかもしれないのでは、ということだった。
ポストを開けて取り出すと、白い封筒だった。
表を確認すると、『K&Aコンサルタント 飴村一季様』と書かれていた。間違いなく、自分が代表取締役を務める会社と自分の名前である。
つまり誤配送というわけではない。手首を返して手紙の裏側を見る。差出人を確認したかったからである。住所は隣の県からで、『曽田茉希』とだけ書かれていた。
飴村は記憶を辿る。仕事関係では思い至らない。
ボディバッグからスマートフォンを取り出して連絡先を呼び出すが一致する名前は無かった。
飴村は手紙に目を落としながら階段を上る。階段を上がって左に折れた廊下の先が飴村の事務所である。
ドアノブを握って回すと、抵抗もなくドアは開いた。
ドアを入ってすぐ右手の机に座っていた上月早苗がPCモニタ越しに目だけを飴村に向けた。
飴村の姿を確認すると、再び目だけを向かいの壁かけ時計に向けた。
「珍しいですね。いつもより五分遅れてますよ」
「珍しいことが起こったんだよ」
飴村はドア正面の自分のデスクに向かって歩きながら上月に手紙を見せた。
「出頭命令ですか?」
「違う」
「殺害予告?」
「君は俺を何だと思っているんだ?」
椅子にコートを掛けてボディバックを窓脇のロッカーに入れる。
「親の七光りだけで生きてる最低息子」
「俺のオヤジはそんなに光ってないからな。そういえばさ、七光りってどん種類があるんだ?」
「知りませんよ」
上月はすでに視線をモニタに向けている。
「お前が吹っかけてきた議論だろう?」
「そこを議論してませんよ」
上月は立ち上がって飴村のデスクの正面に移動した。
黙って書類を目の前に突き出す。
「ん?」
「請求書です。先週の調査で高所作業車をレンタルしたでしょう?その分です。確認してください」
「ああ。高架橋のやつね。…ねぇ、この作業っていうか、やり取り、必要かな?見積もりとったのも、実際に調査行ったのも俺でしょう?」
「でも、社長はあなたです。二人しかいないんですから、役割分担としては当然でしょう?」
「いや、だからさ、もっと効率的にすれば良いじゃない?」
「私もある程度仕事してますよアピールをしておかないと、いつあなたからクビって言われるかわからないですからね」
「言わねぇよ…早苗ちゃんをクビにするとここ、俺一人で回さなきゃいけないじゃん」
「気持ち悪いんで、二度と私の下の名前で呼ばないで下さい」
律儀に頭を下げて上月は自分のデスクに戻った。眉毛辺りで切りそろえられた髪が揺れる。一度おかっぱ頭と言って大きく彼女の怒りを買ってから、飴村はボブカットという言葉を覚えた。
飴村と上月二人だけで運営している『K&Aコンサルタント』は、構造物の点検調査を専門としている会社である。近年、日本の建設投資額の内、新設の構造物に掛かる費用よりもメンテナンスにかける費用が増えてきている。つまり、これからは今ある構造物を修理修繕しながら長く使う時代になっているということである。それに伴って建設会社やコンサルタント会社も維持管理に関する業務が増えている。
しかし、メンテナンスの技術や業務がここ最近増えたわけではない。特にいわゆる土木構造物といった大規模な構造物は高度経済成長期のような簡単に壊して、新しいものを作るということが出来ない。それ故、そうした技術は共に進歩発展してきたと言える。ただ、大手の建設会社やコンサルタント会社だけでそれをすべて担うにはまだ無理があり、そこに飴村のような弱小な会社が入り込む余地がある。
元々は飴村の父が立ちあげて、大勢の社員と運営していた。しかし、十年前に体調を崩し、一線を退いてからは息子の飴村が代表取締役として会社を運営していくことになった。
ところが、社員は父親を慕って集まったという動機があったため、年を追うごとに一人一人と退職していった。
そして現在、代表取締役と事務員だけという状況が出来上がった。それでも飴村が会社を畳まなかったのは、ここで辞めたら父親に申し訳が無いという思いがあったからだった。
唯一、ここに残ってくれた上月の動機を、飴村は聞いたことが無い。
調査点検には人数が必要だが飴村単独でも仕事を進められるように最適化した結果、それなりに仕事はあるから給料も支払うことは出来ている。
一応そうした点で不満は無いはずだった。上月の方は飴村自信に不満があるかもしれない。
今日の上月は修道女のような服を着ているが、飴村にはその服の名前は分からない。
唯一わかるのはワンピースであるというだけである。
無造作に置かれた請求書に目を通す。この請求書は調査の依頼主に送るものである。飴村の仕事は下請けという位置づけになる。
その仕事もほとんどが父の代からのお得意様からの仕事が多い。それだけ信頼されているということでもある。そうした点でもこの仕事を簡単に辞めるわけにはいかなかった。
「さな…いや、上月さん」
言い直してから顔を上げると、透明な定規を片手に投擲寸前のポーズで上月が睨んでいた。
「あ…えっと、このサービス料っていうのが意味不明なんで、聞いておいて。こっちは現場でサービスのサの字も受けなかったって」
「わかりました。クレームですね」
「んー、というか、そう…だね。意見交換、に近いかな」
「私が連絡するんですよ?」
「お手柔らかにしてあげてね」
上月は請求書を受け取ると、スマートフォンを手に取り、事務所を出て行った。
上月にこうした内容の電話をお願いすると、毎回部屋から出て自分の携帯電話から連絡を入れる。その時の嬉々とした顔は見てみないふりをしている。
そして確実にこちらの主張を通して帰ってくる。世の中には知らない方が良いということもあるのだと飴村は思う。
デスクの上に残った手紙を飴村は手に取る。
改めて表裏を確認した後、封筒上面をちぎって開ける。指を入れて中身を飛び出すと、便箋と共に、写真が封入されていた。
デスクの上に写真と便箋を並べる。
写真の方はレンガ造りの建造物が映し出されていた。それを確認してから、便箋を広げて読み始めた。
内容は調査依頼のようだった。これはとても珍しいことである。
普段の仕事依頼は元請けの会社から電話とメールで打診がある。仕事を受けるのであれば、後日契約書が届くというのが大まかな流れである。
つまり、仕事依頼は業者単位で行われるのが一般的なのである。
便箋には、承諾するならば電話で連絡をしてほしい旨と、詳細は現地で説明すると書かれてあった。
読み終わった頃を見計らうように上月が戻ってきた。
便箋を持ったまま、上月と目が遭うと無表情で頷く。どうやら、またこちらの主張を通したようだった。
「何が書かれてましたか?」
「仕事の依頼」
上月にとっても意外だったようで目を丸くしていた。
「珍しいですね」
上月は思ったことをはっきりと口にする。それは飴村にだけの傾向だということが最近分かった。
「珍しいよな」
便箋を机の上に投げたが、優しく着地した。
「どうしてこちらに依頼があったのでしょう?」
「書かれてないよ」
写真と便箋を持ち上げて見せる。
「この水力発電所を診てくれってさ。詳しいことは来てくれたら話すって」
写真と便箋を交互に眺めながら上月は自分の席に戻る。
「自治体ですか?市か町か…」
「個人だよ。家の敷地内にあるんだそうだ」
「個人所有の水力発電所?聞いたことありません」
「俺も聞いたことない」
「受けるんですか?」
即答できない質問がやってきた。上月はPCを操作しながら飴村の回答を待っていた。
「うーん…」
「是非受けてください」
意外な答えだった。今度は飴村の方が目を見開く。
「報酬をたんまりと貰ってください」
「個人だぞ?」
「今、住所を調べました。結構お金持ちだと思います」
上月の席に行ってPCのモニタを覗くと、地図が映し出されていた。
「ここの家、いわゆる資産家ですよ。直接の依頼だから経費としていろいろ請求できます。所長、チャンスです」
上月は淡々とだが、プッシュしてきた。
確かに、下請けで上に弾かれるよりは報酬としては期待できるところがあるだろう。ましてや相手が資産家ともなればなおさらである。
「まぁ、そうだなぁ。やるかぁ」
「え?やる気出ませんか?」
「俺がやる気出ることがあったか?」
「この機会はなかなかないですよ。やる気出してください。さっさと電話して」
机を指差しながら言う上月に、わかったといって手紙を受け取るが、PCに映し出されている地図ソフトの裏に、通販サイトのHPがあるのを飴村は見逃さなかった。
差出人の曽田茉希の連絡先は、便箋にも書かれてあった。封筒にも書かれていた住所と名前の他に便箋には電話番号が書かれていた。
今時珍しく、自宅と思われる電話番号だった。
飴村はデスクの椅子に腰を掛けたまま、スマートフォンからその電話番号へ発信した。
呼び出しの間、机の端に置いてあったメモ帳を手元に引き寄せる。
「はい、曽田でございます」
スピーカから聞こえたのは太い男性の声だった。
「え?」
名前から女性を想像していた飴村は受け答えとしては失礼な発言になった。
しかしすぐに、本人が出ない可能性もある自宅の電話だということを思い出す。まるで学生時代に彼女の家に電話する時のようだと思った。
「あ、ごめんなさい。私、K&Aコンサルタントの飴村と申します。えっと…茉希…さんは御在宅でしょうか?」
「…失礼ですが、どういったご用件でしょうか?」
「はい。茉希さんから手紙を頂きまして。その内容について詳細をお聞きしたいと思って連絡をしたのですが…」
「…わかりました。茉希お嬢様は今、部屋にいらっしゃいます。呼んでまいりますので少々お待ちください」
クラシックが流れ始めた。どこにでもある保留音だが、上月との会話から勝手にその先にある豪華な家をイメージしてしまった。
「おい、なんかお嬢様って言ってたぞ」
保留だから聞こえないはずなのに音量を落として上月に伝える。
上月はそれに応答することは無かったが、小さくガッツポーズをしていた。
「はい。お電話代わりました。曽田茉希と申します」
耳に当てたスピーカからソプラノの声が聞こえた。まだ少女の感じがするが、決して幼いという感じでもない。
「あ、どうも、初めまして、K&Aコンサルタントの飴村です。お手紙ありがとうございました」
最後の言葉はまるでラジオDJのようだと自分でも思った。
「お電話していただけたということは、受けていただけるということでよろしいのでしょうか?」
「話が早いですね」
「その方がよろしいのではないかと思いました。違いますか?」
「異論はないです」
「ちなみに写真だけでどこまでわかりますか?」
「そうですね…。写真と言ってもただの外観ですからね。まあ、古いなっていう程度しかわかりません」
「そうなんですね」
「我々のような仕事は写真をたくさん撮りますが、いわゆる観光地で旅行客が撮る写真とは全く違いますから」
「では、来ていただけますか?」
「ええ。お受けいたします」
「ありがとうございます。いつ、来ていただけますか?」
「そうですね。少し準備が必要なので、明日には伺います」
「そんなに早く来ていただけますか?」
「はい。何せ弱小企業なので。行動力だけが売りなんですよ」
上月が呆れた顔をして飴村を見るが、無視する。
「わかりました。手紙の住所だけで分かりますか?」
「大丈夫です」
「手紙にも書きましたが、詳しくは来ていただいてからお話ししたいと思っています」
最後に礼を言って電話を切った。
「いい感じですね」
上月は僅かに笑みを浮かべている。頭の中は報酬だけなのだろう。
「嬉しそうな所悪いけど、準備手伝って」
上月は黙って立ち上がった。
翌日、自宅から車で曽田家へと向かった。前日に社用車に調査用の機器を積み込み、その車で自宅へと帰った。
曽田茉希がどのように考えているのかまだ飴村には分らないが、今日中には構造物の外観調査は行うことができるだろうという考えだった。
それはまだ社員がいた頃であっても、一人二人で可能な作業である。
調査機器を持ち込んだのは、その場で気が付いたことがあったらすぐに測定できるようにという意図があった。
しかし、普段その意図で持ち込む機器以上に、この車には積み込まれている。これは手間賃を頂くための口実だと上月は言う。彼女としてはせっかくのチャンスだから、経費になりそうなものを持ち込もうということらしい。
辟易としたが、立場は強くない。所長と言っても偉いわけではないのである。
高速道路から一般道に移り、あと三十分ほど走れば到着する、というところでコンビニに寄る。
朝食にコーヒーとパンを購入して車の中で食べた。ふと思い立ち、スマートフォンを取り出して上月に連絡を入れておくことにした。もう事務所についている頃だろうと考えて事務所の固定電話に発信したが、誰も出なかった。
そこで上月の携帯電話にメールを入れておいた。今日は自分が事務所に来ないことが確定なので、朝はゆっくりとしているのかもしれない、と予想する。
曽田家はC県の北部に位置している。この近辺の景観で判断するならば田舎だということになる。まだ家やマンションが周囲に見えるが、密集しているとは言えない。
コーヒーを飲み干した飴村はゴミをコンビニ備え付けのゴミ箱に放り込むと、再び車を発進させた。
さらに道を進んで行くと、住宅地は一切見えなくなった。
道路も僅かに傾斜している。
茉希からの手紙では途中で左折する道があるという。ナビで道は表示されないということだったので、住所から入力してみたが、進路表示されなかった。
茉希によると、この近くに目印となるものがあるということだった。初めてくる人間にはこれを目印にしてもらうらしい。窓に見晴らしの良い景色が流れるようになってきたところで、目印の建物が見えてきた。
茉希の手紙には休憩所のようなところだ、と書いてあった。実際に見てみると、直方体の外観、横に長く、窓ガラスが片面四枚、都合八枚嵌められており、中に入れるようになっていた。あと二枚ほどガラスが嵌められそうだが、その部分には嵌められていなかった。車から降りることなく観察するが、すぐ脇にバスの停留所があるため、待合室だろうと考える。その待合室の手前に左折する道がある。
後続車もいないが律儀に方向指示器を出すと左折する。
さらに幅の狭くなった道を走る。上り傾斜かつカーブも多く、乗り物酔いに弱ければ参ってしまうような道だった。
待合室から二十分ほど走ると突然視界が開けてくる。
目前に石塀に囲まれた空間が見えた。石塀は一辺しか確認できずに、敷地の広さが推測できる。
石塀の途中に黒光りする鉄門がある。飴村はその手前で停車する。
降車して鉄門に近づき、鉄柵の隙間から敷地内を覗き見る。触れていないのにひんやりと感じる気がした。
鉄柵の正面に重厚な屋敷が鎮座していた。その手前に噴水、そして見える範囲からは丁寧に刈り込まれた庭園が確認できた。
屋敷は白を基調とした落ち着いた外観をしていた。広さを無視すれば、屋根に十字架でもあれば教会とも見ることが可能だった。
ここで叫んでも声は聞こえないだろうと考え、呼び鈴を探すと、屋敷から黒服の人間が出てくるのが見えた。
屋敷への道は正面にある噴水を避けるように大きく左右にカーブを描いており、黒服の人物は向かって右の道からこちらに歩いて来た。
たっぷりと時間を掛けてこちらに来ると、その人物は鉄門の前で立ち止まった。
「飴村一季様でお間違いないでしょうか?」
全く息を切らすことなく淡々と投げかける。
「あ、はい。仰る通りでございます」
確実に間違った日本語だが、そんな言葉を発するくらいに飴村の生活圏内にいない人種だった。
「お待ちしておりました。私は曽田家で雑用をしております、諸角と申します」
黒服は軽く頭を下げると、鉄門を開錠する。
つまり、諸角は使用人ということかと理解する。ますます非現実的な状況だった。
そして、なぜ自分が来たことが分かったのか、飴村は疑問を持った。
「あの…時間通りだったと思うんですが、それにしたって私が来たってなぜわかったんですか?」
諸角は一瞬身体が固まり飴村の顔を見る。
「飴村様、あちらに…」
諸角が上方を指し示す。
そちらに目を向けると、上方の石塀に監視カメラが設置されていた。しかもご丁寧に石塀と同じ色にカメラ本体が着色されており迷彩化していた。
「ああ、なるほど」
つまり、このカメラで誰が来たかを邸内から確認することができたのだ。
照れ笑いをしながら諸角を見ると、真顔で軽く頭を下げただけだった。
「この塀も縁の部分に手を掛けると警報が鳴る様に作られております」
見上げてもその装置は見えない。脚立で頑張れば届かないことは無いが、手を掛けても警報がなるということである。邸宅を囲んでいる塀すべてがこの仕様になっているということだった。
諸角から車は正門を入って脇の辺りであれば好きなところに駐車して良いということだったので、言われた通りに駐車した。区切られたわけでもない駐車場にはバイクが一台と車が四台停められてあった。
診断機器は車内に残したままで作業用のベルトだけ腰に巻いてから車を降りた。
このベルトにはホルダが付けられており、点検用のハンマが一挺だけ入る様になっている。
このハンマは飴村が仕事をする時には必ず着用している。一般的なハンマとは異なり、ヘッド部分がコンパクトになっている。さらに持ち手の部分が長く作られていることも特徴である。これは対象を叩いた時の音を聞いて欠陥を判断するためのもので、釘を打ったり物を破壊するためのハンマとは用途が異なるためだ。
車から降りて、待ってくれていた諸角に近づくと、わかりやすく視線は腰のハンマに注がれた。
「あ、いや、仕事道具です」
「見かけたことはございます。よろしいでしょうか?では、参りましょう」
鉄門を閉めて施錠してから諸角が歩き出したので後ろについて歩く。
「見かけたことあるんですか?これ」
諸角の背中に問いかける。
「ええ。ここで働かせていただく前は、エンジニアとして働いておりました。私自身は使ったことは御座いませんが、使い方は分かる、と言った程度でございます」
辛うじてこちらを振り向いて頭を下げる。諸角が言っていることが正しければ中々異色の経歴と言っても良い。元技術者の使用人である。雇う側からすれば結構便利なのかもしれないと考えていると、噴水の前まで到着した。冬場だからなのか水は出ていなかった。
「陳腐な言葉なんですけれど、素晴らしい庭園ですね」
「奥様の自慢の庭園でございます。お会いできる機会があれば是非直接お伝えください」
「その…下世話な話なんですけれど、結構お金かかりますよね?」
「普通に業者に頼めばそうなると思います」
「普通に業者に頼んでないのですか?」
「専属の庭師がおりますので」
「結局報酬は支払われなければいけませんよね?」
「庭師が曽田家に居候しておりますので、そういった点については何も」
諸角はそれ以上言わなかった。つまり支払っていない、ということである。
「なるほど…非日常的な話ですね」
「この家にとっては日常でございます」
諸角の見た目は五十台前半だろうか、黒より白が目立つ髪の毛をオールバックにしている。さらに丸眼鏡と口髭といった姿はまるで漫画の世界から飛び出してきたかのようなフォルムだった。
庭園に目を移すと芝生が綺麗に刈り込んであり、所々に生えている木々は自然にはならないように特徴的にスタイルで刈り込まれていた。確かに人の手が加わっているということが明確だった。
正面に迫っている屋敷は横に長く二階建てだった。左に目を移すと石塀が屋敷の奥へと伸びている。対して右は石塀が途中で折れ曲がり右斜め前に向かって伸びているのがわかる。右奥に向かって敷地が広がっているということだろうと飴村は思った。
「お嬢様は自室でお待ちなので、そちらにご案内いたします」
諸角が言い終わるのと同時に玄関の扉を開ける。
曽田家邸宅内は、想像していたものよりは落ち着いた雰囲気だった。ダークブラウンを基調としている内装は飴村の好みだった。
玄関ホールを起点として左右に伸びている廊下は外から想像した通りだった。正面に見える大階段は、照明で反射するくらいに光っている。掃除が行き届いているのか、何度も上り下りしたせいで磨かれたか、判断はつかない。飴村にとってはどちらも同じことだった。
諸角がスリッパを準備してくれたので玄関で履き替える。玄関と言っても、洋館なので三和土などはない。最近の賃貸でもあるような段差のない玄関になっており、明確な境界は無くシームレスである。
「お嬢様は二階です。こちらへどうぞ」
大階段へと導かれて二階へと向かう。作りが良いのか、気が軋む音が全くしなかった。
一歩一歩足を上げながら、不思議な対応だと感じていた。こうした家ならば応接室のような目的を持った部屋があっても良いものだろう。それが外部からの客に対する礼儀ではないのだろうか。特に礼儀とマナーに煩そうな家であればなおさらである。これだけ部屋数があるのだから、目的にあった部屋が無いということは考えられない。
最初から依頼者のパーソナルスペースに通されるということは、飴村にとっても初めてである。普段の仕事相手である業者や会社でも、会議室に通される経験しかなかった。
これはこの家にとって普通なのだろうか。
階段を上り切ったところで左右に回廊の様になっており、一階と同じく左右対称になっていた。
折れてすぐの所から伸びている廊下と回廊を進んで一階の玄関から伸びている廊下と同じ位置にも廊下があった。
つまり、一階二階共に、左右に二つずつの廊下が伸びているという構造だった。
諸角は大階段を左に折れてすぐに見える廊下に向かって歩いて行った。
一瞬、飴村の身体が硬直した。
廊下の先にある物体に、身体が防御反応を取ったのである。
硬直が解けたのは、その物体が人間だと頭で理解した時だった。
廊下をこちらに向かって歩いて来る姿が目に映る。
諸角は歩みを止めないので、僅かに開いた距離を埋めるように小走りになった。
足がもつれてしまったが諸角に追いつく。
歩いて来る人物に目を向けた飴村は違和感を覚えた。
酩酊に似た感覚に陥る。
廊下右手に等間隔で並んでいる窓から差し込む光が、自分達も含めて周期的にその人物にも当たっているが、人物の見え方が変わらなかったからだった。
つまり、光が当たっているかどうかに関わらずに見た目が変わらない。
それは、その人物の服装に原因がある。
頭から足元まですべて黒で包まれていた。よく観察すると、黒の作務衣である。足元は裸足に雪駄、七分丈で足首が僅かに出ている。そして、黒いタオルで頭を包むように巻いている。
すれ違う直前くらいのタイミングで諸角が頭を下げる。
「あ、どもー」
右手を挙げて軽く挨拶した。声から男性だと分かった。
「塗師様、本日の昼食はいかがなさいますか?」
諸角が声をかける。
「そうっすねぇ…うどん…あります?」
「ご用意いたします」
「じゃあ、釜玉にしてくれると嬉しいです」
「承知いたしました。天ぷらもご用意できるかと思いますが、いかがなさいますか?」
「素敵です」
諸角は、では後程、と言うと頭を下げる。
塗師と呼ばれた男も再び右手を挙げて歩き出す。
飴村とも視線を交わす。常に笑っている目と口が特徴的だった。
飴村には僅かにだけ頭を下げる。
飴村も会釈を返すとひょこひょことした歩き方で大階段の方に歩いて行った。雪駄だからか、足音が響かない。まるで妖怪か何かのようだった。
諸角の喋り方から使用人の類ではなく、飴村と同じ客人だということになる。
「あの…さっきの人って…」
「便利屋でございます」
「便利屋…。何か仕事を依頼したっていうことですか?」
「そうです。だからここにいらっしゃいます」
「でも、仕事しているようには…」
「何をしているかは私も把握しておりません」
飴村はそれ以上、何も言えなくなってしまった。少なくとも諸角以外の誰かが便利屋に仕事の依頼をしたということである。
なぜスリッパを履いていないのか、聞いてみれば良かったと少し後悔する。
「ちなみに使用人は諸角さん以外にいらっしゃるんですか?」
「今は私しかおりません。あとは居候が五人住んでおります」
「居候…」
「飴村様」
諸角が急に振り向いたので、ぶつかりそうになる。
「は、はい」
「お嬢様の部屋でございます」
飴村に構わず頭を下げる。
塗師に気を取られている間に、部屋の前まで到着していた。
「ありがとうございます」
「私はここで失礼いたしますが…」
諸角の視線が腰のハンマに移動する。
「部屋の前にはおりますので、何かございましたら、お声をかけてください」
「俺疑われていますよね?」
諸角は茉希の部屋のドアをノックする。室内から、どうぞ、という返事が返ってくる。
「何もしないですからね。大丈夫ですから」
諸角は頭を下げて右手を室内へと差し出す。飴村に誤解を解く機会を与えてくれない。
「失礼します」
飴村は軽く頭を下げて入室する。
室内は薄い水色の壁紙に囲まれていた。一歩踏み出すと、仄かに甘い匂いが漂ってきた。
右手の壁にある扉や机、ソファやクローゼットなどが白色でまとめられていた。右手の扉は寝室に続いているのかもしれないと思った。
窓のない部屋だったが、明るく感じられた。
曽田茉希は机の所で立っていた。
「いらっしゃいませ。遠い所ありがとうございます。曽田茉希です」
邸宅の豪華さからは想像できないような素朴な女性が立っていた。年齢を聞くようなことはしないが、見た目だけで推測すれば二十代後半だろうと思った。僅かに茶色が入った髪を肩口まで伸ばしている。特にまとめることなく、自由にさせている。
服装もジーンズに薄手のニットという、豪邸に住んでいるお嬢様というイメージを持っていた飴村にとっては、拍子抜けだった。
「えっと、K&Aコンサルタントの飴村です」
すぐに仕事モードに切り替えて、名刺を取り出す。
「新しいファッションですか?」
飴村が首を傾げるのを見た茉希は腰を指差す。
「ああ、仕事道具です」
茉希は目を見開いて何度も頷く。
「大工さんみたいね」
「釘は打ちません」
「猫に小判みたいね。どうぞ」
ソファに勧められたので着席するが、やはり居心地は悪い。環境が悪いというわけではなく、付き合ってもいない女性の部屋でこれから仕事の話をするということが、特殊な状況だからである。
過去にもそう言った状況に公私ともに陥った経験はあるが、そう言った場合は自分から切り出すことに決めていた。
「えっと…私の会社って、検索で出てくるような会社ではないのですけど、どこで知ったのですか?」
机の前にあったキャスタ付きの椅子を持ってきて座る茉希に尋ねる。
「知り合いのゼネコン社員に教えてもらいました」
「その社員さんにお願いすれば良かったのでは?」
「忙しいようでしたから。でも、こういった仕事は飴村さんに相談した方が確実だと言われました。調査結果に基づいてその方にまた相談しようと思っています」
忙しくない人間にとりあえずの調査をさせて、実務は適切なところにお願いするということである。
茉希は飴村の表情に気付くことなく、ソファの前にあったテーブルにまとめて置かれていた写真を並べ始める。
「送らせていただいた写真は一枚でしたけれど、他にも写真は撮影してあります」
無造作に広げてから綺麗に並べ始めた。
その写真を流すように確認した後、飴村は口元に手を当てた。
「確認ですが、水力発電所ですよね?」
「亡くなった父が義父…私の祖父から譲り受けて管理していたものです。父は発電室、と言っていましたが…」
水力発電室。
規模がどれほどか直接確認していないが、その呼び方の方が適切なのだろう。
飴村は写真の乗っているテーブルに目を落としたまま黙っていた。
「この発電室を診ていただいて、補修や修繕をすれば残していても問題ないっていうことを証明していただきたいのです」
「結果ありき、ですか?なぜです?」
実際に見てみなければわからないのはもちろんである。構造物の劣化が激しければ、手を加えて延命させることよりも廃棄を選んだ方が得策である。茉希の主張に別の思惑があるのだと考えた。
「単純な話です。あの建物を残したい。ただそれだけの話」
「あなたくらいの年代の女性が執着する対象としては渋すぎませんか?」
茉希は口元に僅かに笑みを浮かべる。
「時と場所によってはセクハラとなりかねませんよ?」
「本気ではありません。気に障ったのなら謝ります」
「それに何に興味を持つかは自由ですよね?」
「正論です。言い返す言葉はありません」
飴村は座ったまま頭を下げる。
「後々の事を考えると、お話はしておいた方が良いかもしれませんね」
茉希は一瞬目を伏せると、飴村に向き直った。
「そんなこと言っても、話は単純で馬鹿馬鹿しい話です。私が直接あなたに依頼したことや私の部屋でこんな話をしている理由にも関係します」
茉希の言葉を受けて、座っている姿勢を正す。
「私はあの施設を残したい。私の母は壊したい。ただそれだけなんです」
茉希は真剣な顔をして言った。飴村は細かく頷いた。
「つまり…あなたとお母さんとのちょっとスケールの大きい親子喧嘩に今、私は巻き込まれているわけですね?」
「あなただけではありませんけれどね」
諸角などの使用人は大変だろうと想像する。
「あなたが発電室…ちょっとまだこの表現に慣れませんね。発電所にします。発電所を残そうとする意図は何ですか?」
「幸之進…父が守ってきたものだからです。正直なところ、金銭面で苦労することは我が家にはありません」
言い切ったな、と飴村は思っていた。自分の、そして周囲の事を客観的に観察できているのだろうと推測する。
「それでも父はあの発電室を守ってきました。発電機が古くて、壊れてしまってからは発電していませんでしたが…。」
そこで口を閉じると顔を僅かに下に向ける。表情は変わってはいなかった。
「母親側の主張としてはどうなんですか?」
茉希の気持ちに寄り添うことは簡単で、そうしたい気持ちもあったが、プロとして仕事を受けようとする以上、折り合いをつける必要がある。それを踏まえた上での質問だった。
「母は私とは反対の意見です。必要のないものは取り除こうと考えています」
「発電室を取り壊そうとしているんですね?」
「そうです。それで新しく東屋でも建てようと思っているそうです」
「東屋?」
「滝の様に流れる川を見ながら紅茶を飲みたいんだそうです。本当に意味わかんない。そんなもの必要?」
最後の方は少し早口になっていた。
「悪くないですね」
睨み付けるような視線を浴びた。
「本心ではないです。もちろんきっちり検査はさせていただきます」
軌道修正をできたかはわからなかった。
「では今から見に行きますか?」
是非、と言う前に二人共立ち上がっていた。
部屋から出ると、諸角が律儀に部屋の前に立っていた。
彼の琴線に触れるような言動は無かったようだった。
「諸角さん、お父様の発電室に向かいます。長くなりますか?」
最後の発言は飴村に向けてだった。
「どうでしょうね…調査は私だけでやりますから、最初だけいていただければ大丈夫です。三十分くらいだと思います」
茉希は頷く。
「ということなので、よろしくお願いします」
諸角の、かしこまりました、を待たずに茉希は大階段に向けて歩き出す。飴村も頭を下げると茉希について行く。ベージュのロングコートを羽織って歩く茉希は、まるでモデルの様に歩いている。こういったことも教育を受けるのだろうか、と飴村はぼんやりと考えていた。
大階段に近づくにつれて、飴村の後頭部から背中に向けて、痺れるような感覚を自覚するようになってきた。
茉希との会話を踏まえると、ある推測が頭に浮かんでくる。出来ればそうなってほしくはないが、身体は正直とも言われる。
大階段に出て、一階に向かって降りきったところで、その推測が正しかったことに気が付く。
二人の後方で扉が開く音が聞こえた。
「マーヴェラス!」
茉希がすぐさま後方を向く。飴村はもう『知っている』から正面を向いたままである。
「皆さん、ごらんなさい、あそこに見えるのは、失った父親の影を追い求める健気な娘と、地道な努力と小金が大好きな維持屋のカップルですよ」
両眼を見開いて、脱力したように口を開けている茉希の顔が視界の端に映っているが、こればっかりは運が悪かった、出会い頭の事故、としか言いようがない。
「何…あれ…」
茉希はそう呟くが、まずは飴村から切り出すしかない。こうした雰囲気では自分から会話を切り出すのが得策なのだ。
「地道な努力のどこが悪いんだ?それに小金が好きなのはあんたもそうだろう?」
大階段の脇、玄関と相対する面にある部屋からスーツ姿の男性が三人と深緑のワンピースに身を包んだ女性が出てくるところだった。
喋っているのは、スーツ姿の男性の一人である。ストライプのグレースーツにループタイ、黒々とした髪をオールバックにして、青いセルフレームの眼鏡をかけている。
今は口髭が真横になるくらいに笑っていた。
「こんなところで会うなんて…ああ、なんて運命なのだ。なあ、そう思わないかね?」
喋っている男は隣の男性に話しかける。小柄な男性はスーツに着させられている印象が強い印象だった。三人の男性の中では見た目が最も若い。
「え?いや…何とも」
「困っているじゃねぇか」
「彼も私と君の運命の強さに何も言えなくなっているのだよ」
茉希の顔を横目に確認するが、先程と表情は変わっていない。
巻き込まれた小柄な男性は相変わらず、飴村と眼鏡の男の顔を見比べている。飴村とこの男の関係など知らないということが態度に出ていた。
「板尾さん、この人が例の?」
小柄な男性の隣にいた男性が尋ねる。細身だが、スーツの着こなしからがっしりとした体格をしていることがわかる。小柄な男性よりも年齢は上に見える。白髪を自然な分け目で整えていた。
「ええ、そうですとも。彼が我々の業界で言うところの維持屋、構造物延命のプロフェッショナルなのです」
言い終わると同時に、半身になり、右手を飴村の方向に伸ばす。エレガントに離れた場所にいる人物を紹介しようとした時の体勢である。
「茉希、言った通り、こちらは話を進めています。あなたは…」
ワンピースの女性、話しぶりから推測して茉希の母親だろうと飴村は考えた。
顔立ちを見れば日本人ではないように見えた。目がはっきりとして力強い。しかし、髪の毛は黒々としているし、発する言葉のアクセントの付け方が日本人のものと大差ない。日本で生まれ育ったのだろうかと考えた。
「これからのようね。間に合う?もうこちらの三人をあそこへお連れしたわよ」
飴村を一瞥すると口元に笑みを浮かべる。背筋が冷たくなるのを感じた。
「間に合わせます」
茉希はそれだけ言うと外に出て行く。
「ミスター一季、シーユーアゲイン」
頭上で右手の二本指を振るような仕草をして板尾が言った。
飴村は板尾を一瞥すると、残りの三人に頭を下げて扉を開けた。
邸宅を飛び出た茉希は玄関を背にして左手、現場の方向だと思っていた方向に向かって歩いていた。
早足になっているかと思っていたが、茉希はゆっくりと歩いていた。一瞬だけ頭に血が上ったが、すぐに冷静になったということだろう。
飴村自身、こうした人間には好感が持てた。感情がかき乱されるような事態に陥ることは社会で生きている人間であっても、こうして半隔絶されたところで生きている人間であっても、起こりうることである。
問題は、その状態からどれくらいの早さでリカバリ出来るか、が重要である。その点、茉希は、飴村のような他人や、ましてや家族に機嫌を取ってもらおうとすることはせずに自分自身でそれができるのである。
自分の機嫌は自分で取るしかない。
茉希に追いつくと、僅かに後ろを歩く。
「ああ、駄目だ。あの人の前にいると不機嫌になっちゃう」
「いつもそうなの?」
「ケンカしている時だけね。そういうものじゃない?」
確かに上月とケンカしている時は、席を立つだけでも苛立つことがある。
「俺にも経験あるなぁ」
「普段は優しい母なの。ただ、こう、自分で決めたことは曲げたくないのよ」
「そんな母親だと毎日大変じゃないの?それこそケンカしてない時だって…」
「私に関係ないことが多いし。母がしたいようにしてくれれば良いって思うから」
今までどれだけ自分の事を押し殺してきたのだろうかと考える。もしかしたら父の幸之進も同じように考えていたのかもしれない。だからこそ、娘の茉希もこうした考えを持つようになったとも考えられる。
そんなことより、と茉希は語気を僅かに強くする。
「母はもう、自分で解体業者を見つけたのね。早く調べてもらわないと」
そう言って飴村の顔を見る。
「そうですね」
「あのエキセントリックが服を着ているみたいな人は知り合いなの?」
「…知り合いの定義によります」
「馬鹿みたいな軽口叩けていれば十分知り合いよ」
飴村は観念したようにしゃべり始める。
「あれはK建設の人間」
「あのハイテンション眼鏡も?」
「そう。他の二人は初見だけど、あいつが引き連れていたから間違いないと思う」
「なんか変な呼ばれ方していたけど…維持屋だっけ?」
「そんな風に呼ばれているみたいね。俺は知らないけれど」
「どう呼ばれているかなんて、その本人には分らないでしょ。陰口と一緒。ポジかネガか、の違いだって」
確かにそうかもしれないと、妙に納得する。
「あなた、そんなに有名な人なの?」
「知っていて俺に依頼したのでは?知り合いはそう言ってなかった?」
飴村を知っている業界人から紹介されたのであれば同じことを言われていてもおかしくはない。
「いや、言ってなかったかな…」
「ふーん、そう」
それに、と茉希は続ける。
「構造物のプロフェッショナルって…」
「延命の、だね」
二人は邸宅前の道を、正面向かって右手の方向に歩いている。邸宅を回り込むようにして左手に折れると、右斜め前方に発電室へと続く林道が伸びている。
そちらに近づくと、邸宅の裏手が見える。そこには、プレハブが置かれていた。正面の庭園に比べるまでもなく、狭い裏庭に、ひっそりと置かれている。
「あの建物は何です?」
「ああ、あれはウチに居候している職人たちの倉庫兼作業部屋みたいなもの」
「居候って職人さんたちなんだ…」
「一人だけは元職人。今は役所勤め」
「やはり仕事がないとか、そう言った理由で?」
「聞いてないわ。興味もないし」
その居候たちの仕事に使う道具などを入れておく倉庫であり、かつ、中には机や作業台、工具が常備されており、作業もできるようになっている、と茉希は説明した。
「中を見ていく?」
「いや、急ぎましょう」
茉希は頷くと林道へと歩き始めた。
発電室までの道は一本道だと茉希は言った。脇道もなく、迷うことは無い。そう言った意味で人工的な道だと飴村は思った。その代わり、高低差があった。
塀は三十メートルほど林道を進むと途切れた。途切れた先は傾斜が急になっている。ここからは浸入する人間はいない、という判断で作られているのだろうと想像した。
途中で一度、緩やかに大きく道が曲がってさらに進む。さらにもう一度元来た方向に折れるように曲がる。坂道が階段の様になっていた。
坂は急ではないものの、飴村にとっては僅かに汗ばむような道だった。
霜を踏みしめながら十分ほど歩くと、水の音が聞こえてくる。流れ落ちて行く音、恐らく自分が生きている内は止まることがない音は認識してから時間を掛けずに自分の中に取り込まれる。そして、気にならなくなった。都会で人の声や車の音を気にしないことと同じだろう。環境が違っても、身体の機能は同じなのだ。しかし、感じ取るものが全く違う。
木々が少なくなってきて、そして、突然と視界が晴れた。
その先には平坦な土地にレンガ造りの建造物が佇んでいる。そこだけ木々がなく、造成されており、これまでの道に比べれば歩きやすかった。
「これが父の遺した発電室です」
茉希の言う発電室という言葉はやはり過小評価ではないかと飴村は考えた。目前の建造物は小規模な発電所である。
二人が立っている場所からは建物の二面分しか確認することはできない。視線を左情報に移すと、山から流れ込んでいる川の流れが発電所に吸い込まれているように見えた。
発電所は直方体をしており、長い辺が川と直行するようになっている。川は山から流れ落ちるように下流へと流れている。その流れの上に、川の上を覆うように発電所は建てられている。
水力発電の仕組みを考えればこのような形状になる。川から流れる水で、恐らく建物内にある水車を回転させる。その回転を発電機に伝えることで発電する。
ダムを使った水力発電が大半を占めているが、極論として水の流れがあれば発電の仕組みは簡単であるため、個人で水力発電システムを構築している場合もあると聞いたことがあった。
しかし、個人でこのレベルは過剰ではないかと推測する。
「なんとも…立派っすね」
「明治の終わりくらいからほとんど姿は変わってないって聞いている」
「でしょうね…レンガの変色とか」
飴村はゆっくりと発電所に近づく。
発電所の向かいは見晴らしが良い。この発電所自体が高台に立つようなロケーションになっている。そちら側には柵が設置されており、間違って人間が落ちるようなことは無い。
「うん、コンクリートの風化の感じとか、確かに明治期に作られたものと似ていますね」
「コンクリートって五十年くらいするともうダメだって聞いたことあるけど」
飴村は直方体の短辺の基礎部を触っていた。短辺には入り口の扉があった。茉希はその後ろで覗き込むようにしている。
「昔は、今と違って人の手でコンクリートを混ぜていたからね。その頃のコンクリートは最低限の水で作られている。シャベルが入って混ぜられれば済むからね」
飴村は基礎部のコンクリートを撫でるようにして言った。
「今のコンクリートは違うの?」
「その頃に比べれば水が多い。ポンプで送る様になっているからね。過剰な水は劣化の要因にもなる。未だに明治期に作られたコンクリート構造物はある。有名なのは北海道の小樽にある小樽築港の防波堤だよ。もし旅行に行くことがあったら見てみると良い」
「でも防波堤があるだけでしょう?」
それはそうだよ、と飴村は言った。
飴村は立ち上がると発電所の下流側に回る。しばらく発電所に沿って進むと途中で地面が切れて発電所から川の水が流れ出ている。川はその先を落ちるように流れているのが見えた。
今は発電していないという説明だった。つまり、この川は発電所をただ素通りしているということになる。
「発電所の向こう側へはどうやって?」
「裏手に橋が架けられているから、それを使って」
茉希の言葉に頷く。
「了解。ちなみにここの鍵は?」
「常に開けてあるわ。誰も入らないし。使うこともないし」
「わかった。じゃあ、後はこっちで」
「どこにいれば良い?」
「暖かいところで紅茶でも飲んで待機で。何かあったら携帯で電話するから。電話番号教えてくれる?」
「ここ、電波ないよ」
飴村はポケットからスマートフォンを取り出す。時刻は午前十一時を回っていた。茉希が言う通り、圏外という表示を確認する。
「あ、本当だ。じゃあ、どこまで行けば通じる?」
「家の入り口近くまでは入らないの」
「え?それ本当?不便だな」
「家ではWi-Fiは繋がるからネットが出来るし。電話は家の電話があるしね。外出する時に使えれば必要ないから」
確かにそういう生活をしていれば必要はないだろう。
ちなみにWi-Fiはここでは使えないから、と茉希は付け加えた。
「じゃあ、仕方ないか。まとめて後で聞くことにするよ」
「今日中にわかることはある?」
「一応、機材も持ってきているから。ある程度は。まずは外観調査からかな…。それが終わってからもう一度相談させてもらいます」
茉希は自分の部屋にいると言って戻って行った。
飴村はその姿を見送ると、発電所を見上げる。
腰のテストハンマを取り出すと、大きく深呼吸して歩き出した。
茉希の部屋に再び飴村が入ってきたのは、それから二時間後だった。
「はい、どうぞ」
茉希の声を確認してから飴村はドアを開ける。
ジーンズにブルゾンという、動きやすさから選択した衣類は、ここに来た時よりも幾分かくたびれていたようだった。
「あ、終わりました」
「寒かった…よね?」
強くはないものの、障害物の無い場所で、かつ屋外でも作業をしていたため、髪がパサついていた。茉希はそれが目に入ったのかもしれないと飴村は考えた。
「まあ、仕事なので…むしろ、昼食ありがとうございました」
正午を回った時に、諸角が昼食を携えて飴村の元に来た。
「それくらいはね。準備していたらどうしようかと思ったけれど良かった」
丁寧なことに、飴村が食べ終わるまで諸角がその場で待機してくれた。申し訳なく思った飴村は直ちに食べ終えて食器を諸角に返却した。
「一応、拝見できるところはすべて拝見させていただいたんですけれど…」
どうぞ、と勧められたソファに飴村は座ると、スマートフォンを机の上においた。腰のテストハンマは取り外してソファの上に置いた。
「まず外観ですが、やはり全体的に劣化は進んでいます。特に、北側、山と反対側のコンクリート基礎がひび割れが多発していますね。凍結の影響が大きいと思います」
「山側は日が当たらないから劣化しやすいと思ってたんだけど違うのね」
「劣化が見られたところは日が良く当たりますからね。寒くなったり温かかったり、その繰り返しで劣化していくんです。細かい説明はちょっと省きますけどね」
「へーそうなのね」
「だからと言って山側が問題ないかっていうと程よく劣化はしていますからね。全く問題ないとは言えませんが…」
「地震とか?」
「耐震性能に関しては鉄筋の有無が重要ですが…あ、ちなみに発電所の図面なんてありますかね?」
「父は何も言ってなかったけど…遺品の中にもなかったし」
「わかりました。無くてもとりあえず問題ないです。鉄筋探査レーダを持参していますから、また調査してみます。ただ見たところ、鉄筋が露出しているところは無かったですし、コンクリート片が剥落しているような場所は無かったです。表面は摩耗というか、ザラザラしてはいますけどね」
スマートフォンを手に取ると撮影した写真を映し出す。
「打音検査…つまり、この小ぶりのハンマで叩いた音を聞く限りは、内部に空洞はなさそうですね」
「音で判断するのね?」
「あとは跳ね返りとかですかね。音ははっきりわかることもあるけれど、反発とも合わせて総合的に判断するのは経験値が必要ですね」
茉希は細かく頷く。
「あと、吹き抜けの二階も見ましたが…」
飴村がスマートフォンを操作して写真を見せようとした時、扉がノックされた。
「はい」
「根来川です」
「どうぞ」
入ってきたのは、背の高い男性だった。顔が細長く、頭の横を刈上げている。ワークシャツにチノパンと言ういでたちで、部屋に入ることなく、開きかけたドアから上半身だけ室内を覗いている。
「あ、ごめんね。来客中?」
「大丈夫ですよ」
前屈みになっていた飴村はソファに背中を預けた。少し肩の力を抜く。体格が良い根来川は身体に似合わない高い声で声をかけた。
「頼まれていた箪笥の修理、終わったよっていうお知らせなんだけど…」
最後の言葉を言い終わる前に飴村を横目に見る。
「どうもありがとうございます。助かる」
「仕事の合間で作業したからね。遅くなったけれど」
「とんでもないです。あ、こちら、発電室の点検をしてもらっている飴村さん」
茉希は簡単に飴村の紹介をした。飴村も頭を下げる。
「ああ、そうだったんですね。初めまして、僕、根来川と言います。都内の家具店で働いている者です。縁があってこちらに居候させてもらっているんです」
茉希が話していた曽田家の居候の一人という紹介だった。
「家具屋さんですか」
「そう…ですね。一応。オーダーメイド専門の店なんです」
根来川は笑顔を見せる。
「注文多いですか?」
「まあ、ぼちぼちですね。流行っているって聞いたことありますけど、儲かっているっていう訳ではありません」
そんなものか、と飴村は頷く。
「まだ、作業されるんですか?」
「ええ。まあぼちぼちですね」
根来川と同じ言葉だが、意味が違った。
「そっか、時間があれば見に行こうかな」
屈託のない笑顔で笑う。見た目には二十台後半と言ったところだろう。茉希と年齢も近いのだろうと想像した。
「じゃあ、また時間があれば。茉希ちゃん、また後で箪笥、持ってくるね」
「根来川さん、ありがとう。あ、後で薬も持ってきてもらって良いですか?」
「ああ。分かったよ。茉希ちゃんも大変だね」
「どこか悪いのですか?」
「頓服ってやつ。寝つきが最近悪くて」
自分の親と対立するということで精神疲労するということだろう。
分かったよ、と言うと根来川は広げた片手を最後まで残して部屋を後にした。
「朗らかな人物ですね」
「あまり自分の事は話さないけれどね。だからたまに何考えているかわからなくなることがあるの」
「でも人間ってそんなものでは?」
「そうかもね」
茉希はどことなく寂しそうな顔をした。
その後、飴村は十分ほどかけて外観調査の説明をした。その結果、耐震性能を中心に詳細な調査をするという方向で茉希との打ち合わせを終えた。
「今からまた発電室に?」
「早い方が良いし、暗くなる前にデータ取っておきたいので」
そう言うと茉希と共に部屋を出た。
「あの人たちはもう発電室を見てきたのかな」
K建設の人間の事かと飴村は思った。
「あんなエキセントリックな人間を連れてくるなんて、何考えているんだろう」
「板尾さんのこと?まあ適切な人選だと思うよ」
二人は大階段に向かって歩き出す。
「そうなの?そうは見えないけれど」
「見た目がインパクトあるから、その気持ちも理解できるけれどね。俺が維持屋って呼ばれているのと同じであの人は破再屋って呼ばれている」
「ハサイヤ?新しい果物?」
「その流れだと俺は新しいおじやになるのか?そうじゃない。破壊と再生のプロフェッショナルなんだ」
「ああ、その字ね」
茉希は呆れたような顔になった。呆れたのは恐らく自分の頭に対してだろう。
「スクラップアンドビルドっていう考え方があってね。日本だと高度経済成長期にはこうした考え方で構造物が造られては壊されてまた新しく作られていたんだ」
「昔の考え方っていうことね」
「でも、その頃でも構造物を長く使って行くっていう考え方もあったよ。この業界ではね。ただ注目されていないっていうだけ。もちろん数も少なかった」
二人は大階段に差し掛かる。
その時、反対側の廊下から塗師が歩いて来るのが確認できた。相変わらず雪駄を履いている足元からは足音が聞こえない。
「ああ、また会いましたね。茉希さん、どうも」
茉希は会釈する。
「これから下へ?」
大階段を指差しながら笑顔で塗師は尋ねる。
「ええ。そうです」
そうとしか言いようがないのでそう答える。
「じゃあ、お供しましょう」
そう言うと二人の後ろからついて来る。
「あなたは…えっと…」
「飴村です。コンサルの人間です」
「ああ、そうですか。飴村さん。私は塗師と言います。便利屋です」
よく観察してみれば塗師も板尾に負けず劣らずな人物である。全くつかみどころがない。表情は笑顔で柔和だが、人物像が掴めないタイプだろうと想像した。
「次はコンサルの人ですか、さっきは建設会社の人たちと会いましたけれどね。この家には多種多様な職業の人たちが集まるですねぇ」
この邸宅にこれだけエキセントリックな人物が揃うのは普通なのだろうかと考える。階段を一段一段降りるようにその思考は頭の奥に仕舞われていった。
「あなたは何?」
「ああ、これから下で囲碁を打とうっていう話なんです。片桐さんと」
笑顔で塗師は言うが、片桐と言う名前に心当たりがない。消去法で居候の誰かということになる。
「囲碁が好きなんですか?」
「知りません。教えてもらいます」
これだけ笑顔のままでいられるのも才能だろうと飴村は思うようになっていた。
先に一階に降りた二人はそのまま玄関へと向かう。
「あー、ところで飴村さんは何をされに来ているんですか?さっきのゼネコンの人たちは山の上の建物を壊しに来たって言ってましたけれど」
「その建物を…壊さないようにするのが自分の仕事です」
少し考えて発言した。茉希は二人の顔を交互に見た。
「はぁ、それは凄い。ご苦労様です」
頭を下げて、では、と片手を挙げて言うと塗師は廊下の奥へと歩いて行った。
「他の居候の人もあんな感じ?」
「あの人は居候じゃない」
茉希の否定と階段脇の扉が開いたのは同時だった。
「声がすると思ったら、ミスター飴村」
両手を大きく広げて歩み寄ってきたのは板尾だった。後ろからは白髪の男性が歩いて来た。
満面の笑みで飴村の前に立つ。
「塗師さんと同じものを感じるなぁ…」
「便利屋さんですね。私もどこか他人とは感じませんでしたよ」
類は友を呼ぶ、と声に出そうだったが理性の方が勝った。
「あの、飴村さん、初めましてだと思います。K建設の石田と言います」
白髪の石田が名刺を手渡す。
こうした場所やタイミングでも社会人としての行動原理を変えないところはサラリーマンの鑑なのだろう。飴村も名刺を差し出す。
「噂では聞いていましたが、本当にいらっしゃるのですね」
「ええ。いますよ。そんなに希少性の高い人間ではないですよ」
皮肉なのか捩じれた社交辞令なのか、飴村には判断できなかった。こんな仕事をしている人間なんて自分以外にも大勢いる。
「もう発電所は見に行ったのですか?」
飴村は探りを入れてみた。
競争相手の動向を知ることは極めて重要である。それに初めましての後の空気感が苦手ということもあった。
「これからなのですが…」
石田は困ったような表情だった。
「ミスター長倉がいないのです」
板尾が輪を掛けて困った顔になった。石田と違うのはわざとらしいという点である。
「長倉さん…って一緒にいた小柄な方ですか?」
茉希は二人の顔を交互に見て言った。母親の客と言っても、招いた側であるという自覚があるのか、ホストとして心配していた。
「ええ。アリアさんと打ち合わせをしてから…ああ、先程お会いしましたよね。その後、我々三人で、アリアさんからの話を踏まえつつ、今後の方針をあちらの部屋で話をさせてもらっていました」
石田は板尾と出てきた大階段脇の部屋を指差す。
「私のポリシーとして、関わる仕事に関してはすべての作業方針が決定してから作業開始ということにしています。あらゆる事態を想定して計画を練るのです」
板倉は胸を張って答える。
「だから時間が掛かって仕方ないのですが…」
石田はうんざりとした表情だった。
「動いてみればその通りにはいかないことだってありませんか?」
「もちろん、あり得る話です。でも、細かく決めておけば対策がとれるんですよ。特に我々が意思を統一しておけばすぐに対応できる」
仰々しく手を広げて板尾は演説するが、それほど珍しいこととは言えない。飴村もすぐに頷いて引き下がった。
「昼食後に話し合いを再開しようとしたのですが、長倉君だけいなかったんです。十分くらい待ってから再開したのですが、戻ってこなくて…」
「とりあえず、現地踏査も今日中にする予定なので時間もなかったですからねぇ。二人で議論を進めましたよ」
やれやれといった表情の板尾は三人の周囲を回るように歩いていた。
「しかし、優秀な石田さんと私の二人で、プランをまとめることには成功しました。後は現地調査の結果から少し修正を加えるだけです。長倉君には勉強のために来てもらいましたが、こちらも仕事です。ここは涙を堪えましょう」
茉希は大丈夫だろうかと横をみると、ぐったりとした表情だった。
飴村も正直、板尾に付き合うのは精神的に疲労する。
「状況から察するに、お二人はもしかして発電所に向かいますか?」
ここで嘘は言えない。この二人も目的とする場所は同じなのだ。
「そうだよ」
「それならば私たちも行きましょう。呉越同舟っていうやつです」
この状況を見て言ったのだろうが、果たして同じ意味と言えるかはわからなかった。
「おい、おめぇらさっきからうるせぇよ」
怒号が響き渡る。四人は咄嗟に声のする方を見る。
塗師が消えて行った方の廊下から大股で初老の男性が歩いて来た。
彫りの深い顔立ちの為か、皺があまり目立たない。浅黒い肌が威圧感を増していた。Tシャツにジーンズだったが、肩から手拭いを掛けている。
「こんなところで大声でしゃべってんじゃねぇよ。響くだろ」
四人を見回すようにして文句を言う。
「片桐さん、ごめんなさい。もう静かにしますから」
茉希が申し訳なさそうに言った。
「お嬢、あんたがいるからこうして言ってんだよ。ちっさい時に散々俺に叱られただろう?」
少し声を落として、諭すように言った。
茉希の発言から、目の前の人物が片桐だということである。
「せっかく落ち着いて囲碁に興じてたってぇのに全く…」
片桐は腕を組んで茉希以外の三人ににらみを利かせる。
「ミスター、ご無礼をお許しください。我々客人が騒々しくしたのです。お嬢さんは悪くありません」
板尾が大げさに謝罪する。
「そういうこっちゃねぇんだよ。その場にいて注意で来てねぇってことが肝心だろう?」
片桐は引かなかった。
「それにあんたは何者だ?」
詰め寄ってくる片桐に板尾は目を大きくしながら両手を大きく広げて引き下がった。
「刈谷さん、初めまして、飴村と言います」
二人の間に割って入る様に身体を入れる。
片桐は仰け反る様にして離れた。
「茉希さんから仕事を依頼されました。それでここにいます。煩くして申し訳ありません。もう我々は外に出ますから、ゆっくり囲碁をお楽しみください」
行き場のなくなった怒りが片桐から発散したかのようだった。
「お、おう。気ぃつけろよ」
さっさと部屋に戻って行った。
「塗師さんにもよろしくお伝えください」
困ったら数分話しただけの便利屋も使う。便利屋冥利に尽きるのではないだろうかと飴村は思う。
「飴村さん、すみません。いつもはあんな人ではないんですが…」
「いや全然。囲碁が本当に好きなんだろうね」
「助かりました。ありがとうございます」
石田は声を顰めて飴村に感謝する。
「皆さん、さっさと出ましょうか」
すでにドアノブに手を掛けていた板尾が言った。
四人は発電所に向けて歩く。前方に飴村と茉希、後方にK建設の二人である。
「もう一人の若手の人、いいんですか?」
飴村は前方を見ながら言う。林道に入る手前だった。
「心配ですが、待っていてもしょうがないですし、業務を優先しますよ」
石田が息を言う。
そんなものなのかと飴村が思っていると、林道に入る手前で邸宅裏手の工房から人が出てくるのが見えた。
「あ、香さーん」
茉希が手を振る。出てきたのは女性だった。ホットパンツにダウンジャケットを羽織っていた。寒いのか暑いのかわからない格好だった。
「居候の小峰さんです。鳶職なんです」
客の三人に説明しながら茉希は手を振っている。小峰はその姿を確認すると僅かに口元に笑みを浮かべて手を振る。
こちらに来ることなく、そのまま邸宅の方に歩いて行った。裏手から入るのだろうと飴村は思った。
「女性の鳶って珍しいですね」
再び発電所に向かって歩き出してから石田は言った。
「そうですか、最近はトラックドライバも女性が多いですよ」
手を後ろに組んだまま板尾が言う。
「ああ、そう言えばそうですね。うちの現場で生コン運んでくるオペレータも女性が増えてきた気がしますね」
「そうです。男性ではないとできないという仕事って少ないんですよ。大した話じゃないんです」
「でも…実際は女性が少ないと思います」
後ろを振り向いた茉希は言った。四人は坂を上り始める。
「そう…ですね。もちろん女性にとって興味が無い分野の仕事でしょうから」
息を切らしながら板尾は言う。
「そう言った意味で少ないのかもしれません。でも私は、男性が多いっていうこの業界のイメージの問題が大きいと思いますよ」
折り返してさらに坂は続く。もう発電所と水の音は耳に入ってきている。
「それも昔の話だろう?さっきも言ってたけど今は女性も多いし、なんなら男性より根性あるんじゃねぇか?性別なんか関係ないだろ」
言い捨てるように板尾に行った飴村だったが、自分でも本心だった。
「アメージング飴村、素晴らしいですね」
額に汗を浮かべながらスタイルを崩さない板尾を少し尊敬した。
発電所まで到着すると、老体二人は揃ってハンカチで汗を拭った。
「随分と見晴らしの良い場所ですね。ピクニックしたい気分です」
板尾はクルクルと回りながら、発電所に近づく。
「ピクニック…」
茉希はそれだけ言うと飴村の顔を見る。
「いや、見ないでくれる?言わせておけば良いんだよ」
崖側から見晴らしの良い街の方を眺めている。ここだけ切り取れば西欧のジェントルマンが午後の散歩の途中で休憩している、と見えなくもない。
「足場も組めますし、解体作業としてはそこまで難しくはなさそうですね。後は資材をどうやってここまで持ってくるかだな…」
石田はデジタルカメラを片手に発電所を撮影している。
「そういえば、調査機材を持ってくるんじゃなかった?」
仕事と観光をしている二人から離れた場所で茉希が尋ねる。
「そう言えば…ああ、駄目だな。流されてしまっている」
片桐の一件で調査機材を持ってくるのをすっかり忘れていた。
「もう一度後で来るよ」
「茉希さん、鍵開いているんでしたっけ?」
石田が茉希に尋ねる。板尾も発電所へと歩いていた。
「ええ。開いています」
飴村は発電所の入り口に近づく。それに石田と板尾が続いた。
「さっき来ましたから」
そう言って飴村はドアノブに手を掛けて扉を開いた。
室内は山側に発電用のタービン、その下に視認できないが川からの流れをタービンに伝える羽が取り付けられている。現在はその羽根は川に接していないようになっている。その脇、入り口側に送電設備が置かれている。これは邸宅に送るための設備であったはずである。タービンの向かい側には、棚などが置かれており、今は何も収納はされていない。それら棚が置かれている側、つまり崖側の上部には二階分のフロアが敷かれている。タービン側は吹き抜けとなっていて、ちょうど一階の面積の半分ほどが二階となっている。入口正面には簡素な階段があり、それで二階へと上がる。
飴村が二歩踏み込んだところで。
違和感。
一瞬で脳がアラートを出す。違う。ついさっきまでいた場所と違う。
その後ろから石田と板尾が入ってきた。
雨裏から一歩下がった場所で立ち止まる。
石田は口元に手を当てて息を止めていた。
板尾と飴村は同じものを見ている。
「いつ来てもやっぱり埃っぽいなぁ…」
茉希は天井の方を見ながら入ってきた。
「来てはいけません」
板尾が高圧的な口調で制する。邸宅での飄々とした口調と違ったため、茉希はその場で立ち止まる。
なお、こちら側に来ようとする茉希を石田が制止させて発電所の外へと押しやる。
発電所の内部、室内のため川の音が良く響く中、発電用のモータが置かれている前の床に、それはあった。
それは大の字になって寝転んでいる人間の様に、最初は、見えた。
服装から邸宅で見かけた長倉の格好である。
しかし、寝転んでいる、と二人とも考えてはいなかった。
それは石田も同様だっただろうと考える。
飴村は扉の方を横目に確認する。
石田が茉希の肩を押さえるようにして立っている。二人共こちらを真剣な目で見ていた。
飴村は長倉が横たわっている傍まで歩く。板尾もそれに続いているのがわかった。
二人は一言も発しないまま、長倉の元までたどり着く。
川の音が止まることなく続いている。
「長倉君」
口元に手を当てて板尾が言うと、悲しそうな表情になった。
目を閉じて床に横たわっていた長倉は死んでいた。
誰もが死んでいると理解できる状況だった。
長倉の死体は、首、両肩、両腿がバラバラに切り離されていた。切り離されている部分には血だまりが直径三十センチほどで広がっており、固まっているように見えた。
切断面からは、何か線のようなものが飛び出しており、切断面同士を繋げているようだった。
飴村には五芒星の頂点に頭、両腕、両足が置かれたような形に見えた。
中央には胴体である。
「マジかよ」
飴村は呟いた。
川の音は止まることなく発電所内に響いていて、飴村の呟きは誰にも聞こえなかった。
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