錯綜的トラディション~Incline~

八家民人

第1話 プロローグ

 いつも歩いている道でも、季節が変われば、景色が変わる。そんな当たり前のことだって曽田茉希にとっては楽しいことだった。それが一年間で最も寂しい季節の冬であってもである。一年周期でやってくる景色の移り変わりを頭の中で思い出しながら茉希は山道を歩いていた。

 昨晩が冷え込んでいたからか、足を踏み出すたびに霜の降りた地面から軽快な音が聞こえていた。

 空には分厚い雲がみっしりと敷き詰められていて、太陽の光を遮断している。分厚く着こんだ着衣の中は僅かに汗ばんでいた。

 この分では今夜は雪かもしれない、と空を見上げながら手袋越しに手を揉むような仕草をした。多少は寒さが緩和されているのだろうが、どうしたって末端の手や足は冷え込む。

 茉希が目指しているのは自宅の敷地内にある。とはいっても歩いて十分程の距離にある場所である。

 先程から茉希の耳には水が落ちる音が聞こえ始めてきた。目的地は近い。

 霜を踏みしめながら道を進むと、目の前が開けてきた。それと同時に視界にレンガ造りの建物が目に入る。茉希の目的地である。

 さらに。

 その前に佇む女性も同時に茉希の視界に入る。その女性はレンガの建物を見ていた。

 歩いている時は乾燥した空気で目を細めていたが、女性を見つめる茉希の目には別の感情が宿っていた。

 女性を視界に入れながら、茉希は歩を進める。

 ここに来たのは自分の目的があるからだ。その目的を達成するためである。

 霜が踏みつぶされる音に反応して女性は首を動かし、茉希の方に振り向いた。

 深緑色のコートを着込んだその女性、茉希の母親である曽田アリアである。

 自分の方に向かって歩いてくる茉希を確認すると、すぐに顔を建物の方に戻した。

 その行動が、茉希を苛立たせた。

 このようなシチュエーションは一般的ではないと思うが、普通の家庭であれば、自分の立っている後ろから娘が歩いて来たら、何が声をかけるとか、せめて笑ったり、表情に出すものだろう。

 この母親はそれをすることなく、一瞥しただけで、意識はこのレンガ造りの建物、曽田家が管理している、水力発電所に向けられていた。

 自分の事よりも、この建物が大事なのである。

 しかし、それも正確ではない。

 アリアはこの建物が大事ではないのである。

 この水力発電所は山から流れてきた川を跨ぐ様に建てられている。

 その川の水を使って建物内部のタービンを回転させ発電する。

 ここまでの道のりで聞こえてきた水の流れる音はこの川から発せられるものだった。

 もう耳に届いている音の中では木々が風に揺れる音よりもはっきりとしていた。

 少量の水ではこんなに音がすることもないのに、大量に集まって流れるだけでここまで空気を振動させるものかと茉希は不思議に感じていた。

 まるで人間みたいだと思いついて、口元が微かに緩む。

 その差は意識が歩かないかだろうか、とさらに思考を進めたところで、茉希の目前に母の背中が迫ってきた。

 茉希は母親に声をかけることもなくその横を通り抜けると、十メートルほど先で立ち止まった。

 コートのポケットからスマートフォンを取り出すと、カメラモードにして、発電所を撮影し始める。

「どういうつもりかしら?」

 少し移動しながら三枚撮影を終えると、茉希の後方から声が聞こえた。

 撮影を辞めて振り返る。

「何が?」

「聞こえなかった?」

 再びスマートフォンを覗きながらシャッターボタンを押す。

「聞こえてる。無視しているだけ」

 振り返らなくてもアリアが苛立っているのが分かった。

「あの人にそっくりね」

 自分の手に力が入る。

「お父さんは関係ないでしょ」

 それでも決して振り向かなかった。

「もうあの人もいないから、ここも潮時ね」

 まだ自分の背中に向かって言葉を投げかけるアリアに対して、茉希はまだ無視し続けた。

 アリアの主張は、二人の目前にある発電所についてである。

 アリアの夫であり茉希の父親の曽田幸之進が死んだのは、五年前である。進行性の癌だった。医者の余命三ヶ月という宣告に反発するように発病から一年生存した。

 職人肌の技術者だった。若い頃は群馬県のダムの管理職に就いていたらしいが、アリアと出会い、曽田家に婿養子になってから、しばらくしてダムの管理から離れた。

 それからは曽田家が管理していたこの発電所の管理をアリアの父から継いだと茉希は聞いていた。

 だから、茉希が生まれた時にはすでに父の仕事はこの発電所の管理だった。

 曽田家は資産家である。それは茉希自身も子供の頃から自覚していた。自分の自宅である屋敷の大きさや使用人のいる生活、そして自宅敷地内の施設を管理するだけで生活できているという事実からも自覚するには十分だった。

 大人になってから、それだけではなく、この地域一帯の地主であり、不動産業での収入もあったのだと気が付いた。

 こんな施設を管理運営していたって一円にもならない。

 ここで発電された電気は屋敷に送られてそこで使われていたのである。つまり自家発電ということになる。それだけのためにこの施設はあるのだ。

 明治時代の中期に作られたというこの発電所は送電環境の悪かったこの地域に屋敷を建てた曽田家にとっては、なくてはならないものだったそうである。

 しかしながら、現在この発電所はフル稼働してはいない。屋敷にはちゃんとした送電設備があり、電気代を電力会社に支払って電気を使っている。

 その移り変わりにもアリアが関わっているそうだが、茉希がまだ小さい頃だったため、良く判らなかった。

 発電所が使われなくなったということは、つまり幸之進の仕事が無くなったということである。

 幸之進はそれからゆっくりと老けていったように茉希には感じた。幸之進の身体に癌が見つかったのは、それから間もなくだった。

「本当に…」

 いくつか場所を変えて写真を撮っていた茉希はアリアに一切視線を合わせない。

「やるつもりなの?」

 そこで初めて茉希はアリアと視線を合わせた。

 アリアの目には吸い込まれるような力がある。初見の人間には耐えられないだろう。茉希だから、それが出来る。

「当たり前よ。そんな大事な話じゃないでしょう?」

 アリアは笑っているのだろう。辛うじて茉希には判断できる。

「それよりも、私はあなたに同じことを聞きたいわ」

 強い風が二人の間を通り抜ける。茉希は風が通り抜けるのを待った。

「聞かないで。とっても大事な話でしょう?」

 二人の間をさらに強い風が通り抜けていった。


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