真夜中のできごと

白石乙矢

真夜中のできごと

 ――お話をする前に、一つお願いがあります。


 どうか私の話を、真剣に聞いてください。


 私は、嘘吐きです。自分の身を守るために、または自分の印象を綺麗に着飾るために、様々な嘘を吐いてきました。仲間外れにされるのが怖いときは、周りの人の意見に同調するような言葉を使ったり、好きな男の子が犬を飼っていたら、その子の気を引くために、私も犬を飼っていると嘘を吐いたりと、そのような感じです。


 しかし、今から私の話すことは、天に誓って嘘ではありません。それに、場所が場所ですし、嘘を吐くわけにもいきません。ですから、私が話し終えるまで、どうか真面目に、その険しい表情を崩さないで聞いてくださいね。




 ……夜の、十一時ごろだったと思います。


 私は、塾で自習を終えて、帰路に就いていました。はい、駅の近くにある、あの塾です。私は隣の市にある高校へ電車で通学しているのですが、あの塾は学校帰りに寄ることができて、ちょうど都合が良かったのです。学校で習ったところの復習や、次の授業に向けての予習、それから宿題のほとんどは、塾の自習室で済ませていたので、帰宅するのはいつも夜遅くになります。


 あ、勘違いしないでくださいね。家に帰るのが億劫で、もしくは家にいるのが窮屈だからという理由で、塾に行っていたわけではありませんよ。ただ単に、自習室の方が静かで集中できるからです。




 塾から帰るときは、常に不安です。暗い夜道には、目を凝らしても輪郭の見えない影がたくさんあって、あの影から変質者がぱっと飛び出してくるかもしれない。はたまたあの柳の木陰から、膝から下のない、蒼白い顔をした女性の幽霊が襲い掛かって来るかもしれないと、私はびくびく膝を震わせながら帰っていました。


 最も恐ろしい道は、軽自動車一台がギリギリ通れるくらいの、細い道路です。街路灯が一つも無くて、建物の灯りだけが、微かに道を照らしてくれている道で、他の道よりも、もっともっと影が多くあって、そこを通るときは普段よりも警戒して、鞄を両手で抱え、きゅっと脇に力を入れ、肩を強張らせながら歩くのです。


 できることなら、その道を通りたくはありませんでした。だけど、そこを通らないと晩ご飯のできる時間に間に合いません。ですから、仕方ない。そう割り切って、私は今日もその道へ足を踏み入れました。

 道の両側には建物が隙間なく並んでいて、外であるというのに、牢獄の中のような閉塞感を覚えてしまいます。


 無意識にその閉塞感から逃れようとして、私は夜空を見上げながら歩きました。背の高い建物のせいで、空は狭かったですが、辺りが暗いからでしょうか、星々が本当にキラキラと輝いて見えて、あぁ、こんなに暗くて陰気臭い場所にでも、心安らぐような光景はあるのだなあと、私、感心して、ちょっとときめいてしまって、筋肉の緊張を解き、ほっと息を吐きました。




 そのときです。


 視界の端に、妙な物がちらと映り込みました。人間とは、不思議なものだと思います。だって私の視界は、素敵な光景で九割九分くらいを占められているのに、その不純物が気になって気になって、そっちにしか意識が向かなくなるのですもの。


 そんなもの、見なくてもいいでしょうに。




 ……妙な物の正体は、女性でした。


 髪は、いつか絵本で見た山姥という化け物のように荒れていて、病的なほど身体は痩せていて、黒いワンピースを着ていました。私は、人生で、その女性を見たときほど不安に駆られたことはありません。受験会場で試験問題が配られているときとか、初めて飛行機に乗ったときの比じゃないくらい、胸がぎゅっと締め付けられました。息苦しささえ覚えました。


 女性の恰好を見ただけで、不安になったのではありません。女性の立っていた場所が、私を芯から冷たくしました。その女性は、質素なアパート――多分、五階のあたりだったと思います。そこのベランダの、手すりの上に立っていました。


 おかしいです。異常です。絶対に普通ではありません。天上では星々が輝いているのに、地上では女性が手すりの上に立っているのです。頭がどうにかなってしまいそうでした。いや、どうにかなっていたのです。普通なら、警察や病院に連絡したり、女性に声をかけたり、するべきです。でも、私は、ただ茫然と、その異様な光景を、立ち止まって眺めることしかできませんでした。

 落ちるのか。落ちないのか。その女性がどうなるのか、期待していたのかもしれません。落ちたら、人の死ぬ瞬間を初めて見ることができる。醜い、あまりに醜い好奇心。あの女性が、地面に叩きつけられたらどのような形に変わるのか、私は、まるでマッドサイエンティストにもなったつもりでいたのです。どうぞ、私を罵ってください。人間の屑です。人の道から外れています。両親に合わせる顔もありません。一瞬だったとしても、そういう感情を持ったということが、とてつもなく恥ずかしくて、私は、私を許せません。それに、一瞬だったかどうかも、私には分かり得ないのです。あの女性が、もしずっとあのまま立ち尽くしていたのなら、私はもっと長い間、そういう醜い期待を胸に抱いていたのかもしれませんから。




 ……はい、その女性は、落ちました。私が女性に目を向けるのとほぼ同時に、落ちました。すっと、何の躊躇もなく、まるで女性の目の前にはベッドがあったのかと思われるくらいに、両手をこう、ぱっと広げて――。




 どんっ、びしゃっと、今まで聞いたことのない、何かが砕けて、汁みたいなものが飛び散る音がしました。そのとき、私はやっと正気に戻ったのです。マッドサイエンティストのような好奇心が消え去り、元の人間らしい感情が息を吹き返しました。私は、しばらく動けないでいました。呼吸さえ忘れて、あの女性が立っていたベランダを見つめていました。怖くて、恐ろしくて、信じられなくて、頬をつねってみたら、痛くて、涙がぽろぽろと頬を伝い、落ちました。おそるおそる視線を道路に向けると、そこには、やはり死体がありました。頭はぱっくりと割れていて、そこからぐちゃぐちゃになった脳漿が覗き見え、髪は赤黒い血で染まっていました。四肢は変な方向に曲がっていて、子どもに遊び倒された人形のようでした。血は、四方八方に飛び散っていて、私の制服にも、かなり血が付いていました。私は、叫び出したくなるのを、なぜか必死に堪えました。あのとき、私が叫んでいたら、事態はややこしくならないで、済んだのでしょう。でも、私は叫べませんでした。声が出なかったのです。目の前の信じがたい光景が、私の喉元を鷲掴みにしているような感覚がして、がっ、がっ、と声にならない声を絞り出すのがやっとでした。


 しかし、結果として、叫ばなかったことが――言い方は悪くなってしまいますが、私にとって都合の良かったことになりました。




 声が、聞こえたのです。女性の飛び降りたアパートから、男性の低い怒鳴り声が。私は怖くなって、咄嗟に電信柱の影に、膝を抱えて、胎児のように丸くなって、身を隠しました。もしかしたら、あの女性――彼女は、この声の主に殺されたんじゃないかって、考えました。だって、普通、自殺なんてしないじゃないですか。自殺って、大抵、誰かに虐められたり、責められたりして、もう生きていけないってなって、自殺すると思うんですけど、私は、それって他殺と同じなんじゃないかなって思うんです。だって、自分の身に何も起きていないのに、五階から飛び降りる勇気なんて、出ませんもの。ですから私、その声の主の男性が、彼女に何か酷いことを言ったり、もしくは殴ったり蹴ったりして、自殺に追い込んだんだと、推理したのです。そう思うと、義憤のようなものを感じて、同じ女性として、許せない気持ちになりました。私は、男性が怖いです。どれだけ心美しく優しい男性がいたとしても、本能的に男性を怖れてしまうのです。男性にとって不愉快なことを口走れば、殴られるんじゃないだろうか、蹴られるんじゃないだろうか、強姦されるんじゃないだろうかと、そんなことを考えて……。でも、このときばかりは、声の主の男性に、立ち向かっていかなければならないと覚悟したくらい、私は憤りを覚えました。早く表に出て、正体を見せてみろ。鞄の中にしまってあるカッターナイフで、汚らしいモノをずたずたに切り刻んでやると、電信柱の影で意気込みました。全国の女性代表にでも、なった気分で。




 しかし、それは虚栄でした。


 アパートの仄暗いエントランスを、電信柱の影から微かに窺えたのですが、声の主であろう男性が、奥の暗闇から、ふっと現れた瞬間、私の中で燃え上がっていた正義の心は、じゅっと音を立てて消えました。勝てないと思いました。アメリカの軍人さんみたいな図体の男で、私の二倍も三倍もの体重がありそうで、カッターナイフでなんて刺そうとしたら、ぱきんと刃が折れそうなほど、硬そうな筋肉で全身覆われていました。恐怖で思わず目を伏せると、黒い地面に、赤黒いものが流れているのを見ました。彼女の、血です。私の、学校指定のローファーに、彼女の頭から流れた血が、どろどろと押し寄せていたのです。


 ほら、見てください。縁の方が赤くなっているでしょう? お気に入りの靴だから、また洗って使うつもりなのですけど、靴を履くたびに今夜のことを思い出しそうでなりません。今だからこそこんなことが言えますが、そのときは全身に鳥肌が立って、小さく悲鳴を上げたほど戦慄しました。そして、申し訳ない気持ちで、胸がいっぱいになりました。仇を討つと、心の中で誓ったのに、早々に諦めてしまったところを、彼女に見られたような気がして、その赤黒い血に向かって、何度も私は心の中で謝罪しました。


 男はそれからアパートを出て、彼女の方を向きました。私は、てっきり彼女を回収しに来たのではないかと思ったのですが、男は彼女に目線もくれず、くるりと身体を反転させて仁王立ちし、彼女と反対の道の先に広がる闇をきっと睨み付けました。私は何が何やらさっぱり分からず、とにかく息を殺し、恐怖に身震いしながらその男のことを見つめ続けていると、変化が起こりました。男の眉が吊り上がったのです。硬そうな短い髪は逆立って、全身の筋肉が膨張して、ひどく立腹している様子でした。男は鍛えられた大胸筋をさらに膨張させ、「この野郎ォッ!」と怒声を張り上げました。びっくりして、私はつい身体をびくりと、猫のように跳ねさせてしまいました。自分に怒りが向けられたと思ったのです。そう思ったのは多分、私が弱くて、自分に自信持てないからでしょう。怒鳴り声がすると、私はいつも反射的に謝罪してしまうのです。自分が悪かったのかもしれない、悪いことをした覚えはないけれど、他の人よりも私の方が悪いし弱いし劣っているだろうから、生きている価値が無いだろうからと、そんなふうに考えるのです。卑屈なのは分かっています。だけど、傲慢であるよりかはマシです。傲慢な――あの男のように厚顔無恥な生き方をするくらいなら、私は卑屈でありたい。


 あ、ごめんなさい。話が逸れました。


 えぇっと……、そう、怒鳴ったのです。


 男は、物言わぬ肉塊となった彼女とは反対の方向に駆けていきました。それからすぐに、今度は若い女性の、耳を劈く甲高い悲鳴が上がりました。



 また、犠牲者が増えるのだと私は直感しました。女の勘はよく当たると言いますが、この場合は、誰だって私と同じ悪い予感がしたと思います。私の予想通り、それからしばらくして、男は見知らぬ若い女性の、長い金髪を掴んで引っ張ってきました。


 この女性は、気の強いお方のようでして、男のたくましいというか凶悪な腕を振りほどき、きいきいと、さっきの甲高い声で男を捲し立て始めました。激しい口論になりました。唾を飛ばし合い、罵声を浴びせ合い、二人の目線の間には火花が散っているように見えました。どうやら、よくある痴話喧嘩をしているようでして、浮気をしているんだろうだとか、あなたこそろくに働きもせず身体ばかり鍛えてとか、そういう聞くに堪えない言い争いでした。


 しかし、二人とも、すぐそばにある死体については何も言いませんでした。それが不思議に思えて、私の方が見間違えたのかなと、目線を二人から死体の方に向けましたが、やはり依然として、彼女は何も言わずに血を流し続けていました。


 私は、電信柱の影の闇で、ひたすら怯えながら、二人の下らない話を聞いていました。じめっとしていて、私に耳が無かったら、そこに自分がいるのかさえ分からなくなりそうなくらい、暗いところで、じっと身を潜めていました。私の手も、足も、身体も、闇の中に溶けていました。




 突然、つぅっと、私の頬にまた涙が伝いました。


 二人と死体と、どちらが尊いのか、分からなくなったのです。生きている者は、無条件に尊いと私は考えていました。日常の荒波に揉まれ、苦悩して、煩悶して、ときには発狂して、それでも足掻き生きていく姿こそ、生命の最も美しい瞬間であると、私は今でも信じています。死ぬと、何にもなりません。自殺なんて、もってのほかです。あの女性の場合でも、私は義憤を確かに覚えましたが、それと同時に、生きていれば別の希望を持てたかもしれないのにと、憐れな気持ちになったのです。


 しかし、生きている二人の醜態を見ていたそのときばかりは、闇の中で静かに佇む死体が気高く見えました。そして、それを無視して、自分の欲を吐き出すことしかできない生き物が、ひどく卑しく見えました。二人は、自分のことしか考えていません。浅ましい。愚かだ。私が信じていたものはこれほどまでに醜悪なものだったのかと落胆して、膝を抱えていた腕の力が、すっと抜けたのを覚えています。だらんと、力なく腕が落ちた瞬間、暗闇が赤く照らされました。


 そうです、パトカーが来たのです。地獄のような時間がやっと終わりを迎えたんだ。そう安心すると、なんだかさっきまでのことが嘘のように思えてきて、笑い出したくなりました。愉快でした。晴れ晴れした気分とはまさにこのことだと実感しました。今の今まで考えていた、自分の信じるものだとか、女の正義感だとか、そういうものの一切が馬鹿らしく思えて、ただ生きているだけで幸福を感じられるほどに、脳が溶けてしまいました――。








「それからは、あなたもご存知のとおりです。私はあなたに飛びついて、わんわんと泣き喚きながら、男性の安心感というものに包まれていました。不思議ですよね。普段、泣くようなことがあったら、しくしくと一人で涙を流すのに、男の人の胸に飛び込んだ途端、堰を切ったようにわんわん泣いてしまうのですもの」


 目の前の女子高校生は、はにかみながらそう言った。


 僕は少し戸惑いながら一応頭を下げて取調室を出た。


「どうだった」


 ガタイの良い先輩の刑事が、取調室の扉を閉めたことを確認して話しかけた。


「はい……、端的に言えば、疲れましたの一言に尽きます」


「つまり?」


 そう訊かれて、僕はさっき彼女から聞いた話を要約して伝えた。


「女が自殺したねぇ……」


「彼女の話によると、どうやらそうらしいんですよ」


「でもお前、あの通報は確か男女が言い争いをしていて、近所迷惑だから来てくれって内容だったろ?」


「はい。それで僕は現場に向かって、ガタイの良い男とケバい女の口論の仲裁に入ったわけです。そしたら……」


「あの女の子がいきなり飛びついてきたってか」


「ええ、驚きましたよ。電信柱の影から急に飛び出してきて、泣きついてきたんですから」


「あそこは暗いからな、それに今夜は新月だから一層暗かったろう。で、死体を見過ごしたわけか?」


 先輩の目つきが険しくなる。僕を警察官として軽蔑するような目だった。


「それは、ないと思います。僕は現場に到着した際、乗って来たパトカーを、彼女の言う暗い道の途中に止めたんです。先輩も、あそこは暗いと言っていましたが、僕は暗いとは思いませんでした。道はパトカーのライトによって明るく照らされていたんですから」


「じゃあ、なんで彼女に気付かなかったんだ?」


「男と女の口論が激しくて、今にも殴り合いに発展しそうだったもので、慌てていたんです。電信柱の方まで気が回りませんでした。そこは、僕の注意不足だったと思います。すみません」


「……なるほど、やっとお前の言いたいことが理解できてきた。つまり、死体なんて無かったんだな?」


「はい。死体どころか、血痕も見られませんでした。口論していた男と女にも一応話してみようとは思いますが、答えは同じかと」


「虚言か……」


 先輩は、それきり僕の話に興味を失ったようでそそくさと廊下を去って行った。


 僕は冷静になった男女に自殺した女の話をしたが、そんな死体は無かったし、男の方は落下した音さえ聞こえなかったと答えた。


 その後、僕はもう一度あの暗い道へ向かった。懐中電灯を片手に、アパートの前を隈なく調べたが、やはり死体があったような痕跡は見当たらなかった。


 署に戻り、僕は取調室の女の子を家に帰すため、パトカーに乗せた。彼女は、死体を見たあとにも関わらず、女の子らしい、恥じらいを含んだ笑顔を見せた。


「死体なんて、なかったよ」


 僕は運転しながら、事実を告げた。彼女を咎める気など無い。思春期特有のストレスによって幻覚を見ていただけだと思っていた僕は、真実を伝えて彼女の不安を取り除いてあげたかった。


「そうですか」


 彼女は、浮かべていた笑顔を一瞬で消し去り、素っ気ない返事をした。


 それから彼女の家に着くまで、何一つ会話は生まれなかった。

 





 それから数日後、死体があるとの通報が署に入った。僕は先輩たちに続いて現場に向かい、死体の有り様を目にするなり、背筋が凍った。




 ――黒いワンピースを身に纏った死体があった。死体は軽自動車一台がやっと通れるような狭い道にあって、髪はぼさぼさで、ぱっくりと割れた頭から脳漿が飛び出しており、四肢はあらぬ方向に折れ曲がっていた。


 何もかも、彼女の証言と一致していた。死体の位置や状況が、まるで彼女の証言通りに作られたように感じて、怖気立った。


 死体の傍には、あらかじめそこに置いていたのであろう遺書があった。




 おそるおそるそれに手を伸ばす。




 そこにたった一言。






 ――私の言った通りでしょう?






 そう書いてあった。


 息が止まりそうになったとき、


「おい」


 と、先輩に声をかけられた。


「……何でしょう」


「遺体の所持品から身元が分かったんで、教えてやろうと思ってな」


 先輩は怪訝そうな顔をして言った。僕は嫌な予感に襲われながらも、こくりと頷いた。


「数日前に署に来た、嘘つきの女子高校生だったよ」




 




 後日、僕は個人的に彼女の身辺捜査をして、ある事実が分かった。


 彼女が、極度の虚言癖を持っていたということだ。


 犬を飼っていると嘘を吐いたり、母が危篤状態であると嘘を吐いたり、滅茶苦茶であったという。しかし、調べてみるとどれも真実だった。いや、真実になっていたという言い方のほうが近いかもしれない。確かに彼女の家には犬が一匹いたし、母親も過去に危篤状態に陥っていた。だが、どれも時間的な整合が取れなかった。彼女が同級生に犬を飼っていると言ったとき、彼女の家に犬はまだいなかった。彼女の母が危篤状態になったのも、危篤状態であると彼女が言うよりも後のことだった。


 そこで恐ろしい事実が浮かび上がる。


 つまり、彼女は嘘を真実に仕立て上げていたのだ。


 嘘が露呈してしまう前に、事実を作り上げて真実にしてしまう。彼女は嘘を吐いてから犬を飼い、母に毒を盛って危篤状態にしたのではないか。


 そして最期の嘘は、自殺した女の死体。


 自分の吐いた嘘を真実にするために、彼女は自ら命を絶ったのだ。


 しかし、どうして彼女はあの夜、僕にあんな嘘を吐いたのだろうか。靴の縁に赤い絵の具をつけてまで、嘘を吐く必要などあったのだろうか。そんな嘘を吐けば、自分の身を亡ぼすはめになる。そんなことは、彼女自身が一番分かっていたはずだ。




 ――自殺なんて、もってのほかです。死ぬと、何にもなりません。




 彼女が話してくれた言葉が、頭の中で反響する。僕はその言葉を気に入っていた。


 昔、一番の親友を、僕は自殺という形で亡くしていた。そのとき僕は高校生で、今よりもずっとか弱く、親友が虐められているというのにも関わらず、救うことができなかった。だから僕は、彼と同じような人を救いたくて、また、弱い自分を変えたくて警察官になろうと決心した。そんな僕にとって、彼女の言葉は胸に刺さるものがあり、まだ少女であるがゆえの純粋さも相まって、話を聞きながら感動さえ覚えたのだが。


「あの言葉さえも、全部嘘だったわけか」


 僕は、夜空に向かってぽつりと呟いた。


 彼女の言う通り深夜十一時。新月であるタイミングを狙って、この狭い道に来てみたけれど、アパートの部屋から漏れる光が邪魔で、星なんてちっとも見えなかった。

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真夜中のできごと 白石乙矢 @OtoyaShiraishi

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