恋する猫股
kou
猫股
バスの車内に轟いた。
乗客の一人である
耳を塞いでいた手の力を水が滴下するように徐々に緩めると共に、恵理が光を求め恐る恐る目を開けると、バスの通路に立った少女が見えた。白いバンダナで頭を覆った少女だ。
少女は胸を押さえて、その手を見た。白い手が赤く染め上げられていた。
血だ。
「あれ?」
自身の危機に場違いな口調で言って、少女はピンク色のワンピースが血に汚れていくのに困った顔をした。
血が少女の口から、咳と共にこぼれる。
肺や気管などの、呼吸器系がやられた証拠だ。
突然のことに少女は困った。
「やだ。汚れちゃっ……」
服の血を拭おうと、ハンカチを探す仕草をする。オロオロと手を動かした。恵理は自分のハンカチを貸してあげたいと思うほど、少女が可愛そうと思ったが、何もできなかった。
怖くて。
すると何の前ぶれもなく、少女は床に崩れた。関節という関節全てに力が入っておらず、正に糸が切れたマリオネットの崩れ方は、少女の身体から魂が抜けたようであった。うつ伏せに倒れた少女と床の間から、鮮やかな血が満潮のように這い出す。
恵理は、震える声を押し殺すように口を両手で覆った。
「!……」
少女は床に伏したまま、血を塊にして吐き出す。バスの車内に吐き気をもよおす血臭が広がる。恵理は鉄の無機質な臭いでありながら、暖かい生臭さに嫌悪感に襲われた。
少女は息も絶え絶えに起き上がろうと、いや必死で生きようと手を伸ばす。血染めの手で恵理の隣の座席の肘かけに手をかけ、立ち上がろうとしたが、血糊で手が滑り崩れ仰向けに倒れた。
身体と頭部を、容赦なく強打する鈍い音がした。
「そんな……。これからデー…ト……なの。おくれ…………」
少女は未練を口に焦点の定まらない目で、天井を見つめ動かなくなった。陽が陰るように目から生気が失われる。
――――――――――――――――――――――――――――――死んだ。
誰もが、そう確信する状況で乗客である一人の女性が恐怖に叫んだ。恐怖は連鎖し、バスの中は悲鳴で埋め尽くされた。
「静かにしろ!」
「いいか。ちょっとでも、俺達に逆らってみろ。この女みてえに、ブッ殺すぞ!」
男はS&WM36を向け、銃口を向けられた人々は恐怖に身を凍らせた。
それは、恵理も同じだった。
先程まで、自分の隣であんなに楽しそうに話していた少女が、屍となった事実に哀しいと思うよりも、ただ恐怖に支配されていた。死んだ少女に目を向けると、恨めしそうな目で訴えている気がして目を逸らせた。
自分が死んだのに、どうして恵理は生きているの。
自分が死んでいくのに、どうして恵理は助けてくれなかったの。
自分が死んでしまったのに、どうして恵理は悲しんでくれないの。
少女の念が恵理を責める。
(なぜ、こんなことに……)
恵理は、自分の殻に籠るように肩を抱いた。買物に出かけなければ、このバスに乗らなければと後悔をしていた。
◆
恵理が、このバスに乗ったのは、休日を利用し遠方の街へ高校の友達と買物に出て、その帰りだった。服に靴にCDとアルバイト代を奮発してのショッピングを楽しんだ後、友達と別れバスに乗ったのは夕方だ。
家に帰るまでの気だるい時間を過ごしていると、一人の少女がバスに乗って来た。白いバンダナで頭を覆うように巻いた、自分と同年代の高校生風の少女だ。恵理は手にしていた雑誌を開いて眺めていると、その少女が空いていた隣の座席に腰を下ろした。
見ず知らずの他人と相席するのは、気持ち的に良いものではないが公共交通機関とはそういうものだ。少女はアンナチュラルな色で髪染めをしていないし、みた目もコワイ系の女でないことを思えば安心はある。同性ではあるし加齢臭を漂わせる好色そうな中年男性でないことを考えれば、それほど気にはならなかった。
横目で、その少女を見た初見の印象は、少し
首回りに華やでありながら控えめフリルを使い、美しいマーメイドラインのワンピース。上着にシースルーカーディガンを着ていた。
薄く透けて見えることにより、ワンピースのデザインが肩から腕にかけての肌が露出した大胆なものであることが分かる。胸から肩は、フリルをあしらった肩ひもだけで、ワンピースだけになれば、乳房の丸みが脇から見えてしまうだろう。女性特有の魅力を出す服装に、ともすれば酒とタバコに溺れた拝金主義の水商売女のようなケバイ印象を受けそうだったが、少女にそれは感じなかった。
人を拒否するような尖った感じはある。
だが、細く整った輪郭は明るく柔らかな感じがし、うっとりとした黒い瞳は澄んだ光を放つ。瞳は見る物を映し出すが、少女には見えないものを見詰めているような、考え込んで居るような孤高さに不思議な魅力を感じた。
しなやかな四肢に細い身体ではあったが、
少女が普段どのような服装をしているのか初対面の恵理には分からないが、普段はもっと垢抜けない服装のような気がしてならなかった。おしゃれを知らない少女が、今日という日の為に、より魅力的になろうと一生懸命、背伸びしているものを憶えた。
バスの折り戸式のドアが閉まると、恵理は雑誌を閉じて外の風景を見た。眺めていて面白い訳ではないが、本を読んでいれば車酔いをするので、単に窓の外を眺めていたにすぎない。
ふと、恵理はサイレンを遠方に聞いた。音の種類から判断すると警察車両と救急車なのが分かった。その一つが段々と大きくなる。窓の外を眺めると白と黒のツートンカラーのパトロールカーが、けたたましい音と共に赤色回転灯を光らせているのが見えた。
乗り合わせた人の中には、やじ馬根性からパトロールカーを目で追っていた。
また、ある者はスマホを取り出しニュースサイトを開いて事件事故の報道が無いか検索し始めていたが、恵理は気にしなかった。
と言うより、隣の少女が気になってしまったからだ。
なぜなら、少女が一人で笑ったから。
ふふっ
笑うという行為に、変な印象を受けたが、恵理は思い出し笑いでもしたのだろうと思って気にしないことにした。
だが、笑いが二度。
そして、三度。
と続くと、恵理は少女の奇妙さに不安が生まれ、目を向けた。
少女は、気が抜けた表情をすると突然、頬を押さえ顔を赤らめた。その状態が続いたかと思うと、次は悪だくみでも企(たくら)んだかのような気味の悪い表情で含み笑いをした。
(なに。この娘……)
恵理は、少女をさらに見た。その視線に気付いた少女と、つい目が合ってしまい恵理はヤバイと思った。
「ね。ね。あたしって、可愛い?」
偶然乗り合わせた名も知らぬ他人に唐突に訊かれ、恵理は答えられなかった。黙って座っていた時に見た時は、可愛いと言えた。合コンでもすれば、周囲の女子のレベルにもよるが、だいたいの場合、男子からは好感を得られるのは間違いない。
だが、気味の悪い含み笑いを知ってしまった時点で、少女の可愛さは減点されてしまった。状況的に可愛くないと答えると、危険な感じがしたので恵理は同意する答えをした。
「そ、そうね。か、可愛いと、思うわよ……」
恵理は、もっと自然な口調で答えるつもりだったが、初対面であるにも関わらず友人のように訊く馴れ馴れしさと、少女の気味の悪い含み笑いを見てしまったことから、たどたどしいものになっていた。常識人なら恵理の言葉が気持ちの無い、状況に流された受け答えであることが見え見えであったが、少女は違った。
恵理の言葉を聞くと、状況や恵理の口調を完全に無視し言葉の意味だけを素直に受け取って、少女は顔を輝かせた。
「そう! そう! 女の子から見ても、そう思う!」
少女は喜び、はしゃいだ。
そして、続けた。
「実はね……。あたし、これから
「あいびき?」
恵理はハンバーグを作った時に、料理本のあいびき肉を思い出し聞き返した。
「あ。今は、でーとって言うのよね。デート……。デート…………か。
えっとね、あたしが車に轢かれそうになったのが、きっかけなんだけどね。あの人、親切にしてくれるだけで、すぐに居なくなっちゃったの。
だけど、この前偶然再会したのよ。でね。あの人も、あたしのこと覚えてくれていたの❤」
少女は、その時の感動と喜びを思い出すように合わせた手を組み、上方を見上げていた。視線の先には、ローン広告が貼ってあったが、彼女には、そんなものは見えていないのは、恵理には分かった。恋する乙女というやつだ。
「あたし、絶対にこの瞬間を逃しちゃいけないと思って、思い切って、あの時のお礼をさせて下さいって言ったら。あの人、『いいよ』って言ってくれたの。あたし、嬉しくって聞き返したら、二つ返事どころか、五つ返事くらいしてくれたの」
少女は、顔を両手で覆って顔を左右に振った。
その姿を見ながら、直感的に恵理は思った。その「いいよ」という言葉の連発は、OKの意ではなく否定の意であることだと思ったが、隣で至福に包まれている少女に、その直感的な考えを口にできなかった。
「でもね。あたし、かなり生きてるのに男知らないの。女は……なんでもないわ、気にしないで。……とにかく、付き合ったことないのよ。本で読んだんだけど、初体験平均年齢が20.3歳って書いてあるのよ。あたしが何年生きていると思ってるのよ。人間ってば早過ぎ!」
怒っているようにも、悔しがっているようにも見える表情で、少女は拳を力強く握った。赤面したくなる話を、けろりと口にする少女に、恵理は、高校生の自分に変な話をしないでよと思いつつも、どう見ても自分と同年代にしか見えないことに疑問に感じたが、質問できる状況ではなかった。
「あたし、お礼したいって言っても、得意の猫まんま作ってあげたんじゃ色気がないでしょ。それでね、何していいか分からなくて言葉に詰まっていたら、『映画でも観る?』って、あの人の方から誘ってくれたの❤」
また一人で嬉しがっている少女をよそに、恵理は、
(猫まんまって何? というか、先に誘ったのは、あなたでしょ。その人、『違う』の言葉が言えなくて誘わざるをえなくなったのね……。それよりも、助けてもらったお礼がいつの間にか、この娘が喜ぶデートにすり替わっているのに気が付かないのかしら)
と思ったが、水を差すと怖いので口にはしない。
「あの人から、あたしを誘ってくれた。この機会を……。あ。今は、ちゃんすって言うのよね。この、チャンスを逃さないためにも、あたしは勉強しまくったのよ。様々な女性雑誌を買い漁って不眠不休で読みし尽くした結果、あらゆるモテ技を身につけたの。今までの非モテな、あたしとは違う。恋愛最強の女になったのよ!
まず、メイク。メイクは、基本的に色を使わずに、ノーメイクでもかわいい風のメイク。唇は、グロスでうるうるキラキラ感に、男の子はメロメロ。
次に、服。女の子の特権と言えるロマンティックなワンピース。色にもこだわって、男の子が好きなのは女の子っぽいピンク。さらに決め手は、このシースルーカーディガン。肩が大胆なワンピに上着を着るなんて、無意味にみえるかもしれないけど、それは大間違い。なにも着ていないより、着ているのに透けて見えている。そういう状況に、男の人はドキッとするのよ。
ふふん、勉強したんだから」
少女は腕組みし得意げにした。
「あ。ちなみに、頭の手ぬぐい。……じゃなかった、バンダナは、あたしの愛用品。これがないと人間になっている時に決まらないし。何より油断して頭からひょっこり耳が出たら、後は芋づる式に正体がバレ……。
いや、何でもないわ。気にしないで」
恵理は、意味の分からないことに気の抜けた返事をした。どう合わせてよいのか、分からなかったから。
少女は気まずそうに、咳払いをして勝手に続けた。
「他にも、男の子が大好きな上目づかい。手を繋ぐには、ちょっと後ろから。さりげなく彼の膝に手を触れる。目が合ったら恥ずかしそ~に目をそらす。など、全42のモテ技を覚えた、あたしは正に無敵よ!」
再び強く拳を握り締め、少女は自分自身に気合いを入れた。恵理は、うんざりし果てた顔をしていた。
「……でも。デートって、何したらいいのかな。映画観て、さよならじゃダメよね…………。後は、やっぱり食事かな……。ちょっと洋風のレストラン。味なんかよく分かんないけど、それは会話のための代償行為。その後は、二人で夜の街を歩き、公園へ……そこで」
少女は妄想を膨らませ口の端からヨダレが垂れかかる。頬を染めアイスクリームが溶けかかったような少女の顔に、恵理は何を考えているのか、おおよそ想像がついた。
(黙って座っていれば、美少女なのに)
と、恵理は少女の変顔ぷりを覗き込みながら思う。眠りから覚めるように少女は、恵理と目が合った。
「やだもう、何んてこと話させるのよ。キャー♥」
妄想に崩れた少女は、我に返ると、ガスガスと少女は恥ずかしさを前の座席の背を叩きまくって解消した。
前の席の中年男性が苛立だし気に咳払いをしたが、少女には聞こえていなかった。
恵理は、少女の迷惑行為を止めさせると共に、少女に注意をした。
「ご、ごめんなさい。あたし興奮しちゃって。は、初めてのデートで、昨日から全然、寝れてないの。普段、寝ても良い時は平気で17時間くらい寝てるんだけどね」
少女は迷惑をかけた男性に謝ると共に、恵理にも謝った。
恵理は、少女の言う睡眠時間の長さに呆れると共に、よくもまあこれだけしゃべるものだと思ったが、少女に対し嫌な気持ちはなかった。妄想が過ぎる気がしたが、悪い人間ではないだろう。むしろ聞いていて、人柄に興じ好感さえわいていた。
出会った瞬間から、誰とでも友達になれる少女の軽快さは、周囲の状況を気にしない、はた迷惑さこそあったが、どんな困難な状況でもポジティブに考え場を明るくしてくれるムードメーカーになりえた。
恵理は、少女と友達になりたくなっていた。
楽しくて。
自分の名前を教え、少女の名前を訊くだけで、とんとん拍子にアドレス交換という流れになる筈だ。
「……ねえ。わたし、恵理って言うの」
恵理は先に名乗って、少女の名前を訊こうとしていた。
そんな中、バスは新たに4人の男を乗せると動き出した。
乗って来た男達は、ボストンバッグ4個を手にしていた。県をまたいで走行する高速バスならいざ知らず、町から町へと走るバスに乗る手荷物としては異様なものを感じざるを得ない。
それは形状も。
中に何が入っているかは分からないが、バッグの表面がデコボコしており、ジッパーははち切れんばかりに広がっていた。およそ丁寧に荷物を詰め込んだという印象はなく、入るだけ無理やり詰め込んだというのが一見して読み取れる。
男達は重々しい音をさせてボストンバッグを床に置くと、周囲を見渡した。ギラギラとした敵意に満ちた眼で。
「動くな!」
4人の男は一斉に叫んだ。
突然のドラ声に、乗客の目は全て集まった。
一人の例外を除いてではあるが。
男達は、懐から拳銃を取り出した。S(スミス)&W(ウエッソン)M36だ。
S&WM36
全長:160mm 銃身長:51mm 重量:553g 装弾数:5発
口径:38スペシャル 銃種:
通称、チーフ・スペシャル。
装弾数を5発にしたことでシリンダーの肉厚を充分に取ることができ、その分頑丈さがアップしている。確実でスムーズなメカニズムと頑丈なボディは信頼性が高い。かさばらず、スーツの下に隠しても分からない大きさは、ある意味ではハイパワーピストルよりも恐ろしい存在といえる。
使用される38スペシャルは、最もポピュラーな
ちなみに、
それが、計4挺。男達は、一人一挺S&WM36を持っていた。
男の一人は、バスの後部に乗っていた乗客にS&WM36を向けた。恵理は、非日常的な状況に理解ができなかった。それは、他の乗客も同じようで、キツネにつままれた顔は間抜けた印象がある。
リーダー格の男は、運転中であるにも関わらず、バスの運転手のこめかみにS&WM36を突き付けた。
「な、何の冗談だ」
「冗談じゃねよ。今からこのバスは、俺達のモンだ。言う通りに走らせな」
ドスの利いた声に震え上がる。運転手は、息を飲み込んだ。
「き……、君たちは……な、何です」
怯える運転手に、男は薄気味悪く笑った。ヤニと酒が混ざった臭い息を吐きながら、しっかりと聞かせるように運転手に顔を寄せて言う。
「銀行強盗の帰りだ。金をかっぱらって、逃げてたんだが車がイカレちまってよ。だから、バスを逃走用に使わせてもらうぜ。言っとくが、テメエの近くにある緊急連絡装置に触るんじゃねえぞ。そいつを押したら車外の電光掲示板に『緊急事態発生・警察に通報してください』の表示がされるのは知ってんだ。そん時は俺達のせいじゃねえ。お前のせいで客が死ぬぜ」
男はS&WM36を運転手の目の前に突き出すと、運転手は男と拳銃をチラ見しながら頷いた。生きた心地がしない状況で、自分が飲んだ生唾の音が異様に大きく聞こえた。
バスジャック犯が人を殺すのではなく、運転手のミスで乗客が死ぬという責任をすり替えることで、男は運転手に責任を押し付け脅した。
「物分かりが良いじゃねえか。だったら、このまま真っ直ぐ走って街を出ろ。いいな」
男は、従順な運転手の態度に機嫌よく言った。
水を打ったようにバスの車内は静まり、誰も口を開かなかった。恐怖が支配している結果だ。
ただ一人、状況を理解していない者がいた。
白いバンダナの少女だ。
「好きになった理由なんて忘れちゃったけど。好きになった瞬間は覚えているの。何も言わずに去っていく、あの人……。切なかったな。
それでね。そうなった経緯はね、あたしがふらっと道路を渡っていた時に、ちょうど車が走って来たのよ。歩行者信号は赤だったんだけど、あたし買いたい物のチラシ見ててさ、気付かなかったのよ。てへっ」
少女は、自分で自分の頭をコツンと叩く。
「ああ、もう!あたしをこんな気持ちにさせといて、なんて悪い人!……な~んて、本当は、い・い・ひ・と❤」
「ねえ。あなた……」
恵理は完全に一人の世界に浸っている少女に小声で言い、すると少女は、ふと窓の外を見て気付いた。
「あれ? ここどこ? も……もしかして、あたしが降りるバス停過ぎてない!?」
そこで少女は初めて緊張感のある声を上げた。車内にあるバス降車ボタンを少女は押した。
バスジャックされた車内に、
『次、止まります』
録音されていた自動音声の停車告知が響いた。
恵理は、状況に合わない行動にビビッた。
「運転手さん、あたし降ります!」
少女は、手を上げよく通った声で運転手に呼びかけるとショルダーバッグを片手に、席から立ち上がったが、その行く手をバスジャック犯の一人が塞いだ。
「ちょっと。あたし、降りるんだからどいてよ」
と、少女は抗議の声を上げた。
「うるせえ! おとなしく、座ってろ!」
男はS&WM36を少女の胸に押し付けた。小さく悲鳴を上げ、少女は胸を抱いて男を睨んだ。
「なによ、おっさん! いやらしいわね。いくら、あたしが可愛いからって、女の子の胸を触るのは犯罪よ。いい歳してオモチャの銃なんか持って、バっカじゃないの。ゴッコ遊びなら、よそでやってよね」
強気な少女の言葉に、恵理は何を言っているのと思ったが、何も行動にできなかった。男は怒りに唇を歪め、歯を剥き出す。
「分かった? 分かったら、さっさとどいて。これから、あたしは……」
男に告げる少女の言葉が、一発の銃声でかき消された。男がS&WM36を射ったのだ。
少女の胸に、血の花が咲いて散った。
それが、少女の最期だった。
◆
人の死によって、バスの乗客は悲鳴や助けを求め騒然としたが、天井に向けての威嚇射撃が放たれると人々は怯えて黙った。
静寂が生まれた車内で、人の吐く息が、震える音が、すすり泣きがした。
恵理は、悪夢のような出来事を払拭しようと頭を押さえたが、恐怖は拭えなかった。家が恋しかった、家族が愛しかった。
帰して、帰して。
心の中で、恵理は眩き顔を覆った。
車内は嫌なくらい静かだ。逆らえばどんな結果が待ち受けているかは、殺された少女の姿を見れば、どんな楽天家でもリアルに想像できる。
(これから、どうなるんだろう……)
言い知れぬ不安を抱え、恵理は落胆した。
ねちぃ
恵理は、奇妙な音に目を開けた。
それは小さな音だったが、確かに聞こえた。通路を見ると、死んだ少女の姿が見えた。少女の見開いた目と目が合い、怖くなって逸らそうとした時、恵理は目の端に、それを目撃した。
血まみれの少女の胸で、何かが動いていた。
いや、正確には銃弾が射ち込まれた、傷が動いていた。
ゆっ…
く……
り………
と……………。
姿の見えない何者かが、銃傷に指を入れ、ねっとり、ねっとりと、肉をかき回している。そんな様子だった。新たな血が泉のように湧き出す現実を、恵理は恐怖から幻覚を見ているのだと思い、目をこすったが、それは消えなかった。やがて、黒いものが傷口から顔を出した。
(寄生虫?)
根拠のない想像を恵理は働かせた。
だが、そうではなかった。
それは頭を出したかと思うと、コロリと床に転がった。少女の胸に射ち込まれた、38スペシャルだ。
何が起こっているのか理解の範疇を越えた事態に、恵理は困惑した。次の瞬間、恵理は確実に寿命が縮んだのを憶えた。
「くっ……」
少女の死体が、声を漏らすと同時に表情を歪めたのだ。
そして、寝起きが悪そうに、ゆっくりと身を起こしアクビをした。恵理以外に気付いた人は、起き上がった少女に、目を皿のように広げて肝を潰した。
それは、バスジャック犯達も同じだった。
「あ。おはよ~」
間の抜けた少女のあいさつに、誰一人として答えなかった。
「……って、部屋じゃないし。あれ? あたし、何でこんな所で寝てんの?」
少女は首を傾げて、床と自分の服が血まみれになっていることに驚いた。
「な、何これ! 誰かケガしたの。ね、大丈夫!」
少女は気遣う表情で周囲の人々を見たが、答える人はいない。そこで、少女は初めて気付いた。誰の血であるか。
「あれ? もしかして、あたし、また死んじゃったの……」
少女は自分で自分に問うて、二の句が継げないでいた。時が止まったように。
車内に居る乗客は勿論、4人のバスジャック犯達も言葉を出せない。
異様な沈黙。
それを少女が破った。
ぷすっと、喉の奥から鼻に息が抜ける。笑いがあった。
次の瞬間、箸が転んでもおかしい年頃の女の子が見せるような、心地よい笑いを少女は発した。
「やだな~、もうこれで3回目よ。最初は、木にいた鳥を捕まえようとしたら落ちて石で頭割って死んじゃうし。あれ、たぶん脳みそ出てたね。後で見たら岩に変なモノ残ってたし。あの後、イジワルなボス猫に九九を言ってみろってバカにされちゃってホント失礼よね。逆にちょっと複雑な一次方程式を出題してやったら、しどろもどろで解けないでやんの。中1の数学よ。
次は、川にいた魚を捕まえようとしてたら、そのまま川に落ちて、あたしドザエモンになっちゃうし・・・・」
そこで、少女は近くに居た母子に気がつくと、連れていた小さい女の子に言った。
「あ。闇違えちゃダメよ。ドザエモンになったと言っても、あたしドラえもんの友達じゃないのよ。ドザエモンって言うのはね水を吸ってふくれ上がった水死体のこと。
これは、江戸時代中期の享保(1716~1736)頃に、
きゃ。あたしってば知的。こういう雑学が会話を弾ませるのよね」
少女は、一人でムダ知識を披露して恥かしがった。訊いてもないことに答える、母と子は取り残されたように何も言わない。
少女は、周囲を見ると転がっていた38スペシャルを拾った。
「これって本物だったんだ。てっきりBB弾が飛び出すオモチャだと思ったのに。あたしって、バカだな……」
少女は、首の留め金が突然外れたように項垂(うなだ)れた。
「それにしても。こんな、豆みたいなちっちゃいモンで死ぬなんて。射たれた時、よっぽど《死ぬ》って、思ったのね。体は大丈夫でも、肉体に異物が入ったことで精神が《死ぬ》って思うと、コロッと逝っちゃうって聞いたけど……。
いや、当たりどころが悪かったのかな。肺動脈あたりに弾が当たったことで血圧が一気に高くなって心不全が発生したとか……」
自分の死を他人事のように眩いて、少女は考え込んだ。
「おい。な、何で、生きていやがる……」
少女を射った男は、立ってしゃべっている少女の姿に、化け物でも遭遇したかのように怯え震えていた。身体の震えは、そのまま声にも現れ手にしたS&WM36の銃口にも現れていた。
「あ~あ。久しぶりに死んじゃったな、これからデー…………」
少女は、表情がこわ張った。
窓から見える、外の様子が随分と暗いから。
少女は自分の時計を見るが、倒れた時に強打した為か動いていなかった。
「ねえ。今何時?」
少女は、恵理に訊いた。口調が紙のように白く薄かった。自身が拳銃で射たれた現実よりも、時間という現実に少女は絶望感を受けた。
「こ、答えろ!」
少女の横からS&WM36を構えた男が、じりじりと近付いて来る。
「あたしが、死んでからどれくらいになるの?」
恵理に訊く、少女。
だが、恵理には死んだという事実と、今少女が生きている事実がこんがらがり、何が何だか分からなくて答えられない。
「ああ。そうじゃなくて……。と、とにかく、今何時?」
切迫した口調で、少女は訊いた。
「何でだ! 何で、テメエは生きてる!」
「お願い教えて」
恵理の側で、少女と拳銃を持った男が言う。
「とっとと答えねえか!」
男が叫ぶ。
そして、少女の中で何かが音を立てて切れた。
「やかあしい一!!」
痛烈な怒声が少女の口からほとばしると、男は襲来した拳に顔面を殴打され中央にある乗降口に吹っ飛んで動かなくなった。
恵理の頬に、熱い飛沫が散った。それが何かは、触れなくても分かった。
吹っ飛ばされた男は、鼻から滝のように血を流していたから。
「人生最大の危機なのよ! ちっと、黙ってろ!」
少女は、鬼のような顔で、すでに動かなくなった男を一喝すると恵理に向き直った。
「あはは。ごめんね、大声出して。で、何時か分かる?」
一瞬にして、鬼から、か弱い女の子に化けた少女は、作り笑いをし困り顔で訊く。片目の周囲に、軽いケイレンをピクピクとさせたままで。
恵理は新たな恐怖に襲われつつ、自分の腕時計を見たが、気が動転して、どれが長針なのか、どれが短針なのか、どれが秒針なのか判断がつかず、少女の顔をうかがいながら必死になって時計を見つめた。
「ええええっと。ああ、のっそ。ああああ、だから……その。ひ、ひちひち7時……さ、さんじゅ、37分…………59秒。……あ、今は38分。……です」
それを聞いた瞬間、少女の顔は情けない顔で固まった。
「え、映画始まってる…………。て……、て、いうか。待ち合わせ時間…………過ぎてるし…………」
少女は、その場にへたり込んだ。絶望感に疲れたように。
「テメエ、何しやがる!」
残りの3人の男の内、1人が叫んだ。
少女は顔に暗い影を落としたまま答えない。俯いたままの少女の口が左右に広がる。
ヒヒィ
聴いた者の心臓を冷えさせるかのような笑いは、さざなみのように広がり耳にした人の背筋を冷やした。じん麻疹ができたように毛穴が締まっていく。それは人が発することが到底不可能な、異臭さえも感じさせる、おどろおどろしい黒い笑いだったから。
少女は音もなく立ち上がる。
幽鬼のように。
それは奇妙な立ち上がり。
人は座った状態から立ち上がるには、足裏を地に設置させる為に手を使い身体を支え、膝で支えて倒れないようにし、身体を浮かせつつ、もう一方の足裏を地に設置させて立ち上がる。
だが、少女は手や膝を使うことなく、重力を無視し何者かに吊り上げられるように立ち上がった。得体の知れぬモノに憑かれたように。
音も、無く。
ス――――――――っと。
俯いていた少女は、乱れ髪の切れ間から銃口を向けた男達を見た。
「あんだって……」
少女は首をねじ切れそうなほど曲げ、男達を睨み見る。地の底、暗い
少女は。
「あんたらこそ、あたしに何てことしてくれたのよ……。人を勝手に殺しといて。せっかくの勝負服を血まみれにして。初体験で
少女は黙ったままバンダナの結び目に指を入れると、解いた。バンダナは彼女の髪の上を滑った。
「……喰って、やろうか」
不気味な宣戦布告をし、睨みを利かせた少女の瞳は、縦に細長かった。猫か蛇の瞳のように。
空気が張り詰め、緊張が疾走した。
それを察したのか、バスは赤信号に差しかかって停車した。
瞬間、消えた。
少女が。
狭い車内であるにも関わらず、一人の人間が消えた事態に男達は狂惑した。S&WM36を構えた男達が、少女を探して通路に並ぶ。
恵理は、理解できない事態に困惑した。
ふと、何かを感じて視線をずらしたことで、この世ならざる者を見ようとは思ってもいなかった。自分の瞳孔が限界まで開くのを、恵理は初めて感じた。
少女はいた。
バスの、天井に。
ヤモリのように、張り付いていた。
だが、それが少女なのか恵理には判らなかった。服装は、少女のものだったから違いないと思うが、余りにも違っていたのだ。
顔が。
つり上がった目に、細長い瞳孔。裂けたように広がった口には、血を噴出させ肉を引きちぎることにしか使えない鋭い牙。喉の奥には蛇でも飲んだかのように動く長い舌。
頬には針金のように太いヒゲが伸び、頭からは掌もある大きな耳が突き出ている。天井に張り付いた指先には、ガラスのように透き通った太く凶悪な爪が伸びていた。
そして、これは一体何だ?
ワンピースの裾から、毛むくじゃらの尾のようなものが二本。生き物のように這い出て動いていた。
見たこともない生物に、恵理の思考が、かき回された。肉体は反射的に窓に押し付けられた。ガラスが割れんばかりの勢いで。
少女は、天井を蹴った。
完全に不意を突いた蹴りは、先頭にいた男の顔面を捕らえた。天井から放つ跳び蹴りが入った男の顔が、粘土細工のように変形していく。
通常、跳び蹴りは、跳び上がった跳躍の勢いを蹴りに加算することで、蹴りの威力を格段に上げる技。
だが、少女は天井に張り付き天井を蹴るに加え、位置エネルギーを更に加えることで威力を増強させていた。
前代未聞の天井から放つ増強型跳び蹴りを食らった男の顔面の変形ぶりは、ある意味笑える顔だが、生まれているものは死に等しい苦痛だ。天井からの予期せぬ攻撃に反応できる者はなく、先頭の男が倒れたことで、将棋倒しに後ろの2人が倒れた。
頭を床に打ちつけ、すぐに動けなかった2番目の男は、頭を振りながら少女を見た瞬間、したくもないのに床に熱烈なキスをした。
男の頭を掴んだ少女が、顔面から床に叩きつけたのだ。
鼻の軟骨がミンチになる音。
前歯全てが一撃で、へし折れる音。
額が割れ頭蓋に亀裂が入る音。
その3つが一つの協奏曲となって車内に響く。
男の脳から、一撃にして意識が飛び出る。
床に尻をついたままのリーダー格の男が痛みに目を開けると、目の前に少女の顔があった。
恵理が先程見た顔とは違い、もとの可愛らしい顔だったが、表情は獲物を冷徹に狩る捕食者のよう。あまりにも短兵急に目の前ある少女の存在に、男は心臓が止まる思いをしながらS&WM36を向けたが、銃口は少女の方に向かなかった。
なぜなら、S&WM36を持つ手首を少女が掴んでいたから。見れば手の甲には、血管が浮いている。血流が止まるほどの握力で、締め上げている証拠だ。細腕でありながら鉄骨のように芯が入っており、手首は万力で締め上げられるような握力の強さに一切の自由が効かなくなっていた。
「て……」
男は文句を言おうとして、セリフが止まった。
いや、止められた。
男の口に、S&WM36の銃口が突っ込まれたから。バスジャック犯の一人が持っていたS&WM36を、少女はいつの間にか手にしていた。
つまり、男に銃口をしゃぶらせたのは、少女だ。
冷たい金属の味が男の舌に広がる。
少女は冷めた口調で言う。
「あたしさ。ドラマや映画で見ただけで、よく知らないけど。ようは、人差し指に当たる、これを引けばいいんでしょ?」
ただ、自分の吸い込む吸気、吐き出す呼気が笛のように鳴って危機を知らせた。
拳銃は近接戦闘用の武器だが、密着状態の場合発射不能にする技術がある。
銃から弾丸が発射されるプロセスは、
① 引き金(トリガー)を引く
② 撃(ハン)鉄(マー)が動く
③ 撃針が薬室の弾薬を刺激
④ 火薬が発火
⑤ 弾丸が発射される
⑥
となっている。
このプロセスのうち、いずれかの部分が絶たれると、正常に弾丸を発射することができない。
よしんば持っていたとしても、何の戦闘訓練も受けていないド素人が、プロ同様に状況を分析し活路を開くことなど出来よう筈もなかった。そんな男が、口に突っ込まれた《恐怖》に意識が集中し過ぎたのは、無理もない。
男の人生で、最も恐ろしい時間だけが過ぎて行く。
脂汗を流しながら小刻みに首を動かす。横に振っているのか、それとも恐怖に震えているのか。
少女の唇に浮かんだ。
それは、こわい
「じゃあ、ね」
男の聞いた、少女の最期の言葉だった。
バン
そして、男は床に倒れた。
白目をむいて。
「あらら……。口で脅かしただけで、のびちゃった」
少女は男の肝っ玉の小ささに拍子抜けした。
宣戦布告から、12秒での終結だった。
少女はS&WM36を床に置くと恵理の元へと行った。近付いて来る少女に、恵理は怯えた。
だが、少女はショルダーバッグを捨っただけだ。手には、すでにバンダナを拾っており無造作に頭に載せた。
顔を隠すように。
血まみれの服、顔を伺えないように隠した少女の姿を、率直な感想に口にすれば、不気味であった。
薄暗い帰り道でなくとも、こんな姿の人物と遭遇すれば腰を抜かして失禁しても理解される。
顔は、人間はもちろんのこと、あらゆる動物は「顔」を所有する。 目、鼻、口、耳といった生きる上で重要な役割を持つ器官が集中する「顔」は、同時に人間にとっては多数の人々を識別する際の看板的部分となると言える。
『砂漠の思想』(安部公房著)の中には、
「顔は人間の内と外とをむすぶ表玄関である」
と述べている。
つまり、「顔」とは、内的世界の自分と外的世界の他人、人間と人間を繋ぐものなのだ。
また、
「文章は認識の内と外とをむすぶ表玄関である」
とも述べている。つまり、言葉の持つ記号化という機能は、内的世界の認識と外的世界の認識との比較、合成を可能にするものである。
これらのことから分かるのは、顔に比べて言葉は、コミュニケーションにおいて、あくまで二次的なものにすぎないということである。 なぜなら一旦思考を通ってから相手に伝えられるという点で、 表情同士ほどの新鮮な生きた交換ができるとは言い難いからだ。 確かに反射的に発せられる言葉だってあるし、逆に思考された上で意図的に作られる表情もある。
だが、互いに途絶えることなく交換される表情には、常に素顔の露出の可能性をはらんでおり、 言葉よりも内面的な部分の交流ができる可能性が高いだろう。
少女は顔を隠したことで、内的世界の自分と外的世界の他人、人間と人間との繋ぎを、一切を断ってしまった為に、この上なく不気味な存在になってしまった。枯れ尾花のように。
恵理は、怖さから少女から視線を反らし、身をすくめる。
一拍の間。
謝罪の言葉に、恵理は声の方を向く。そこに居たのは、少女。
「ごめんね……。えり」
少女は恵理を
「怖いもの、見せちゃって」
少女は、踵を返した。
その場を離れていく少女に、恵理は胸が痛んだ。どうしてかは分からない。
死に目にあった。
怖い目にあった。
恐ろしい目にあった。
今日という日を、思い出したくもないほどに忘れてしまいたかった。
でも、それを差し引いても忘れたくない人が居た。
「運転手さん、ここで降ろして」
バスの運転手は、のびたバスジャック犯達と少女を見て、よく理解できていなかったが、降りるという少女に戸惑いながらも出口乗降口のドアを開けた。
ブザー音と共に折り戸式のドアを開くため、アクチュエーター内の圧縮空気が開放されドアが開く。
整理券と料金表を見てお金を入れた少女は、そっと乗降口のステップを踏んだ。
「あの!」
突然上がった声に、少女は車内を向く。
恵理は立ち上がって、身を乗り出して少女に呼びかけていた。
「今度会ったらさ……。一緒に、遊びに行こうね」
少女は恵理の言葉に、戸惑いをみせた。一瞬の間こそあったが、小さく頷く。
少女はバスを降りた。
その姿を、恵理は窓から見た。
とぼとぼと歩く少女は、泣いていた。恵理の位置から少女の顔を見ることはできなかったが、泣いているのは分かった。
なぜなら、手の甲で目元を拭っていたから。
走り出す少女。
その姿が見えなくなるのに、さほど時間は必要ではなかった……。
◆◆◆
猫股。
それは、年をとって霊力を身につけ妖怪的存在となり、さまざまな怪異や悪害行為を行うもので、そうした猫は尾が二股に分かれているとされた猫のこと。大別して山の中にいる獣といわれるものと、人家で飼われているネコが年老いて化けるといわれるものの2種類がある。
一説には10~30年も生きた猫がそうなるとされ、こうした猫は尾が二股になり、二本足で歩くようになる。あるいは体重が二貫(かん)(約7.5kg)を超すと猫股になるとされます。
猫は人間にとって、犬と同様に最も身近な動物です。
ですが元々日本に猫はおらず、その証拠に『古事記』『日本書紀』『万葉集』には猫の記述はありません。日本に入って来たのは奈良時代初期と推察され、平安時代には『源氏物語』や『枕草子』にも、唐猫と呼んで珍重したことが記されています。
ですが、この説は近年になって覆され、紀元前2世紀の弥生時代にまでさかのぼることになった。
2007年に兵庫県姫路市の見野古墳から猫の足跡のついた須恵器が発見された。少なくともこの須恵器が作られた時点で、日本に猫がいたという決定的な証拠です。おそらく、ろくろを回して作った器を、窯で焼く前に、台か何かの上に所狭しと並べられて乾燥させていたのでしょう。そこを、当時の猫がキャットウォークを渡るように歩いていたところ、バランスを崩すか何かして、まだ柔らかい器を踏んでしまったと推察される。
ともあれ、この猫のひと踏みが、日本への猫の伝来の歴史を塗り替えたのです。今からおよそ1400年前の、古墳時代後期か飛鳥時代には、猫が確実に日本に存在していたという証拠となりました。
また、その翌年の2008年、長崎県壱岐島のカラカミ遺跡から、魚やヘビ、シカやイノシシの骨に混じって、十数点の猫の骨が発見された。年代を推定した結果、これらの骨は今から2100年前の弥生時代のものであることが判明した。この発見によって、日本への猫伝来の時期が一気に700年もさかのぼることになる。
中国大陸に猫が伝えられたのが今から2000年前と言われています。すると中国大陸に猫がやってきたのとほぼ同じ時期に、あるいはそれよりも早く、日本の壱岐島に猫が伝わったこととなります。もしかすると、まだ知られていない別のルートで、猫は日本にやってきたのかも知れません
猫は野生の性質を保持し、安易に魂を売り渡さないのが魅力と言われる。温順かと思うと獰猛さをみせ、柔順そうでいて反抗的。
また、無邪気にじゃれていたかと思うと、闇に潜んで眠光鋭く陰険にじっと見つめていたりする。これだけ相反する要素、つまり訳の分からなさを備えているのも珍しい動物です。
実際、猫は霊獣とされ昔から逸話がつきません。恨みを持って死ぬと必ず化けて出て七代祟って復讐をする。猫を飼う際、まず初めに「三年間飼ってやる」などというように期限を決めてから飼うと、決められた年数が経つと家を出ていく。
といったものです。
そして、年をとった猫が妖怪変化することもその一つです。
江戸中期。武家諸法度の改正、貨幣改鋳に尽力し幕政を補佐した碩学(せきがく)で知られる
「猫股といふもの金華の家に飼ふ猫、三年の後より人をまどわすといふ」
と言っているくらいで、猫は古くなると怪異能力が付くということは疑われていませんでした。江戸当時の瓦版などでもこうした猫の怪異が報じられていた。
なお、猫股(猫又)の呼び名は、尾先が二股(又)になることからつけられている。
江戸中期の有職家・伊勢貞丈による『安斎随筆』には、
「数歳のネコは尾が二股になり、猫またという妖怪となる」
という記述が見られる。
一般に、猫股(又)の「又」は尾が二又に分かれていることが語源といわれるが、民俗学的な観点からこれを疑問視し、猫が年を重ねて化けることから、重複の意味である「また」と見る説や、かつて山中の獣と考えられていたことから、サルのように山中の木々の間を自在に行き来するとの意味で、サルを意味する「爰(また)」を語源とする説もある。
また、老いたネコの背の皮が剥けて後ろに垂れ下がり、尾が増えたり分かれているように見えることが由来との説もある。
猫の妖怪であることで、「猫股」と「化け猫」を同じ存在として扱われたりしますが厳密には異なる存在です。
化け猫は、鍋島の化け猫騒動が代表的です。藩主・鍋島光茂に息子を殺されたことで、鍋島を呪いつつ自害したその母の血を飼っていた猫がなめつくして妖怪化し、代わりに主人の仇を討つもの。
化け猫は主人の無念の死から妖怪となり、恨みのある人間を襲います。
対して、猫股は、先に述べたように年をとって自然に妖怪化した猫のこと。そのため、襲う人間を選びません。人間と見れば、見境なく襲う猫股もいるほどです。このように、「猫股」と「化け猫」は妖怪化する理由も、性格も異なる存在となっています。
猫股についての記述は、多くの文献にその名が残されています。
歌人・藤原定家(ふじわらのさだいえ)の『明月記』、天福元年(1233年)八月二日の条には、南都に体が犬ぐらいの大きな猫股が現れ一夜にして7、8人を食らい死する者が多い。
とあり、猫股が文献上に登場した初出とされており、猫股は山中の獣として語られていた。
鎌倉時代末期には一般に猫股の怪が信じられ、兼好法師の『徒然草』第八九段にも、
「山奥に猫またといふものありて、人を食らふなる」
などと記され、後世の世まで長く信じられています。
一方で、同じく鎌倉時代成立の『古今著聞集』(1254年)の観教法印の話では、嵯峨の山荘で飼われていた唐猫が秘蔵の守り刀をくわえて逃げ出し、人が追ったがそのまま姿をくらましたと伝え、この飼い猫を魔物が化けていたものと残したが、前述の『徒然草』ではこれもまた猫股とし、山にすむ猫股の他に、飼い猫も年を経ると化けて人を食ったりさらったりするようになると語っている。
江戸時代以降には、人家で飼われている猫が年老いて猫股に化けるという考えが一般化し、前述のように山にいる猫股は、そうした老いた猫が家から山に移り住んだものとも解釈されるようになった。
そのために、猫を長い年月にわたって飼うものではないという俗信も、日本各地に生まれるようになった。
普通、飼い猫が猫股になるのですが、そのときには次のような兆候が現れるとされます。
①暗い場所で毛先から根本に向けて毛を逆になでると光る。
②行燈の油などを舐める。
③尾は長く気味悪く、うねって蛇のように見える。
④腐臭に誘われて死人に寄って行く。
⑤尾先が分かれ二股になる。
⑥人がいなくなると囲炉裏(いろり)や火鉢の火を自分でおこす。
そうした兆候の後、猫股はやがてしゃべりだす。
特に、お寺で飼われていた猫がそうした猫股になるようです。『新著聞集』には天和三年(1683年)、京都の清養院の飼い猫が踊りを誘いにきた近所の猫と立ち話をしていたとあります。
また、埼玉県秩父郡本泉村太駄の農家にいた老猫が、雨の夜などに主人の不在の折りをみて、
「おかみさん、三味線を弾きますから、
と、おかみさんに話しかけた猫の記録があります。
他にも、元禄年間(1688~1703年)のこと、江戸増上寺の脇寺の飼い猫が屋根から誤って落ちたときに、大声で「南無三宝」と叫んだとあります。
根岸鎮衛(ねぎしやすもり)の随筆『耳袋』では、猫股が自分のしゃべる能力を解説したエピソードがあります。
寛政七年(1795年)。江戸牛込山伏町にある寺の飼い猫が、しゃべったところを和尚さんに目撃され、自分や他の猫ばかりでなく生き物すべては10年も生きると、しゃべれるようになると教えてくれました。
また、14、5年もすれば霊力を得るのだといい、10年も生きていない自分がしゃべれるのは、猫と狐の間に生まれたからだと答えました。
さらに妖怪化してくると、猫股は死体を操るようになります。猫股が死体を跳び越えると、死体が蘇るという。
『反古風呂敷』には、こんな話があります。現在の千葉県東葛飾郡でイタズラ者が死人の上に猫を置いたところ、その死人が突然起き上がった。白髪を逆立てた死人は屏風(びょうぶ)を倒し、イタズラ者を睨みつけた。恐ろしさに逃げ出して村人を呼んでくると、死人はひらりと屋根に上がり、あっという間に走り去った。数日後に死体は、野原で発見されたとのことです。
しゃべるだけでも、ただごとではありませんが、ここまで来れば完璧な妖怪です。大きさも普通ではなくなります。
『明月記』では犬ぐらいの大きさと記されていましたが、後世になるほど大型化します。『新著聞集』には貞享二年(1685年)、紀伊国熊野の山中で罠にかかった猫股は猪の大きさであるといい、頭から尾まで五尺(約1.5m)ばかり。『萬意草』には犬をくわえていった猫股を射殺したが、頭から尾の先まで九尺五寸(約2.9m)もあったと記されています。
はては、大きさ一丈(3.03m)ほどあると伝えるものもあり、『倭訓栞』では鳴き声が山にこだましたというから、獅子か虎以上の大型です。
このように、年代が経つにつれて大型化してくるのも特徴です。
そして、猫股は人に化けることもできます。
猫股が化けるのは妙齢(みょうれい)の女性や老婆など女性に化けるのを好み、多くは老婆の姿を取ります。これは、猫の性格が女性に似ていることから化けやすいのだという。
文献には、その理由がありますが偏見です。
「なまめかしい外ヅラを装って実は内面に毒を含んでいるのが婦人に似る」
「猫は性格のひがみたるものにて、是を飼って愛するは多くは女人なり同気相もとむる故なり」
と、性格が悪いもの同士が仲良くしているというものです。
多くの本では、お婆さんに限らず、だいたいにおいて女性の方が猫を好み女性の周りに猫が集まるという点から考えをすすめています。集まる理由に女性の体臭が男性のそれより猫好みだからと唱える人もいます。
ですが、一言で言えば女性に「大工」が少ないことが理由でしょう。大工は仕事柄、大声を出したり激しく動きまわったりする。猫にとって、それはたまらないことです。
猫の耳は非常に高性能で人間が聞くことのできない、高周波まで聞き取ることができる。猫の聴力の特徴は、その音源の位置を瞬時に読み取れるところに素晴らしさがあり、猫は人間の20倍の聴力を持っている。猫が大工を嫌うのは、この良過ぎる耳にひとつの理由があります。
そのため、おっとりと静かなしゃべり方と、あまり激しく動きまわることが少ない、お婆さんに好んで集まるのです。
変化の力により、猫股は人になりすまして獲物を狙ったりする。猫だった頃の恨みからか犬を喰ったりしますが、人間も喰います。
江戸時代の奇談集『老媼茶話(ろうおうちゃわ)』の「猫魔怪」にはこんな話があります。
福島県会津の武士、平田庄五郎の老母は常日頃(つねひごろ)、猫を大変かわいがっていた。その猫が姿を見せなくなったことに庄五郎が、気がついたのと同じ頃、老母の目が弱り一日中暗い部屋の中で過ごすようになった。しばらくすると、老母の世話をしていた2人の下女が、何のあいさつもなく相次いで姿を消した。
ある日、下男が畑を耕していると2人の下女の死体を見つけたが、そこに老母が現れ、告げ口すると喰い殺すと脅し、恐ろしくなった下男は暇をもらって出ていった。その内に老母が猫股という噂が流れ、息子の庄五郎が老母に犬をけしかけると、猫股の本性を現しそれを退治した。
『想山著聞集』には、上野国で老母を喰い殺してなりすまし、酒を呑み続けた猫股の話がある。
狡猾な猫股の中には、このように家族の一人を喰い殺しその人物になりすまして密かに人間を襲うもの、あるいは飲み食いをするものもいます。
狡猾という意味では、人の心を理解した行動をとる。
福島県の猫魔ケ岳には、山麓の雄国沼へ来る釣り人を喰い殺す猫股が棲んでいた。これを穴沢善右衛門という武士が斬り殺した。翌朝、善右衛門の妻が行方不明になった。村人を指揮して捜索にあたったところ、山中の断崖に立つ高い杉に妻は殺されて吊されていた。
これは、善右衛門が斬り殺したのが雌(メス)の猫股で、雄(オス)の猫股が彼を苦しめようと復警したのです。殺した本人ではなく、その妻を殺す。これは非常に狡猾で本人にとって、死ぬよりも苦しいことです。家族を失うという、残された者にとって耐えがたい悲しみを計り知ることはできません。
なお、『新編会津風土記』には猫魔ケ岳について、
「人食い猫が出没することにこの名の由来がある。猫岩付近にはいつも草木を生せす、塵埃なく掃除せしか如し」
とある。
現在も福島県の磐梯(ばんだい)山の西北にそびえる高山に、猫魔ケ岳という不気味な名が残るのは、猫股がいたことに由来する。
地名に猫又の名を残る地としては、富山県魚津市と黒部市の間にある山岳群の1つである「猫又山」もそうです。
越中国(富山県)黒部峡谷に出現したと伝えられている猫又は、もともと富士山に住む老猫でした。老猫は狩で他の獣とともに駆り出されたとき、軍兵を食い殺して逃げ回った末、富士山から追放されてしまいます。
その後、老猫は猫又となり、黒部に移り住み盛んに人を殺しては村人を怖がらせていました。やがて大勢の狩人によって猫又は発見されますが、その恐ろしい形相に狩人たちは立ちすくみ誰一人として捕らえられなかったが、そのまま猫又は山から立ち去ってしまいました。それから村は平穏になったが、猫又のいた山を「猫又山」と呼ぶようになりました。
ところがこの猫又山の西南、黒部川の左岸、剱岳の北方にも猫又山(2378m)があります。ここも大猫が現れ人を襲った。
『続日本の地名』(谷川健一著)によれば、こちらの猫又山の西側の猫又谷付近は昔から人を襲う野生の猫がいると恐れられ、その名がつけられたという。大猫におそわれた人は、何と戦後になっても跡をたたなかった。
盗みを働く、人間や死肉を食らうなど、様々悪事を尽くす猫股は、果ては性犯罪にも及びます。
林羅山の『徒然草野槌』によると、猫股はなぜか雄の猫股も雌の猫股の両方とも婦女を犯すとある。
相手が妖怪だけに人間には理解しがたい行動ですが、女好き、好色という性格が読み取れます。さらにその治療法として、雄の猫股に犯されたるは雄を殺して治し、雌の猫股に犯されしは雌を捕らへて是を治す。
と意味不明のことを書いてあり、このあたりは大陸伝来のアレンジという。
また、変わった妖力としては怪火を操った話があります。
越後(新潟県)の武士の家で、ほとんど毎夜、手鞠ほどの大きさの火が、畳より三寸(約9cm)ばかり上をふわふわと飛んだ。これを追いかければ、飛び回り時に隣家の榎(えのき)に登ることもあった。こうした連夜怪事が続き、家の主人は、なんとかして怪事の正体を解いてやろうと心がけていた。
ある日、それとなく庭へ出で木の上を見ると、老猫が赤い手ぬぐいを被り尾と脚で巧に立ち四方を見回していた。主人は今こそと思い、矢で老猫を一矢で射抜いた。
老猫は二度、三度転々としてまた起き上がり、身に立った矢を牙でズタズタに噛み折って、老猫は息絶えた。
屍骸を見ると、尾は二股に分かれ、身の丈は五尺(約1.5m)ばかり、世にも稀な大猫であった。
しかし、このことがあってから後は、怪火も止み、異変も起こらなかった。
しゃべる、人に化ける、死体や怪火を操るなど、怪異能力をいくつも持っていますが、最も恐ろしい能力に《生き返る》というものがあります。
猫は、九つの命を持っていると言われます。猫股はその伝承の通り、本命の命とは別に九つの別の命を持っています。つまり、殺しても殺しても、彼らは9回までなら生き返ることができ、怨みを持つ者に復讐を行うのです。
この伝承は日本だけでなく、西洋にもあります。
シェイクスピアの戯曲として有名な「ロミオとジュリエット」中の、「猫王どの、九つあるというおぬしの命がたった一つだけ所望したいが」(Mer.Good King of Cats, nothing but one of your nine lives)という一節に見ることができます。
ではなぜ「9」という切の悪い数字なのか。多くの国や宗教で「9」は特別な数字と考えられてきました。
古代エジプトでは「9」は特別でとても神聖な数字です。
また、エジプトでは古くから猫が家畜化され人と暮らしてきました。猫は神聖な生き物とみなされ、とても大切に扱われ、神としても祀られていました。太陽神「ラー」の象徴としてオス猫が描かれ、「バステト(Bastet)」は猫の女神として知られており、太陽神「ラー」の娘だといわれています。エジプト神話の中のエジプト九柱の神々(エネアド、ヘリオポリス九柱神)は九柱の神と女神のことです。
また、三位一体を表す三つ一組が三組揃った数字である「9」は最高級の数字だと考えられています。神聖な生き物として大切にされていた猫と神聖な数字である「9」を結びつけたのは自然な流れかもしれません。中国ではその発音から「9」と「久」を結びつけて「永遠」を意味するので縁起がよいとされ、さらに一文字で書ける数字の中で一番大きな数字である「9」は「無限、無数」を連想させるので幸運の数字だとされています。
猫が複数の命を持つ伝説は日本だけでなく多くの国で語り継がれていますが、スペイン語圏では「7つの命」、トルコやアラビア語圏では「6つの命」だとも言われています。
一種の不死身とも言えるその力は、まさに妖怪。それ故か、猫股のヘソを三年間酒に漬けておくと不老長寿の薬になるという。
この妖怪の誕生を防ぐために、人々は長い尾の猫は年を取ると尾が二つに分かれ猫股と化すという伝承より考え、短ければ化けないという結論に至りました。
本気で信じてなかったにせよ、長い尾の猫は気味が悪いと敬遠する傾向が始まり、尾の長い猫は捨てるという行為がされました。
さらに生まれたばかりの子猫の段階で、尾に絹糸を結ぶ風習が生まれました。すると、成長の途中で尻尾が腐り自然に落ちる訳です。
この風習は猫股の伝説が影を潜めても長い間残り、昭和の二桁にさしかかろうとする頃まで続いたという。当時の方の談には、確かに糸を結んであった猫をよく見た記憶があるそうです。
恐怖の対象となる猫股ですが、愉快にも彼らには、踊り好きというものがあります。
松浦静山が文政四年(1821年)に書いた『甲子夜話』には、下総の佐倉(千葉県)の高木伯山という医者が、枕元で物音がするので目を覚ましてみると、飼っていた猫が首に手ぬぐいをかぶり、手をあげて招くがごとく踊っていた。猫股となった猫を斬ろうとするが、逃げられてしまい医者は、
「然らば、世に猫の踊りと謂うこと妄言にあらず」
と結んでいる。
つまり、猫が踊るというのは本当にあるということだと言っているのです。
この踊るという行為にあたり、猫股は《手ぬぐい》にこだわる節があります。先に書いた、京都の城下の静養院の猫と、踊りを誘いにきた近所の大猫との会話の内容には、手ぬぐいについて言っています。
近所の大猫は、
「今夜、納屋町に踊りがあんだけど、いかねえか?」
と誘いにくるが、寺の猫は、
「でも、いま、坊さんが病気だからちょっと出られないよ」
と答える。すると大猫は
「じゃあ、手ぬぐいかせよ」
と言ったが、
「手ぬぐいは坊さんが、ずっと使っているからダメだよ」
と大猫を送り返してしまう。
これを聞いていた、お坊さんは猫に自分の体はもう良いから踊りに行っといでと話しかけ、手ぬぐいを渡すと、猫は手ぬぐいを持って走っていった。
古い文献には、猫が手ぬぐいを頭から被って踊る猫の姿が描かれており、猫股が踊るには手ぬぐいが必要なようです。あるいは、人に化けるのに必要ともされますが、詳細は不明です。
悪いことが目立つ猫股ですが、常に人に害をなすばかりではありません。
中には恩義に厚いものもいます。
「猫檀家」と総称される昔話では人助けをしています。
ある貧乏寺の住職は、自分の食事を減らしてまでエサをやるほど猫をかわいがっていた。その猫がある日、突然話しだし、
「近くの長者の娘の葬式があるから、死体を宙づりにしてみせる。頃合いをみて南無トラヤヤと唱えるといい」
と、教えた。
数日後、予言通り長者の娘の葬式があり、死体が宙づりにされた。高名な僧侶が数人がかりで経を読んでも効き目はなく、貧乏寺の住職の呪文でやっと死体が降りてきた。感激した長者は寺に多大の寄進をし、住職と猫は幸福に暮らすことができたという。
山形県に伝わる「ねこのて」という昔話では、庄屋の家にネズミも取れなくなった老猫・タマがいた。
庄屋の田は広く村人総出でも田植えには何日もかかるほどで、男も女も大忙しであった。そんな中でもタマは縁側で寝てばかり。そんなタマを見た女中が、
「猫の手も借りたいほど忙しいのに」
と愚痴をこぼしてしまう。
田植えは三日目を迎えても半分しか進んでいなかった、そんなある日のこと、村人が田植え仕事に精を出していると見慣れない三人の若い娘が現れ田植えの仕事を申し出てきた。三人娘のうち一人、色白の美しい娘が自ら歩み出て田んぼに入ると、せっせと田植えを手伝い始めた。
その娘の後ろでは連れの二人が太鼓を叩き、楽しげな歌と踊りで村人達を鼓舞する。
すると村人達は元気が出てきて田植えの仕事がはかどっていく。特に男衆は若い娘達の手前、特に張り切った。娘の仕事も早いもので、一人であっという間に田んぼの一枚の田植えを終えていく。三人娘の働きもあり、気がつくと田植えは夕暮れには終わっていた。
村人は大いに喜び、三人娘にお礼を言おうとするのだが、気がつくと娘達はどこかへ消えてしまっていた。
そんな不思議な出来事があった翌日。タマに愚痴をこぼした女中が、縁側で寝ているタマと見慣れない二匹の猫を見つける。タマを見ると前足後足は田んぼの泥で汚れていたという。
村人が田植え仕事に追われ、大忙しで困っていることに気がついたタマは、長年お世話になっている人達にお礼がしたかったのであろう。仲間の猫と共に若い娘に化け田植えの手伝いをし、自分にできるせめてもの恩返しをしたのでした。
他にも、命をかけて人を守った話があります。
大阪の町人、河内屋惣兵衛には大変美しい娘がいた。
ところが、その娘に長い間家で飼っていた、ぶち猫がまとわりついて離れない。便所にまでついて行くほどのしつこさに周囲でも、
「あの娘は猫に魅入られている」
という噂が立った。
気味が悪く思った惣兵衛夫婦は、猫を遠くへ捨てたがすぐに帰って来てしまう。仕方なく殺す相談をしていると姿をくらましてしまった。
ある晩、その猫が惣兵衛夫婦の夢枕に立って、
「あのまま御家にいては殺されるというので身を隠しました。私は先代から40年間も厚い恩義を受けてきたものですから、どうしてその恩を裏切るようなことをいたしましょう。私がお嬢さまにつきまとっていましたのは、この家に棲む妖鼠(ようそ)がおり、これからお嬢さまを守ろうとしていたのです。
ただ、この妖鼠(ようそ)は手強くて私だけでは到底勝ち目がありません。なにとぞ河内屋市兵衛の虎猫を借りてくださいませ。二匹が力を合わせれば、なんとかなりましょう」
と話した。
初めは信じなかった惣兵衛夫婦も何度も現れる猫の熱意に心を動かされ、市兵衛宅へ行ってみると、たしかに大きな虎猫がいる。その家の猫を借りてくると、同時にぶち猫も家に戻って来た。
何日か経った晩、夢の中で猫が、
「明後日、やっつけます。日が暮れたら私ともう一匹を二階に上げてくださいませ」
と言うので、その日は充分にごちそうをし、その通りにした。
その夜中、二階は大騒ぎになり、それが2時間ほど続いて静かになった。
惣兵衛が恐る恐る覗いてみると、猫より大きな鼠がぶち猫に喉笛を食いつかれて死んでいた。
助っ人の虎猫は深手を負いながらも、どうにかこうにか無事だったが、ぶち猫は妖鼠(ようそ)の喉笛に食らいついたまま、頭をかき破られて絶命していた。
惣兵衛は猫の忠義にいたく感激して手厚く葬り、立派な墓を建てたという。
猫は進化の性格上、冷徹な言い方をすれば、犬のように忠誠をつくすこともなく、牛馬のようにこき使うこともできず、ネズミ退治り以外に使えない極めて実用価値の低い動物とされます。
ですが、そのネズミ退治によって人間達は救われていたのでした。
中世のヨーロッパで悪魔や魔女が存在すると信じられた時代。
魔女狩りが行われた最中、「猫は魔女の手先」と吹聴された猫達は迫害・虐殺されていった。その結果、ヨーロッパの猫は激減し、ネズミが媒介する黒死病が蔓延。そこでようやく人間は、ネズミ退治してくれていた猫の有り難みを思い知ることになる。猫がネズミ退治をしてくれることで、穀物だけでなく病気からも人間を守ってくれる“必需品”だったことに気がついたのです。
愉快な一面のある猫股ですが、多くは人を喰らう恐ろしい存在として伝承されています。
猫股がなぜ人を襲うのか。
か弱い肉食獣であった猫が人間以上の《力》を得ることで、人間達の勝手な都合で利用されていたことに対する反逆。恨みを晴らすべく牙を剥いたとしても、それは自然なことなのかも知れません。
kou
恋する猫股 kou @ms06fz0080
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