放課後のある出会いについて

優木佯夢

放課後のある出会いについて

 パン、と乾いた音が鳴り響く。

 その音とほぼ同じタイミングで、弾かれたように選手たちが飛び出していく。

 それまで一瞬の緊張と静寂に包まれていた観客席から、わっという歓声が上がり、それぞれの選手の名前を叫んでいるのだろう声も聞こえる。

 私はといえば、凄い歓声だなあ、やっぱり地方大会のときとは違うんだなあ、なんてことを少し思いながら、先頭を走る選手のことを追いかけていた。

 わずかに、ほんのわずかにだけどスタートで出遅れた。それが全国大会の決勝という舞台で緊張していたと言ってしまえばそれまでだが、そのコンマ数秒にも満たない差がこの舞台、たった百メートルという短い距離を駆け抜ける競技においては致命的な大差となることを私は知っていた。

 前を行く選手のことを意識する。二人の選手の背中が見えた。どちらかといえば私はスタートから先行して逃げ切るタイプの選手だ。ここから二人に追いつくことは難しいだろう。問題は後半で伸びてくる選手たちだ。そう考えるうちに隣のレーンの選手が私に並び、そして抜き去ろうとしているように感じられた。

 普通ならここで勝負をかけるべきなのだろう、そして実際に他の選手たちはそうしているのだろう。しかし、意思とは裏腹に私の体は加速することなく足をただ進ませる。

 そして、距離にして百メートル、時間にして十秒と少しの後、大きな歓声にも後押しされるようにして、選手たちはゴールラインへと飛び込んでいく――。


 

 蝉の鳴き声が聞こえる。九月も終わりに差し掛かろうとしているにもかかわらず、まだまだ残暑は厳しくて、夏はまだ終わらないのだという気配を感じる。天気予報によれば、これから気温も下がりだんだんと秋めいていくらしいのだが、本当に涼しくなるのかにわかには信じられないでいた。

 放課後の教室で席に座っていると、様々な音が聞こえてくることに気がつく。吹奏楽部のパート練習だろうか、いろいろな楽器の音がいろいろな場所から聞こえる。楽器には詳しくないのでどの音がどの楽器なのかまでは分からないが、それぞれの楽器の音が重なり合って一つの大きな音になっているようで面白いと感じた。他にも、ランニング中であろう運動部の掛け声も聞こえてくる。この時間帯に学校の外周を走っているのはおそらくバレー部だ。そろった声が少しづつ遠くなっていくのを感じながら聞こえてくる音に耳を傾ける。

 そのまましばらく楽器の音や運動部の掛け声を聞いていると、それらの音に交じって慣れ親しんだ乾いた破裂音が聞こえてきた。

 ――陸上のスターターピストルの音だ。

 所属している陸上部の練習中に軽く足を捻ってしまったのが昨日の話。歩けないほどの怪我ではなかったのだけど、顧問の先生から大事をとって今日の練習は休むように言われたのだ。正直に言えば今日だって練習に出ることはできた気がするのだが、しばらくは大会なんかもないことだし、調整に気を遣う必要もなく、まあ無理に練習に参加する必要もないかということで、先生の言葉に甘えて練習を休むことにしたのだった。

 しかしこうなると時間の使い方に困ってしまう。普段一緒に帰る友人は当然というかやっぱり部活の友人たちなので、彼女たちが普通に部活をやっている今、一緒に帰る友人はいないのだった。一人で帰るのもなんとなく嫌だな、と思っているうちにクラスでも部活のある人は部活に行き、部活のない人はさっさと帰ってしまって、気がつけばクラスで一人きり、仕方がないので自分の席に座り、聞こえてくる音や掛け声に耳を傾けているのだった。

 こうなるなら部活に参加しないまでも見学ぐらいさせてもらえばよかった、と思いつつ、今日は練習着を持ってきてもいないので見学もできない。このまま部活が終わるのを待つか、と思っていたところだった。

 そういえば、友人が部活に行く前に妙なことを言っていたな、と思い出した。確か「最近は屋上に幽霊が出るらしいから気を付けて帰るんだぞ」だったか。まずうちの学校にもそんな怪談があったことにまず驚いてしまった。屋上の幽霊、なるほど学校の怪談の定番と言ってもよさそうだ。うちの学校は屋上へ続く扉に鍵がかかっているので、屋上で見えるはずのない人影を見た気になった人がその噂を流したのだろう。そして、何より噂が好きな女子高生の間で噂が広がっている、ということか。だけどそれなら今皆の部活が終わるのを一人で待っているのはまるで幽霊を怖がっているみたいになりはしないか。からかわれたりしたらどうしようか、なんて考えていたとき、

「あのー、ちょっといいですか」

 という声が廊下から聞こえてきた。

 考え事をしていたときに突然声をかけられたものだから少し驚いて振り返ると、そこには知らない女子生徒が一人立っていた。

「な、なんでしょうか」

 そう言って席から立ちあがろうとすると、女子生徒は、

「ああ、立たなくていいです。そのままで」

 と言ってそのまま続ける。

「実は、廊下から見させてもらったんですけど、そこの席から外を眺めている構図が凄く良くって、一枚だけでいいので写真を撮らせてもらえませんか」

 と言いながら彼女は首からぶら下げているものを掲げてみせる。彼女の手に握られていたのは小柄な女子生徒には不釣り合いな、いわゆる一眼レフ機と呼ばれるカメラだった。

「写真……ですか、その写真を撮って一体どうするんですか」

「ああ、えっと、部活の皆で批評したり、写りが良ければコンクールに出したりするかもしれません」

 ご迷惑でしょうか、と彼女は不安そうな目で見つめてくる。

 私はああ、いや、と手を振って、

「まあそれぐらいならいいですよ、私なんかでよければですけど」

 と答える。すると彼女は嬉しそうに、

「よかった……。それじゃあ早速なんですけど、そこの席に座ってもらって、こう、頬杖をつきながら外を眺めててもらってもいいですか」

 言われた通りにしていると、教室の電気が消えた。

「蛍光灯じゃなくて外の自然光で撮りたいので」

 と聞こえると、おそらく撮影する場所を決めているのだろう、人が教室の中を動く気配がした。

 そうしてしばらく教室の中を動き回ったり机か椅子を動かすような音が聞こえた後、

「はい、撮りまーす。3,2,1」

 とカウントが進み、カシャリ、とカメラのシャッター音が聞こえてきた。

「もういいの」

 と彼女の方に振り向きながら尋ねると、彼女ははい、と頷いて、

「本当にありがとうございました。おかげさまで、いい写真が撮れました」

「それならよかった」

 そう言いながら、彼女は一体何者なんだろう、という疑問がわいてきた。

 さっと、彼女の足元を確認する。この学校では、上履きに学年ごとに異なる色のラインが入っていて、そこを見ることで学年を判別することができる。彼女の上履きのラインは赤色、私と同じ色だ。

「ところであなたは一体どちら様なの。見たところ同学年みたいだけど」

 同学年なら別に敬語を使う必要もあるまい、と思いながら、今撮影した写真を確認している様子の彼女に問いかけてみる。

「ああ、すみません、申し遅れました。私は二年四組の大原鈴花っていいます」

 私は二組なので四組と言えば二つ隣のクラスだ。それならまあ私が知らなくても無理はない。

 そう納得して私も自己紹介をしようとする。

「大原さんね、分かった。私は――」

「吉野あかねさんですよね。知ってます」

 名乗る前に大原さんに割り込まれてしまった。あれ、どこかで彼女と会ったことがあっただろうか。でもそれにしてはさっきの自己紹介は初対面っぽかったけれど、と考えていると、

「吉野さんは学年でも有名人ですから」

 大原さんはそう言うと、

「陸上部のエースでインターハイにも出てて、全国でも活躍してるなんて凄いですからね」

 と続けた。

 インターハイ。

 自分で自分の顔が一瞬曇ったのが分かった。それに気づいたかどうか分からないが、彼女は続ける。

「私達の部活なんかは地味ですから、注目される運動部がちょっとうらやましかったりします」

 なんとかうまく話題を逸らせそうだと思った私は大原さんに聞いてみる。

「さっきも部活の皆がどうとか言ってたけど、大原さんって何部なの。それと、同学年なんだから敬語じゃなくてもいいよ」

「ああ、敬語なのは気にしないでください。私、そっちの方が楽なんですよ」

 体の前で手を振ると、次は首から下げたカメラをまた掲げてみせる。

「部活はまあ、このカメラを見てもらえたら分かるかと思うんですけど、写真部に入ってます」

 確かに、カメラを携えているのだから写真を撮る部活なのだろう、とは予想できてもよかった。しかし、この学校に写真部なんて部活があったことを知らなかった。

「この学校、写真部なんてあったんだ」

 思わず口にしてしまうと、大原さんは少しショックを受けた様子で、

「そうなんですよー。さっきも言いましたけど私達ってすっごく地味な部活で、なかなか認知してもらえないんですよね」

 そう言って大げさにため息をついてみせる。

「ああ、ごめん、そんなつもりじゃ」

 慌てて謝ろうとすると、彼女も分かっています、という様子で、

「いいんですよ、知名度が低いのは本当のことですから」

 と笑ってみせた。

 自嘲する彼女に何か別の話題を振らなければ、と思った私は、

「それで、大原さんは今部活中なの」

 と聞いてみた。

「はい、そうなんです。今ちょうど校内を散策して被写体を探していたところで」

 そういう彼女に私は質問を重ねる。

「写真ってやっぱりそのカメラで撮るんだよね。すごく大きいし、重くないの」

 と、彼女のカメラを指さしながら言う。彼女が首から下げているカメラは、グリップがついているとはいえ本体は重そうで、そこからこれまた大きなレンズが飛び出していて、小柄な女子生徒が持つには不釣り合いに大きく見えた。すると彼女は、

「ちょっと重いですけど、もう慣れちゃったんで」

 と言いながら、それに、と続けて、

「私が使っているカメラなんて、まあ、軽いモデルではないですけど、世の中にはもっと重いカメラももっと重いレンズもありますからね、飛行機や野鳥を撮る人たちに比べたらまだまだ軽い方ですよ」

「それよりまだ重くなるんだ」

 ちょっと信じられないな、と言って、

「私はスマホしか持ってないけど、カメラで撮るとやっぱり違うのかな」

「そうですね、普通にスマホの画面とかでSNSに上げた写真を見る分にはスマホのカメラでもいいと思いますけど、やっぱり画像を拡大して印刷したりするにはカメラで撮った方がいいかな、と思います」

 スマホのカメラも進化してますからね、と大原さんは言う。

「そうなんだ、じゃあまあ私はスマホのカメラでも十分かな」

「どれくらい綺麗な写真が撮れればいいかなんて人によりますからね。でもでも、やっぱりカメラを使った方が一目見た時に綺麗に見えるんで、スマホのカメラよりも綺麗な写真が撮りたくなったらカメラを買うのも検討してみてください」

「なんか、カメラ屋の店員さんみたいだ」

 そう言って笑うと、大原さんもつられて笑い出した。

「いけない、部活の邪魔をしちゃったかな」

 ふと我に返ってみると、彼女を付き合わせてしまったかな、と気づく。すると彼女は笑って、

「いえいえ、いい写真も撮らせてもらえましたし、お話も楽しかったので」

 じゃあそろそろ行きますね、と背を向けようとした大原さんに、私は気がつけばあのさ、と声をかけていた。

「どうかしましたか」

「いや、その、私実は今暇を持て余しててさ、もし大原さんがよければなんだけど、私も校内を回るのについて行っちゃだめかな。その代わりと言っちゃなんだけど、また私の写真を撮ってもいいからさ」

 ポートレートってやつ、と一気に言う。すると、大原さんは考え込んだ様子で、

「うーん……」

 と唸っている。

 そしてしばらく考え込んだところで、

「本当にポートレートを撮るならいろいろと用意したい物があるんですけど、今日は使えないし……。まあでも、校内で部外の人の協力を得てポートレートが撮れる機会なんてそうそうないですし、いいですよ、一緒に回りましょう」

 と言って私の申し出を了承してくれた。


 それから私達は二人で校内の様々なところを回った。私達がさっきまでいた二年二組の教室以外にも、教室の位置によって日の光の入り方や窓から見える景色が変わるとかで他の教室に移動して写真を撮ってみたり、校舎の外に出てグラウンドの近くまで行ったり、プールを囲むフェンスのそばまで行ったりした。そこで写真を撮るごとに大原さんは光の入り方や撮り方を意識しているみたいで、時には背伸びをするような感じで上から撮ってみたり、時にはしゃがんで下から撮ったりしていた。もちろん私も被写体になると言った手前、いろんなところで写真を撮られた。教室の窓枠に軽く腰かけてみるだとか、フェンスにもたれかかってみるだとか、校内のあらゆる場所で被写体になった。それも、一ヶ所で一枚ではなく、ポーズを変えて二枚、三枚と撮るのでだんだん撮られる側としても楽しくなり、途中からは私の方からポーズを提案したりするようになっていった。すると大原さんも私が積極的になったのが嬉しかったみたいで、写真を撮る枚数が増えていった。

 そうこうしながら校内を散策していたときだった。ちょうど廊下の窓からグラウンドが見えて、陸上部の面々が練習しているのが目に入り、ふとそちらを眺めていると、

「そういえば吉野さんって、今日は部活はどうしたんですか」

 と大原さんに尋ねられた。

「実は昨日の練習で足を少し捻っちゃってね。今日は休めって言われたから休みにしたの」

「えっ、それって私について回ってていいんですか」

 彼女が不安そうな顔で聞いてくる。私は大丈夫だよ、と笑って、

「今はもう全然痛くないから平気だよ。なんなら今から走っても大丈夫なぐらい」

 そう言うと、彼女も安心したような表情で、

「それならよかったです」

 と言ってまた写真を撮り始めた。

 そこからしばらくの間、また校内を歩き回っていると、大原さんの持っているカメラについて気づいたことがあった。

「そういえばさっきからそのカメラについてるレンズがずっと同じだけど、そういうカメラってレンズを付け替えたりできるんじゃないの」

 そう言って大原さんの方を見ても、持っているのはカメラだけで他に荷物を持っているような様子はない。

「ああ、はい、交換できますよ」

大原さんはそう言うとカメラからレンズを取り外してみせた。ホコリが入っちゃうので、と言ってまたすぐにレンズを付け直すと、

「一本のレンズだけで写真を撮る、というのが今日の課題なんです」

と説明してくれた。

「一口にレンズと言っても色々あって、広い範囲を写すためのものから遠くのものを写すためのものまで色々なんですよ。その中でも今日私が使っているのは標準レンズっていうオーソドックスなやつなんです」

「なるほど、でもどうして一本だけなの」

「それは、あえてズームやレンズの交換を制限することで、自分で写真の構図をしっかり決められるようになれ、ということだと思います」

「へえ、いろんな考えがあるんだね」

 写真部の活動って、ただ撮るだけじゃないんだ、と思う。私は陸上部のこと以外には疎いけれど、他の部活の人達もちゃんといろいろなことを考えながら部活をやっているんだ。

 そこで、また新たな疑問が生まれる。

「そこまでいろいろ考えながら写真撮って、その写真ってどうするの」

 部員で見せ合うんだっけ、と聞いてみると、

「そうですね、部員に見せて批評しあったり、あとはさっきも言いましたけどいい写真はコンクールに出したりもします」

「ああ、コンクールって言ってたね」

 さっきの会話を思い返す。とすれば、今日撮った私の写真なんかもコンクールに出したりするのだろうか。そう聞いてみると、

「それはまだ分かりませんけど、でもその可能性はあると思います」

 と返ってきた。

 もしそうなったら撮られた側としては嬉しいような恥ずかしいような複雑な気分だな、と思っていると、彼女が、それでは次の場所に行きましょう、と言って歩き始めた。

 彼女はどんどんと階段を上り、あっという間に最上階までたどり着くと、さらに上へ向けて階段を上りだした。その先には鍵のかかった屋上へ続く扉しかないはずだけど、と思っていると、友人に聞いたあの噂を思い出した。

「心霊写真でも撮りに行くの」

 そう尋ねると、大原さんは困惑した顔でこちらを見つめてくる。

「心霊写真って何ですか?」

「友達から聞いたんだけど、なんか屋上に幽霊が出るらしいんだよね」

 すると大原さんはああ、と納得がいった様子で、

「その幽霊、私かもしれません」

 と言った。


 実は、放課後だけ屋上の鍵を借りてるんです――。

 そう言いながら大原さんがポケットから屋上の扉の鍵を取り出してみたのがついさっき。私は、学校生活で初めて校舎の屋上に足を踏み出していた。

「やっぱり、屋上の景色って特別ですから」

 彼女は笑う。

 初めて屋上に出てみると、転落防止のためだろうフェンスが周囲をぐるっと囲っている以外は視界を遮るものがなく、フェンス越しに運動部が練習するグラウンドが小さく見えたり、空がとても近くに感じられて、なるほどこれは確かに特別だ、と素直にそう思った。

「私が屋上で撮影しているのを下から見た人が、幽霊だと勘違いしちゃったんでしょうね」

 屋上からの風景を撮影しながら大原さんが言う。普通は屋上に入れませんから、と。

「幽霊の正体見たり、ってやつだね」

 と言いながら、幽霊の正体に少しほっとしたような残念なような気持ちでいると、

「ここで撮った写真が、部内のコンクールで一位になったんですよ」

 と彼女が言う。

「一番って、凄いじゃん」

「でも部内での結果ですから。吉野さんみたいにインターハイの決勝までいく方が凄いですよ」

「そんなことない」

 反射的に声が出ていた。

「そんなことないんだよ……」


 今年の夏。インターハイ女子百メートル決勝。その短い距離を駆け抜けた選手達は、今固唾を呑んで競技場の電光掲示板を見守っていた。先頭でゴールした選手は笑みを浮かべており、その他の選手達も緊張が解けた表情をしている。そして、最終順位が競技場の電光掲示板に表示される。

 五位。

 決して優勝できるとは思っていなかったけれど、実際に順位を目にすると悔しくもある。そして何より、私が悔しがっているのは、順位だけが理由ではなかった。

 他の選手と一緒になってゴールを駆け抜けたとき、私にはまだ余力があった。

 スタートで出遅れたと感じたとき、隣のレーンの選手に並ばれたとき、もっと力を振り絞ることはできたはずだった。そして、他の選手達は、実際に最後の一滴まで力を振り絞っていたはずだ。先行して逃げ切る、と言えば格好はつくが、私はただ後半にかけて力を出し切ることができないだけだった。

 今までは、それでもなんとか勝つことができていた。しかし、インターハイの決勝という舞台においては、私の悪癖が直らないままでは勝つことができなかった。この悪癖があることは普段の練習から分かっていた。練習中もあと少し踏ん張るべきところで踏ん張れず、手を抜いてしまう。この癖が直らないことには、私は全国の舞台では勝つことができないだろう、という確信があった。

 そして、私は肝心なところで本気になれない私自身が疎ましかった。

 友人達や周囲の大人は全国大会の決勝まで残った時点で十分だと言ってくれるけれど、私からすればもっと上の順位を狙うことができたのだから、どうせなら、もっとやれただろ、と言ってくれた方が嬉しかった。本気になれない自分へのいら立ちと周囲からの賞賛のギャップが、私の心を苦しめる要因の一つとなっていた。

 昨日の練習で足を捻ったのだって、そのせいで集中できずにいたことが原因だった。どうすれば手を抜かずにいられるだろう、と考えながら走っていたせいで足を捻ってしまったのだ。そして今日の練習を休むことにしたのだって、またついつい楽な方に流れてしまったのでは、という気持ちがぬぐえないでいた。大原さんについて回っているのも、彼女や写真のことが気になったということもあるが、少しでも気を紛らわせたいから、という面も確かにあった。


「本当、私、大した人間じゃないから……」

 そう繰り返すと、少し離れた場所で写真を撮っていた大原さんがこちらへ歩み寄ってきた。

 どうしたのだろう、と考える間に彼女はカメラを操作すると、液晶画面を私に見せてくる。

「ちょっとこの写真を見てください」

「写真……」

 言われた通りにカメラをのぞき込むと、そこには私が写っていた。

 ただし今日撮られたものではない。ユニフォーム姿で走る私の写真だった。

「これは……」

「実は私、インターハイの県予選を見に行ったんです」

 何かいい写真が撮れるかもしれないと思って。と彼女が続ける。

「この写真は、県予選の決勝で吉野さんが一位でゴールしたところの写真です」

 よく撮れてるでしょ、と言って彼女が笑う。

「このときの吉野さんの走りを見て、私、本当に凄いなって思ったんです。スタートからぐんぐん他の選手を引き離して、手足が伸びるみたいにしなやかに動いて、なんだかこのまま空だって飛べちゃいそうだなって思いました。だからその写真、私のお気に入りの一枚なんです」

 彼女は笑みを絶やさないまま続ける。

「この写真を見てたら、ここはどうすればいいんだろうって少し悩んだときも、吉野さんみたいにかっこよくなりたいっていう気持ちがわいてきて、とりあえず一歩前に進んでみようって気分になるんです。だから、吉野さんは、私にとって憧れであり目標なんです」

 本人の前でこんなこと言うのは恥ずかしいですけどね、と彼女ははにかんで言う。

 それを聞いている間も私はその写真から目が離せなかった。写真の中の私は、腕を、足を、目一杯伸ばしてゴールへ駆け込んでいるように見えて、写真が上手に撮れているからというのもあるのだろうが、それでも、自分のことながら、少しだけ、綺麗に見えた。

「吉野さん」

 どうかしましたか、と彼女に聞かれてふと我に返った私は、思わず彼女に問いかけていた。

「大原さんってさ、何のために写真を撮ってるの」

 聞いてから、今日は彼女に質問しっぱなしだな、と思う。

「何のために写真を撮るのか、ですか……」

 大原さんは腕を組んで考え始める。

「いや、無理に答えてくれなくてもいいよ」

「いえ、もう大体考えつきましたから」

 そう言うと、彼女は話し始める。

「私が写真を撮る理由は、やっぱり、私はこういう風に世界を見ているんだぞ、と宣言するためなのかなあ、と思います」

「世界を見ている」

 そう聞き返すと、彼女はええ、と頷いて、

「もちろん写真を撮る目的として、思い出だったりそのときの感情を記録に残すっていうのもあると思います。それはそれで正しいんですけど、私の場合それだけじゃないというか、自分の世界の見方というのを表現したいんだな、と思います」

 彼女はそのまま続けて、

「例えば、広角レンズや望遠レンズで撮った写真って、人間の目で見るのとは違った写り方、違う景色になるんですよ。でも、そういった目で見る景色とは違う写真でも、いえ、違うからこそ、それが表現の一つになると思うんです。だから、そういった表現の数々って、ある意味自分には世界がこう見えているんだぞ、自分は世界をこうやって切り取ったんだぞって世界に対して宣言することなのかな、と思うんです。そして私は、そうやって自分の世界の見方を宣言することがやめられない。だから私は写真を撮るんです」

 そう言って、それこそ宣言をする大原さんに、私はどうしようもなく引き付けられているのを感じた。

 世界に対する宣言。ともすれば笑ってしまいそうなその言葉を、堂々と、そして真剣に口にできる大原さんのことがたまらなくかっこよかった。彼女は自分の中に自分のものの見方の軸を持っていて、自分自身で世界を表現することができるのだ。それがどうしようもなく羨ましかった。

 そこで、私はあることに気がついた。

 さっき大原さんは私に憧れていると言ってくれたけれど、今この瞬間、私は大原さんに憧れていることに。私は彼女のことをとてもかっこいいと思うし、彼女のようになりたいと思う。さっきまでの一方的に憧れられる関係から、互いが互いに憧れる関係へと変化したのだ。

「大原さん」

 呼びかけると、横にいた彼女と視線が合う。

「大原さんって、凄くかっこいいんだね」

 それは心の底からの賞賛だった。そしてそれを聞いた彼女は、

「ありがとうございます……」

 と言って、少し恥ずかしそうにうつむくのだった。


 その後も私たちは屋上で写真を撮ったり、また校内に戻って写真を撮ったりしながら部活動の終了の時間までを過ごした。そして、時間になると、部室に戻るという大原さんと別れ、私も教室へ戻った後、陸上部の友人達と合流した。友人達は私が学校に残っていたことに少し驚いていた様子だったけれど、

「屋上の幽霊と話してたんだよ」

 と言うと皆して嘘だと笑ったり不思議な顔をされたりした。


 そして、翌日。

 クラスの友達と喋りながら移動教室のために廊下を歩いていると、向こうから大原さんが歩いてきた。彼女の方も友達と一緒であり、お互いに話しかける空気ではなかったけれど、すれ違うときに大原さんがぺこり、と頭を下げてきたので、私も手を振って挨拶を返した。会話もなかったが、確かに昨日の出会いがあったことが分かって、これはこれで悪くないな、と思えるような気分だった。

 放課後になって、さて今日から部活に復帰だ、ということで準備をしていると、昨日のやり取りが思い出される。

 私が彼女に憧れるように、私も誰かの憧れになれるのなら。

 まだ自分の癖は直っていないし自分を信じ切ることもできないけれど、私自身が誰かの憧れとして、そして誰かの憧れであり続けられるように、それに恥じない姿を見せよう、と思うことができた。

 そしてそれは、より強く一歩を踏み出すための勇気になる。

 その勇気が、きっと私を変えてくれると信じて。

 そう思いながら私は晴れやかな気持ちでグラウンドへの一歩を踏み出すのであった。


 さらに後日談として。

 放課後の出会いから数ヶ月後、私は校内の掲示板でとある記事を見つけた。

「『二年四組の大原、写真コンクールで入賞』、か」

 掲示された写真の中で笑う彼女の手には、あの日撮った私の写真が大事そうに抱えられていた。

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放課後のある出会いについて 優木佯夢 @Yuuki_Youmu

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