本文
「二章の冒頭」
暗闇の中から意識が浮上する感覚。それと同時に優人の視界が開かれていく。
顔は何かに覆われていて、視界がいつもより狭くなっている。
ぼんやりとした頭の優人は、目前の光景に意識がはっきりと覚醒した。
先ほどまでいたリビングは、机や椅子が倒れていた。床には自分が置いたリュックがあり、中身が全て出されている。
泥棒が入ったかのような惨状に、優人は意識を失う前の記憶を徐々に取り戻していく。
紅童子と名乗る、赤い仮面。
(確か、あの仮面をつけたはず)
顔を覆っているものは、多分、仮面なのだろう。
触って確認しようと手を動かそうとして、優人はさらなる違和感に気付く。
(手が、動かない)
何かに縛られているわけでもないのに、優人は腕一つ上げれなかった。まるで、神経が手までつながっていないように。
「やっと、自由に動けるぜ」
くぐもった声が優人の耳に届いた。間違いなく自分の声なのだが、口を開いた感覚はない。
見ている景色が流れていき、リビングにある冷蔵庫の前で止まる。
視界の外から細い手が現れて、冷蔵庫の中を勢いよく開ける。
「なんか、美味そうなもんねえのかよ」
(か、勝手に体が)
「お前が願ったんだろ? 力を貸せってな」
自分の声が、優人の脳内で紅童子の声に被る。
(もしかして、君はさっきの鬼仮面?)
「紅童子様って呼べ。クソガキ」
紅童子が優人の体を使って、冷蔵庫の中を物色し始める。
(ちょっと、勝手に冷蔵庫の中を……)
「お、これ美味そうじゃん」
どら焼きが視界に入ってくる。
(それは、母さんの大好物のどら焼き)
「ほぅ。美味いのか?」
紅童子が冷蔵庫の中からどら焼きを取り出す。
(やめて! 母さんに殺される)
「それなら大丈夫だな。俺様がいるから」
優人の制止を無視して、紅童子がどら焼きの包装を力任せに破く。ゴミとなった包装が空中をひらひらと動いて、床に落ちる。
どら焼きを口の中に入れようとして、優人が慌てて呟く。
(そ、そもそも、仮面がついてるから、食べれないでしょ⁉︎)
「……」
どら焼きを持った手が止まる。その反応で優人は確信する。
(仮面を取ると、君は僕の体を操れないんだ)
「……クソが」
舌打ちをした後、どら焼きを後ろに投げる。
(ちょっと! それは母さんって言ったでしょ!)
「うるせえんだよ。頭ん中で騒ぎやがって」
紅童子が乱暴に冷蔵庫を蹴る。
ドンッという鈍い音に、優人は反射的にビクッと震える。
(……ぼ、ぼくの体で何をするつもりだよ)
「別に。俺様のしたいようにするだけだ」
紅童子が冷蔵庫を開けたまま、リビングを移動する。足元に、ひしゃげたどら焼きが見えた。
紅童子はそのまま玄関へ向かうと、靴を履いて部屋の外に出る。
周囲は暗くなっていて、遠くにある街灯がポツポツと等間隔で明かりがつき始めている。
(い、いったいどこにーー)
優人が言い切る前に紅童子は廊下の手すりへと足をかけて、空中に躍り出る。ちなみに、優人のマンションの部屋は四階にある。
(うわぁぁぁぁ!)
空気を切り裂きながら、景色が一気に近づいてくる。このままでは地面に激突してしまう。
自分が死ぬと確信した優人は目を閉じようとするが、紅童子に体の主導権は奪われているので、強制的に最期の景色が流れ込んでくる。
「いちいちうるせえんだよ、お前は」
紅童子は平然と呟く。
優人の体が落下している途中、視界に赤黒い液体が現れる。手から流れ出す血だと認識した時には、生き物のように集まり始めた。やがて、複数の棘が突き出した赤黒い金棒の形に変化していく。
紅童子が赤黒い金棒を掴むと、マンションの壁に突き刺す。壁をえぐりながらブレーキの役割を担う金棒によって、優人の体は徐々に速度を落としていく。
そして、地面に直撃する前に止まった紅童子は、軽く地面に降り立つ。
「ふぅ〜、ちょっとはスカッとした」
体を伸ばしながら紅童子がつぶやく。
マンションの壁に突き刺さった金棒は空中に散らばると、優人の手に戻っていく。
(……なに、今の)
「金棒だ。俺様の力で作った」
(紅童子の、ちから?)
砕かれたマンションの外壁から、塵がパラパラと舞い落ちる。
「お前の体を借りる間は、俺様は血を操れるんだよ」
(さっき言ってた、ヒーローになれる力って……)
視界に広がる景色を見て、優人は思わず寒気がした。
マンションの外壁には、縦に一直線の傷が残っている。
断面から小さな破片がポロポロと崩れ落ちていて、一階にある手すりはいびつな形になっている。
幸い、廊下に人はいなかったので被害者はいないが、この力が誰かに向けられたらと思うとぞっとする。
マンションの上の階から人の話し声が聞こえる。今の音に気付いて、玄関から出てきたのだろう。
ざわざわと騒がしくなるマンションを見上げる紅童子。
(早く、この場から離れないと)
「はぁ、なんでだよ?」
(いいから! 早く)
「なんで、俺様がお前の命令を聞かないといけねえんだよ」
(そんなこと言ってる場合じゃないよ)
紅童子と言い合いをしている間に、マンションの廊下から見下ろしている人の姿が見える。このままだと、ヒーローどころか悪役だ。
(ああ、もう! 街の方が楽しいものがあるから、そっちに)
「ふーん」
紅童子が街の方へ振り返る。
「まあ、まだまだ暴れ足りないし、行ってみるか」
(……暴れられるのは困るんだけど)
優人の心配をよそに、紅童子は夜の街へと向かっていく。
「もう最悪。こんな大事になるなんて。……こんなことなら、見張っとけばよかった。ともかく、ここは実家(ウチ)に連絡して、あいつを追いかけないと」
マンションから離れた街を訪れた紅童子は、首をキョロキョロと動かしている。
行き交う車のライトや店の明かりに照らされた夜の街は人通りは少なかったが、紅童子ーー正確に言うと赤い鬼仮面に視線は集まっていた。
田舎町でもやっぱり珍しいのだろうが、声をかけてくる者は全くいなかった。
紅童子は気にしていないようだが、陽衣以外とほとんど話さない優人には気になって仕方がなかった。
(あんまり目立たないでよ)
「何をしようが俺の勝手だろ?」
(一応、僕の体なんだからね)
優人はマンションのことが頭に残りつつも、先ほどの話の続きをする。
(で、結局どういうことなの?)
「何がだよ」
(さっきの血液を操ってたこと)
「ああ、それかよ」
コンビニの店内にある雑誌から視界を外して、紅童子は夜の道を歩き出す。
「お前が捧げた血の分だけ、俺様はお前の血を操れんだよ」
(そんなことしたら、僕は貧血になるんじゃ?)
「さっきみたいに、体の中に戻せば大丈夫だ」
飲食店を通り過ぎようとした紅童子は、ショーケース越しにオムライスの食品サンプルが目に留まる。
「これ、美味そうだな」
(仮面をつけてるんでしょ。それに、食品サンプルだから食べられないよ)
「食品サンプルって、なんだよ」
(えっと、食べ物の偽物のことだよ)
「ほぅ。そうなのか」
残念そうな自分の声に、優人は内心苦笑する。
最初は乱暴者に見えた紅童子にも、子供のようなところがあったのかと思うと少しおかしくなる。
紅童子が名残惜しそうに前を歩くと、優人の視界に遠くからスマホを向けているスーツ姿の男性が映る。
(あそこの男の人、写真を撮ってない?)
「なんだと⁉︎」
スーツ姿の男性の前まで歩くと、紅童子が睨みつける。
「俺様に何の用だ⁉︎ てめえ」
「い、いや、私はただ……」
怯える男性から携帯電話を取り上げると、紅童子は握りつぶす。
「ああ⁉︎」
「俺様の許可無く撮るんじゃねえ! 次見つけたら殺すぞ」
男性が悲鳴を上げながら、夜の街に消えていく。
(ちょっと⁉︎ 勝手に人の物を壊したらダメでしょ)
「勝手に撮る方が悪いんだろうが!」
(それでも、勝手に壊しちゃーー)
「本当にうるさい契約者だな! 今回のは特に最悪だぜ」
優人の言葉を聞き入れず、紅童子が歩き出す。優人はこれからのことを考えて不安が募る。
いつ体が戻るのかもわからないうえに、紅童子が優人の体を操っている間は全く止めることができない。これでは優人が願った力とは言えない。正反対だ。
さっきのマンションでの破壊力は、正直優人の手には負えない。
誠司に相談するべきか。でも、紅童子に取り憑かれて怪我をさせてしまうかもしれない。それどころか、殺してしまうかも……。
最悪な事態しか想像できず憂鬱になっていると、優人の視界が緑色のネットが張られた建物を映していることに気づく。
「ここって、バッティングセンターか?」
(そう、だけど)
「やっぱり、そうなのか」
ソワソワした紅童子が、バッティングセンターの中に入る。
建物の中にはゲームセンターにある筐体が並んでいて、男女のカップルが遊んでいる。ネットが張られた打席は右側にあり、入り口の上には球速が書かれたプレートがついていた。
『90㎞〜130㎞』と書かれた一番近くの入り口に入る紅童子。
「この場所で、ボールを打つんだよな?」
(血は使わないでよ。左にあるバットを使えばいいから)
手から流れる血液を見た優人に止められた紅童子が、立てかけられたバットを手に取る。
「ここに立てば、球が出るのか?」
(特殊なコインが必要なんだけど、僕の財布に一つ入ってるから使っていいよ)
紅童子がポケットにある財布を取り出す。
中を見ると、野球のボールが刻まれた銀色のコインが入っていた。
(その、外国のお金みたいなやつだよ)
紅童子がコインを取り出すと、ホームベースの後ろにある機械にコインを入れる。
バットを振り上げて、構える紅童子。
(そんな構えだと、打てないと思うけど)
「俺様には関係ねえんだよ」
電子パネルに映ったピッチャーが投げる動作をする。同時にマシンから放たれるボール。
紅童子がバットを振り下ろすが、当然当たるはずも無く、ただ風を切るだけだった。
黒いマットに当たったボールが、地面に転がる。
その後も同じように何度も振るうが、全くバットに当たらない。
紅童子は意地を張って構え続けるが、いつの間にかピッチャーの姿は消えていた。
(終わったよ)
「……クソッ!」
紅童子が、勢いよくバットを地面に叩きつける。金属音が周囲に響く。
(今日はもう帰ろうよ)
「もう一回だ! もう一回!」
紅童子が財布の中を開けてコインを探すが、見当たらない。
(さっきのは誠司と一緒に行った時の残りだから、もうないよ)
「どうやったら、手に入るんだよ!」
(中の自販機で、買えるけど)
恐る恐る優人が答えると、勢いよく扉を開けて中に入る紅童子。
(でも、これ以上は僕のお金が)
「うるせえ! 打つまでは絶対にやるからな」
優人の願いはむなしく、紅童子は自動販売機を見つけてお金をコインに変換する。しかも、一度だけでは無く、何度もお金を投入している。
(僕の今月のお小遣いが……)
「俺様のためだ。安いもんだろ?」
無茶苦茶なことを言い出す紅童子に、優人は何も言えなかった。
財布が軽くなった後、コインをポケットに入れた紅童子が打席に戻ろうとした時、
「ねえ、ちょっと」
耳に障るような甲高い女性の声に、紅童子が苛立ちながら振り返る。
「一緒に写真撮ってよ」
ゲームセンターで遊んでいたカップルの片割れが、紅童子に声をかけていた。仮面をつけているから仮装している人だと思っているのだろう。
「黙れ、ブス。俺様は忙しいんだよ」
「はぁ! なによ、その言い方」
女性を無視して、紅童子が通り過ぎようとした時に強面の男性に襟を掴まれる。
「てめえ、俺の彼女にブスって言っただろ?」
「りゅうちゃーん」
強面の男性の側で立ちながら、女性が猫なで声を出す。
優人の視界に強面の男性が映し出されて腰が抜けそうになる。
襟を掴まれた紅童子は、男性を睨みつけながら静かに答える。
「今すぐ離せ。そしたら、許してやる」
「てめえ、殺されてえのか?」
男性の剣幕に紅童子は全く動じない。
(ぜ、ぜったいに力は使っちゃダメだからね)
「お前は黙ってろ」
「なんだとてめえ」
優人へ向けた言葉を自分だと勘違いした男性が、拳を振り上げる。
男性が振り下ろす瞬間、紅童子が男性を蹴り飛ばす。床を滑って男性が、筐体に直撃する。
「げほっ‼︎」
苦悶の声を上げてうずくまる男性。女性が心配そうに駆け寄る。
紅童子の手には、血の金棒が形成されていく。
優人の脳裏に先ほどのマンションでの惨状が浮かび上がる。
(やめてよ。この人たちはなにも悪くないでしょ)
「俺様の邪魔をした」
(でも、ただ写真を撮ろうとしただけで)
「俺様には関係ない」
赤黒い金棒を手にした紅童子が、徐々に男女の元へと歩みを進める。
「な、なによ。それ?」
恐怖に顔を引きつらせる女性。
(お願いだから、やめて)
優人の心臓が激しく鼓動する。必死に止める方法を考えるが、声を上げること以外に思いつかない。
二人の目前で立ち止まる紅童子が、赤黒い金棒を振り上げる。
女性が男性をかばうようにして、目を瞑る。
(やめろー!)
優人の悲痛な叫びは、紅童子以外には届かない。
紅童子が、無慈悲に金棒を振り下ろす。
ーー直後、パンという音が紅童子の耳に届いた。
紅童子が大きく飛び退く。視界が急に動き出して混乱する優人。
優人の視界からは男女の姿が消えていて、代わりにピンク色の紙が転がっていた。よく見ると、風船のように膨らんでいたようで、今は中の空気に押し出されたような穴がある。
「ほんと、最悪」
勝気そうな女性の声が背後から聞こえて、紅童子が振り返る。そこにいたのは、肩まで切りそろえた紺色の髪の少女。
(君は夕方にいた)
「お前、何者だ?」
少女は怖気付くことなく、瑠璃色の瞳で紅童子を射抜く。
「ロクでもないやつばっかね。呪術師って」
「俺様の質問に答えろ! お前は何者だ!」
紅童子が血の金棒を少女に向ける。
突きつけられた凶器に眉一つ動かさず、少女がため息を吐く。
「あたしは、戦闘専門じゃないんだけどねー」
いつの間にか手に持っていた紙風船を、紅童子に軽く放り投げる。
紅童子が血の金棒で紙風船に叩きつけると、中から飛び出た白い粉塵で視界が覆われる。
(うわっ! なにこれ!)
紅童子が血の金棒を振り回す。
白い視界の中で何かが壊れる打撃音が響く。やがて、金棒の風に巻き込まれて視界が開けてくる。
周囲にあったゲームの筐体が無残な姿となり、目前にいた少女は建物の外へと逃げている。
小さい口から舌を出す少女。
「……ぶち殺してやる」
少女が走り出すのと同時に、紅童子が建物の外へ飛び出した。
①紅童子の仮面 カワチ @Taku_007
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