19  地獄と天国

 誘惑騒ぎがあった週末の金曜日、誠がデスクで仕事をしていると、和馬からメールがあった。

 『突然だけど、今日仕事終わってから暇だったら、私の友達がやってるBARで飲まない? アキ君も誘って。ちなみにその日は私以外男しかいないから心配ないよ♪』

 「うーん……これは、どうしたら……」

 ぶつぶつ言っていると、大和田が仕事の内容に問題があったのかと勘違いをして、

 「何か問題でもありました?」

 声をかけてきた。

 「違います。大丈夫です。独り言なので……」

 「そうですか……?」

 誠は大和田に笑ってごまかし、またスマホを見返した。

 それにしても、今日の打ち合わせの内容よりも手強いメールが来てしまった。

 和馬が誘ってくるからには、混み入った店ではないと思うが、知らない人ばかりのバーだと、晃大が不安にならないかが心配だった。

 (とりあえず晃大に相談してみるか……)

 和馬のメールをそのまま転送し、しばらくして返信が届いた。

 『誠がいいなら、僕もいいよ。和君とも会いたいし。時間と待ち合わせ場所、後で送って下さい』

 意外にも返事はOKだった。誠は和馬に参加を伝え、スマホをデスクの上に置いた。

 すぐにまた和馬からメールが届き、

 『食事してから来るなら、21時くらいでどう? 別にこっちはいつでもいいよ。場所はカンドー街の西ビル3階BAR・NO-MMA ちなみに仲のいい友達の貸し切りなんで、気楽にしてね』

 これをまたそのまま晃大に転送する。

 (ギリだけど、残業しないように頑張るか……)

 それから猛スピードで切羽詰まっていた仕事を仕上げ、待ち合わせには、数分遅刻をしてしまったが、なんとか会うことが出来た。

 「待った?」

 夕食は、馴染みのイタリアンオステリアMaerne。

 晃大は店の前で、薄手のコートのポケットに手を入れ、片足で地面を蹴りながら、待っていた。

 早めに着き、待ちくたびれたようで、お腹をさすりながら、

 「早く中入ろう? お腹すいた」

 と、甘えた声を出した。

 「何食べるか決めてる?」

 「うん。マルゲリータとコーラ!」

 四人掛けのテーブル席に案内され、注文をし、焼き上がったピザが目の前に置かれると、二人はすぐに食べ始めた。

 「やっぱここのピザが一番好き。なんだろ? 他と全然違う」

 「確かに。ああ、でもたまに惣菜ピザ? ほら、パン屋とかで売ってる、あれも食べたくなるんだよな」

 「あれピザじゃないじゃん。ピザパンだから別物だよ」

 「そ? まあ、どっちも好きだからいいけど」

 「あ、そうだ。今日のBARって行ったことあるの?」

 「いや知らない。でも、ちょっと、なあ……」

 誠には気がかりなことがあった。

 BARのある、カンドー街というのは通称で、本当の名は南北町商店街という。

 昼間はまだいいのだが、夜になるとその商店街の外れにある、飲み屋が集中するあたりは治安が悪くなる。

 ガラの悪いのがよくたむろしていて、あまりお勧めできる場所ではない。

 だから地名も「親から勘当される」という意味で、カンドー街と呼ばれているのだった。

 「BARに行ったら、俺の側から離れないで。それと、和馬の知ってる店だから、大丈夫だとは思うけど、晃大には触らないように、伝えてもらおう」

 「へへへ、分かった」

 「どうした?」

 「だって、嬉しいから。ずっと隣で飲めるなんて嬉しい。あ、絶対に離れちゃダメだよ? 怖いから」

 「もちろん。それから深酒禁止。危ないからな」

 「おっす!」

 それから少しだけ酒を注文し、のんびりと過ごした後、タクシーでBARへ向かった。

 週末ということもあり、車から降りた瞬間から酔っ払いにぶつかるような雰囲気で、誠は晃大を庇うようにして、ビルのエレベーターに乗った。

 指定の3階に着くと、目の前にある店がBAR・NO-MMAだった。

 『メンズデー・本日貸し切り』と書いたボードが置いてあり、誠がドアを開けると、それに気がついた和馬が、店の奥から小走りで出迎えてくれた。

 「いらっしゃーい! こっちだよ」

 軽くウエーブをかけた髪はそのままに、今日は何故か黒のタキシードで、二人を奥の席へ案内する。

 「ここ座って! 何飲む? 私が注文とってあげる」

 「何があるのかな。んー、あ、ドイツビールがあるんだ? それもらおうかな」

 「アキ君は?」

 「僕も同じので」

 「じゃ、ちょっと待っててね〜」

 軽い足取りの和馬が奥へ消えると、晃大が店内を見廻して呟いた。

 「へ〜、こんな感じなんだ〜」

 誠もそれにつられて、おしぼりで手を拭きながら眺めてみた。

 照明はごく暗めのダウンライト、壁紙は濃いグレーのストライプ柄で、床もダークブラウンでシックにまとめられている。

 バーテンダーのいるカウンターは、照明が当たり、カクテルを作る動作が美しく浮かび、とても良い雰囲気だった。

 テーブルは10 席くらいで、誠らが座っている席を含めてほとんどが埋まり、カウンター席でも客が楽しそうに飲んでいる。どの人も知り合い同士のようで、なごやかで居心地がよく感じられた。

 「……実は、こういうところ初めてなんだ」

 晃大が、誠に耳打ちをする。

 「そうだな、もし来たいって言っても、大和さんが心配して反対するだろうな」

 「うん。だから、会社の飲み会くらいしか参加したことなかった。周りが知らない人達の中で飲むのは初めて」

 「怖い?」

 「まあまあ……」

 話をしている間に、和馬が戻ってきた。

 緊張気味の晃大の前に、ビールとグラスが置かれる。

 「はい。お待たせ。注ごうか?」

 和馬が栓を抜いて、グラスを渡そうと手を出した。

 「あ、大丈夫。瓶のままで飲んでもいいの?」

 「好きに飲んで。そうだ、おつまみ要る? 軽くナッツとかチーズはどう?」

 「うん、食べたい」

 「ちょっと待っててね」

 和馬は別にここで働いているわけでもないのに、あれこれと二人の世話を焼くのに忙しい。

 「じゃ、乾杯しようか?」

 ビールを持ち、二人は水滴の付いた瓶をカチンと合わせる。

 晃大はぐいっと飲むと、あまりの美味しさに、目が覚めたような顔になった。

 「うー! めっちゃうまい。なにこれ、凄いねドイツ」

 和馬がすぐに戻り、おつまみをテーブルに置き、二人の前に座った。

 「どう? この店、雰囲気いいでしょ。今日は男性オンリーだけど、女性だけの日とか、20代限定や、60代オーバーみたいに、他にも色々やってんの。オーナーがね、安心して交流ができるようにって。だからアキ君も来やすいかなと思って。あと、バーテンダーの横山さんは、昔事故でベース機器の医療器具を使って、治療したことがあるんだって。誠がそこに勤めてるって言ったら、関心を持ってたよ」

 「そうなんだ。働けるまで回復してよかった」

 「うん。あ、この店の話は、ここまで。ここからが本題……」

 和馬は急にかしこまり、二人を交互に見つめた。

 「この度は、おめでとうございます! よかった〜!」

 いきなりの祝福に、二人は恥ずかしさで耳まで赤くなった。

 「和君、ありがとう……」

 「和馬には、色々と世話になったし、感謝してる。ありがとう」

 「いいのいいの。二人が幸せになれば、それでいいんだから」

 お祝いだと言い、和馬はカクテルを注文し、改めて三人で乾杯をした。

 「ねーねー、アキ君はさ、誠のどこがいいと思ったの?」

 「えーっと……」

 このような質問は、本人の前で答えるのはすごく照れるものだ。晃大も突然問われ、答えに困ってしまった。

 「ぜ、全部?」

 「あーいいね! 分かる。全部いいんだよね〜」

 大きく頷いた和馬は、次に誠に答えるように急きたてた。

 「俺はそうだな……」

 誠はにっこりとしながら、隣に座る晃大を愛おしそうに見つめて、こう答えた。

 「やっぱり俺も、全部としか答えられない。笑顔がいいし、少し意地っ張りなところも好き。一生懸命なんだけど、時々迷走したり、ヤキモチ焼きなのもいい」

 「もう、それ褒めてるのか、けなしてるのか分からないよ」

 口を尖らせた晃大が、赤面しながら文句を言うが、それすらも楽しげに笑い、和馬は手を叩いた。

 「まあまあ、二人とも、これからもずっと一緒なんだからいいじゃないの。もし愚痴りたい時があったら、聞くよ。だって、私はどっちも大好きだからね」

 見つめ合う二人の間で和馬が優しく微笑み、両手を広げウィンクをして見せる。

 「さ、まだまだお話聞かせてもらおうかな?」

 「えー、もういいよ。和君の話聞きたいよ」

 これ以上は許して欲しいという顔で晃大は首を振るが、それからも和馬主導で話が弾み、三人は私生活や仕事の話まで、様々に語り尽くした。

 特に晃大は、久しぶりの楽しい酒の席によく笑い、誠も和馬もその様子に心から安心をしたのだった。

 それからあっという間に時間が過ぎ、0時を回った頃、店を出る客がちらほら出てきて、三人も気持ち良く酔ったまま帰ることにした。

 先に席を立ち、誠が会計を済ませていると、

 「すみません。あの、ベース機器さんの社員さんですか?」

 と、バーテンダーが声を掛けてきた。

 「私、若い頃に、バイクで事故を起こして、それから……」

 そのバーテンダーは、その後の療養の内容などを話し始めた為、長くなりそうだと思った和馬は、晃大と共に、

 「じゃあ、私達、先に下に降りてるね?」

 と、言い、エレベーターに乗った。

 ビルの外はそこそこ寒かったが、酒のおかげか、コートの前を開けていてもちょうど良く感じられた。

 それからすぐ後に、店の客だった和馬の知り合いも降りてきた。

 和馬が彼らに声をかけられて話を始めると、手持ち無沙汰になった晃大は、喉が乾くのを感じ、和馬にこっそりと耳打ちした。

 「ちょっと、この先のコンビニで水買ってくるね」

 「え? 私も行こうか?」

 和馬は一緒にと言ったが、話をしているのに悪いと思った晃大は、

 「いい、大丈夫」

 と、手を振り、ワンブロック先のコンビニまで歩いて行ってしまった。

 コンビニまでの道はビルの合間の裏道を通り、時間も遅いこともあり寂しくどんよりとしていた。

 少し不気味に感じながら、薄暗い中を急ぎ足で歩いていると、途中ですれ違った男が突然屈み込み、足をさすりながら大きな声を上げた。

 「痛たっ……いたたた……!」

 晃大は驚いて、その男性に近づき、声をかけた。

 「あの、大丈夫ですか?」

 「ああ、ちょっと酔っ払ってふらついて、足を捻ったみたいで……。すみません、もう少し行った先の脇道に友達がいるんで、呼んできてもらえませんか?」

 「……あ、はい。分かりました」

 晃大は酔っていてあまり走れなかったが、なるべく急いでその脇道へ入っていった。そこには、言われたように、男性が二人立っていた。

 近づいてみると、一人は煙草を吸っていて、もう一人はスマホを弄っている。

 彼らは20代前半に見えまだ若く、着崩した服に首にジャラジャラとつけたアクセサリーはあまり普通には思えず、恐る恐る声をかけた。

 「あの、すみません。この先で、お知り合いの男性が足を捻ったみたいで、来てもらえますか?」

 「ん? ああ……」

 煙草を吸っていた男が生返事で吸殻を捨て、足でぐしゃっと踏み潰し、そして、もう一人の男は、スマホをポケットに入れて晃大を手招きした。

 注意しながら少しだけ近づくと、金髪を束ねた奇妙な雰囲気のその男は、舐めるような目つきで頭からつま先までじろりと見て、高い声で笑った。

 「あっれ〜? 君、まだ未成年じゃね?」

 「違います……」

 やはり何かおかしいと感じ、後ろを向くと、いつの間にか退路を塞ぐように、先ほど足を痛めたと言っていた男が立っていた。

 「君さ、あのビルから出てきたよね。酒飲んでる? ダメだな。未成年が飲んだら、罰金だよ。はい、お財布出して?」

 クチャクチャと口を鳴らしながら、男達が楽しそうに笑い、晃大を囲うようにじりじりと近づいてくる。

 この異様な状況に、晃大が男達の間を抜けて逃げようとすると、

 「めんどくせーな、クソガキ。ほら、早く出せって。ボコられたいの? なあ!」

 男の一人が怒声を発しながら、晃大の肩を勢いよく突き飛ばした。

 そして別の男が間髪を入れず、ふらついた晃大の胸ぐらを乱暴に掴み、壁に体を押し付ける。

 「ぐ……ぅ……」

 持ち上げられるように掴まれ、つま先で立ちながら抵抗するが、首を強く押えられ、息がしにくく、助けを呼ぼうにも声が出ない。

 同時に、体がガタガタと震え出し、動悸が激しくなり、意識も朦朧として目の前がぼやけてくる。

 「や……め……」

 やがて首も腕もだらりと下がり、何とかしようにも、すでに晃大自身ではどうにもならない状態になっていった。

 徐々に、抵抗してた体の力が抜けていき、首を掴んでいた男がようやくその異常に気づいた。

 「おい、なんだこいつ、やべえ……」

 驚いた男が、慌てて手を振り離すと、晃大はずるずると壁にもたれながら、崩れるように倒れた。

 その隙に男達は、財布を抜き取ろうと、コートやスーツのポケットに手を突っ込み、もう一人の見張りの男も、金品を目当てに晃大の体に触れようとした。

 その時、

 「何してんだ!!」

 異変に気づいた和馬が駆けつけ、男の背中に一発の重い蹴りを入れた。

 「痛ってっ!!」

 思いきり蹴られ、キレた男が、和馬めがけて拳を振り上げる。

 だが、和馬はその拳をスッと避け、膝に蹴りを入れた。

 瞬間、前屈みによろけた男の背中に両手を置き、そのまま地面めがけて突き落とす。

 顔面から落ちた男は、鼻血を出して転げ、それを見た別の男が、今度は和馬の腕をつかもうとした。

 しかし、和馬はすぐに伸びてきた腕を掴み、後ろに向くと、そのまま背負って投げた。

 「くう……うぅ!」

 痛がる二人を前に、もう一人の男は腰が引けたのか、二人を抱き起こしさっさと逃げてしまった。

 「アキ君!」

 和馬が駆け寄り状態を見ると、地面に倒れた晃大の体は震えたまま、苦しみのあまり両手で胸を必死に押さえていた。

 それでも、朦朧とした目で和馬を見上げると、

 「……だ、いじょう……ぶ……」

 途切れながらも、一言だけ答えた。

 「待ってて!」

 和馬は、誠を呼びにビルへ走った。

 その頃、誠はビルの下で、二人を探してふらふらとしていた。

 路地の方から自分を呼ぶ声を聞き振り返ると、和馬が青ざめた顔で「こっち!」と、大きく手招きしてるのを見つけ、急いで駆けつける。

 路地へ入り、うす暗い中に倒れていた人は、晃大だった。

 「おい! どうした!」

 状況が分からず動揺している誠に、和馬がこれまでのことを伝えた。

 全てを聞いた誠は、晃大の前にひざまずき、

 「俺が油断したせいで……!」

 がっくりと頭を垂れた。

 晃大が倒れていても、抱き上げられない。

 痛む身体を、労わることも出来ない。

 守ると言いながら、全く役に立たない自分の両腕に、誠は絶望した。

 「くそっ……!」

 拳を地面に叩きつけた誠の肩が、悔しさのあまり震えている。

 「誠は悪くないよ、私がアキ君を一人で行かせたからだよ!」

 晃大は、二人が自身を責めているのを、聞いているのが辛かった。

 冷たい地面の上で、動悸が治まるのを待つことしかできない自分が、情けなくて嫌になる。

 「苦しい……?」

 和馬が泣きそうになりながら問うと、弱々しく首を振って答えるが、表情は苦しみに歪み、目はうつろだった。

 それから数十分が経ち、ようやく手をついて少し起き上がった。

 「もう……大丈夫だよ……」

 壁に手をついて、懸命に立ち上がろうとする姿を、誠と和馬は見守ることしかできない。

 「私、あっちでタクシー止めとく」

 「ああ、頼む」

 よろよろと歩き出す晃大の隣に、そっと寄り添うようにして誠は進んだ。

 「痛いか?」

 「ううん……怪我はしてないよ……」

 「……そうか」

 晃大をタクシーに乗せ、誠は和馬に礼を言い別れた。

 車の中でも晃大はまだ少し震えていた。

 しかし、家に入る頃には、ようやく震えも止まり、呼吸も正常に戻ったようだった。

 脱力したままソファに座る晃大の前に、誠は片膝をついて、顔を覗き込む。

 「気分はどう?」

 「……うん、もう落ち着いた」

 「ほんとうに、ごめん。側にいればこんなことにはならなかった……」

 「違うよ。僕が勝手に動いたから。和君にも悪いことしちゃった」

 「ああ、でも、怪我がなくてよかった」

 「うん、ごめんね……」

 「風呂入れるか? 温まったほうがいいんじゃないか? 寒かっただろ?」

 「うん、入る」

 のそりと立ち上がり、浴室へ向かう晃大に、誠はタオルやパジャマを用意し渡した。

 それから入れ替わりに誠も入浴し出てくると、晃大はすでにベッドへ入っていた。

 「眠れる?」

 「うん……」

 「具合が悪くなったら、起こして」

 「うん……おやすみ」

 晃大は、いつものように誠側に横向きになり、体を丸くして眠った。

 ただ一つ違うのは、今日は頭まで布団を被り、その顔を隠している。

 誠は今日初めて晃大のあの症状を間近に見た。

 激しく苦しむその様子は、想像を超えていた。

 子供の頃から、それを耐えてきたのかと思うと、胸が張り裂けそうになり、そして、何も出来なかった自分に失望する。

 縮まらない体の距離。

 こうして心が通じ合うようになっても、結局何も変わらない。

 触れることが出来ない現実が、重くのしかかる。

 誠は晃大の寝息を感じながら、悔しい気持ちを抱えて、目を閉じた。

 一方の晃大は、もぐった布団の中で、首についた痣を手でさすっていた。

 浴室の鏡で確認したが、擦りつけたように赤黒くなっていて、地面に倒れ込んだ時に打った肘も腫れていた。

 しかし、そんな体の痣よりも、誠につけてしまった心の傷を、心配していた。

 きっと、自分を責めて、苦しんでいるに違いなかった。

 軽率な行動で、誠に要らぬ心配をかけてしまったことを、後悔していた。

 暴力の恐怖、誠や和馬に迷惑をかけてしまったことを思うと、揺れるように頭が痛む。

 考え過ぎて、疲れてしまったようだ。そう自覚して寝付くまでは、時間はかからなかった。



 それは、古い映画の中のように感じた。

 白い霧の中に、古風な旅館を見つけた。

 (誠と来た温泉だ!)

 晃大は喜びの声を上げて、その旅館の門をくぐった。

 霧に囲まれ湿った空気、そして細い、一本の道。そこを真っ直ぐ進んでいく。

 その先に、スーツ姿の誠が一人で後ろを向いて立っていた。

 (誠! 何してるの?)

 声をかけているのに、全く声にならない。慌てて大声を出すが、少しも出ない。

 そのうちに誠は、その先をどんどん一人で進んでいく。

 (待って!)

 ありったけの声で叫んだ時、巨大な宇宙船が「ゴゴゴゴ……」晃大の頭上を凄い勢いで通過していった。

 まわりを見渡すと、足元には美しい石畳が広がる、そこは広大な空中都市で、晃大は戦士の一人だった。

 頭から足の先まで重い鎧を装着し、右足は負傷している。

 痛みを堪えて、敵兵から逃げている間に、同じ種類の鎧に身を包んだ

三人の戦士が近づいてきた。

 (助かった……)

 そう思い、三人の顔を見ると、あの恐喝をした奴らだった。

 慌てて逃げる晃大を、三人が笑いながら追ってくる。

 急いでいるのに、足がもつれて、なかなか動かない。そのうちに目の前に一枚の黒いドアが突然現れた。

 (ここに隠れれば、大丈夫かもしれない)

 すぐに扉を開けて入り閉じると、その扉を足で蹴り倒した。ドアはバタンと音を立てて倒れ、これでもう誰も入って来られないはずだった。

 次の瞬間、すうっと砂塵が舞い上がり、思わず目をぎゅうと瞑った。

 そっと目を開けると、青空があり、見渡す限りの草原が広がっていた。

 原っぱの上を、晃大はただ歩いていた。靴は歩きすぎてすり減っている。真っ白な服を着て、あとは何も身に付けていなかった。

 どこに行くのかも分からないまま歩いている途中で、声をかけてきた男がいた。

 その男はアポロンと名乗った。

 黄金の剣と盾を持つ、勇者アポロンは、堂々と言い放った。

 「君は誠を本当に好きなのか? 好きなら触れられるはずだ」

 重々しい剣を、晃大に突きつけたアポロンは、厳しい表情で問い詰める。

 「もちろん好きだよ。それに、触れられるなら、ずっと前にできてる。……ただ、怖い」

 「怖い? 何が怖いんだ。それは、君が誠を受け入れていないからだ」

 「受け入れているよ、大好きだし、ずっと一緒にいたいと思ってる」

 「いや、違う。拳を振り上る奴らと同じだと思っているから、触れるのが怖い。誠を心から信頼していないからだ」

 そんなことは、今まで散々自問自答してきた。

 でも結局、あれほど怖い目にあっても、誠にしがみ付いて助けを乞うことは出来なかった。信頼しているのに、心の中では、指一本も認めていないのだろうか。

 「アポロン、僕はどうしたら……」

 晃大が顔を上げて、そう問うと、アポロンの顔はいつの間にか白石になっていた。  

 白石は、ふんと笑った。

 「俺に聞くのか? もう自分で分かっているだろう。許すんだな、自身で繋ぎ止めている、その気持ちを手放すんだよ。もういいじゃないか、悪夢は終わっているんだ」

 「そんな簡単に言わないで。夜に思い出すんだ。黒い影を。それが暴れて、悲鳴が聞こえて、小さい僕は震えている」

 「だったら、その子を抱きしめろ。もう怖くないと、幸せになる権利が君にはあると。君に注がれたその血の温かさで、体を覆う厚い氷を溶かせ」

 そう言い放った白石は、勇者の剣を晃大に向かって振りかざした。

 瞬間大きな爆音と、強く眩しい光が世界の全てを覆った。

 怖くなり、転がるように逃げた先に……。

 「晃大、大丈夫か……?」

 誠の声が遠くから聞こえた。

 頭がズキンと痛む。

 薄ら目を開けると、誠が心配そうな顔で覗き込んでいた。

 「うなされてたぞ?」

 「夢……だった……平気、なんともないよ」

 晃大が上半身を起こし誠をよく見ると、エプロン姿で、美味しそうないいにおいが漂っている。

 「……そっか、もう朝なんだね」

 「起きられる?」

 「うん」

 布団から出てきた晃大の、開いたパジャマの襟元の隙間から、赤黒い痣が見えた。

 それに気づいた誠が、

 「それ、昨日の……痛むか?」

 だが、晃大はすぐにそれをサッと手で隠し、

 「こんなのただの内出血だから、すぐ治るよ。気にしないで」

 健気な笑顔を見せた。

 「……そうか?」

 見るからに痛々しく、目を伏せたくなるような痕に、誠は悔しさを滲ませる。その視線を気にして、首元を隠せるパーカーを着た晃大は、急いでテーブルに着いた。

 「ありがとう! いただきます!」

 そして、心配をさせまいと、いつも以上に明るく話を始めた。

 「今日は、何する? どこか行く? あ、そっか。付き合って初めてのデートになるのか! 記念日だね!」

 「うん、そうだよな……」

 「初めてのデートって、みんなどこに行くんだろうね。遊園地はもう行ったし、遠くからだけど花火も見たよね」

 「楽しかったな、ほんとに。これからもっと楽しいこと沢山しよう」

 「そうだよ、まだまだ行きたいところいっぱいあるからね」

 「どこへ行っても、もう絶対に危ない目には合わせないから……」

 「その話はもういいよ! 体も財布も無事だったし、もとはといえば、僕が迂闊だったんだから。誠は絶対に悪くない。これ以上言ったら、文化祭の時のメイド服着てもらうよ!」

 「……え? もしかして、まだ持ってた?」

 「うん、持ってるよ。着てはいないけど、思い出に持ってた」

 「わ、分かった。もう言わない。絶対言わない」

 「ほんとに着たくないんだね」

 「当たり前だよ。あれは拷問だ……」

 誠は左手で頭を抱え、晃大を見ながら苦笑いをした。

 その後も、晃大はどこかに行きたそうにしていたが、誠が今日は体を休めたほうがいいだろうと外出は控え、家で過ごすことにした。

 外は風は少しあるが、青空が広がる良い天気だ。掃除や洗濯をして、それが終わるとのんびりとソファに座る。

 誠は読んでいた本に飽きて閉じたが、晃大は唸りながらスマホをいじっていた。

 「どうした?」

 あまりの集中ぶりに、誠が不思議そうに聞くと、

 「あのさ、昨日のこと、和君が心配してるんじゃないかと思って。元気だよってメールしようと思ったけど、文字だけだと、嘘だと思うかもしれないよね?」

 「ああ、気を使ってるのかなって思うかもな」

 「だから、何か証拠写真を撮って送ろうと思うけど、どんな写真がいいのかなって……。何かアイデアある?」

 「そうだなー。笑ってピースとかは?」

 「まあ、普通に元気そうには見えるけど、笑顔も嘘つけるしなぁ」

 「難しいな……」

 「あ! 腕立ては!? 元気がないと出来ないよね!?」

 「また変なこと思いついたな」

 「うん、そうしよう。誠、動画撮って!」

 そう言うと、晃大はカメラに向かって腕立てをし始めた。パーカーがずれて、へそが丸出しになっても、そのまま撮ってと言われ、15秒ほど録画した。

 腕立てが終わると、床に突っ伏した晃大が、

 「ふー。ずっと筋トレサボってたから、たまにやるとキツい。やっぱもう若くないんだな」

 そう明るく笑いながら、立ち上がる。

 見た目が永遠の青少年が何か言ってる……と、誠は思ったが、スマホを晃大に返し、せっかくだから、自分にも後で送ってくれと頼んだ。

 「送信っと。よし、これで和君に元気だって証明できたね」

 「うん。俺さ、そういう優しいところ好きだな」

 「……あ、ありがとう」

 思わぬ褒め言葉に、晃大は肘をさすりながら照れ笑いをした。

 一緒に笑っていた誠だったが、その時ふと、その手の動きがおかしいことに気づいた。

 「肘、どうした? さっきの腕立てで痛めた?」

 「ああ、ううん、大丈夫。なんでもない」

 慌てて手を肘から離した晃大は、知らん顔でソファに座った。

 「ちょっと、見せて?」

 「しつこいな。何でもないって」

 「だめ、早く」

 きつく言われ、渋々袖をめくり肘を出すと、その腫れた患部を見て、誠は困ったように尋ねた。

 「元気だって、嘘つきたくないって言ったくせに……嘘、ついてるよな?」

 「ごめん……心配させたくなかったから」

 「俺もそうだけど……人なら誰でも、少なからず演技はしているよ。人を幸せにするための演技は、悪いことじゃないと思う。でも、人のためだけに演技をするのは、幸せがないんだよ。俺は、本当の晃大を受け入れたい。だから心や体の痛みを隠すのはやめて欲しい」

 そういつもよりも強い口調で諭され、さすがに反省するしかなかった。

 「分かったよ。ちゃんと言う」

 まったく、晃大の突拍子もない行動や言動は、見ていてハラハラする。

 誠は、大和の気持ちと完全に同調した気分になっていた。

 程なく、晃大のスマホに着信があった。

「和君からだ。安心したって。次は誠の家で飲もう、だって」

 やんわりと告げられた外での飲酒禁止。少し残念そうに、そして、仕方がないような気落ちした声で、晃大はスマホを置いた。

 それから二人は夕方になってから、夕飯前に一緒に食材を買い出しに出掛けた。

 外食でもよかったが、昨日外で食べたから家がいいと晃大が希望し、初めての同棲記念の週末メニューは鍋にした。

 「鶏団子豆乳鍋〜」

 蓋を開ければ、温かい湯気が一気に上がる。

 「はい、誠、食器これでいい?」

 「ありがと」

 「いただきまーす。あー、温まる〜。僕さ、鍋って大好きなんだ。誰かと食べられるの最高だよね」

 「確かに、一人暮らしだと、あまりやらないかも。作っても鍋焼きうどんとか、そんなもんだし」

 「〆って、何にする? おじやがいいなー」

 「卵入れる?」

 「もちろん!」

 ひと月ぶりで再会した時の晃大は、以前よりも痩せて気になっていたが、一緒に食事をとるようになってからは、少しずつ食べるようになっていた。

 最後は、リクエスト通りに、卵いりおじやを作り、晃大はきれいに食べ切った。

 「美味しかった〜。ごちそうさま」

 そしていつも通りソファに座り、テレビを眺めたり簡単なゲームをしたりして過ごし、それから入浴をしパジャマに着替え、ベッドに入った。

 薄暗いダウンライトの明かりの中、誠が目覚ましのアラームをセットし、枕元に置く。

 「おやすみ」

 「うん、また明日」

 明日も朝から顔を合わせられる幸せを噛み締めて目を閉じる。

 程なくして、しんと静まる部屋の中。

 晃大は、目を閉じてもすぐには眠れないでいた。

 ふと、今朝の夢を思い出す。

 アポロンの「その子を抱きしめろ」という言葉。

 その子とは、晃大自身のことだろうか。

 (だとしたら……)

 頭の中で、自分の幼かった頃を思い浮かべてみた。

 真っ暗な中、壁に向かって座る、小さな子供。

 泣く力もなく、ただ怯えて、俯いている。

『怖い、怖い、誰も僕を見ない、ここから消えたい……』

(そうだ。僕は、家族にとって、必要のない存在だと思っていた……いや、必要だと思われないようにしていたのかもしれない。

 注目を浴びてしまうと、今度は自分に暴力が向けられるんじゃないかと思っていた。

 だから、いつも壁に向かって座り、存在を消していた。

 今はそれが、自分を守るためだったんだってわかる……)

 晃大は、うずくまり動かない、小さな自身をふんわりと抱きしめた。

 そして「もう一人じゃないよ」と優しく声をかける。

 すると、震えていた小さな晃大は顔を上げにっこりと笑い、いくつもの光の粒になりあっという間に霧散し、今の彼の体を包み込んだ。

 その瞬間、急激に気分が高揚し、なんともいえない不思議な感覚が体を駆け巡った。

 周りが眩しくあたたかく、体は飛べそうに軽くなる。

 胸の高鳴りをおぼえ、起き上がり、誠の寝姿を眺めた。

 体の芯が異常なほど熱くなり、言葉には出来ない、いいようのない愛おしさが溢れてくる。

 誠がもし、他の人に興味がいってしまえば、自分のことなどすぐに忘れるだろう。

 そして、また一人になってしまう。

 今までは、誠をどこか信じきれていなかった。

 だが一緒に過ごしていく中で、思いが変わっていった。

 今こうして落ち着いていられるのは、信頼しているからだ。

 きっとどんな形でも一緒にいてくれる。そう信じることが出来るようになっている。

 (もう、いいじゃないか。悪夢は終わっている)

 アポロンの声に、自身の想いが重なり響く。

 「誠……」

 初めは無意識の声だった。

 しかし、次はしっかりと名前を呼んだ。

 「誠、起きて」

 その声に、誠はすぐに起き上がった。

 「ん……どうした?」

 ベッドに手をついた晃大は、体を揺らしながら、誠へと近づいた。

 少しずつ近づく二人の距離。

 あまりの近さに、誠が体を強張らせ、思わず身構えた。

 「待って……」

 晃大の伸ばした手が、誠の頬に触れた。

 そして、もう片方の手を添えて頬を包むと、誠を引き寄せ、ゆっくりと口付けた。

 唇の柔らかい感触と、頬に触れている手の温もりが、誠の体の強張りを解いてゆく。

 唇がそっと離れた時、晃大の頬には、涙が伝っていた。

 「触れた……キス出来た……」

 涙が溢れ、声は徐々に嗚咽に変わっていく。

 泣いている晃大を、触れていいものかとためらいながら、誠はそっと抱きしめた。

 それは、初めて触れる、温もりだった。

 触れたくて、触れられなくて、求める気持ちが止まらず、眠れない夜もあった。

 晃大の笑顔の裏にある寂しさを感じる度に、抱きしめたい衝動に駆られ、愛しい人を、我が物にしたいという身勝手な欲求を、抑えるのに毎日必死だった。

 「愛してる……愛してるよ……」

 ずっと抑えていた感情が激しく動き出し、誠の声も涙に濡れていく。

 もっと温もりを感じたくて、抱きしめる腕に、さらに力を込める。

 誠は、晃大の涙をそのままに、彼の口元に手を添え、キスをした。

 「ふ……ぁ……」

 泣きながら、再び誠の唇に触れた晃大は、夢のような気持ちで、その温かさに浸った。

 それから心に任せ、何度も何度もキスを繰り返した後、晃大が誠の体をそっと離した。

 「誠……誠……好きだよ。ほんとに、愛してる……」

 「ああ、俺も、晃大に触れられるなんて夢みたいだ……」

 「もっと触りたい……」

 誠をゆっくりと横に倒した晃大が、彼の胸にいつものように顔を埋め、そのまま抱きしめる。

 ひとしきり温もりを味わった後、胸から肩、首筋のあたりまで、順番に唇を這わせた。

 「……やっぱりここが一番いい」

 誠の肩に手を当て、彼の瞳に自身が映っているのをしっかりと確認し、唇に吸い付くようなキスをした。

 そして、また首筋に顔を沈め、何度かそこへキスをして、誠にもたれながら、ついに脱力してしまった。

 「ちょっと、苦しくなってきた……」

 「大丈夫? 体、離そうか?」

 「……うん」

 「怖い?」

 「ううん。怖くないよ。ただ、どきどきし過ぎて、疲れた、かな……」

 誠は晃大の隣に寄り添い、彼の手を握った。

 「急にこんなことになって、ほんとうに驚いた」

 「……僕も、びっくりしてる」

 「一番驚いているのは晃大だよな……体は辛くないのか?」

 「うん、それほどは……平気みたい」

 「どうして触れられるようになった……?」

 「夢……。今朝夢を見て「悪夢は終わってる」って。それが、自分でも府に落ちるところがあって、ああ、もういいんだって……。それと、誠のことを、信じ切れてなかったことに気がついた。でも、今まで誠がしてくれた色々なことを思うと、信用できる、これからもずっと僕を裏切らないんだなって確信したら、どうしても触れたいって気持ちが湧きあがって……キスしてた」

 「そうだったんだ……。でも、これは、夢じゃないよな?」

 「うん。夢じゃないと思う」

 誠は再び、晃大を腕の中に抱き寄せた。

 「やっぱり、夢じゃない。温かいよ」

 「抱きしめられるって、こういう感じなんだね。安心する。もうずっと前過ぎて、忘れてた」

 晃大も、体を誠の胸にねじ込むように密着させる。

 それに応えるように、誠は晃大の髪や額にキスを続けた。

 「このまま眠ってもいいかな……」

 「いいよ」

 腕の中は温かく、頭を撫でられたり、頬を寄せてきたり、強く抱きしめられると窮屈で……だからなおさら、離して欲しくなかった。

 顔を上げると、誠がこちらを見て、にっこりと笑む。

 そして、名残惜しそうに、口付けてくる。

 長く口を塞がされ、息をする間もなく、次も次もと唇を逃してはくれない。

 胸にあてた手の平から、彼の激しい鼓動を感じる。

 同じ昂ぶりに身を委ねてくれているのが、何より嬉しかった。

 キスの嵐が降り注ぐ中、晃大の体は、誠だけの物になる。

 そうなることが心からの望みであり、それが叶った瞬間だった。

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