18 魅惑的な僕の恋人
一緒に出勤したその日、晃大の引越しを手伝うために、仕事が終わった後、誠は車を取りに一度家に帰った。
その間、晃大は荷物をまとめて掃除をし、退去することを不動産屋に伝える。
車に荷物を詰め込み、空になった部屋の電気を消し、これで、晃大の約ひと月の一人暮らしは幕を閉じた。
誠の家へ戻った二人は、ひとまずゲストルームへ荷物を置くことにした。
「クローゼットは今までのように使って。普段使う他の荷物は、俺の寝室でもリビングでも、どっちに置いてもいいから」
「分かった」
物の少なさから整理もすぐに終わり、外に夕食をとりに行くことにした。
家から数分の場所にある、中堅のラーメン店に入った二人は、セルフの水を汲んで、テーブルに腰を掛ける。
店内はカウンターもテーブルも、そこそこ埋まり、店の端に置いてあるテレビではお笑いの対戦番組が流れていて、半分くらいの客は、それを見ながら食事をしていた。
「僕は醤油ラーメン」
「俺は、うーん、迷うな……塩にする」
注文を取りにきた店員に、誠は晃大と自分用に半熟卵のトッピングを追加で頼んだ。
水を一口飲んだ晃大が、
「ねーねー、聞いて聞いて」
テーブルに身を乗り出して、頬杖をついている誠に声をかけた。
「あのさ、今日大和に会社で会ったけど、なんて言われたと思う?」
「まさか、もう帰ってこいとか、俺と一緒はやっぱりだめとか言われた?」
「違うよ。「仲良くやれよ」だって」
心底嬉しそうに話す晃大に、誠もほっとして笑顔になった。
「よかった。これからも、大和さんからダメ出しされないように頑張るよ」
「僕も頑張るよ」
「何を? 晃大は別に普通にしてればいいんじゃないのか?」
「お触り……じゃなかった、接触訓練を頑張るよ」
「あ……そっちか」
へへへと晃大が笑うと、誠が自身の口に人差し指を当てて、
「しっ。二人の秘密なんだからな……」
にこやかに釘を刺した。
「お待たせ致しました〜」
白シャツに黒エプロンの若いアルバイトが、リズミカルにラーメンと伝票を置き、すぐに厨房へ戻っていく。
湯気の立つ、その出来立ての熱々を覗き、
「おいしそー! ラーメンなんかめちゃくちゃ久しぶり! いただきま〜す」
割り箸をパッと二つに分け、晃大はふーふー言いながら食べ始める。
離れて暮らして一ヶ月、誠もずっと一人の夕食だった。
朝や昼はまだいい。外が明るい分、気も紛れて寂しさはさほど感じない。
だが、夕方の、特に陽が落ちた後の一人の食事は、晃大の素直で屈託のない笑顔を思い出し、心が苦しかった。
「うまい?」
誠が問うと、
「うん」
と、頷く。
たったこれだけのやりとりなのに、体の隅まで満ち足りた気持ちになる。
晃大はきっと、この何倍もの寂しさを抱えて、ひと月を暮らしてきたに違いない。
もっと早く決心し連れ出していれば、辛い日々を味わなくてもよかったのにと、遅すぎた自分の行動を情けなく思う。
「あれ? 誠、食べないの?」
「……ああ、いただきます」
「半熟卵、うんま〜い。次来た時、また頼もっと」
「今日は、俺のおごりな」
「いいの? でも、引越しも手伝ってくれたし、他にも色々と誠にやってもらってるし。あ、あと家賃、半分出すよ」
「うちは持ち家だから家賃は関係ないよ」
「そうか……じゃあ、水道光熱費と食費と雑費を折半でどう?」
「ありがとう。うん、そうしようか」
そんな会話をしていると、本格的に一緒に住む実感が湧いて、嬉しくなる。
「ごちそうさまー。あーお腹いっぱい」
このお腹をさする晃大の仕草も久しぶりだ。
「さて、そろそろ出ようか」
「うん」
ちょうどその時、テレビのお笑い決戦の優勝が決まり、店内が一気に騒がしくなる。
「ありがとうございました〜!」
大盛り上がりのどよめきと同時に、二人は店を出た。
様々な音がひしめく大通りから、住宅街の細い道へ入ると、一気に静かになる。
夜空は満月に近く、月明かりの中、二人は控え目な声で話しながら歩いていた。
「誠……帰る場所が同じって、すごいことだよね。こんなにたくさんの家があるのに、一緒の部屋で眠れるって……こんなに幸せでいいのかな」
「だめだよ」
「え? 幸せじゃだめ……?」
「ここで満足してちゃだめだ。晃大は、もっともっと幸せになれるんだから。また辛い思いをさせるかもしれないけど……、それでも一緒に未来を目指したいんだ。だから、これからも頑張ろう」
「……厳しいな、誠は」
それは、愛があればこその厳しさなのだと、晃大も分かっている。
誠の目は、晃大にはまだ見えない、ずっと先を見ているのだ。
「僕らの未来って、どんなだろう」
「二人で作るのが未来だから、望めば叶うよ、絶対に」
「できるかな」
「やってみよう」
「うん」
一歩一歩、踏みしめて歩くように、未来へ繋がっている道を誠と二人で進むのは、今は怖さよりも希望のほうが大きい。
もし立ち止まっても、誠は待っていてくれる。そう思うと気が楽になり、前向きになれる。
「ただいま」
静かに玄関を開けて、先に晃大が中へ入った。
鍵を壁にかけた誠が靴を脱ぎながら、リビングへ行ってしまった晃大に声をかける。
「先、風呂入って。俺は次に入るから」
「はーい」
「洗濯どうする? 一緒に洗っていいなら、カゴに入れちゃって」
「うん、一緒でいい」
晃大がタオルや着替えを取りに行っている間に、誠は給湯器のボタンを押す。
(これから毎日、このやりとりが続くんだな)
そうしみじみと幸せを噛み締める。
後に入った誠が風呂から出ると、晃大はテレビを見て、爆笑していた。
笑っている姿は幾度も見たが、大笑いしている様子は初めてだった。
誠がソファの後ろから回り、隣に座る。
するとまた、晃大が膝を叩いて大きく笑った。
「見て! これ面白いよ!」
誠からすれば、晃大の爆笑を見ているほうが何倍も楽しい。
こんな風に、知らない一面を見られるのは、一緒に住む最大の特典なのだ。
「笑いすぎて、顎外すなよ?」
「こういうの好きじゃないの? 大和は一緒に笑ってたけどな」
「え? ああ、好き。大好きだよ、そうそう面白いよな……!」
大和と比べられて、ついつい負けたくない気持ちが出てしまう。
やはり大和には勝ちたい。一番になりたい。
ひとしきり笑い疲れた晃大が、壁掛けの時計を見て、軽くあくびをした。
「あー面白かった。もう寝ようか、明日も仕事だし」
「そうだった。俺、明日は朝イチで会議なんだよな……」
「大変だね。頑張れ」
「うん、頑張る」
リビングの照明を消して、寝室へ入った晃大がベッドへ寝転ぶ。
誠もベッドの上に座り、そして、パジャマの前を下のボタン二つを残して開けた。
一ヶ月ぶりで、しかも、お互いに気持ちを確認してから初めての訓練だ。
二人は、内心ドキドキだったが、素振りを見せるのは照れ臭く、辿々しく「おやすみ」とだけ言って、眠った。
小一時間経ち、晃大がそっと誠の布団をめくり、手を静かに胸へ落とした。素肌に触れた手の温かさで、誠はやっと日常が戻ったのだと実感する。
その後も晃大は以前のように、胸に顔を埋めて、しばらく誠の心音を聞いていた。それから顔を上げ、彼の寝顔をうっとりと見つめた。
「……大好き、だよ」
囁きにもならない小さな声だった。
そのまま晃大は、誠の頬にふんわりと口付けた。
起きないようにと気を使ったせいで、その感触はほんとうに微かなものだったが、誠には、はっきりと温もりが伝わった。
再び横になった晃大は、布団をかぶり誠の体に密着し、腕に巻きついて眠った。
翌朝、アラームがなり、誠が目を覚ましかけると足に重みを感じた。
少しだけ動かしてみると、晃大が腕と同じように、足まで絡めていることに気付いた。
これでは晃大が起きるまでは、眠ったふりをしなければいけない。
そのまま、巻き付かれている半身の心地よさに浸っていると、
「んん……」
鳴り続けるアラームで、晃大がやっと目を覚ました。そして、ガッチリと誠にくっついている自分に驚き、そっと体を離した。
「誠、起きて」
声をかけられた誠は、起きる演技をしながら、のっそりと体を起こし、
「おはよう」
(もっと触れていたかったな……)
二人は、寝起きでぼんやりしたお互いの顔を見ながら、同じことを思っていた。
食事を済ませ、スーツに着替えて、ソファに座り、お天気コーナーを見る。昨日と同じ繰り返しが、当たり前に出来る幸せを噛みしめる。
晃大は、誠の煎れてくれたコーヒーを飲みながら、
「あのさ、昨日訓練したんだけど……誠のココに、少しだけキスしちゃった」
自身の頬をつんつんと指し、言いにくそうに笑った。
知っているのに、知らないフリはやはり難しい。
しかし、嬉しい気持ちはそのまま伝えた。
「すごく嬉しいよ! それで、どうだった?」
「どうって……よかった。一瞬だけだったけど、唇で触れたの初めてだったし、なんていうか、恥ずかしいね」
照れて誠を見られずに、あらぬ方向にちらちらと視線が動くのが、可愛らしくて仕方がない。
「でも、これって、前進してると思っていいかな」
「うん、大丈夫。きっともっと出来るようになる」
「よかった……。誠はさ、訓練しないの?」
さりげなく、おねだりをする晃大は、もう準備が出来ているようで、誠に体を向けて待っている。
「じゃあ、出来そうなら、唇にしてみて……?」
「……うん」
昨日と同じように、誠は出来るだけ晃大に顔を近づけて、唇を寄せた。
お互いの息遣いを感じると、自然に気持ちが昂る。
晃大は昨晩の頬へのキスを思い出し、そのまま唇にもするだけだと、自身を奮い立たせようとした。だが、ほんの数センチ先のそれには、結局触れることが出来なかった。
体を引いて、諦めた晃大を、誠は優しく労う。
「訓練なんだから、そんなに落ち込まなくていいよ。明日も明後日も、やってみよう?」
「キスの出来ない恋人で、ごめん……」
「ほら、そうやって謝るのなし。俺は、どんな晃大でも大好きなんだから」
「でも、ほんとは? 僕にはそんなに触れたいと思わないから急がないんじゃない?」
触れたいと思っていても、それを言ってしまえば、追い詰めることなる。だから今まで、触れたい欲求に関しては何も言わなかった。しかし、もう本音を伝える時が来たのかもしれない。
「……ほんとは、キスされたい。手を繋いで、抱き合って、お互いの体を確かめ合いたいよ」
その言葉を聞いた晃大の表情が、ぱっと明るくなった。
「よかった。同じ気持ちだって分かってほっとした」
「だけど、無理はしなくていいから。俺はいつまでも待つから」
「うん、ありがとう。さ、仕事行こうか」
「ああ、そうだな」
出来なければ何度でもチャレンジすればいい。
この部屋から出て、また戻って来て、歩き疲れたら、休めばいい。
今は、隣に並ぶ恋人の肩が抱けなくても、明日はきっと……。
職場の午後の休憩時間は、それぞれが好きな時間にとっている。
晃大の場合は、3時が一番混むため、2時半くらいにとることが多かった。
自販機の前に立って小銭を入れ、どれにしようか迷っていると、
「あ、俺、あったかいレモンティーの気分」
いきなり松原が現れて、ボタンを押してしまった。
缶を取り出すと、松原は自分のポケットから小銭を自販機に突っ込み、
「晃大君は? 何飲むの?」
と、とぼけてみせる。驚きながらも、、
「同じのがいいと思ってた」
「やっぱり?」
同じレモンティーを買い、一緒に休憩室へ入っていった。
生憎の曇り空で室内は薄暗く、松原は照明をつけ、
「最近ぐっと冷えてきたよね〜」
缶で手を温めながら、椅子を引いてゆっくりと座る。
二人は缶を同時に開けて、くいっと一口飲み込んだ。
「俺が登録したゲーム、やってくれた?」
「あ、ごめん。ずっと色々あって、全然やれてないんだ」
「だろうねぇ……。ねえ、また引っ越したの?」
「え、何で知ってるの?」
「俺の席、総務の近くだろ? 大和さんが、総務に晃大君の新しい引越し先を小声で聞いてた。大和さんに言ってないの?」
「うん。誠の家に引越したのは知っているんだけど、住所はまだ教えてなかった。大和の気が変わって、押しかけられたら迷惑かかるかなと思って」
「そっか。でも大和さんは大丈夫だよ。こっそり聞くっていうのは、一応把握しておきたいだけだと思うし。もし本気なら、直接聞くよね」
「うん。大和はまどろっこしいことしないから……。あのさ……あのことなんだけど……」
晃大が言いにくそうに、松原の目を見た。
「ごめんね。僕、誠と付き合うことになって、その、松原君、前に誠のこと盗るとか言ってたから……ごめん」
「俺、彼女いるの、知ってるよね?」
「あ、うん、知ってる……あれ?」
「盗るなんて、嘘。彼女とうまくやってるし、この先も別れる気ないから。あーでも、あの人なら別腹かな〜。だって、あの雰囲気で言い寄られたら、その気になりそう、マジで」
「それは、困るかな……」
少し青ざめ拒否する晃大を見て、松原が意地悪な声色で続けた。
「さっさと自分の物にしないと、盗られちゃうよ? 俺みたいに前もって宣言してから盗る人なんかいないからね。知らない間に持ってかれちゃうよ? あの人を口説く人なんて、これからも沢山いるだろうし」
「そうなんだよね……どうしよう……もし突然、出てって欲しいって言われたら……」
晃大は、松原の話に身を縮ませ、深刻な表情で怯え出す。
それでも、レモンティーを飲んで、落ち着くようにと自己暗示をかけ、小さく息を吐くと、
「でもさ、お互いに好きだったら、もう自分の物じゃないのかな……」
松原と視線を合わせずに、思ったことを言ってみる。
「まあ、みんな考えが違うけどね、盗る方はそんなことお構いなしだよ。だから早めにその人を晃大君だけの物にした方がいい」
「したいよ、僕だって……」
そのために、夜は訓練をして、朝も誠にお願いをして試している。
だが、キスすらまだなのに、その先など、気が遠くなりそうだ。
「まあ、そのへんは俺の方が先輩だから、何でも聞いてよ。あの人に聞けないことがあったら、俺が教えてあげるから、ね?」
「うん。ありがとう……」
「あ、それから、トラブルに注意して。仕事でもプライベートでも、無茶しちゃだめだよ」
「分かった、気をつける」
その後、松原は時計を見て「やばっ、早く戻らなきゃ。お先に!」と出ていってしまった。
言いたいことだけ言い、不安ばかりを残す松原に、晃大は少し苛立っていた。
やっと付き合いだしたばかりなのに、もっともっと先にいけという。
しかし、松原は何も悪くない。
彼の言葉に苛立つのは、本心を突かれたからだ。
スマホを取り出して、誠の写真をじっと見つめる。
高校時代から知っていて、今まで特に気にしたことはないが、あらためて見ると、確かに放って置かれるような容姿ではない。
実際、誠のことをあれこれ聞いてきた女子社員がいた。
知っている子だったからまだ対応出来たが、外で誠に接触する人の確率を思うと、お手上げ状態だ。
たとえ相思相愛でも、誘惑とは隣合わせなのだと、思い知らされる。
(あーもー、もやもやする……!)
デスクへ戻り、残りの作業はとにかく早く終わらせて、待ち合わせに間に合わせることに集中した。
仕事が終わり、いつものように駅に向かうと、誠がもう待っていて、晃大を見つけて遠くから手を振ってくれた。
「お疲れ様」
この笑顔で、晃大のもやもやはいくらか和らいだが、心の端のくすぶりはまだ消えていない。
家に帰る前にスーパーに寄り、食材を買うついでに、晃大は珍しくビールをカゴに入れた。
誠はといえば、晃大の雰囲気に、どこかおかしさを感じながらも何も言わず、自分も同じ銘柄のものを追加して会計を済ませた。
家に戻り食事が終わると、風呂に入り、パジャマに着替えてソファに座った晃大が、早速ビールを二本持ってテーブルに置いた。
「早く来て」
手招きし、誠がソファに座るや否やすぐに乾杯し、ビールを一気に飲み込む。
その勢いに、さすがに誠も驚き心配になった。
「おいおい、そんなに一気に、大丈夫か?」
「うん……大丈夫」
「職場で何かあったのか?」
「……職場っていうか、誠に問題があるっていうか……」
「俺? 何かした?」
「まだ、してない……」
「どういうこと?」
「これからされるかもしれない……」
「される? 何を?」
「誘惑……」
「……はあ? 誰に?」
「不特定多数の人」
「なんだよ、それ。全然分からない」
そこで晃大は、缶をテーブルに勢いよく置き、腕を組み反り返った。
「大体さ、誠はさ、なんでその顔なんだよ!?」
「顔? いや遺伝だから、仕方がないというか。母さんに似てるって言われるけど……」
「そんな顔だから、誘惑されるんだよ!」
「いや、顔に苦情言われたの初めてで、誘惑だってまだされてないから無実なんだけど……。ほんとに、どうした?」
心配してくる誠に、怒っていた晃大の声のトーンが急に下がった。
「もし、この先、誠が誘惑されて、その気になって、僕が追い出されたら、どうすればいいのかな……」
眉も下がり、肩も下がり、体全体がっくりと落ち込んでいる。
「何に影響されたのか分からないけど、それは絶対にない」
「だって、僕よりも素敵な人は沢山いるし、他の人だったら、キスだって、その先も普通に当たり前にできる。やっぱり僕でいい理由が一つもない」
「そうだよ。他の人なら、全部すぐに出来る。でも晃大よりも素敵な人ってどこにいる? それに、俺は誰かと比べて好きなわけじゃない。晃大だから、好きなんだ。分かってくれる?」
「う……」
二度目の告白を受けた気がした。
こんなに思ってくれているのに、なぜ信じ切れないのだろう。
「好きになったら、誠の全てが良く見えるし、僕の悪い癖なんだけど、独り占めしたくなって、だから、見たこともない誰かにまで嫉妬しちゃって、どうしたらこの不安を消せるんだろう。僕だから好きだって言われているのに……」
「比較するから不安になるんだよ。だから、誰かと自分を比べずに、俺が好きな人は、晃大一人だと信じて。晃大が俺を嫌いにならない限り、俺は絶対に離れないから」
この言葉を聞いたこの時、晃大の体にその願望が湧き上がった。
今なら、出来るかもしれない。
「抱きしめたい……いい?」
誠は頷いて、ソファに手をついた晃大が、少しずつ近づくのを待った。
恐る恐る伸ばす腕の中に、体を預けようとする。
だが、伸ばした手は、なかなか誠を掴めない。
そして、あと少しのところで、手を引いてしまった。
「ああ、だめだ。やっぱり怖い……」
小さく震える肩、乱れた呼吸を落ち着かせようと、晃大が自身の胸をぐっと抑える。
それを見ているだけで、誠も胸が痛く、切なくなった。
「抱きしめたいという衝動が起きて、動こうとした。それだけでも凄いよ。また一歩前進したな」
優しく声をかけてくる誠に、晃大も救われる。
「うん、よかった……」
ところが、今日の晃大は思ったよりも執拗だった。
ベッドに入ってもあのことを、繰り返し確認してくる。
「絶対に誘惑されないように」
「うん」
「だって、大好きだからさ」
「うん」
「愛してる?」
「もちろん」
こうなると誠もついつい言いたくなる。
「晃大だって、誘惑される危険はあるんだからな?」
「ないよ。今まで一度もなかった」
「触れられるようになったら、あるかもしれないよ?」
「大丈夫。逃げるから」
「キスが出来るようになっても、絶対に俺以外としないように」
「当たり前じゃん。誠にしか興味ないし」
「そっか」
結局最後は、誠のデレデレで終わった。
大和が言っていた、「愛情に飢えている晃大は、底なしに求めてくる」この言葉の意味がよく分かった。
しかし、悪い気は全くしない。
以前の晃大は、親友という縛りがあったためか、誠に甘えることを抑えていたようだが、特別な関係になり、気を許すようになってからは、心から求めてくれるようになった。
これは、あの症状を開放するには必要なもので、むしろ良いと思える。
本人は甘えは良くないと思っているようだが、溜め込まれるよりは吐き出したほうがいいし、そのわけを知ることで、彼の心が休まるならば、喜んで受け入れたい。
恋人の寝息が聞こえてくる。
また今夜も胸に触れてくれるだろうか。
晃大こそ、毎晩誘惑してくる張本人なのにと、誠はそっと笑った。
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