11 奪いたい君と奪われた俺
約束の金曜日、晃大は仕事が終わるとすぐに上階の家に帰った。
着替えを済ませ、泊まりの荷物を詰め込んだリュックを背負い、駅へ向かう。
駅前の横断歩道で、会社帰りの人混みの後ろから背伸びして誠の姿を探すと、改札のすぐ脇で彼が立っているのが見えた。
信号が青になってから、ゆっくりと進み手を上げる。すると、誠もこちらに気づいたようで、軽く手を上げて合図をしてきた。
「待った?」
「さっき着いたところ。行こうか」
晃大は初めて一緒に帰るせいか、少しよそよそしく誠の隣に並んだ。前回は迷惑をかけてしまった分、あまり負担にならないようにと自ら人を避けて電車に乗り込む。
乗車中はあまり話せなかったが、電車を降り、人混みを見送ってから、二人で会話をしながらゆっくりと改札を出た。
「ここに寄ろうか」
それから駅前のスーパーで食材を買って帰り、二人で夕飯を作ることにした。
カバンを寝室へ置き、キッチンへ戻った誠が壁に掛けてあるエプロンを身につける。
メニューは帰る途中で二人で決めていた。
「僕は、鳥もも大根おろしポン酢を作るね」
「じゃあ俺は、厚揚げと夏野菜炒め。あと、きゅうりの即席漬けで」
キッチンに並び、それぞれ担当の料理を作り始める。
晃大は肉を切り、スライパンに並べ脂身から焼き始めた。すぐに蓋をし、蒸しながら焼いていく。
「慣れてるみたいだけど、いつもやってるの?」
晃大の手際の良さに感心しながら、誠はナスやパプリカをカットし、まとめて浅い鍋に入れる。
「大和と交代で食事当番しているからね。でも仕事が終わってからだから、三人前作るのは結構大変な時もあるよ」
「だよな。俺なんか一人分でも面倒だなって思うことあるし」
「あー、でも僕も一人の時は結構手抜きしちゃうな。たまにファストフード食べたくなったりする」
「わかる!」
笑い合い、それでも手は動かしながら料理を仕上げていき、テーブルに出来上がった料理を並べ、食事を始めた。
「いただきます」
「うん、おいしい。鳥の皮目がパリパリして、大根おろしがさっぱりしてて軽く食べられる」
「作るのも楽だし、食欲落ちる夏でも進むよね。夏野菜炒めも塩けが丁度いい。きゅうりもいくらでもいける」
などと、お互いの出来を褒め合ったりする。
お腹いっぱいに食べた後は、晃大が食器を洗い、誠がデカフェを入れてくれた。
「あーいい香り。誠のうちに来たって感じがする」
食器を拭きながら、晃大がドリッパーに鼻を近づける。
コーヒーをカップに注いで、ソファー前のテーブルへ置き、テレビをつけながら誠が言った。
「この間、停電の時に見ていた映画、あの続き見ちゃおうか?」
「そうだった、すっかり忘れてた。絶対アポロンが勝つと思うけど、カマキリ将軍の最後は見届けないと!」
「気合入ってるね。その前に、風呂先に入る? 俺は後でいいから」
「うん、ありがとう」
ゲストルームに置いたリュックから着替えを出した晃大は、脱衣所へ入っていった。シャワーだけで済ませ、髪は適当に乾かす。
それから入れ替わりでシャワーを浴びた誠は、しっかりと髪を整えて、一度寝室へ行き、そして何か大きな物を抱えてリビングへ戻ってきた。
「これ、プレゼント」
ソファに座っていた晃大の目の前に差し出されたのは、50㎝大のクマのぬいぐるみ だった。
「クマ!? ありがとう! でも突然ぬいぐるみだなんて、どうしたの?」
誠はソファに座り、晃大との間にそのぬいぐるみを置いた。
「クマの手を握ってくれる?」
晃大が言われるまま握ると、誠も反対側の手を握った。
「ほら、これで握手が出来た。子どもっぽいかなと思ったけど、これでお互いがもっと身近になれば、触れる怖さも減るかなと思って」
「嬉しい……ありがとう」
思いがけない気遣いに、晃大の目にうっすらと涙が滲む。
「手を繋ぎたくなったら、このぬいぐるみを使えばいいし、クマの手を使えば、相手を触ることもできるだろ? 例えばこうやって……」
誠はぬいぐるみ を抱えると、クマの手を持って、晃大の頭を撫でた。
「どう? 怖くない?」
「うん、大丈夫……こんな事、全然思いつかなかった」
驚きから安堵へ、晃大の表情が変化してゆく。
誠はそれからあらためて片方のクマの手を握り、もう片方は晃大が握った。
「それじゃ、映画の続き見ようか?」
「うん」
間接的にでも、人に触れることが出来ている。心の奥底で、小さな振動が起こっていた。
映画が終わると、晃大は名残惜しそうにクマの手を離した。
「変だね、これ。誠と手を握っているみたいに感じてた」
「俺も同じ。映画を見てる間、ちょっと緊張した」
「もうずっとこんな感覚忘れてた」
「よかった。少しでも役に立てたなら、嬉しいよ」
「今はまだ怖いけど、いつか触れられたらいいな……」
晃大が照れ笑いをしながらクマを抱きしめて、顔を埋める。
人肌には程遠いが、温かさが気持ちいい。
「やっぱり誠の家に来てよかった。あのさ、図々しいこと言っていいかな?」
「言ってみて」
「来週もその次の週も、ずっとここに来てもいいかな……? もちろん、誠が忙しかったり、都合が悪ければ来ないし、毎週が無理だったら、時々でもいいんだ。だから……」
ここ一週間、何度も言うかどうかを考えて、断られるのを覚悟で申し出る。
だが、誠の答えは、たった一言だった。
「いいよ」
「いいって、そんな簡単でいいの? 僕が言うのもなんだけど、大丈夫なの?」
「平気。問題ない」
逆に何か問題でもあるのかという雰囲気で、誠が答える。
ソファから降りた晃大が、頭を深々と下げて、
「よろしくお願いします」
他人行儀にお辞儀をした。
「やめろって。むしろ大歓迎なんだから。俺の方こそ、よろしくお願いします」
晃大を真似て、誠もお辞儀をしてみせた。
それから時計に目をやると、そろそろ寝る時間になっていた。
「さてと、もう寝ようか」
「うん」
明るい声で頷いた晃大は、ゲストルームへ入っていった。
誠もリビングの照明を消して、寝室へ行きドアを閉める。
そして、晃大のいる部屋側の壁に手を当てた。
あの様子では、単なる親友としての発言なのは、間違いない。
だがそれでいい。
あくまでも冷静に、親友として、この関係を貫くことが最優先なのだから。
それにしてもだ……。
(毎週会えるなんて、嬉しすぎて眠れそうにないよ……)
それからどれくらい経っただろうか。
ベッドに横になった誠は、興奮を沈めようと努力するが、なかなか眠れなかった。
今日もそこそこ忙しく、晃大も泊まりに来ていて気を使った。だから疲れていはいる。
なのに気持ちが落ち着かず、ただ目を閉じるだけで、もう二時間くらいは寝返りをうち、ベッドの上を行ったり来たりしている。
眠れない原因は分かっている。
晃大が隣の部屋に寝ているからだ。
好きだという気持ちを意識した時から、こうなることは何となく分かっていたが、これほどきついとは思わなかった。
一週間ぶりに会えて、あれだけ会話をし、好きなだけ顔を見られる時間があっても、離れてしまえば、またゼロに戻ってしまう。
実際に手の届く場所に、触れてはいけない存在があるというのは、生殺しに近い。
いっそこの間のように、寝顔だけでも見に行ってしまおうか。
だが、ただ顔だけを見て満足する自信が、今はない。
恋をするとこれほど貪欲になるのかと、誠は呆れた。
振り返れば、誠にとって恋は、自分から落ちるものではなかった。
初恋らしいものは一応はあったが、親の転勤で自覚する暇もなく、思春期になった頃は、いつも声をかけられ、断る、その繰り返しだった。
しかし、モテるというのは、いいことばかりではない。思い出したくないことも起きるものだ。
中学一年の頃に、誠にとって衝撃的な出来事があった。
それが起きたのは、当時の父親の上司の家に家族で招待を受け、訪問した時だった。
「こんにちは、澤瀬誠といいます」
大きなお屋敷を前に圧倒されながらも、両親に倣い礼儀正しく挨拶をし、にこやかに自己紹介を終えてからテーブルに着席した。
「まあまあ、しっかりしている息子さんですね」
何事も品の良い振る舞いでその上司家族はもてなしてくれ、特に誠は気に入られたようだった。
その上司には一人娘がいて、彼女は高校一年生だという。
きれいな長い髪を毛先だけカールし、清楚な淡いブルーのワンピースを着て、唇にはピンクのリップを塗り、まさにお嬢様そのものの容姿で、かわいらしい女の子だった。
初めのうちは一緒に食事をしていたのだが、途中で、その彼女が自室に来て欲しいと言ってきた。
直接声をかけられ戸惑ったが、誠の両親も彼女の父親も、子供同士仲良くするのは良いことだと言い、彼女の部屋へ行くことになった。
彼女は、階段を登りながら、後ろをついて来る誠に微笑んだ。
「私の名前は
「僕は、誠と言います」
「あはは。さっき聞いたじゃない。知ってる」
皐月は明るい声で、階段を登り切った部屋の白い扉を開け、
「どうぞ」
と言って、誠を先に通した。
女の子の部屋は初めてだった。
室内は女の子らしくピンク色が多く、きれいに整頓されていて、ほのかに良い香りがする。
皐月は軽く髪を触り、ベッドへ座った。
誠は小さめのテーブルの隅に座ろうとしたが、手招きをされ、彼女の隣に座らされた。
「ねえ、学校は楽しい?」
「はい」
「好きな科目は何?」
「特には……でも、理科の実験は好きです」
「そうなんだ。私はね、音楽が得意なの」
そう言うと、本棚からヴァイオリンの楽譜などを取り出して、見せたりした。
「僕は、音楽は苦手で……」
「じゃあ、私が教えてあげようか?」
「いえ、いいです……」
誠は緊張の中にいても、皐月はその間ずっとにこやかだった。
それからしばらく、何でもない会話をしていたが、突然彼女が、誠の太腿に手を置いた。
「誠君ってさ、本当に中一? 見えないよね?」
ゆっくりと手の平で脚を丸く撫で、にっこりと微笑む。
「あの……」
怖くなった誠が、距離を置こうと腰を浮かせた。
その時、皐月がいきなり立ち上がり、両手で誠の肩を掴み、体ごとベッドに押し倒した。
「え……!」
そして、驚く間もなく、次の瞬間にはキスをされてしまっていた。
誠は、必死でもがきながら彼女を押し除けて、両親のところへ戻った。
それから家に帰るまでは、あまり覚えていない。
自室に入ってからも、しばらくは茫然としていた。
キスは好きな人と、お互いが許し合ったタイミングでするものだと思っていた。なのに、会ったばかりで、何の前触れもなく勝手にされてしまった。
こんな形で一方的にされるのがキスだとは、認めたくなかった。
それからは学校でも、女子の近くにいる時は常に気を張っていた。自意識過剰と思われても、いつも囲まれる状態ではそうするしかなかった。
その後、二度転校を繰り返したが、新しい環境に慣れるまでは、誰かが近寄ってくる度に身構えていた。
そして遂に、最後の転校で晃大に出会う。
晃大の印象は特になく、初めて意識したのは、校内で密かに泣いていたのを目撃したあの時だった。
それから例の症状のことをクラスメイトから聞いて、親近感のようなものを抱いた。
人に触れられるのが怖いというのは、晃大ほどでなくても、自身も持っていたからだ。
ただその頃は、晃大のあの症状の原因を詳しく知らなかったのもあり、もう少し簡単に考えていた。
それから晃大と関わることがあれば、遠巻きにだが助けたいと思い、常に気にするようになった。
高校三年生の文化祭では、あの症状を知らない他のクラスの子達や、校外の参加者から守るために、なるべく近くにいるようにした。
そして、晃大を見守る友人の中には和馬もいた。
彼は晃大の幼なじみと聞いていたから、誠も気を許していた。だが、許し過ぎていたのかもしれない。晃大よりも親しくしていて、その後、和馬から告白を受けた。
全く予想外で驚いたが、きちんと誠意を持って告白をしてくれたことに感謝した。
それから、単なるクラスメイトで、久しい友人でもなかった晃大とは、卒業と共に疎遠になったが、和馬とは大学が同じだったために、その後も友人関係は続いた。
大学時代、酔った和馬が未だに好きだと言ってきたときは、頬ならキスしても構わないだろうと迫られ、応えるようになった。
和馬には愛嬌があり、拒否する気持ちが起きなかったのだ。
それから就職して、仕事を始めてから初めて彼女が出来た。
初めは仲のいい友達だったが、会っているうちに、彼女の方から告白を受けた。
さばさばしていて、女性らしいというよりは、友達のような気安さがあり、好きになれると思いOKしたのだが、結局誠の方が友達以上には好きになれず、別れてしまった。
二度目は同じ職場の子だった。小柄で可愛いらしい、今思えば雰囲気がどことなく晃大に似ていたところがあり、好感が持てた。
お互いに告白をすることなく付き合い始めて、初めのうちは楽しかったのだが、付き合って半年が経ったある時、こんなことを言われた。
「誠君、誰と付き合ってるの?」
彼女がいうには、自分という女がいるのに、誠が他の女に囲まれ過ぎること。自分以外には優しくしないで欲しい、いわゆる独占欲からくる嫉妬だった。
別に囲まれたいわけでも、優しくしたいわけでもない。邪険にするのはやりすぎのような気がして、出来なかっただけだ。しかし、これは彼女にとっては、言い訳にしか聞こえなかったらしい。
決定的だったのが、
「時々感じるんだけど、他の誰かを私に見てるよね?」
この時は、何を言われたのかさっぱり分からなかった。
そしてこの後、突然彼女が職場を辞めて、関係は完全に終わる。
今ならわかる。「誰かを見ている」それは、晃大のことだった。
和馬から告白を受けた時も、
「気になっている人がいる」
と答えた。
その時は、好きという意味ではなかったはずだった。だが後になり思うと、晃大への恋愛感情が無意識に混じり込んでいた。
過去の彼女達には申し訳ないと思っている。
やはり、お互いに好きでないと関係は進めれられない。一方的な感情はどちらの心も傷つけるからだ。
抱きしめたい、そして、キスをしたい。完全な片思いだが、この願いが叶わなくても、いつか晃大があの症状を手放して、本当に好きな人と抱きしめ合えればそれでいいと思っている。
自分の気持ちの成就は、彼の幸せの次であるべきなのだから。
誠は隣の部屋で眠っている最愛の人に、心の中で声をかける。
愛しているよ……。
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