10 それぞれの胸の痛み
誕生日祝いから二週間、晃大はあれから一度も誠と会えていない。
誠の会社帰りに合わせて、食事に誘ってみようと思い切ってメールをしたが、忙しいらしく結局会えずじまいだった。
その後は、特に用もないのにしつこくしても迷惑だろうと、電話をかけられず、誘ったのは結局その一度きりだった。
休日は大和と家の掃除や買い出しで普通に過ごし、平日はいつも通り出勤する。
スマホのロック画面は、和馬が撮った誠とのパック顔のツーショットに変わっていた。
その写真を眺めては、晃大はつまらないとため息をついた。
職場での午後の休憩時間はデスクに座り、自動販売機のコーヒーを飲む。誠の煎れてくれたコーヒーを思い出しながら、今日も変わらずただ時間が過ぎていく。
「藤野さん、今週末、恒例の納涼会なんですが、出席しますよね?」
総務の
「あれ? もうそんな時期だった?」
「そうですよ。藤野さんが来ないと、大和さん機嫌悪いから、絶対に参加して欲しいんですよね」
「うん、行くよ」
「よかった〜。あ、小宮さーん、ちょっといいですか〜?」
納涼会というのは、社長の義行の知り合いのビアホールで毎年行われる、社員のための飲み会イベントだ。
費用は会社が持つので、ほとんどの社員は参加する。
会場は会社から歩いて10分くらいの場所なのだが、晃大はあまり乗り気ではなかった。
同じビル内に職場と住居があれば、仕事帰りに飲みに行くのは、わざわざ出かけるという感覚になるからだ。
誠と一緒なら、どこに出かけても全然面倒じゃないのにと思いながら、定時までに仕事を終わらせようと気合を入れ直した。
仕事が終わると晃大は最後まで残り、職場の戸締りをする。基本的に残業はないため、今日もほぼ定時で帰ることが出来た。
「ただいま」
今日は大和は美晴と一緒に外で食事、義行も仕事の関係で外に出ていて、遅くなると連絡があった。
一人きりの食事は珍しくはない。
いちいち構ってくる大和がいないほうが、ゆっくり食べられるからいい。そう思うこともあった。
しかし、誠と交流を始めてからは、機械的に作って食べることが、無感動な作業のように感じてしまい、気楽とは思えなくなった。
食べながら、スマホを見る。
誠からのメールはない。
片付けをして、風呂に入る。髪を乾かしている間もずっと、誠と一緒に居た時間を思い出していた。
ベッドに入ってから、スマホで誠の電話番号を表示する。
それでも通話をタップするのはためらってしまう。
仰向けになり、目蓋を閉じた。
目覚めれば、また同じ日が始まる。
(誠の声が、聞きたい……)
ここ数日は、そう思うことが当たり前になっていた。
「お疲れ様でしたー! さあ、納涼会行きましょー!」
飲み会当日の職場は、始業から終業まで皆テンションが高かった。
晃大は特に気持ちが浮くこともなく、淡々と過ごしていたが、さすがに会社を出る頃になると、同僚達の開放的な雰囲気に刺激されて、少しは楽しむ気分になっていた。
会場までの道のりを、和気あいあいと皆で歩いていく。
道の途中で誠が勤める会社の前を横切った。
晃大は誠を見つけられたらと期待したが、案の定空振りに終わった。
会場のビアホールに到着した社員の面々は、あらかじめ決めてある指定の席に座り、社長である義行の乾杯の挨拶を待つのみとなる。
今日は珍しく、晃大の隣に大和はいない。
その代わり、大和と同期の八木沢有斗がお目付役として隣に着席していた。
「大和君はちょっと遅れてくるって。それまでよろしくね」
「はい。僕のためにすみません……」
「大丈夫だよ。俺はあまりお酒は飲めないから、安心して」
それから義行は、挨拶を簡単に終わらせ、一斉に乾杯となった。
毎年恒例なだけに、特に目新しいことはない。晃大はゆっくりと食事をとるようなペースで飲んでいた。
八木沢は大和とは真逆の性格でとても穏やかな人柄だ。自身が楽しみながら、晃大への気配りも同時にこなしている。
「大和君遅いね」
「いいです、そのほうが面倒くさくないし」
「ふふふ、相変わらずだね。そういえば、最近藤野君が相手してくれないって、寂しがってたよ」
「そんなことはないです。でも時々ものすごく干渉してくるので……」
「君のことが大切だから、度を越してしまうのかな。でも大和君の気持ちもわかるよ。ほら俺は社内結婚だから、通勤も会社も家も妻と一緒で、離れる時間がない。でも、ずっと一緒でいられるのは幸せでね。ただ妻は、たまにはプラベートが欲しいんだろう、時々喧嘩になることがある、だから……」
「でも八木沢さんは、必要以上に口は出さなそうですよね。大和はひどいです。僕の行動を制限するし」
「分かった。今度それとなく大和君に言っておくよ」
「本当ですか? ありがとうございます! 僕も大和が嫌いなわけじゃないんですけど」
「分かってるよ」
八木沢のその表情が、誠がよくする笑みに似ていた。
そう思うと、また会いたくなって仕方がなくなる。
そして、その噂の大和は、このすぐ後に合流してきた。
八木沢の隣に座り、まずはビールで喉を潤してから、
「暑っ! 急いで来たからもう汗だく……!」
シャツのボタンを開けて、ホールの冷気でクールダウンしながら、手うちわをする。
「おい、八木沢飲んでる? 遠慮するなよ? 親父の財布すっからかんにしてやれ」
「ははは、さすがに無理だろ、それは」
八木沢は笑いながら、飲みかけのビールを掲げる。
「アキはあんま飲むなよ?」
「そんなに飲んでない」
八木沢と晃大は「また始まった…」と顔を見合わせ、呆れた笑いを浮かべた。
大和はそれから、盛り上がっている他の社員達に声をかけに行った。
経営者の息子らしく、なにかと人に気を配るところは、晃大も立派だなとは思っている。しかし、その気遣いを自分にも還元して欲しいと、ため息まじりに切望してしまう。
社員達は、会社の奢りだけに、盛り上がり方には遠慮もない。飲んで笑い、そして、いよいよ飲み会も終盤になると、皆大満足のなか解散になる。
わいわいと騒がしく、社員達があちこちに散らばる間を掻き分け、幹事の工藤が、
「はーい! 二次会はゲームもあるんでみんな参加してねー!」
二次会のカラオケへの出席を募り出す。
大和がまた勝手に晃大の参加を伝え、八木沢は不参加で帰ることになり、結果、参加者は三分の一の12人になった。
カラオケは、ビアホールからワンブロック先の場所にある。ここも毎年同じ場所だから惰性でついて行くしかない。
「いらっしゃいませ」
「えーっと、12名でー」
大和と工藤がカラオケの受付をしていると、すぐ後に他の会社員らしきグループが入店してきた。
そして、初めに「その人」に気がついたのは、北園商店の女子社員だった。
「あれ? あの人、ほら、この前うちで商品を購入した人じゃない?」
「すっごい偶然! ねーねー、カラオケ誘わない?」
ざわめき始め、大和がちらりとそのグループに視線を向けると、ひょろりと長い、自分とは次元の違う美形がそこに立っていた。
(誰だ? あいつ……)
知らない男だが、なんとなく気に入らないと感じ、さっさと受付を済まそうと横目で流す。
すると、遅れて入ってきた晃大が、すぐにその人に気がつき、驚きの声をあげた。
「あ! な、なんで!?」
「あれ!? 嘘だろ?」
二人は離れたところからお互い手を振り合い、思いがけず会えたことに喜び合った。
その様子を見ていた大和は、すぐさま晃大に近づき、怪訝な面持ちで耳打ちした。
「誰だ?」
「友達の誠だよ」
それを聞いた大和は、晃大を隠すようにスッと前へ出て、自己紹介を始めた。
「初めまして、晃大がお世話になっています。従兄弟の北園です。あれ? 皆さんもカラオケですか?」
「あ、初めまして、澤瀬です。はい、今日は部内の歓迎会だったんです。盛り上がったのでここへ来ることになって……」
とここで、北園商店の女子社員達が大和に声をかけた。
「お知り合いなら、一緒にカラオケしましょうよ」
「一緒に……?」
大和は正直面倒だと思ったが、女子社員達を敵に回すと後がやりにくい。不本意だが、ここは妥協することにした。
「せっかくですから、もしよければ、ご一緒しませんか?」
大和は得意のビジネススマイルで、さらりと微笑んで見せる。
急な申し出に、誠が同僚達にどうするか聞くと、
「いいんじゃないですか? 大勢の方が盛り上がりますし」
などと、あっさり合流が決まった。
それを聞き、晃大は嬉しさのあまり、誠に近寄っていった。
しかし、誠は一瞬で女子社員達に周りを囲まれてしまい、そのままカラオケルームに連れて行かれ、晃大も大和に捕まり、二人はろくに話も出来なかった。
「おい、分かってるな。あいつの同僚達は、お前の体のこと知らないんだから、俺から離れないようにしろよ?」
「うん……」
それぞれが好きなように座る中で、大和は社員の石田に隣を頼み、そして晃大を挟むように自分も着席した。
誠は女子社員達に取り囲まれたまま、だいぶ離れた向かいの席にいる。
これではお互いに近づくのは難しかった。
誠の同僚の女子達はというと、その様子に慣れているのか、誰も気にせず着席し、嬉々として歌の予約を入れている。
とここで、大和の席の前に、誠の同僚の男性が座った。
「どうも、白石です。今回はご一緒できてとても嬉しいです」
「あ、こちらこそ。北園といいます」
大和が立ち上がり、ポケットから名刺を取り出した。
この時、晃大は「あっ」と気づいた。
白石の顔が、この間、誠の家で見た好きなSF映画の主人公「アポロン」にそっくりだったのだ。
白石は大和と飲食の時間や支払いの段取りを話し合うと、その後に晃大をちらりと見た。
「初めまして、誠の上司で白石といいます。もしかして、誠の知り合いって、君かな?」
「は、はい……」
「ああ、やっぱりそうか。誠のスマホの写真で見たことがある」
そこまで話したところで、一曲目が賑やかにスタートした。
白石は「じゃあ」とジェスチャーで手を振り、空いている他の席に戻っていった。
それからカラオケは大盛り上がりだった。
皆先ほど会ったばかりだとは思えないほど打ち解けて、電話番号を交換する社員達もいた。
晃大はというと、相変わらず女子に囲まれている誠の様子が気になり、気を紛らわせるための酒の量が、どんどんと増えていく。
大和が「いい加減にしろよ……」と咎めるが、聞く耳など持たずに、飲み続けていた。
(楽しそう……。僕のことなんか見えてないみたいだ……)
誠が女子達に手を引かれて、ステージに立った。一度はにこやかに断るが、数人からまた引き戻される。
アップテンポの曲がかかり、諦めた誠が歌い始め、その周りでは女子達が踊ってみたり、うっとりと眺めたりしている。
しばらくはその様子を見ていた晃大だったが、たまらず目を伏せた。
(なんだか、どうでもよくなってきた、吐き気がする……)
「大和……ちょっと、どいて……」
「どこ行くんだ?」
「トイレ……」
「だったら俺も行く」
「大丈夫、そんなに飲んでない……」
「んなわけないだろ。ふらふらじゃねーか」
「うるさいな! 来ないで!」
珍しく声を荒げた晃大が、きつく大和を睨む。
大和はため息混じりに、石田に、
「ごめんな、分からないように後からついてやってくれ」
そう頼んで、自らは席で待っていることにした。
よろけながら部屋を出る晃大を、誠は歌いながら目に留めていた。そして、歌い終わったタイミングで、すぐに後を追っていった。
トイレの外では、石田が晃大の様子を心配そうにうかがっていた。
「あの、晃大は?」
「なんだか気持ち悪いみたいで、こもってて」
「そうなんですか……。あの、よければ俺が見てます。体のことは知っているので、大丈夫です」
「いいんですか? それじゃあ、お願いします」
石田が戻ると、すぐに晃大がよろけながらトイレから出てきた。
「おい、大丈夫か?」
「関係ない……」
言いながら、ぼんやりとした目つきで、ふらふらと壁伝いに歩いていく。
少し近付いただけで、ものすごい酒のにおいがした。
「待って。どこ行くんだ? 部屋はこっちだぞ?」
「うるさいなー。帰るんだよ。居る意味ないんだから……」
「帰るって……あ、待てって……!」
止めるのも聞かずに、そのまま店外に出てしまった。
普通なら捕まえて止めればいいが、晃大の場合はそれが出来ない。
誠は急いでカラオケルームへ戻ると、大和のところへ行き、
「晃大君が帰るというので、俺が送ります……!」
「は?」
言うだけ言い、状況がよく分かっていない大和をそのままにして、自分のカバンを抱え部屋から出て行った。
カラオケ店のエントランスから外を見ると、晃大がタクシーに乗り込もうとしていたため、慌てて走り、なんとかタクシーを止めた。
「なんだよ、大和! 来るなって言ったのに!」
大和だと勘違いして慌てた晃大は、タクシーの奥に、逃げるように体を寄せた。
「俺だ、誠だよ。送るから。一緒に乗るよ?」
ドアを閉めて、行き先を北園商店だと運転手に告げる。
すると晃大が、
「違う。誠の家に行く。誠の家に行って、誠に会う……!」
「それじゃ、大和さんが心配するだろ?」
「大和? 会いたくないよ、あんな奴……!」
支離滅裂なことを言って、座席の端に身を固めて俯き、動かなくなってしまった。
運転手が困ったような声で、
「あのー、どちらに行きましょう……」
と、聞いてきて、仕方なく、誠は自身の住所を告げた。
結局タクシーの中で一言も話さなかった晃大は、マンションへ着くと、自分でドアを開けて出て行ってしまった。
誠は急いで会計を済ませ、後を追った。
晃大はなぜかエレベーターを使わず、5階の家までかなり危ない足取りで階段を登っていく。
万が一を考えて誠がすぐ後ろについて行き、先回りをして家のドアを開けた。
晃大は転げそうになりながら靴を脱ぎ、無言のままリビングへ向かい、そのままソファの上に突っ伏した。
「おい、ここじゃ駄目だよ。寝室に行こう?」
「もう! 大和は僕の部屋から出てって!」
晃大の泥酔具合は、今まで見てきた誰よりも酷かった。
「ほら、仰向けになって、ちゃんと寝て……」
声をかけると気怠そうにむくっと起きて、ソファに仰向けになった。
ほっとした誠は、少しでも楽に眠れるように、スラックスのベルトを静かに抜いて、キルトケットをそっと掛ける。
その悲しそうな寝顔の原因が自分にあることを、誠は理解していた。
(ごめんな……)
それから、近くで眠れるようにと、テーブルを壁側に移動して、大学の時に買ったキャンプ用のエアーマットを敷き横になった。
ぼんやりとした明かりの中で、晃大の寝息だけが聞こえてくる。
色々と大変だったが、とにかく無事に帰って来られてほっとした。
「おやすみ」
誠は晃大に向かって手を伸ばしてみた。
まだまだ届かない距離。
それでも、いつかきっと……。
この夜はそう願いながら眠った。
翌朝、晃大は激しい倦怠感と胸のむかつきで目が覚めた。
昨晩は自分の部屋に帰って寝たと思っていたせいで、誠の家にいると気がついた瞬間、妙な声を上げてしまった。
「のわっ……!?」
「やっと起きた。おはよう」
テーブルで仕事をしていた誠がPCを閉じ、水を汲んできてくれた。
「はい、どうぞ。体は平気?」
「ありがとう……。ちょっと気持ち悪いだけ」
「何か食べられる? 味噌汁作ろうか?」
「……お願いします」
時計を見ると、9時40分。服は昨日のまま、ベルトだけがソファの近くにきちんと丸めて置かれている。
「大和と帰ったと思ってた……」
「タクシーで家に帰そうと思ったら、晃大がうちに来たいって言って。それと、朝方スマホに電話が二回あったみたいだよ。大和さんだったらちゃんと連絡した方がいい。心配してると思うから」
スマホを見ると、やはり大和からの着信だった。
話すのは気まずくて、メールで「誠の家にいる。心配しないで」とだけ送った。
「はい。味噌汁できたよ」
「いただきます。おいしい……」
しんみりとした顔で飲むその姿を、誠は黙って見ている。
途中まで飲んだ晃大が、ちらちらと誠を気にしながら、ぼそりと言い始めた。
「あのさ……昨日のことなんだけど……」
「うん」
「まさか会うとは思ってなくて、それで嬉しくなって、近くに行こうと思ったんだけど、大和もいたし難しくて……。どうして僕だけ普通に楽しくできないんだろうって 、嫌になった。誠が、女の子に囲まれてた時、僕を忘れてるみたいだと思って、声をかけたいのに、動けなくて、それで……」
結局、言いたいことがうまく言えずに、黙ってしまった。
「俺も、言おうと思ってたことがある」
そして、少しの間の後、誠はわずかに硬い口調で話し出した。
「ほんとうは俺も晃大と並んで座りたかった。でも、大和さんもいたから、安心だと思ったんだ。女の子達は晃大の同僚だから気を使う必要があったし、思うように動けないのは、俺も同じだった。でも、泥酔した晃大を見て、やっぱり伝えないといけないなって思った。聞いてくれる?」
「な、何……?」
晃大はぎくりとした。
きっと、面倒な奴だと思われた。
家に押しかけて、自分の行動を全部、誠や大和のせいにして、文句まで言ってしまった。
もう完全に嫌われてしまった……。
晃大はがっくりと首を垂れて、ため息をついた。
誠は、項垂れた晃大を気遣うように話を続けた。
「実は、しばらく前から考えていたことがあるんだ。晃大と再会した時、まだあの症状と戦っていると知って、何か力になれないかと考えていた。俺はまずは少しでも信頼してもらえるように、一緒に食事をしたり出かけたり、なるべく近くにいようと思った。でも、昨日の様子を見ていて、それだけじゃまだ足りないと思ったんだ。不満で苛立つのは、変わりたいからなんじゃないかって。そうじゃないのか?」
「僕もできるなら、なんとかしたいと思ってるよ。けど、どうすればいいのか分からない」
「俺も分からない。ただ、そのなんとかしたいと思うその気持ちは、もっと活かせるんじゃないかと思う。どうなりたいか、もっと具体的に想像して、晃大が思う「普通」に近づくように意識をしたらどうだろう。俺は、晃大を支えたい。だから手伝わせて欲しいんだ」
「でも何で僕なんかのことを、そこまで考えてくれるの? 親友って、そこまでするもの?」
「俺がしたいからする。他の人は関係ない。それに、泥酔するほど葛藤している友人を、放置できるほど薄情じゃないよ」
「泥酔って……。優しいのか、意地悪なのか、わかんないよそれじゃ……」
「あはは、確かにそうだな」
笑った誠が、また真剣な顔になり、晃大に向き合った。
「どうする? 変わりたい?」
「……うん」
「じゃあ、どうしたい? どうなりたい?」
「どうって……言われても」
「例えば俺と、どうしてみたい?」
誠の目は熱く真剣だ。
「き、急に言われても、思いつかないよ。……だったら、肩。肩組んで、笑い合いたい。あと……勇者アポロンとカマキリ将軍みたいに、思いっきりぶつかり戦いたい」
「いいね。その時は俺がカマキリ将軍になるよ」
「……誠のさ、そういうところ、僕は嫌い」
「え?」
「いつも僕に合わせて、気を使って、自分の事は後回しにしてる……」
と、申し訳なさそうに、唇をきつく固める。
その様子を少しだけ無言で見つめていた誠だったが、おどけながら問いかけた。
「だったら、俺のために変わってくれる?」
口元は軽く笑みながら、しかし声色は本気だった。隠した気持ちを言えない分、つい自分への反応を試したくなってしまう。
だが晃大は動じず、真っ直ぐに誠を見ながらしっかりと答えた。
「やる」
その言葉に、誠の肩の力がふっと抜けた。
「よかった。嫌われちゃったから、だめかと思った」
「嫌いだよ。僕を甘やかすから」
「変わるって決めただろ? 俺には甘えていいんだよ。今まで出来なかったことをしよう」
「……うん」
何の恩も義理もない自分に、どこまでも優しく接してくれるのは、何故なのだろうか。甘えろと言われても、ただ一方的に甘えることが、ほんとうに正しいのだろうか。
返事はしたものの、身内でもない人に、どこまで頼っていいのかが、晃大は分からなかった。
「これからどうしようか。今日も泊まる?」
そう温かな笑みで問われると、頷きそうになるが、
「ううん、今日はもう帰るよ」
つい、強がりで断ってしまった。
「分かった。送ってく」
誠の車に乗せてもらい、北園商店の駐車場で降りる。
「ありがとう」
その時の笑顔は、若干硬く見えた。
「じゃあ、また今度」
やはり、まだわずかに落ち込んでいるように見えて、誠は心配そうに手を振った。
「ただいま…」
家に帰ると誰もいなかった。
ほっとして、シャワーを浴びて、ベッドに横になる。
まだ少し気持ちが悪いし、やたら眠い。
それから夕方まで眠った。
アラームで起きると、完全とはいえないが、食事は取れそうなくらい回復していた。
北園家では、大和と晃大が交代で家事や食事の当番を決めている。
大和の母が亡くなってからは、しばらくは家事代行サービスを利用していたが、晃大が20歳で一緒に暮らすようになってから、せめて家のことをして役に立ちたいと願い出て、大和もそれを手伝うようになった。
スケジュールが冷蔵庫に貼られていて、それを確認すると、今日は晃大が夕食の当番だった。
(大和は、二日酔いの次の日は、よくカレー作ってたな……)
冷蔵庫の中に材料は揃っていて、冷凍庫には冷凍保存のご飯がある。
今日は品数も作れそうになく、メニューはカレーに決めた。
カレーが出来てから、ソファで少し休もうと腰を下ろしかけた時、大和が帰ってきた。
リビングに入ってくるなり大和が、
「なんだアキ、帰るなら一言メールしてくれればいいのに」
たぶんデートだったのだろう、すれ違う時に、大和の洋服からほんのりと香水の香りがした。
「体は……大丈夫みたいだな。お? 今日はカレーか?」
「うん、大和がお酒飲んだ時に作ってたから」
「そうそう、ターメリックがいいんだよな。親父はまだ帰ってこないし、先に食べようか」
「うん、そうする」
晃大が盛り付けている間に、大和が即席でサラダを作ってくれた。
「いただきます。んっ、うんまー。アキの作ったカレーが一番好きだわ俺」
「いいよ、そういうの」
ふんと笑い、晃大も食べ始めた。見た目は重いかなと思ったが、空腹もあって、結構食べられる。
「ゆっくり食べろよ。あ、水もっと飲め。二日酔いは水分摂取が大事なんだから」
「うん」
正直、大和に何か言われるかもしれないと気を張っていたが、それほど気にしていないようだ。思いのほか、穏やかに会話が進み安堵した。
晃大は、今がチャンスだと思い、今日誠と会話してから考えていたあることを、大和に言おうと決めた。
「これから週末は誠の家に泊まろうと思ってる……」
言った瞬間、叱られると思い身構えたが、それを聞いた大和は、カレーを黙々と食べながら、表情を変えなかった。
「それって、毎週じゃないよな?」
「……毎週だよ」
「あいつがそうしろって言ったのか?」
「違う。誠にはまだ言ってない。でも、いいって言ってくれると思う」
大和はカレーをすくったまま、晃大に戒めるような視線を向けた。
「やめとけ」
「や……大和は関係ないじゃん」
「だったらなんで俺に言うんだよ。関係あるから言ったんだろ」
「ちゃんと平日は家事の当番もやるし、だから、土日だけ……」
「そういう問題じゃないんだって!」
晃大にはどんなことがあっても声を荒げることはない大和が、怒りをあらわにした。
「いいか、アキのために言うんだ。相手が友達でも、のめり込めばお前が辛い思いをするんだぞ。俺は「あの頃」のアキをもう二度と見たくない。だから何と言われても、いいとは言えない」
晃大はそれに答えず、無言で食べ続け、食器をキッチンへ置くと、
「ごめん、大和」
一言だけ伝えて、部屋へ戻って行った。
ベッドに座った晃大は、誠の言葉を思い出していた。
『変わるって決めただろ? 俺には甘えていいんだよ。今までの晃大が出来なかったことをしよう』
リップサービスではなく、本気で言ってくれた言葉だ。
勝手な解釈をして、誠の都合も聞かずに週末は泊まると決めてしまったことを、事後報告でも許してくれるだろうか。
誠の電話番号を表示し、一瞬ためらいながらも、タップした。
「もしもし?」
『どうした? 体調戻った?』
「うん、もう全然抜けたよ。あのさ、急なんだけど、週末、誠の家に泊まりでもいい? 一緒に過ごしたいから、それだけなんだけど……やっぱり他に理由がないとだめだよね?」
『もちろんいいよ。だったら金曜の仕事帰りに待ち合わせして帰ろうか』
「うん、駅でもいい? 時間は金曜にメールする?」
『分かった。じゃあ、来週で。おやすみ』
「おやすみ……」
少しは緊張していたらしい。電話が終わると、体の力が抜けた。
いつもなら、納得がいかないことがあれば、部屋をノックしてくる大和も、今は来る気配がない。
若干拍子抜けしたが、妥協してくれたのかと思うと、気が楽になった。
予定はまだ全くの白紙だが、側には必ず誠が居る。それだけで、もう満足だった。
その頃の大和はというと、晃大が自室に戻った後ソファに座り、ウェディングの資料をテーブルに広げ、内容をチェックしていた。
「アキの奴……」
美晴との挙式は年内に予定しているが、大和は晃大が気になり、今ひとつ集中できないでいる。
「あの頃」を思い出すと、何も出来なかった虚無感に、ため息が出る。
目を閉じると、晃大の泣き顔が頭の中で繰り返され、思い出したくもない情景が蘇ってくる。
大和が10歳の頃、それは頻繁に起きていた。
夕飯時、大和が家族で和やかに食事をしていると、突然電話がかかってくる。
大抵、叔母の清子からで、晃大を一時預かってくれないかというものだった。
その時の清子はほとんど泣いていて、電話を取った義行は食事をそのままに、車で急いでも40分かかる清子の家へ走った。
そして夫の大吾の暴力で痣だらけの清子の手から、晃大を抱いて家に戻る。
清子は決して一緒に車には乗らなかった。暴力を振るう夫を最後まで庇い、悪いのは自分だからと泣き自宅へ留まった。
大和は、義行に抱かれ帰ってきた5歳の晃大と食事をし、一緒に風呂に入り、怖くないようにと同じ布団にも入った。
体には痣もなく、頭にも殴られたようなこぶは見当たらなかった。
最低な父親でも、我が子は可愛いのかと、大和は子供心にそれだけはほっとした。
しかし、それも半年ほどすると、晃大に変化が出てきた。
またいつものように電話が鳴り、駆けつけた義行が晃大を抱き上げると怯えだし、苦しそうに心臓のあたりをおさえ、呼吸が荒くなり、とうとう意識を失ってしまったのだ。
慌てて救急で病院に駆け込み、様々な検査をしたが、身体には異常がなく、ストレスによるものだと分かった。
義行は触れることが出来なくなり途方に暮れたが、子供同士なら大丈夫ではないかと、大和を病院へ連れて行き、手を繋がせた。幸いに、発作は起きなかった。
それからしばらく、大和は晃大を保護する時は、義行についていった。車の中で保護されるのを待っている間も、一方的な罵声が聞こえてくる。大和は耳を塞いで待っているのが常だった。
だが、またそれは起こってしまう。
義行と共に駆けつけた大和が晃大に触れると、震えや激しい動悸で再び失神してしまったのだ。
それからはもう誰が触れても体は反応し、大和でさえ触れられなくなってしまった。
病院での診察を終え、義行の後ろで大和が聞いた医者の話だと、
「日常的に暴力を繰り返し目撃することによって、実際に殴られているのが自分であると錯覚し、発作が起きるのではないか」
ということだった。
もう一緒に風呂も入れないし、同じ布団で眠ることもできない。手をつなぐことすら苦痛になるなんて……。
大和は、なぜ晃大がこんな目に遭わなければならないのかと、涙が止まらなかった。
晃大が小学生になる頃、ようやく清子が離婚した。
義行はすぐに自分達と一緒に暮らすようにと勧めたが、清子は離婚した夫の大吾に未練があり、断り続けた。
大和はそれからもできるだけ一緒に過ごし、兄弟がいない分、出来る限り可愛がった。
中学の時の部活も、拘束時間が短く土日は活動がない美術部に入り、高校は、晃大が家に来ることが多かったために部活はせず、自身の受験勉強のついでに、勉強を教えたりしていた。
晃大は中学になっても反抗期がまるでなく、大和の後をついて回り、いつも一緒にいたがった。
しかし、いつまでも子供頃の付き合いのままでいられるわけでもない。
晃大が16歳になり、大和が21歳になった頃だった。
大和が初めて女性と真剣に付き合い始めた。
名前は森屋美晴、三つ下の後輩だった。
当然のようにそれからの大和は、晃大と会う時間が減っていく。
電話も満足に付き合ってやれないことが続いたある日、大和の部屋に美晴が訪れていた時だった。
晃大が部屋に入ってきて、美晴に向かい、涙を堪えながら、
「大和を盗らないで」
と、言ったのだ。
その頃の晃大にとっては大和が全てだった。
慕っていた大和を失う恐れで、食が細くなり、不眠に悩み、情緒不安定になった。何度か病院へも付き添ってみたが、晃大が嫌がり続かず、一番効果があったのは、大和が今まで通り一緒にいることだった。
大和は美晴に事情を話した。彼女も晃大の境遇は以前から大筋で聞いていたこともあり、落ち着くまでは刺激しないように外で会おうと言ってくれた。
だが一年後、大和と美晴は、晃大の件とは別の理由で別れた。
そして、再び付き合い出したのは、晃大が22歳になり北園商店で働くようになった頃だ。
その頃になると、すっかり落ち着いていて、美晴との復縁を知っても、特に変化はなく、半年前に婚約をしたことを話した時も、笑顔で「おめでとう」と言ってくれ、あの頃のように取り乱すことはなかった。
もう大丈夫なのだと、大和は安心していた。
だが、誠が現れると、一気に彼にのめり込んでしまった。
友情に過大な期待を求めているのは、先日の泥酔状態を見ても明らかだった。
絶対とはいえない関係にこのまま依存すれば、失った時の衝撃は大きい。
あの頃のように、心身共にぼろぼろになる姿は見たくはない。
大和が晃大の行動を手放しで喜べないのは、この理由からだった。
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