7 近づく距離
「はい、それでは午後にお伺いします。よろしくお願い致します」
誠はあの日以来、社内での仕事の合間に、スマホのロック画面を眺める癖がついてしまっていた。
次はどこに行こうか、何をしようか。どうしたら晃大の症状の改善ができるのだろうか、あれこれ考えている。
「誰? この可愛い子」
「わっ……!」
耳元で声がして、驚いた誠が席を立ち上がった。
「痛っ! 椅子当たってるって!」
大げさに痛がったのは、真後ろのデスクの先輩、
「プライベート写真を使うなんて今までなかったのに、どうした?」
「友人です。この前一緒に遊園地に行ったんです」
「デートか?」
「違います。なんていうか……イベントの一つです」
「ふーん。で、惚れてんの?」
「あの、俺の話聞いてました? イベントです」
「スマホをマメに眺めておいてそれはないだろ」
「あまり詮索しないでもらえますか? 色々あるんです……」
誠は座り直して、仕事の続きを進めた。
「……ふん」
白石は面白くなさそうな顔で、自分のデスクへ戻り、カップコーヒーをかぶ飲みしている。
誠は白石のこんな無神経なところが、以前から苦手だった。だが、図々しいが仕事は出来るし、嘘やゴマをすらないところは、少しだけリスペクトしている。
「すみません、澤瀬さん。この前頼んでいたデータもらえますか?」
隣の席の大和田琴美が、誠のデスクに手を伸ばしてきた。
「あ、もう出来てます。はい、これ」
手渡すと、白石が後ろを向いたまま、また茶々を入れてきた。
「誠は優秀だからな。ま、でも俺の次にだけど」
白石は今年33歳、いわゆるガチムチで、顔の彫りが深い、誠とはタイプの異なるイケメンだ。
それでついたあだ名はアポロン。
地中海あたりにいそうな顔の彫り具合、ギリシャ神話のアポロンからとり、そうあだ名がついた。
アポロンと呼ばれているのは、本人も知っている。それどころか気に入ってるらしい。
新人がうっかり呼びかけて「アポロン……じゃなかった、白石さん!」と訂正しても、ニヤリとするだけだ。
「そろそろ会議だぞ」
白石は、忙しなく資料を握ると、誠の背中を叩いた。
「はい」
今日の会議は少人数で、前準備もしっかりしている。
だから、多少の延長はあっても、ほぼ時間内にまとめることができるだろう。それに白石が参加する会議は、いつもスムーズだ。
時間前だったが、すでに全員着席し準備も整っているようで、早めにスタートさせた。
「では、今日の議題ですが、こちらの資料にありますように……」
今回から、メンバーが入れ替わることもあり、皆緊張の面持ちで望んでいる。途中、若干の意見の対立はあったが、最終的にまとまり、それほど混乱する場面もなく、無事に会議は終わった。
会議室を出て、前を歩いていた白石が振り返り、
「上出来だな。あとはこのまま上手く進めよう」
と、珍しく誠を労う。
あまり褒めることがない白石からの言葉に、誠も安堵した。
デスクへ戻ると、皆帰り支度を始めていた。
大和田も椅子から立ち上がり、誠のデスクに付箋を貼り、
「明日、この通りの順で作業するので、よろしくお願いしますね」
機嫌よく帰っていく。
誠は、その付箋の内容をチェックしてから、手早くデスクの後片付けをし、エレベーターに乗り込んだ。
同時に白石も乗ってきたが、誠は無言のまま1階エントランスを出る前に、
「お疲れ様でした」
とだけ白石に挨拶をして、会社を出た。
今日はこれから寄るところがある。
誠の会社からは徒歩5、6分も歩けば着く晃大の職場、北園商店だ。
北園商店は卸売りだが、ビルの一階で商品の一部を販売している。
近所住民の要望で、僅かに置くようになった程度だから、それほど品数は豊富ではないが、珍しい品が近場で買えるというので、重宝されていた。
そこへ、行ってみようと思ったのだ。
北園商店へ着き、誠は正面の大きなガラスドアを引いた。
入店し見渡すと、右側に小さめの陳列棚があり、そこに商品が並べられていて、やはり普通の小売店ではないから、客の姿は見当たらなかった。
銀行のような長いカウンターで仕切られた奥の方は、社員のデスクが並び、そこで皆忙しそうに仕事をしていた。
誠は何気なく視線を流し、晃大の姿を探してみるが、見つけられなかった。
そもそも今日ここへ来ることは連絡もしていないから、仕方がないのだが……。
それから棚の中から、紅茶のパック、やわらかそうなクッキー、瓶詰めのジャム、ピスタチオチョコなど、数個づつカゴへ入れて、
「すみません、会計お願いします」
デスクで仕事をしていた女子社員に声をかけた。
接客担当らしいその女子社員は、先ほどからチラチラとこちらを見ていたようで、すぐに立ち上がり、にこやかに対応してくれた。
「いらっしゃいませ。ご自宅用ですか?」
「はい」
商品をきれいに紙袋に詰めてもらい、支払いを済ませ店を出て、今日は家に帰らず、そのまま電車で実家へ向かった。
「ただいま」
実家の玄関を開けると、家族が既に居間に集合していた。
着いて早々、玄関で母親の恵子に荷物と上着を剥がされて、
「ほら、主役はあっち」
祖父の隣に座るように背中を押された。
実は、誠と祖父は誕生日が一緒で、今日はそのお祝いをするというので呼ばれたのだ。
「あ! 誠兄ちゃん来た!」
今年も家族の他に、従兄弟夫婦と小学生の子供達二人がお祝いに来てくれていた。
「お母さん、私ロウソクに火をつけたい!」
「僕はクラッカーやっていい? 今やっていい?」
子供達は待ちきれないようで、座卓の周りを走り回っている。
恵子が子供達をうまく避けながら冷蔵庫からケーキを運び、祖父の弘の前に置いた。それから誠が、子供達と一緒にロウソクに火をつけると、すぐに歌が始まった。
「ハッピバースディ、トゥーユー、ハッピバースディ、トゥーユー」
そして、大合唱が終わると皆が声を揃えて、
「おじいちゃん、誠、お誕生日おめでとう!」
拍手が起こり、弘が誠の手を借りて、ロウソクを吹き消した。
弘は、子供達に抱きつかれると、薄い白髪の頭を照れくさそうにひと撫でし、抱き返してにっこりと笑った。
恵子がケーキを取り分けている間、皆はそれぞれプレゼントを弘に渡し始めた。
弘は、事前に「物はもう十分だから、何か食べられるものがいい」と家族にリクエストをしていた。だから皆、手作りのケーキやおつまみ、誠のようにお菓子などを用意していた。
弘はそれぞれから受け取り、
「ありがとう。食べ切れないから、みんなで分けてくれるか?」
と言い、自身はスナック菓子一袋だけをもらい、大事そうに手元へ置いて、にこにこと微笑む。
弘は毎年こうして、自分へのプレゼントをみんなに分けている。
誠が持ってきた菓子は、特に子供達が珍しがり喜んで貰ってくれた。
みんなからの誠へのプレゼントは特にない。
ケーキと、子供たちの遊び相手ができればそれでいいと、毎年断っている。
それからしばらく、従兄弟夫婦と軽く飲みながら談笑していると、
「誠兄ちゃん、戦隊ごっごしよ!」
ケーキを食べ終えた子供達が、持参のプラスチック剣で、誠の脚を力任せに思い切り斬りつけてくる。
「こらこら、いきなり蹴るな! 待て、待てって!」
やはり子供達がいると賑やかだ。
抱きつかれたり、飛びかかられたり、子供たちが成長するとその分体力も必要になる。さすがに誠もヘトヘトになり客座敷へ逃げていくが、それでも追ってきて、何度も腕にぶら下がられ、筋肉が崩壊しそうになる。
そのうち、散々はしゃぎ回った子供達は遊び疲れて、眠そうに両親の側でうとうとし始めた。それが解散の合図になり、パーティーは大賑わいのうちに終わった。
「じゃあ、明日も仕事だから、俺は帰るよ」
「泊まってけばいいのに。明日もここから仕事へ行けば?」
恵子がすすめるが、誠はあまり母親の負担になりたくなかった。
「今日は、帰るよ。またゆっくり来るから」
「そう?」
それから帰り際、玄関先まで来てくれた祖父へ一言、
「また来年も一緒に誕生日を祝おうね」
と言い、自宅へ帰って行った。
家に戻ると誠はすぐに風呂に入った。
体を洗い、湯船に肩まで浸かり、ほうっと深く息をつく。
仕事の疲れもあるが、子供達の相手を全力でしてしまったために、正直ヘトヘトだ。
しかも二人も相手をしたものだから、普段使っていない筋肉まで動かしてあちこち痛い。
それでも可愛らしい怪獣達を相手に遊ぶのは、結構楽しかった。
誠はお湯の中で、体のあちこちをやんわりと揉みほぐしながら、痛みを残さないように温まる。
しかし風呂から出ると、あまりの疲労感に耐えられず、ソファへ横になってしまった。
(今日北園商店で、晃大に会えたらよかったのにな)
そしてふと、晃大の誕生日はいつなのだろうかと思った。
いや、誕生日くらい、聞けばすぐに教えてくれるだろう。それから誕生日パーティーを開いて……。
そこまで考えて、あとは寝てしまったらしい。スマホのアラームで目覚めると、朝になっていた。
目を擦り、少しだけ頭を持ち上げた時、違和感を感じた。
それからゆっくり上半身を起こすと、体がバキバキに痛み、立ち上がり二、三歩進めば、めまいがして床にへたり込んでしまった。
(まずいな……)
だが、熱もなければ、悪寒もない。とりあえず仕事には行けるだろうと、そのまま身支度をし始めた。
食欲はあまりなく、オートミールだけで済ませ、急いで会社へ向かう。
電車は珍しく空いていて、職場まではたった二駅でいつもは立ったままだが、今日はありがたく座らせてもらった。
電車を降り改札を出たあたりで、同僚が後ろから声をかけてきた。職場まで一緒に歩きながら話を合わせていたが、頭があまり働かずほとんど内容は覚えていなかった。
「おはようございます」
それでもデスクに座るとスイッチが入り、いつも通り仕事をこなす。
業務の引継ぎをするため、隣の席の大和田に資料を手渡すと、
「なんか顔色悪くないですか?」
と、心配をされてしまった。
「まあ……少しだけ調子が悪いですが、大丈夫です」
「無理しないでくださいね」
「ありがとうございます」
わざわざ声をかけられるほど、具合が悪そうに見えるのだろうか。確かに呼吸が辛く、頭も少しぼうっとしているが……。
ミスをしないように気をつけても、徐々にタイピングのスピードが落ちてくる。気力を振り絞ってみるが、とうとうデスクに肘をついて、頭を抑えてしまった。
それに気づいた大和田が焦った様子で、
「ちょっと澤瀬さん!」
椅子から立ち上がり、澤瀬の肩に手をかけて、顔を覗き込んできた。
「大丈夫です、大丈夫……」
誠は、顔を上げて無理に笑顔を作るが、とても大丈夫そうな顔色ではなかった。
異変に気付いた白石が、立ち上がり、
「今日はもう帰れ。後の作業は俺がやるから」
それから誠の額にそっと手を当てた。
「熱はないようだな。おかしいと思ったら、すぐに病院に行けよ。一人で帰れるか?」
「はい……すみません。後、よろしくお願いします」
誠はとりあえず、どうしても必要な仕事の引き継ぎのみを済ませ、ロッカールームへ向かい鞄を取り出した。
ロッカーの鏡で見れば、顔は青白く、目の下にうっすらとクマができている。
(これはひどいな……)
ふらつきながら会社を出て少し歩くと、間の悪いことに、雨がポツポツと降り出してきた。
カバンを傘の代わりに頭へ上げ、タクシーを拾うために大通りへ出てしばらく待つが、やはり雨のせいでなかなか捕まらない。
そのうち雨がさらに激しくなり、カバンだけでは防ぎ切れなくなってしまった。
雨宿り出来そうなビルの軒先へ移動するため、誠はまたよろよろと歩き出した。このまま雨に濡れ続ければ、確実に体調は悪化する。どこでもいいからとにかく雨宿りするためにと、ふらつきながら無理に歩いていた。
その時、反対車線から短いクラクションが2回鳴った。
驚いてそちらに目を向けると、北園商店と社名が入ったワゴン車が見えた。
その運転席の窓が開き、
「誠!?」
声を上げたのは、晃大だった。
晃大は、Uターンをして、誠の前に車を寄せ、助手席の窓を開けて声をかけた。
「雨大丈夫? 急に降ってきたよね。会社戻るの? 送ろうか?」
誠は体の倦怠感が酷く、うまく状況の説明を出来ずにいると、晃大がようやく彼の様子がおかしいことに気づき、
「顔色が悪いよ? もしかして、具合が悪い? 早く乗って!」
「でも……仕事中だろ……?」
「いいんだよ。もう用事は済んでるから、気にしないで」
誠が助手席に乗ると、晃大はすぐに車を出した。
「病院行く?」
「……大丈夫。家に帰る」
「わかった」
晃大は急いで車を走らせ、誠の道案内でマンションへ向かい、彼を降ろし一緒にエレベーターに乗った。
家の鍵を開けた誠の後から玄関に入り、ふらつきながら上がり込む様子を見守る。
寝室へ入った誠は、服を無造作に脱ぎベッドへ転がった。
「パジャマ、どこだろう……」
晃大はクローゼットを開けて衣装ケースを探り誠にそれを渡し、それから水を汲みに行き、コップを枕元に置いた。
誠の顔を覗き込み、布団をしっかり肩まで掛け直し、脱いでそのままのスーツや着衣を拾いまとめて片付ける。
「僕、一度帰るけどまた来る。だから鍵貸して。何かあればスマホに連絡して」
「ごめん、ありがとう……」
誠は礼を言ってからまもなく、そのまま眠ってしまった。
晃大は会社へ帰り、定時で仕事が終わると急いでまた誠の家へ戻り、寝室にそっと入って様子をみた。水は飲んだようだが、まだ眠っているようだった。
それからキッチンへ入り、来る途中で買った野菜でスープを作り始めた。なるべく噛まずに飲み込めるようにと、細かく刻み食べやすくする。
出来上がるとすぐに寝室へ行き、遠慮がちに声をかけた。
「スープだけど食べられる?」
わりと深く眠っていた誠だったが、晃大の声で目覚め、
「ん……うん、食べたい」
頷いて、そっと起き上がった。
ゆっくりと歩いてテーブルへ座り、誠は温かいスープを口へ入れた。
母親が作ったものとも、店で食べるのとも違う、初めての味がした。
「美味しい。すごく美味しい」
じんわりと、晃大の作った温かいスープが、体の中に広がっていく。
「口に合ってよかった。風邪じゃないみたいだけど、本当に病院行かなくて大丈夫?」
「最近仕事が少し立て込んでて、疲れが溜まってたみたいだな。前にもあったんだよ。気をつけてはいたけど、ちょっと油断した」
「無理しすぎたんだね」
「でも、晃大が色々と助けてくれたおかげで、体が楽になってきたよ」
「よかった。それ食べたら、一応栄養剤も買ってきたから飲んで」
「うん」
錠剤と水を渡され、誠がそれをグッと飲み込む。それから一息ついた誠は、向かいの席で見守ってくれている晃大に頭を下げた。
「あの時、晃大が通りかからなかったら、どうなっていたか分からなかった」
「あの道はいつもは使わないけど、会社へ戻る途中でたまたま通ったんだよ。まさか誠がいるなんて思ってなかったから、びっくりした」
「見つけてくれて、本当にありがとう」
「当たり前だよ。あのさ……もしよかったら、今夜泊まりたいんだけど、いいかな。まだ心配だから」
「晃大が良ければ、むしろありがたいよ。寝る時は隣の部屋使って。ベッドしかないから、寝るまではリビングでゆっくりして。着替えはどうする? 俺の使う?」
「持ってきたよ」
「用意がいいね」
誠の笑顔に、ようやく赤みが戻ってきていた。
「そろそろ横になった方がいいかも」
「うん、そうさせてもらう」
誠はゆっくり立ち上がり、寝室へ戻った。
晃大は、誠の家へ泊まることを大和にメールした。それからスープとパンで食事を済ませ、なるべく静かに後片付けを終わらせる。
他の必要なことを済ませた晃大は、リビングのソファに腰を下ろし、一息ついた。
(泊まるなんて、思い切ったこと言っちゃったな……)
誠の体調が気になり、思い付きで言ってしまったが、晃大にとって他人の家は初めてだった。
とりあえず、今日使わせてもらうゲストルームへ行ってみる。
部屋の中は、本当にホテルのようにベッドだけで、クローゼットの中は何もないが、寝具は清潔でさっぱりしていた。
きっといつゲストが来てもいいように、気を配っているのだろう。そう思うと、なんとなく今日の誠の疲れも納得がいく。
誠は日々、こんな風に細かいことまで気を配っている。だから時々、エネルギー切れになってしまうのではないか。
晃大は持ってきたパジャマに着替えてベッドに入った。
シーツが誠と同じ柔軟剤の香りがする。安心できる、いい香りだ。
そうしているうちに、晃大もだんだんと瞼が重くなってきた。
良い香りの寝具に顔を埋めて、それから晃大は、誠が早く回復するようにと、祈りながら眠った。
翌朝、早めに起きた晃大は、誠の様子をうかがいに寝室へ入った。
誠は背を向けてまだ寝ている。
それから起こさないように、そっと朝食の支度を始めた。
米を炊き、おむすびにして、昨日の野菜スープを温める。
緑茶を用意しよう。そのまま飲むのもいいし、おむすびがまだ無理なら、茶漬けにしても食べられるから。
そんな風にかいがいしく準備をしていると、誠が起きてきた。
寝癖のついた頭を軽く手ぐしで直しながら、キッチンで支度をしている晃大に声をかける。
「おはよう」
顔色は、見違えるほど良くなっていた。
「具合はどう? 平気?」
「おかげでもう何ともないよ」
「よかった。朝ごはん食べる? おむすびとお茶漬けどっちがいい?」
「せっかく作ってくれたんだ、おむすびを食べるよ」
「分かった」
晃大が手際良く器を並べて、二人はテーブルに向き合い腰をかけた。
「いただきます」
誠の食欲はすっかり戻り、晃大が用意した分は残さず食べきった。
晃大が片付けをしている間、誠はシャワーを浴びた。体はふらつきもなく、痛みもない。いつもの動きに戻っていた。
髪を乾かして部屋着に着替えリビングへ戻ると、晃大にシャワーを勧めた。その間に誠は、軽く寝室やリビングを整える。
晃大が戻ると、今度はソファに座るように促した。
3人がけの大きさのソファの端に、ちょこんと控えめに座った晃大の様子が、まるで子犬のようで、
「ごめん。なんか、可愛い……」
思わず吹き出してしまった。
「何が?」
「いや、座ってる感じが……」
「えー、じゃあ、どう座ればいい?」
「いいんだよ、そのままで」
「何だそれ」
晃大は、誠の笑顔が戻ったことに、心の底からほっとした。
それから、急に真面目な顔になり、誠をじっと見た。
「僕が倒れたとき、誠が助けてくれたよね? これで少しは恩返しできたかな」
「それ以上のことをしてもらったよ」
「もし、これから先も誠に何かあれば、僕が助けるから」
「俺の方こそ、何があっても絶対に晃大を救うから……」
「救う……?」
「あっ! いや、えーっと……暴漢に会いそうになったら、今度こそ救い出すっていうか、そういうこと」
慌てて、誤魔化した。
焦りは禁物だと分かっていても、つい気持ちが出てしまう。
「そうだ、今日はまだゆっくりしていける?」
「うん、もちろん」
「このまま二人で寛ごうか? ほら俺、一応病み上がりだし」
その方が晃大もリラックス出来るだろうと、誠は考えた。
「コーヒーでも飲む?」
「うん。あ、でも誠はまだカフェインはやめとかないと……」
「優しいな、晃大は。じゃあ、カフェインレスにする」
ソファから立ち上がった誠は、キッチンの戸棚からコーヒー豆を出し、電動ミルで砕いた。
挽きたての粉にお湯を注ぐと、コーヒーの香ばしい匂いが部屋中に漂う。
「できたよ」
ソファに座ったまま体を捩り、誠が運ぶのを眺めていた晃大は、渡されたカップから立ちのぼる湯気を、すうっと吸い込んだ。
「いい匂い。お店のコーヒーみたい」
「ははは、褒めすぎ。でも、世界で一杯だけ、晃大のためのコーヒーなのは間違いないよ」
「そっか、スペシャルコーヒーかあ……。うん、美味しい。いいね、毎日飲みたいよ、こんな美味しいなら」
「じゃあさ、毎日飲んでみる?」
晃大がぽかんとして、誠の顔を見た。
「いや、毎日じゃなくても、家に来たらって意味でだから」
(危ない、危ない……やっぱり焦ってしまう……)
しかし、言い繕う誠の言葉を、そのまま素直に受け取った晃大は、
「うん、また来る。絶対に来るよ」
意外にもすんなり受け入れてくれた。
とにかく、晃大との接点をもっと増やさないことには、物事が進まないのは確かだ。時間が必要だと考えていたが、ここは思い切って、強引に次へ繋げみるか……。
「よかったら、明日の朝も、一緒に飲もうか?」
「うーん……わかった。そうする」
晃大が即答したのには誠も驚いた。
「泊まりってことだよ? しかも家で一緒にいるだけだけど、それでもいい?」
「うん、誠にはもっとしっかり休んで欲しいから。それに……」
「それに……?」
「一緒にいられるのが嬉しい。一緒にいて楽なんだ。僕はずっとこんな親密な友達は必要ないと思ってた。触れるのも怖いし、触れられるのも怖い、そんなんじゃ何も楽しめないと思ってた。一緒にいて何をするのかが分からなかったんだ。でも、それでも全く問題がないんだって思えたのは誠のおかげだよ」
「そうか……俺もよかったよ、晃大と親友になれて」
晃大が初めて心の内を話してくれた。
しかし、これは道の途中。まだまだ始まったばかりだ。
晃大が本当の意味で解放されるまでは、どれくらいの時間が必要なのだろうか。これから何をすれば、晃大の苦痛を取り除いてやれるのか。
今は手探りの状態で、道がどこに続いているのか、その道は正解なのか、何も分からない。
出来ることは、同じ時間を過ごす、今はそこから見つけ出すしか方法がない。
「じゃあ、二人で夜までのんびりしようか」
「そういう日も必要だよね。特に誠には」
「映画でも見る? アクション系がいいかな、涙うるうる系? それともホラー?」
「SFがいい! 宇宙人がやってきて地球がドーンって感じの」
「……晃大ってさ、なんていうか、結構激しいの好きだよな。ジェットコースターもそうだったけど」
「そうかな? どうせなら、日常じゃありえない方がいいよ。ワクワクする」
「まあね。俺もSFは好きだけど」
あれこれ言いながら二人で選んだオンライン映画が始まると、晃大と誠はソファの端と端に離れて座り鑑賞した。
二人の間にある一人分の空間は、誠に対しての晃大の心の距離そのものだが、いつかこの空間を飛び越えて、晃大の横に座れたら、どれほど楽しいのだろうか。
そして、映画に夢中になる晃大の横顔を、もっと近くで見てみたいと本気で思う。
「なんだこれ! わああ! 誠、今の見た? せっかく立て直したビルが爆風で一瞬で消えた〜! ひどいね!」
「うん。主人公が、めちゃくちゃ頑張って守ってたのにな」
「このカマキリ型宇宙人って、本当にいそうだよね」
「リアル過ぎて、夢に出そうだよ」
ソファから落ちそうなくらい、前のめりで夢中になっている晃大を見るのは、映画を見るよりも何倍も楽しい。
映画の内容をほとんど覚えていなくても、それでよかった。
とにかく、晃大が心地よく過ごせれば、誠は満足なのだ。
1作品を見終えると晃大は、
「続きが気になる〜。へ〜、これって、続編あるんだ……。あ、リターンズまである。あと2本あるけど見てみる?」
「いいよ、時間はたっぷりあるから」
結局、それから一日のほとんどをソファの上で過ごした二人は、風呂に入った後、運動がわりに少し体を動かすためのストレッチをしたり、ヨガの真似をして柔軟をしたりと、これ以上ない程ゆったりとした時間を過ごした。
ふと壁掛けの時計を見れば、いつの間にか22時を指していた。晃大がいると、時間の経過が早く感じる。
「そろそろ寝ようか」
「もうそんな時間かぁ……」
床でごろごろと手足を伸ばしていた晃大が、起き上がり、背筋をぐっと伸ばす。
「あー、楽しかったー」
ただ乾かしただけの髪をくしゃくしゃと撫でながら、晃大は寝室へ向かう誠の後に続いた。
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
名残惜しそうに軽く視線を合わせて、それぞれが寝室へ入る。
一緒にいた時間が長かったせいか、お互いに離れがたい気分になっていた。
晃大がドアを閉めるのを見届けて、誠は自分の寝室でアラームをセットし、ベッドへ入った。
明日の9時には、晃大を車で家へ送ることになっている。
それを考えると、心がうら寂しい。
初めは晃大にとって安心できる場所でありたいと思っていたのに、今は彼が誠にとって居心地の良い存在になっている。
真っ暗な中で光るスマホの二人の写真の距離が、今はもっと近づいた気がして嬉しかった。
翌朝、アラームを止めた誠はすぐに起き上がり、リビングの窓を全開にした。
気持ちのいい快晴で、少しひんやりとした空気が心地良い。
体の調子はむしろ寝込む前よりも、軽快な気がする。
それからさっそく朝食の準備をした。
「これでよし」
出来た食事をテーブルに並べ、それから晃大を呼びにゲストルームへ入った。
ベッドを覗くと、晃大が気持ちよさそうに寝ている。
「おはよう。起きて」
誠の声に反応した晃大は、眩しそうにうっすら目を開けて、
「あれ? 誠? なんで……あ、そうか。ここ誠の家か……」
寝ぼけた顔で、むくりと起きた。
フラフラと洗面所へ向かい、顔を洗いうがいをする。
すっかり目が覚めた晃大はテーブルへ座り、二人で食事を始めた。
「晃大はご飯が好きみたいだから、和食にしたよ」
「ありがとう。おいしい」
「食べ終わったら、コーヒー入れるから」
「やった!」
食事を終えると、食器を片付けながら晃大が、
「お皿洗いは僕がするから、誠はコーヒー入れて」
「いいの? じゃあ、お願いするね」
それぞれが何も語らず、それぞれの作業を始めた。
ただ食器の擦れる音と、流れる水の音、そして入れたてのコーヒーの良い香りだけが漂っている。
それからソファの端と端にそれぞれ座り、コーヒーを飲んだ。
「おいしい」
「うん……」
会話の代わりに二人を包む、時計の針の音。晃大は沈黙が苦手だと思っていたのに、静かな今の時間を、心地よく感じていた。
誠が晃大に視線を送る。
それに気づいて目があった晃大に、誠はにんまりと微笑んだ。
誠の視線を手を広げて遮った晃大は、
「なんで見てるの?」
笑いながら、抗議する。
「晃大がここに居て嬉しいなと思っただけだよ」
それを聞いた晃大は、まんざらでもなさそうに「ふーん」とだけ答えた。
間もなく、時計を見た誠が、ソファから立ち上がった。テーブルに置いていた車の鍵とスマホをポケットに入れて、
「もう時間だ。そろそろ出ようか」
穏やかな視線で晃大を促した。
「時間かあ……」
残念そうに呟き、晃大はリュックを肩にかけて、靴を履いた。
それから助手席に座り、軽くため息をつく。
「どうかした?」
「ううん……。帰るんだなーと思って……」
小さなリュックを抱え、しみじみと言う。
「また来ればいいよ。いつでも大丈夫だからって言っただろ?」
「そうなんだけど……」
「あのさ、こんなこと言うと、怒るかもしれないけど、俺、今回具合が悪くなって良かったと思ってる」
「だめだよ、元気で会える方がいいよ」
「分かってる。でも、すごく楽しく過ごせたし、晃大も色々と気持ちを話してくれたから。俺と一緒にいるのが楽だって言ってくれただろう? 俺も同じだよ」
「うん。だったらよかった……のかな」
少し照れたのか、晃大は窓の外を眺めている。
「車だとやっぱり近いね。15分くらいかな」
「それに、職場だって近いんだ。また仕事終わりに食事に行こう」
「そうだね」
北園商店の駐車場に着き、車から降りた晃大が誠に向かって手を振った。
その時の晃大の笑顔が、また寂しそうに見えた。
誠も、晃大との別れ際は毎回寂しく感じる。
他の友人と別れる時は、これほど思いは残らないのに不思議だ。
晃大とは職場も近く、今回お互いの仲も深まり問題がないのだから、何も気にすることはないのに、何故か次に会うまでが不安になる。
この親友という関係の、物足りなさの正体を誠が知るのは、もう少し後になるのだが……。
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