2 微笑みの裏側

 北園から誠に連絡があったのは、あの事件があった日から約一週間程経った頃だった。

 北園の会社の近くの小料理屋で、晃大も同席して、お礼を兼ねた食事会をしたいとの電話だった。

 誠はそれを受け、仕事を終えた後、約束の時間までに小料理屋へ出向いた。

 「こんばんは」

 店の引き戸を開けると、こじんまりとしたカウンター席で、北園が和服に割烹着をつけた年配の女将と談笑していた。

 誠に気がついた北園は、すぐに席を立ち一礼し、

 「こんばんは、どうぞどうぞこちらへ」

 にこやかに自ら店の奥の個室へ案内してくれた。

 通された割と広めの和室は、壁に絵画が上品に飾られ落ち着いた雰囲気で、大きめの座卓の下は、掘りごたつのようになっていた。

 靴を脱ぎ開放的な心地で席へ落ち着くと、早速女将が日本酒を運び、北園が誠に酒を注いでくれた。

 続けて、

 「先日は、お世話になりました」

 と、改めて、深々と頭を垂れた。

 「いや、あれから犯人といいますか、迷惑な男も捕まりまして。晃大もまあ多少は擦り傷はありますが、そんなものはすぐに治りますし、大事にならなくて本当に良かったと思ってるんです」

 「そうですか」

 誠はほっとして、お猪口を持ち、

 「頂きます」

 と、言って酒を口にした。

 ただ、なぜか肝心の晃大の姿が見えない。

 「それで、藤野君は……?」

 「ああ、すみません。仕事の関係で少し遅れるんですよ。急かしてはいたんですが、いや、こちらからお誘いしておいて申し訳ないです」

 「いいえ、そんなことは。回復してよかったです」

 「はい、おかげさまで」

 北園は笑いながら、ぐっと酒を飲み込んだ。

 「澤瀬さんは、晃大と高校時代一緒だったんですね……」

 「はい。両親の仕事の関係で、転入したのは私が高校二年の時でしたが、それから二年間は同じクラスでした」

 「ああ、では、子供の頃から知っていたわけではないんですね」

 「そうですね。ただ藤野君の症状というものは、クラスメイトから聞いていたので、気をつけていました」

 「そうですか、ありがとうございます」

 「あの……その症状のことなのですが……」

 誠は思い切って尋ねることにした。

 「差し支えなければ、原因といいますか、なぜその症状がでるようになったのか、経緯を教えて頂けませんか。未だに苦しまれているとは思っていなかったので」

 「そうですねえ……」

 北園は腕組みをして、片方の手で顎のあたりをふらふらと触り、何か思案しているようだった。

 誠は姿勢を正して、言葉に力を入れた。

 「何か出来ることがあれば、力になりたいんです」

 北園は、誠の意気に少し驚いていたが、小さく唸り一度ため息をつくと、

 「分かりました。お話します」

 と、軽く頭を下げた。

 ちょうど、女将がしずしずと料理を運んできた。

 酒が置かれ再び障子が閉まると、北園が心を決めたように息を一つ吐き、静かに話し始めた。

 「私は晃大の母親の兄なのですが……原因は晃大の父親です。父親は晃大が三歳の頃から、自分の妻に手をあげるようになりました。晃大には手を出さなかったのですが、だんだんと暴力がエスカレートして、晃大が五歳になった頃には、何度も警察のお世話になりました。しかしそれからも暴力を繰り返して、手に負えなかったんです」

 「どうして藤野君のお母様は、その……離れることはしなかったのですか?」

 「晃大に暴力を振るわないのは、優しいからだとか何とか言って。母親は夫が捕まったその日のうちに、警察に迎えに行ってしまうくらいだったので、もうこちらが何を言っても無駄でした」

 「では、藤野君はずっとその暴力を目の当たりにして……」

 「はい。酷いことです」

 誠は言葉が出なかった。

 抱きしめられるべき幼い子供が、母親への激しい暴力を繰り返し見せられて、正気でいられるわけがない。

 人に触れたり触れられるのを怖がるのは、極度の恐怖から逃れる為の自己防衛。考えるより先に、体が反応するためだったのだ。

 「もう我慢の限界だった私が、晃大が小学生になったと同時に、父親に離婚をするように迫ったんです。母親もさすがにその頃は身も心も疲れ切っていたので、それからしばらく後に同意しました」

 北園はうな垂れて、ため息をつくと、

 「しかし未練が深く、それからも外で何度か会っていたようです。そのうち父親に女が出来て消えたと思ったら、その数年後事故で亡くなりました。母親は晃大が二十歳の頃に病没して、それからは私と、私の息子と晃大の三人で暮らしています」

 「そうだったんですね……。あの、藤野君は治療のようなものは?」

 「子供の頃から、ある程度はやってみたんですが、何も変わりませんでしたね。何度か病院も変えましたが、晃大がもう嫌だというので止めました」

 「……難しいですね」

 「まあでも……今はね、うちで働いていて、社員とも仲良くやっています。よく笑いますし、優しくて真面目で、本当にいい子なんですよ」

 「はい。分かります。学生の頃もみんなに好かれていましたから」

 「そうでしょう、そうでしょう」

 北園は手酌で酒を注ぎ足した。

 誠も残りの酒を飲み、北園がまた酌をする。

 北園の口から告げられた経緯は、ある程度予想はついていたが、厳しいものだった。

 日常に暴力が当たり前のように存在する。

 トラウマと一言で済ますには重大過ぎた逆境が、晃大の全てを覆い尽くした結果だった。

 それはいつ爆発するか分からない、爆弾を抱え共に生きているようなものだろう。寛げる場所が全くない生活が、何年も続く。誠にはまるで想像ができない世界だった。

 誠はといえば、子供の頃から父親の転勤の度に、人間関係を一から組み立てなければならないなど、それなりに苦労はした。だが、それくらいは自らの努力や工夫次第でなんとかやってこられた。

 何事もなく平和で貴重な時間を、「つまらない」と思いながら過ごした裏側で、抵抗もままならない時を過ごさなければならなかった晃大の苦痛は、どれほどのものだったのか。

 誠は、アルバムの晃大の笑顔を思い出し、複雑な気持ちになっていた。

 それからしばらくして、

 「遅れてすみません」

 晃大が障子を勢いよく開け、ばたばたと入ってきた。

 誠が思わず、座したまま手を上げて、

 「久しぶり」

 声をかける。

 「ほんとに澤瀬君だ」

 晃大はにっこりと微笑み、北園の隣にさっと腰を下ろした。

 「ちょっと手間取ったんだ、ごめん」

 北園にそう言って肩がけの鞄を下ろすと、ネクタイを少し緩め、誠に向き合い、軽く会釈をした。

 その様子に、

 (ああ、やっぱり変わってない)

 誠は、懐かしさでいっぱいになった。

 北園は女将に日本酒の追加を頼んで、晃大にも食べたいものがあれば注文するように言った。

 それから三人は、様々な会話をしながら互いに酌をして、良い雰囲気で会話を楽しんだ。

 晃大は初めのうちは北園の話に頷いたり、聞かれて答えるくらいであまり話さなかったが、酒がすすむにつれ少しずつ口数も増え、誠の視線にも合わせる余裕が出て、自然な笑みを見せるようになっていった。

 しばらくして、北園は二人が打ち解けてきたのを見計らうと、晃大に、

 「久しぶりなんだし、ここからは二人で飲んだらどうだ? 私は先に失礼するから。澤瀬さん、本当に色々とありがとうございました」

 そう言って、初めからそのつもりだったのだろう、さっさと出て行ってしまった。

 誠が、向かいに座る晃大の顔をよく見ると、頬と口端にまだ赤みが残っていた。

 「体大丈夫?」

 誠が心配そうに問うと、

 「うん、何ともないよ」

 晃大は、明るく手を横に振って答えた。

 「それにしても、藤野君とこんな形でまた会えるとは思ってなかったよ」

 「僕もそうだよ。あの時付き添ってくれてありがとう。覚えてないんだけど……聞いた時はびっくりした。今日は会えるのを楽しみにしてたんだ」

 「俺もだよ」

 二人は同時に笑った。

 誠は手を伸ばし、徳利を傾けた。

 「酒、注ごうか?」

 「もう結構飲んでるから少しだけ……。本当はあまり強くないんだ」

 ほんのりと顔を赤くし、恥ずかしそうにぺろっと舌を出した晃大が、御猪口を誠に突き出す。

 そんな無邪気な姿を見ていると、先日の事件、暴漢に立ち向かった姿などは全く想像ができない。

 人に触れられない体なのに、恐れよりも誰かを守りたい一心で立ち向かう。それは相当な勇気が必要だったはずだ。

 「藤野君は凄いな……」

 誠は思わず呟いた。

 「凄くないよ。殴られて、気絶しちゃったし、全然ダメだった」

 「ダメじゃないよ。凄いよ。凄いんだよ……でも、あまり無茶はしないで欲しい」

 「心配してくれてありがとう」

 晃大は、申し訳なさそうに肩を軽くすぼめた。

 「それにしても、変わらないな」

 「そう……かな? 澤瀬君は結構変わったよね。なんていうか、大人の男って感じになった」

 「それって、老けたって事か?」

 誠が悔しげに笑う。

 「違うって。いいなと思って。僕はまだ学生だと思われる時もあるし、羨ましい」

 「若く見られる方がいいじゃないか」

 「そうかなあ」

 晃大は、全く納得ができないという顔で首を振った。

 「髪型のせいかな……? もう少し短くしてみようかな」

 そう言いながら、少しだけ癖毛の髪をつまんで笑う。

 「そのままがいいよ、似合ってる」

 「本当に?」

 照れたような表情も昔と変わらない。

 もう何年も会っていないのに、まるで今まで一緒にいたのではないかと思うくらいに、打ち解け合えている。

 「あーそうだ、覚えてる? 文化祭のメイド執事カフェ」

 晃大が肩を震わせ笑いながら言った。

 「うわっ、俺それ一番思い出したくないやつだ。男女逆転で女子の執事は可愛いくてかっこ良かったけど、男子の俺らのメイド姿はめちゃくちゃキモくてさ」

 続けて誠は苦笑しながら、

 「しかも、俺は背が高いから、スカートがミニになって、ちょっと油断するとパンツが見えて、持ってたトレーで隠したり誤魔化して。ほんと最悪だった」

 「そうだった、そうだった」

 晃大がくすくすと笑った。

 「特にヤバかったのは高田。あいつガタイがいいから、上半身ぎゅうぎゅうで背中のファスナー閉まらなくて全開で。ノリはいいからリップとかつけて、地獄絵図だったな」

 「僕は楽しかったよ。パフェ作ったり、踊ったり、みんなとワイワイ出来たのが嬉しかった」

 テーブルに肘をついて、騒がしい思い出を、穏やかな表情で懐かしむ晃大に誠は安心した。彼にとって学校は、決して苦しいことばかりではなかった。楽しい時間も沢山あったのだ。

 「それなら、俺もメイド服は楽しかったことにするかな」

 「何それ」

 「そういえば、体育祭も、なんかあったな……。あ、思い出した。翔君って、ほら陸上やってた」

 「うん、何かあったの?」

 「体育祭で走る前に、朝ごはん足りなくて、お腹すいたからって校外でマック買ってきて、校庭で堂々と食べてて怒られたんだよ。しかも変に気前がいいから多めに買ってきて、他の子にもあげちゃって、もらって食べた子たちも一緒に怒られて、貰い損だよ」

 「あははは、そんな事あったんだ。でも翔君らしいよね」

 「みんなバカばっかやってたな、色々」

 「うん、面白かった」

 共通の思い出はどれも明るくキラキラと輝いて、同級生達の笑顔だけが溢れ出す。

 「嘘だ、そんなことして大丈夫だったのか?」

 「僕じゃないよ、貴志君だよ」

 「ハハハ、やっぱりあいつか」

 友人達の破天荒なエピソードは尽きず、晃大の笑い声が絶えることはなかった。だが、楽しい時間ほどあっという間に過ぎていく。

 誠が笑いながらふと腕時計に目をやると、だいぶ時間が経っていた。

 「そろそろ……かな」

 お開きというのはいつも、心が打ち解けたタイミングでやってくる。数年ぶりの旧友との再会なら、尚更名残惜しいものだ。

 誠は立ち上がり、名刺入れから一枚取り出し手渡した。

 「これ、俺の電話番号あるから」

 すると、晃大も慌てて財布から取り出し、

 「僕の名刺」

 どうぞと両手で丁寧に手渡した。

 「藤野君と名刺交換なんて、なんだか可笑しいな」

 「うん、僕らももうおじさんなんだなーって実感する」

 その言葉に、誠は唸りながら、にやにやと晃大を上から下までわざとらしく眺めた。

 「サラリーマンには見えないけどな……」

 「もう、ひどいよ」

 口を尖らせて怒る仕草をする晃大だが、それは湧き上がったほんの少しの寂しい気持ちを紛らわせるためだったことを、この時誠は全く気づかなかった。

 店から出ると、ひんやりとした空気に包まれる。

 誠は、少しふらついている晃大が気になった。事件後ということもあり、心配で、

 「酔ってるし、送ろうか?」

 と、申し出るが、

 「んー? 家ここからすぐだし、大丈夫」

 やんわりと断られた。

 「本当に気を付けろよ?」

 腕にかけてあった上着を羽織った誠が、名残惜しそうに晃大に声をかける。

 「じゃあ、また連絡する」

 「うん、澤瀬君も気をつけて帰ってね」

 晃大は手を振ると、目の前の横断歩道を渡った。

 青信号になり、車の忙しない往来の中歩き出したその姿を、誠は消えるまで見送った。

 誠は駅までの道を歩きながら、今日の晃大の笑顔を思い出していた。

 別れ際に見せてくれた笑顔もそうだが、思い出話をしている時も、笑っていはいたがどこか寂しげだった。

 どこか、人のため、自分が傷つかないための笑顔が混じっているように思えたのだ。

 彼のほんとうの笑顔は、どこに隠されているのだろう。

 どうしたら、心からの、本物の笑顔を見ることが出来るのだろう。

 晃大の過去を自ら望んで知ったからには、このまま彼を放っては置けないと思った。

 何か出来ることは、自分がやれることはないだろうか。

 誠はこの時はまだ、心から湧き上がる自身のこの気持ちを、純粋なものだと思っていた。



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