11章

 今日、母親は仕事、姉の優もバイト。

 悠々自適の土曜日の昼前――ベッドに座りながら本を楽しむ。

 といっても、そんな時間は、後三十分ほどで終わる。昼ご飯の用意と、晩ご飯の仕込みをしなければならないのだ。

 昼は自分の分だけだから手抜きができるが、晩は家族皆で食べるから、気合が入る。

 なんだかんだと言って、料理が好きなのだ。

 小説に出てくる、中東の料理が気になって、本の内容が全く入らなくなっているのもそのせいかもしれない。

 なんて思っていると、窓の外に鳥の羽ばたきが聞こえた。

 隼が窓を開けると一匹のカラスが入ってきた。

 ぶわさっと部屋の真ん中で、人の形態を取った。

 掃除が大変なんだよな――と、舞い上がる羽根を見ながら心で思った。

 ベッドと机と棚で部屋のほとんどを埋め、わずかに残る床の上にひざまづいて登場したのは、カラス天狗であった。

 カラス天狗は手紙を差し出した。椎葉からのメッセンジャーだ。

「ありがとう――」

 隼は手紙を受け取った時に、そのカラス天狗と目が合った。

 離れ気味の目が、ぎょろりと隼を見たのだ。

 その目の動きを、隼は水の中で何度も会っている。

 精悍な二枚目が多いカラス天狗の中で、珍しく嘴の似合わない顔付きだ。

 その先入観で見ると、その背には固い鱗を持ち、防御力が高いのかもしれない。

「なるほど、そういうことか」

 隼は手紙には場所と時間しか記されていない理由を知った。


 繁華街にほど近い公園である。

 子供たちの奇声が右へ左へ行き過ぎる。

 母親たちの談笑と、隣接する国道の喧噪。

 これらが響き合い、奏でるものが公園の音だ。

 砂利の混じった足音も、この時間では霧散し、公園の音にかき消されてしまう。

 遊具という遊具は子供たちに占領されてしまっている。

 天狗の子孫ならジャングルジムのてっぺんにいるかと、隼は上を見上げた――が、さすがにいなかった。

 辺りを見回し、奥の出入り口に椎葉の姿を見つけた。

 呆れた顔が隼を迎えた。

「あんたね、あんなとこにいると思ったの?」

 見抜かれていた。

「何でこんな場所で待ち合わせするんだよ」

 椎葉の隣に並んだ。文句を続かせる。

「探しづらいだろ」

「都合の良い場所だったのよ」

「何の都合だよ」

「待ち合わせに決まってるじゃない」

 当然、という顔をするが、待ち合わせには向かないと言った、隼の意見は却下されたようだ。

 国道と反対側の出入り口は、奥にある市民施設に続いている。

 グラウンドやテニスコートもある。

 これは、すれ違った幾つかのグループが、野球道具やテニスラケットを持っていたから、そう推理しただけだ。

「天狗一族の裁決が終わったようだな」

「磯女は満場一致よ。当然でしょ」

 兵隊を増やしたがっていた、というのもあるだろう。

 妖怪の世界も、現代では人間の世界と変わらず、パワー志向なのだろう。

 罪を犯した妖怪は、天狗一族が裁かれ、判決に従った罰を与えられている。

 中でも一番重いのは、姿をカラス天狗に変えられ、懲役年数を天城家に奉仕することだ。

 それは人にとっては気の遠くなる年月だ。

 妖怪にとってはどうなんだろう――。

 長いに決まっている。隼は思った。

 一昨日――つまり磯女と戦った日。

 媛香に付けられた爪と牙の傷は、思った以上に酷くなかった。

 ただ疲労のせいで、次の日まで起きられなかった。

 学校は欠席したことになるが、そこは天城家。よく働いてくれた。

 どうやら学校へ行く途中で貧血を起こして、偶然通りかかった椎葉に助けられたことになっているらしい。そして彼女が献身的な看病をしてくれたわけだ。

 この事で椎葉の株は上がり、隼は軟弱貧血男というレッテルが貼られることとなった。

 これは家族の口から承った評価だ。

 寝込んだ隼に代わり、椎葉が家事をこなしたこともその要因だ。

 隼が目を覚ました時には、椎葉はもういなかったから、礼も言えていない。

 側にいたのは、当日講義が無かった姉であった。

 成り行きも教えてくれた。

 ついでに家族の評価を突きつけられたのも、この時だ。

 とりあえず、大事をとって昨日も休んでいる。

 椎葉が置いていってくれた薬のおかげで、肩の傷もほとんど消えている。

 東北から取り寄せたという、妖怪秘伝の薬らしい。

 椎葉にしては随分気が利いていて、隼は驚いていた。

 更にメモが付いていた。

 媛香が脱いで置いていった服も、洗って返してくれるという。

 失念していたが、助かったと思う反面、色々と見抜かれている気がして、背筋がぞっとした。

 隼は礼を言おうと、椎葉の名を呼んだ。

「礼ならいらないよ」

「へ――」

「ま……いわゆる報酬ってこともあるし、あんたとの関係を維持するための投資って意味もあるし――。大人の事情ってことかな」

 腕を組んで、視線を逸らしながら椎葉は言った。

 ふうん――と納得しつつ、椎葉の照れを隼は感じていた。

 天城家の思惑はともかく、椎葉の厚意は受けることにした。

「ありがとな」

 そんなことを思っていたら、考えるより先に口から漏れていた。

「礼はいいって言ってんでしょ」

「これは……ま、なんだ。天城との関係のための先行投資だ」

「なんだ、それ――」

 呆れるように身体まで逸らされたが、口元が微笑んでいるのは分かった。

 そうしていると、道の向こうから見知った顔が現れた。

 彼女も気付いたようだ。

 笑顔で手を振りながら、駆け寄ってくる。

 千濡媛香だ。

 彼女はあの後、病院へと運ばれた。

 傷そのものの診療というより、人間と妖怪との割合の検査を受けたのだ。

 結果は良好。人間を維持できているらしい。

 これに関しては、隼が取った行動――吸血鬼の血を吸わせること――による効果ではないとも、そうだとも聞いていない。

 助かったなら良いか――隼はそう納得している。

 媛香の笑顔は確かに人間のものだ。

 長い髪をトップでまとめ、テニスウェアを着ている。スコートの下から覗く白い脚から、隼は意識的に目を逸らした。

「どうしたの?」

「君の処遇が決まったことを、彼に話してたところよ」

 隼が答えるより先に、椎葉が言った。

 そうなんだ――と姫香は困った顔をした。

 何故そこで困るのか分からなかった。

「心配してくれなくても平気だよ」

「そう――?」

 隼は彼女の態度が気になって、言葉を選べず、結局違うことを言った。

「テニスやってたんだ?」

「最近始めたの。ある人に誘われて――」

 姫香の目が、ちらりと後ろを見た。

 すうっと隣に、男の人が並んだ。

 おう――と言いそうになった。

 隼はすんでに声を飲み込んだ。

 顔がでかい。いや頭自体が大きい。それよりも配置されたパーツも大ざっぱだ。

 大きい団子っ鼻に大きさの違う目、常に開いている厚い唇。そしてファッションという意味とは程遠い口ひげ。

 実に何というか……。

 ブサイクだ――隼は心の中とはいえ、耐え切れず言ってしまった。

「ごくろうさまです」

 低く割れた声は、その容貌によく合っていた。

 椎葉は小さい会釈で応えた。

「部下さん――?」

「彼はおとろしの血を引いてるの」

 ああ――と、隼は頷いてしまった。

 『おとろし』は、鳥居の上で社を守っていると言われている。首だけの姿で、長い髪と垂れた前髪が印象的な妖怪だ。

 その世間一般に伝承している姿と彼は、それほど一致しないが、おとろしと言われると微妙に納得する。短髪なのにそう思えてしまうのが、逆に申し訳なかった。

「千濡媛香は保護監察としたの。もし妖怪として、次に罪を犯した時は容赦しない――ってね」

「じゃあ、彼は――?」

「彼女の監視よ」

 大っぴらな監視もあったもんだ――そう思いながら媛香を見ると、彼女はおとろしの太い腕に絡みついていた。

 その目には、情欲が込められているように見えた。

 隼はまだ体験したことがないが、これがベタぼれの目というものだろうか……。

 使い古しの言葉だが、『美女と野獣』だ。

 媛香は隼の視線に気付くと、申し訳なさそうな顔をした。

 そんな顔をされる覚えはなかった。

 恋人ができた優越感からの同情――というわけでもなさそうだ。

「ごめんね、隼くん。あなたが運命の人と思ってたけど、違ったの」

 辛そうな泣き顔のまま、目線をおとろしへ向けた。

「この人がそうだったの――。あなたの必死さに応えられなくて、ごめん」

 なぬ――呆れて、ぽかんと口が開いた。

 応えるための声が出なかった。

 視界の端で椎葉が笑いを堪えている。

 それで合点がいった。

「あ――そういうことね」

 隼が彼女を救おうと頑張っていた行為は、全て彼女への恋心だと変換され、認識されていたようだ。

 ひきつる笑顔は逆効果だった。

 目に涙を浮かべて、三度目の「ごめんね」の後に駆けだした。

 大声で笑い出す寸前の椎葉の横で、媛香は足を止めた。

「天城さん、隼くんをよろしくお願いします」

「分かった、分かった」

 笑いを抑えるのに必死で、対応がおざなりだ。

 媛香は気にする様子もなく続けた。

「こんなに良くしてくれるなんて――。鼻ぺちゃなんて言ってごめんなさい」

 椎葉が凍った。

 今度は隼が笑いを堪える番だ。

 確かに媛香は椎葉のことをそう言った。ただしその時に本人はいなかったから、椎葉は初耳なのだ。

 媛香は言ったこと自体を謝っているだけなので、悪気は全くない。

 椎葉の変化に気付くこともなく、媛香は頭を下げて走っていった。

 おとろしの彼も追うべく、隼に会釈をした。

 どうも――隼が会釈を返すと、今度は椎葉へ敬礼をした。

 だが、天狗の跡取りは、顔をひきつらせているだけであった。

 困ったおとろしが隼へ視線を動かした。

「大丈夫。天城には言っておきますから」

 と、おとろしを行かせてあげた数分、椎葉は身じろぎもしなかった。

 気を失っているのか――と、隼が近付いた時だ。

 きっ――と隼を睨んだ。

「あの女ぁああああ」

 憤怒の声が隼を正面から叩いた。

 とばっちりだ――。

 隼は近くに残っていたことを強く後悔した。


「よくあんな穏便な裁決を下したもんだ」

 椎葉のさっきまでの怒りは収まったようだ。

 モデルという人目につく仕事のおかげか、周囲の物に当たったりはしない。

 手や足は大事な商品だ。

 結局矛先を地面に向けて、ひたすら踏んづける様は、地団太を踏むという行為になっていることに彼女は気付いているだろうか。

 それでも人が通りかかる時は止めているのだから、充分に理性はあるようだ。

 落ち着くのを待ってから隼が声を掛けた。

「もしあたしたちが身柄を引き取る――なんて言ったら」

 椎葉が隼を見た。

「あんたは対立してでも止めるだろ」

「――まあ、放っておけないでしょ」

「敵対するわけにはいかないのよ、一族としては」

 そんなもんか――と言うと、そんなものよ――と答えた。

 吸血鬼の力といっても本体じゃない以上、使える能力はほとんどない。

 そこまで頼られても困るものだ。

 実際そう訊いてみると、椎葉は鼻で笑った。

「外国産の魔物の力なんか、当てにしてないわ」

「そうなの?」

 椎葉は間抜けを見るような目で隼を見た。

 説教モードに入られる前に、隼は話題を変えた。

「それにしてもあの監視の男の人――」

「気になる?」

「千濡さんの好みを知ってたの?」

「濡女は牛鬼とペアだという文献を参考にしたわ。さすがに牛鬼はいないからね」

「確かに……」

 妖怪『牛鬼』は諸説がありすぎて、実態が把握できないのだ。西日本に存在していると思うが、カップルにするために探す労力とは、釣り合わない――ということだ。

「まあ、ブサイクなら、おとろしも負けてないだろうと思ってね」

 酷い言いようだ。

 つまり、媛香が惹かれることを想定して、担当を決めたのだ。

 やはり天城家はあなどれない。油断していたら、痛い目に遭いそうだ。

「ああ見えて、彼だって満更じゃないのよ」

 椎葉が、隼の猜疑心を感じ取って、補足するように言った。

 それならそれで、隼が口を挟むことではない。

「千濡だけでなく相手のことまで……。あんたはよっぽど心配性なんだな」

「そういうわけじゃないけど――」

「あたしが怒ってる時は、皆避難してるんだけど」

 やはりそうか――隼は良いことを聞いたと思った。

「収まるまで待っててくれるなんて、希少価値な存在ね」

 逃げ道を塞がれてしまった。

 椎葉は、にいっと笑った。

 モデル用の、いわゆる営業スマイルではない。本気の笑顔だ。

 それを見ると、ま、いいか――と思える自分もいた。

「ま、千濡は残念だったね。あんたがもう少しブサイクだったら、どストライクだったんだろうけど」

「複雑な言い方だ」

 なるほど、彼女との出逢いの時、隼は溺れている所を助けられた。あの時に好かれたとすれば、溺れ顔がよっぽど酷い顔だったのだろう。そう思うことにした。

「あんたには、あっちがお似合いだよ」

 椎葉は隼の後ろを指さした。

 振り向くと、波美が歩いてくるところだった。

 波美は隼を見て、一瞬だけ笑った――ように見えた。

 次には眉間に皺が寄っていた。

 怒っている……?

「そういうんじゃないよ」

 波美から目が離せず、隼は椎葉に背中向きで言った。

「そういうことにしとくわ」

 踵を返したようだ。ヒールの硬い足音が遠ざかる。

 入れ違いのように、正面から柔らかい足音が近づいてきた。

「そういうこと――って?」

 僕が君にお似合いってことさ――なんて、さりげなく言えたらどんなに良いか。

 結局、椎葉の勘違いということで、無理矢理ごまかした。

「で――、どうしてここに?」

「約束、忘れた?」

 波美はにこりと笑顔を見せた。

 すごい可愛い。

 可愛いはずだが、隼はぞくっとした。

 『可愛い』と『恐ろしい』は背中合わせだ――隼は確信した。

 水の中の磯女より手強いと。

 約束――究極和菓子試食会。

 隼ともあろう者が、すっかり失念していた。

 言い訳、言い訳――。

 次の言葉で隼の運命は決まる。

 果たして――。


 (了)

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