10章

 隼は岸に媛香の姿を探した。

 蹲るように手をついて苦しんでいる。

 下半身の蛇の鱗がはっきりして、身体の肌も緑がかってきた。

 悪い傾向だ。

「妖怪体でいた時間が長すぎたのか――?」

 つぶやきながら、隼は水上オートバイへ泳いだ。

「それは早過ぎる。――他に原因はないのか」

「――磯女に咬まれた」

 ひっくり返っていた水上オートバイを戻す。

「伝染性はないはずだが?」

「じゃあ――命の危険を感じたからじゃないか」

「ふむ。より強固な存在になる事で、死から回避しようというわけね」

 独り言のように椎葉は納得した。

「なら尚更危険だ。このままじゃあ、妖怪そのものになってしまう可能性があるわ」

 隼は水上オートバイを再始動させた。

 磯女との戦いで壊れてはないようだ。

 媛香が苦しさから逃れるように、水へと飛び込んだ。

 上流へと向かっていく。

 アクセルを開いて水上オートバイに立ち上がると、一気に全開にした。

「どうする気よ?!」

「わからない――。とにかく今は掴まえる!」

 広い川幅を斜めに突っ切る。

 媛香の細い身体は真っ直ぐ進んでいる。

 交差するかしないか――のタイミングだ。

 ここで逃したら、追いつけるチャンスは無い。

 水棲妖怪の水中航行能力は計り知れないと、磯女で思い知らされた。

 波に足を取られ、風に煽られ、それでもバランスを取りながら、限界の速度を超えろと言わんばかりに、レバーを強く握った。

 思った以上に媛香の速度が速い。

 もっと身体の横辺りに並ぶかと思ったが、尻尾ギリギリの位置で併走する。

 しかもどんどんと先行していく。

 低空を滑るように、カラス天狗が三羽、追いついてきた。このまま隼が振り切られても、追跡は可能というわけだ。任せろということか……。

 いや、それじゃダメだ――隼は思い直した。

 同時に水上オートバイを媛香に寄せると、身体を傾けた。

 椎葉が自分の名前を呼ぶ声を、隼は水の中で聞いた。

 正確には媛香に引きずられながら――だ。

 水上オートバイから尻尾へ飛び移ったのだ。

 抱きついた長細い身体は、まだ柔らかく、暖かみが残っている。

 鱗もまだ固まり切ってない。

 水面ギリギリの位置を水を割って進む。

 目なんか開けていられない。呼吸も何とかできるくらいだ。

「袖篠! 何をしている、手を離すんだ!」

「出来るか! 今彼女を離したら――、おれは一生後悔する!」

 飛び込んでくる水に耐えながらの言葉が、どれだけ椎葉に届いたかは疑問であるが、隼の正直な気持ちだ。

 カラス天狗たちの速度でなら追跡は確かに可能だ。

 しかし、位置を特定してから追いついた時に、彼女が媛香でいる保証はどこにもない。

 だったら――椎葉が間を置いて言った。

「倒すつもりで行きなさい。中途半端に相手したら、それこそ後悔するわよ!」

 伝わっていたようだ。

「了解――」

 隼は短く言った。

 隼を振り払うように、媛香は尻尾を動かした。そのおかげか――速度が少し落ちた。

 ここしかない――!

 隼は足を更に強く絡めた。腕は尻尾を抱え込むようにクロスする。両手をフリーにしたのは、小さい動きでも演舞の型が取れるようにだ。

 とても格好よいポーズではないが我慢。両腕を小さく流れるように動かす。

 川の型――たったの二動作だが、掌に気を溜め込んだ。

「千濡さん、ごめん!!」

 蛇の如き身体を、拍手を打つように掌で挟み込んだ。

 人の生の気は怪しきものを討つ。

 小さな気でも、両側から打ち込めば互いに反発し合い、内部をピンボールのように跳弾していく。

 一呼吸、二呼吸――直進していた媛香が蛇行を始めた。右に、左に、そして潜行したり、うねった後に、水中で螺旋を描きだした。

 隼は更に抱きついた。

 ここまで来て、落とされるわけにはいかない。

 数秒間――水の中であった。

 スクリューのように振り回され、呼吸もままならず、意識が遠のきそうであった。

 びくんと一度跳ねたか、と思った途端、今度は真っ直ぐに航行を始めた。

 酸素を求めて、水から顔を上げた隼は、岸が迫っているのを見た。

 回避は不可能であった。

 媛香は岸に乗り上げ、勢いでもんどりうった。

 尻尾にしがみついていた隼も放り出され、一緒に地面へ叩きつけられた。

 一度バウンドしただけでは収まらず、転がり、滑って、やっと止まった。

 コンクリートじゃなくて助かった――隼は本気で思った。

 湿り気を帯びた土はひんやりとして、押し付けた頬が心地良かった。

 このまま目を閉じたい衝動に駆られる。

 本当に落ちる寸前であった。

 水辺で起き上がる気配、そして遠くない所で聞こえる大勢の子供の声――これらが頭の中で、最悪の状況をパズルとして組み上げた。

 隼も腕を押し上げて、身体を起こした。

 鎌首をもたげるように、上半身を立てている媛香が見えた。

 まだ彼女の面影はある。

 だが、その目に映るは貪欲な食欲だ。

 顔は隣に群生している葦の奥に向けられている。

 子供たちの声はそこから聞こえる。

「はぐれないように、ペアの子と手を離さないようにね」

 若い女性がそう言った。幼稚園か低学年の子の引率か。

 媛香の喉が嬉しそうに鳴っている。

 まさか――隼の最悪の想定通り、媛香がずりりと移動を始めた。

 斜めの岸を登っていく。

 葦から姿を見せてしまったら、最期だ。

 隼は走った。

 媛香の尻尾を抱え込み、引っ張った。

 媛香はつんのめるように倒れた。腕をついて受身を取ると、振り向いた。その目には理性が全く感じられなかった。

「千濡さん、止すんだ――」

 語尾は宙を飛んでいた。

 尻尾の一振りで撥ね上げられたのだ。

 さっきいた位置より遠くへ飛ばされた。

 水を吸った地面とはいえ、背中には強い衝撃があった。

 痛みは我慢――呪文のように頭で言うと、隼はすぐに立ち上がった。

 走って、今度は媛香の上半身へ、背後からしがみついた。

 当然、嫌がった。

 これは女子としての羞恥心からくる嫌悪ではなく、食事を邪魔された怒りからのものだ。

 かなり妖怪の血が濃くなっている。

 隼では押さえきれないほど、力が強くなっている。

「何してるの、袖篠! 倒しなさい!」

 椎葉の声が正解を叫ぶ。しかし――。

「さっき拳法を使ってみて分かった。千濡さんはかなり妖怪化している」

「だから倒せと言ってるんでしょ」

「でも――それをしてしまったら、彼女を妖怪として認めることになる。おれは、それが嫌だ!」

 獣のように唸っていた媛香が、一瞬黙った――。

 その刹那、細長い身体を器用に回転させた。

 螺旋の力を上半身で解放し、背中に引っ付いていた隼を力の方向へ投げつけた。

 複雑な動きでの攻撃は、逆にいなすのが容易い。

 身体を捻って隼は着地した。

 過剰な力は柔らかい地面が吸収してくれた。

 直ぐに走り戻る。今度は彼女の進行方向だ。

 葦の高さに隠れて周囲には見えない、ギリギリの位置である。

 両手を大きく開いた。

 通さない――そういう意思表示だ。

 媛香が歩みを止めた。

 表情には怒りが顕わになっている。

「何をする気よ? そんな甘々なことで、正気なんか取り戻さないわよ!」

「分かってる――」

 餌を取り上げられた野犬のような顔付きを、目の前で晒されているのだ。簡単でないのは、誰よりも体感できている。

「おれは天城を信じている」

「――何でこんな時に……」

「だから、天城もおれを信じろ」

 ずりずり――媛香がにじり寄る。

 瘴気――妖怪が持つ独特の臭いが、近付いて来る。

「信じてるわよ、誰よりも」

 小さい声が聞こえた。つぶやきは続く。

「信じていない訳がないでしょ」

 ありがとう――隼も小さく返した。

 媛香はもう目の前だ。

 唇の無い口が割れて、二本の牙が覗いた。

 髪の毛が生きているように束でうねっている。

 血のように紅いだけの目が隼を睨んだ。

 伸ばしてきた両腕には親愛の意思は見られない。

 加減無しで隼の両腕を掴んだ。爪が食い込む。

 アドレナリンのせいか、痛みは無視できた。

 顔が近付く。開いた口は隼の右肩へ――。がぐっと牙を突き立てた。

 う――隼は顔を歪めた。

 さすがに、これは痛い。

 ぐいと顎に力が入った。口に挟まれた肩の肉が、歯で切り込まれた。このまま喰いちぎるつもりらしい。

 意識が遠のきそうになる。血だけで済むかと思ったが、もう少し手助けが必要なようだ。

「千濡媛香――それが君の名前だ。普通の女子高生だ」

 ぎちりと骨に歯が当たる感触――。

 隼は怖気づかずに続けた。

「優しくて、焼きもち焼きで、負けず嫌いで、怒りん坊で……それが君だ。千濡媛香」

 今は長く伸びた形の耳に、ささやくように隼は言った。

 賭けであった。

 妖怪の血――これがキーなのだ。磯女に咬まれた危機感で、妖怪の血が勝ったのなら、それを抑えられるだけの、力のある血を与えれば良い。

 それが隼の血であった。成分として僅かに残る、吸血鬼の血が力になれば――そんな期待を込めた賭けであった。

 考えてみれば、与える血も妖怪のものであった。ベースの隼の血でさえ、『袖引き小僧』という妖怪が混じっている。

 差し引くことで、媛香の人間性に訴えるのであれば、純粋な人間の血ででなければ、成り立たない公式だったかもしれない。

 早計だったかと後悔し始めた時、肩から牙が抜けた。続いて爪も離れていった。

「千濡さん、取り戻して、自分を――」

 わななきながら、少しずつ遠ざかっていく。

 彼女の口の周りが血だらけだ。

 それが自分の血とは分かっているが、思った以上にショッキングな絵面であった。

 疲労とダブルパンチで気を失いそうであった。

 それを堪えながら、隼は名前を呼んだ。

「千濡さん――」

 媛香が反応した。

 同じ紅い目だが、理性を持って隼を認めたのが分かった。

 よし――隼は心でガッツポーズを取った。

 血にまみれた口が、隼の名前の形に動いた――が、そのまま横に倒れていった。

 どすっと重みを伴い、湿った土に音を響かせた。

 見ると既に蛇の下半身が、人間の形に戻ろうとしている。

 鱗もほとんどが落ちていた。

 ほっと安心して、歩み寄ろうとした隼も、そのまま前へと倒れこんだ。

 あれ――?

 情けないことに、それが隼の気を失う前の、最後の思考であった。

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