9章
先行していたカラス天狗が、目標へ接触した。
「おれが追いつくまでまだ一分――いや、二分だ。カラス天狗たちに無理をさせるな!」
「足止めしてるんでしょうが! つべこべ言わずに一秒でも早く向かいなさい!」
「無茶言うな!」
口答えしつつ、隼はアクセルを目いっぱい力強く握った。
風と水しぶきで上がった速度が分かるが、気持ちがついてこない。
焦っても無駄だと知りつつ、視線だけは橋の下へ向けてしまう。
水中対空中では、飛び道具を持たないカラス天狗たちの方が不利だ。
川面を割って弧を描く尻尾が、縦横無尽に攻撃してくる。かわせず水に落ちたら、今度は顔の部分が浮き上がって水中に引き込むのだ。そうなっては助からない。
目の端を黒い羽が流れていく。
何羽が犠牲になったのか――そう思うと、隼の思考が弾けそうになる。
知らん顔の青空へ、吼えたくなる衝動を堪えながら、ただハンドルを握る。
思っている間にも、一羽のカラス天狗が水に落とされた。
その向こうで磯女が潜った。
水面が一瞬の静けさを取り戻す。
落ちたカラス天狗が飛ぼうと足掻いた。
周りで飛び交うカラス天狗たちは迷った末、助けることに決めたらしく、滞空しつつ近付く。
「袖篠に任せなさい!」
天城の声が耳を打つ。
カラス天狗たちにも届いたのか、びくっと動きを止めた。
良い判断だ――隼は思いながら、落ちたカラス天狗へ接近する。
椎葉はカラス天狗たちと、テレパシーのようなもので通じているらしい。
見たものもある程度伝わるという。
テレパシーで怒鳴ってくれよ――と、耳が痛いのを堪えながら、距離を詰めていく。
水面下にゆらりと長い影が見えた。
「間に合え!」
自分へ、水上オートバイへ、そして落ちたカラス天狗の運へ届くように、隼は口にした。
速度を落とさず橋下へ入った。右へ身体を倒し、手を伸ばす。水上で揺れるカラス天狗も、必死な表情で手を伸ばした。
――その姿が消えた。
いた辺りに、同心円が広がっている。円の内には水泡が続く。
カラス天狗の存在が、そこにいることを示している。
それが消えた時、その命は――。
「バカなことを考えないで!」
「何がバカだ!」
隼は水上オートバイのキーを引き抜いた。水上オートバイにブレーキはない。エンジンを止めることで、水の抵抗をブレーキとするのだ。
強引にバランスを取りながら、車体を放置するように川へ飛び込んだ。
「その子は諦めて!」
できるか――!
飛び込んですぐに、勢いよく沈んでいくカラス天狗の姿を見つけた。
追うが、さすがに水中では向こうに分がある。
差が付くばかりだ。
諦めるしかないのか――隼が思った時、背中に何かが抱きついた。
磯女かと思ったのも一瞬、ふんわりとした感触に思い出した顔は、媛香であった。
腰に手が巻きつくと潜行を始めた。
カラス天狗の姿が、見える位置に追いついた。
もう意識がないようだ。
隼の息も危ない。
打てて一撃だ。効果的に当てなければならない。
水圧を物ともせず、隼は両手を流す。水の型、山の型、そして川を表す型を、腕だけで構える。気が高まっていくのが分かる。
隼はそれを右掌に集中した。
充分とはいえないのだ。
ならば一撃に賭けるしかない。
底が見え始めた。
同時に媛香も追いついた。
磯女の横へ並んだ。
はみ出した眼がぎろり――と睨んだ。
びくっと媛香の手が外れた。
まだ彼女にとって、磯女は恐怖の対象のようだ。
だけど、ここまで来たら充分――!
隼は磯女の細長い身体へ取り付き、右掌を押し付けた。
身を捩られるより先に、隼は気を打ち込んだ。
当たり前だが、型の流れで打ち込む方が効果は大きいのだ。
動きが限定される水中だから、この方法を取っただけだ。
牽制でしかないが、今はこれで充分である。
磯女が弛緩した。
口から泡が漏れ、咥えていたカラス天狗を離した。
ぷかり――と浮かび上がるカラス天狗を抱え、隼は水面を目指した。
下を見ると、沈んでいく磯女を確認できた。
しかし周囲に、媛香の姿はない。
千濡さんはどこへ――?
アクリル板を通したような、揺らぐ光が近付く。
元々媛香を助けるための強行のはず。だから彼女も捜さなければいけないが、恐怖の対象である磯女を倒さなければ、いつまでも逃げることになる。
つまり磯女を捕まえることが先決なのだ。
水の戒めから解放された。新鮮な空気を求める、肺の欲求に従う。
インカムのイヤホンが椎葉の声を拾う。
「袖篠、大丈夫か!」
「カラス天狗を――」
飛んできた二羽に、抱えていたカラス天狗を渡すと、波打つ水面で揺れる水上オートバイへ泳いだ。
エンジンを再始動した時、真下に影が迫った。
手順を無視して水上オートバイを走らせると、停まっていた辺りの水面が割れた。
水しぶきを残して消えたのは、硬い鱗に覆われた磯女の尻尾であった。
立ち上がるとスピードを上げて、橋の落とす影を突っ切る。
川音とエンジン音とは別に、水切り音が背後に迫る。
アクセル全開のこっちより遙かに速い。距離があっという間に縮まる気配――背中を下側から凝視されている感覚――勘違いではない!
隼は水上オートバイを強引に百八十度反転させた。もちろんアクセルは止めない。
うねるように飛び出た細長い身体と真横ですれ違う。
飛び出た眼が、ぎろりと隼を流し見た。
隼は身体を倒して、水面ぎりぎりに倒す。
上を太い影が通り過ぎた。
身体を捻って繰り出した、磯女の尻尾だ。
弧を描く太い鞭の下を、隼は滑って潜り抜けた。
身体を戻しながら、今度は車体を九十度へ。
磯女が方向転換に苦労しているのを、隼は確認した。
橋に沿って、影の中を滑走する。すぐに気配が追随する。
わずかに角度をつけたコースで、橋から陽の下へ滑り出る。
岸が近い。
磯女が攻勢に転じた。
動きを止めるつもりか、水上へ飛び出て、覆い被さろうとしてきた。
隼は水上オートバイを跳ね上げた。
真横へ回転する。
水面が頭ギリギリで過ぎる。
かわされた磯女は水へと落ちた。
川を割る勢いに、飛沫が上がる。
着水した車体をその余波が襲った。
隼はハンドルを操作し、バランスを取る。
足を止めずに、今度は岸に沿って走っていく。
浅瀬側を磯女が追ってくる。飛沫だけが付いてくるように見える。
「岸に打ち上げようという作戦なら、あの鱗の硬さから考えて、無理よ」
イヤホンから椎葉の声が言った。
「みたいだな」
「今、捕獲ネットを用意してるわ。時間を稼いで」
「期待しないで待ってるよ」
磯女が右横を通り過ぎていく。
先回りをする気だ。
影は前方を塞ぐような曲線を描いている。
左側は岸で、併走しているから尻尾の上は通り抜けられない。
チェックメイト――。
いや、そうではない。まだ隼の想定内だ。
隼はアクセルを開き、スピードを上げた。当然、回り込む磯女の先端との距離が、あっと言う間に詰まる。
鎌首を上げるように、水をまとわりつかせ、磯女が姿を見せた。
隼は水上オートバイを跳ね上げた。今度は真正面。速度が背中を押すようにふわりと浮かび上がった。
磯女が水上に起き上がるより、隼と車体が飛び越える方が速かった。
微妙に高さが足りない。飛び越えられない――。
隼は足りない飛距離を、磯女の背を蹴ることで稼いだ。
踏まれるとは思わなかったであろう磯女は、強引に川へと戻された。
着水し、隼が振り返ると、でたらめな方向に水が飛び散っていた。
それが怒り狂った磯女だと認識する前に、水を割るような勢いで追いかけてきた。
「怒ってる! 怒ってる!」
隼は焦りながらも、九十度に二度折れ曲がって、すれ違う磯女の側面に、わざと車体をぶつけた。
更に暴れるような動きで、水飛沫が追随する。
川の真ん中辺りで、回転するように方向を転換した。
磯女が通り過ぎて行った。
さすがにもうこの手は使えない――隼は打破する手段を目で探す。
が、昼過ぎの強い陽光を照り返す、水面があるばかりだ。
「これは使いたくなかったんだけど――」
耳に椎葉の声。
「ハンドルにバッグが付いてるでしょ。中に秘密兵器が入っているわ」
「出し惜しみしないで、早く言ってくれよ」
磯女がUターンしてくる前に、隼は中を覗いた。
丸い物が入っている。
「これが秘密兵器?」
速度が落ちることに目を瞑りつつ、丸い物を手に取った。
一目で分かる。
「手榴弾?!」
「そう。いざとなったら爆死させなさい」
椎葉はあっさりと言い放った。
できるか――隼はバッグへ手榴弾を戻した。理由は色々ある。とりあえずは水中には媛香もいるのだ。巻き添えにするわけにはいかない。
「相手の命まで考えていられるほど、余裕はないでしょ」
「考えちゃダメなのかよ!」
ふ――と気付くと、追撃がなくなっていた。
波が大きく揺れているだけだ。
「あいつ――どこへ行った?!」
「待ってて! カラス天狗たちに捜させる!」
しばらく水上オートバイを大きく円を描くように走らせ、辺りを捜した。
逃げた――わけはない。
状況は互いに有利とは言えないが、不利なわけでもない。
水が激しく蠕動する音。隼は周りを見回す。
「袖篠、十時の方向!」
「どっちだよ、それ!」
悪態を吐きつつ、それらしき方向に、水の流れとは別の動きの場所を見つけた。
隼は水上オートバイのアクセルを開く。
水を割って影が現れた。
太い胴を割ったような、大きな口が何かを咥えている。
白く細いもの……それが磯女の浮上に合わせ、水面へと引っ張り出された。
もう一人の水棲妖怪――濡女。
千住媛香だ。
妖怪体の媛香の顔が苦痛に歪む。
細い腕から血が滴り、周囲を染めていく。
磯女の横から飛び出した目が卑しく微笑んだ。
咬む力を少し入れたようだ。腕に牙が食い込む。
媛香の口が悲鳴の形に開く。
「お前の狙いはおれだろうが!」
隼は激昂した。
アクセルを全開にする。
見る見る距離が縮まる。
磯女が身体をくねらせた。
三メートルはある媛香の身体が、軽々と放り投げられた。
岸へと水を零しながら飛んでいく。
な――一瞬気を取られた。
磯女は投げる勢いに乗って、水中で宙返りをしていた。
つまり下側から尻尾が迫る。
撥ね上げられるように、隼の身体も宙へ舞っていた。
視界が大きく回転する。
無意識に身体を小さくして、水面への衝撃に備えた。
叩きつけられ、川面をバウンドした。
瞬間意識が飛んだ。
ライフジャケットのおかげで沈まなかったようだ。
漂う水上オートバイと、岸で倒れている媛香、カラス天狗が数羽、飛んでいるのが見える。
――名前を呼んでいる声は……。
「袖篠! 袖篠! しっかりしろ!」
「天城――?」
「早くその場から離れて!」
そうだ、磯女――閃きのように思考が走る。
磯女は追いかけっこより簡単に、隼を捕まえる方法を使った。
媛香を人質にすることだ。
まんまと引っ掛かってしまった――。
自分でも言っていたが、狙いはあくまで隼なのだ。
いや、隼の吸血鬼の血なのだ。
天啓の閃きは、隼を間抜けと評しただけで終わった。
隼は下からの、嫌な気配にぞっとした。
手が近くの水上オートバイに触れた――が、ハンドルには届かなかった。
足に痛み、次いで水中へと引き込まれた。
視界が濁った水へ変わり、どんどんと潜水していく。
隼は泡の中、足に喰らいついている磯女を睨み付けた。
反対に、磯女のガラス玉のような目は、してやったりとほくそえんだようだ。
それはこっちも同じだ――。
隼は手の物を突き出した。それは、引き込まれる前に、水上オートバイから手に入れた物――手榴弾だ。
妖怪とはいえ、知識はあるらしい。
磯女の笑みが強張った。
隼はにやりと笑い返してやった。
水の中で笑えたかどうか疑問だが、ピンを引き抜いた。
磯女は潜行を止めて、慌てるように今度は浮上を始めた。
レバーを外された手榴弾は、既に隼の手から離れていた。
水面へ急ぐ磯女に、隼は抱きついた。かなりの速度で浮上する磯女。必死にしがみつく隼。命がかかっているとなると、思いもよらぬ力が出るものだ。
あっという間に、視界に明かりが見えた。揺らめく水面だ――。
磯女の水上ジャンプだったのだろうか。
それとも底からの爆発に押し上げられたのだろうか。
隼と磯女の身体は、水柱の上にいた。
呆然と空へ、目を向ける磯女が見える。
疑似餌のついていた先端がピンク色で生々しい。
固い鱗の長い身体に、魚のような目とサメのような口がついているだけかと思ったが、顔の後ろに当たる部分が、尖った数十本の棘の束になっている。
長さもあるから、髪かもしれない。
『女』と名が付く所以か――。
円柱が形を保てなくなって、水が四散した。
磯女と隼も重力に従い、飛沫と共に川へ戻った。
水へ引き込まれるのを隼は耐え、すぐに水面へ上がった。
磯女の上げた、細かな飛沫がまだ降り注いでいる。
隼は水上オートバイへ泳いだ。
川へ浸かったまま、キーを差込み、エンジンを始動する。
ぷかりと魚が浮かんでくる中、一際大きな影も水面に漂っていた。
ただ、こちらは動いて、顔を弱々しく上げた。
ハンドルのレバーを強く握って、アクセルを一気に全開した。
水上オートバイが、隼を引きずったまま走り出す。
磯女が気付いた――だが、隼の方が速い。
水上オートバイで体当たり。
水面を蹴り上げるように浮き上がった。
磯女は大顎を大きく開いた。
口で受け止める気だ――が、飛んでくる水上オートバイは無人であった。
隼は空中からそれを見ていた。
水上オートバイが川面を跳ねた時、ハンドルを蹴って、自らもジャンプしたのだ。
宙返りをして磯女の先端を飛び越える。その間に拳法の一つの型――『天』を両手で現す。
背に回って、両手を突き出す。
先程気付いた、髪の毛のある後頭部だ。
がっ――と、動きが止まった。
気を溜める時間は僅かだったから、効果は薄い。
それよりも、物理的な攻撃が効いたのだ。
前方からの水上オートバイと、後頭部からの隼の両掌による挟み込みだ。
大顎は水上オートバイを咥え込んで、止めようとした。しかし後方から隼の両掌が押し込まれ、咬むタイミングを外し、挟まれたのだ。
ぐふ――と空気を洩らすような音と共に、磯女は崩れ落ちた。
同時に隼と水上オートバイも水面へ落下した。
隼はぷかりと水面へと浮かび上がった。ライフジャケットのおかげで、木の葉のように波間に揺れた。
薄雲のかかった空が広がっている。
隣で磯女も漂っているのが、妙に可笑しかった。
「生きてる? 袖篠――袖篠――返事を……」
珍しく弱々しい椎葉の声が、イヤホンに聞こえた。
こんなに暴れても丈夫なインカムに驚きだ。
逆に生身の方がガタがきている。
「今日一日で二つも法を破らせやがって」
「ダイナマイト漁なんて、誰がやれと言った……」
本当に聞いたことのない口調だ。
今にも泣きそう――?
「腕の一本や二本、犠牲にしてでも解決するんだろ」
「そんなの本気で――というか、死んでたかもしれないんだぞ」
言われてみれば、確かにそうである。
身震いを誤魔化すように話題を逸らした。
「手榴弾、本物だったぞ」
「天城家だからな――」
答えになってないようで、妙に納得する返答であった。
しかも、それほど話題を逸らせてない気がした。
耳の奥で椎葉が息を呑んでいる。
「――どうした?」
「いや、後ろで、うちの者たちが盛り上がっていて……。袖篠のことを見直したとか何とか――。何のことさ?」
メガネの講師たちだろう。
仔細を言えるはずがない。
さあな、とだけ隼は言った。
下流の方から網を持ったカラス天狗が数羽見えた。
その網で磯女を確保して、事件は終了する。
これで一件落着だ――。
隼は疲れた身体を横たえるように、波に背を預けた。
高い青空を見ながら、耳は水の音だけを拾った。
再び椎葉が息を呑んでいる。
今度は気楽な雰囲気がない。
「どうした――」
「千濡媛香が――」
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