8章
頬を打つ音が、天に抜けるように響いた。
会うや否や、椎葉が平手で打ったのだ。
自分のミスだという認識があったから、隼は打たれるままにした。
女子の平手は、音の割にインパクト時の痛みは少ない。
そのくせ時間を追うに従い、じわじわと痛みを増してくる。
それは心の痛みのせいかもしれない――なんて思って誤魔化す。
「勘違いしないでよ。あんたが犯人だけでなく、容疑者までも逃がしたから怒ってるんじゃない」
隼は顔を戻した。
自動車から降りてきた時、椎葉の表情は消えていた。
怒り爆発寸前としか思えなかった。
今も同じだが、よく見れば端正な顔が震えている。感情を必死に押し殺しているのだ。だからこそ表情が消えているのだ。
椎葉は打った手を抱えた。
隼の痛みを半分引き受けたかのように。
「天城――」
「あんたと知り合って、まだ三ヶ月も経ってないし、友達ってわけでもない。あんたが天城家に、胡散臭さを感じているのも知ってるし、信用がないのも分かってる」
全て言い当てられている。
正確に言えば、天城家を胡散臭いとは思っていない。寧ろ正義だと思っている。
ただ、それを遂行する手段に閉口することがあり、そこを警戒したに過ぎない。
それはしょうがないだろ――隼はその言葉を呑み込んだ。
椎葉は天城家の人間なのだ。
椎葉の表情が崩れ始めていた。
唇を強く結び、揺れる瞳には涙が覆っている。
「だけど、あたしとはずっと一緒に戦ってきたでしょ。あたしくらいは、信頼してくれてもいいんじゃないの!?」
そうか――隼は納得した。
椎葉は怒っていた訳じゃなく、信じてもらえなかったことに憤り、悲しんでいたのだ。
言葉を呑み込んでおいて良かった。
「今朝見つかった遺体の側には、二体の妖怪の痕跡があった。一つは犯人で、一つは千濡媛香のもの」
「え……」
「袖篠は疑われることを畏れて、先に犯人を捕まえようとしたんでしょ」
これまた、全て見抜かれている。
だが隼にも言い訳はある。
「おれは天城のことを思って――」
「あたしの何をよ!」
「組織に属してる者が、勝手なんてできるわけないだろ。だからさ――」
「それがあたしを信頼していないって言ってるのよ!」
「だけど――」
「うるさい!」
椎葉の声が辺り一面に響いた。
天城家に所属する調査チームが川縁から注視してきた。
「袖篠と天城家とで意見が分かれたら、あたしはあんたに味方をしてやる! 身を挺してでも止めてやる! その代わり、あんたは犯人を絶対に捕まえろ! 腕の一本や二本、犠牲にしてもだ! 分かったか!」
「天城――」
要は動きやすいようにしてやると解釈して良いのだろうか。
まあ、良い上司なのだ。椎葉との関係は、それでいい。下手な馴れ合いは必要ない。
隼は頷いた。
「分かった。すまなかったな」
椎葉は全ての感情を鎮めるように、下を向きながら呼吸を整えた。
一つ大きく頷き、顔を上げると、驚き。いつもの椎葉であった。
「どこまで分かってるの?」
戸惑いつつ、隼もいつも通りに答えた。
「犯人は、磯女だ」
「なるほど。西から逃げてきたか……。それとも、吸血鬼の血を求めてきたか」
「おれ?」
「で、どうしたの?」
「あと一歩の所まで追いつめたけど、先端を犠牲にして逃げられた」
「あれか――」
椎葉は疑似餌へ顔を向けた。
四肢を備えた人に似た妖怪だ。
藻だらけだが、全身白タイツを着込んだような姿が、土手へ引き上げられている。
その傍らにいた調査員が、椎葉の視線に気付いて駆け上ってきた。
用箋バサミごと調査書を彼女に渡した。
ふむ――椎葉が調査書をめくりながら唸った。
「あんた、あいつの命乞いの言葉に、気を取られたでしょ」
「何で、それを?」
「カラス天狗から訊いた」
ああ――隼は思い出した。
磯女に水へ引き込まれそうだった子だ。川の上空を飛んでいたのは見えたが、まさか失態まで見られていたとは、迂闊であった。
「あの先端部が、言葉を話すはずないわよ」
「だって実際――」
「あの妖怪は、死んで二十年も経っている」
「二十年――?」
隼は視線を動かした。とてもそんな状態には見えない。今にも動き出しそうな程だ。
「磯女は他の妖怪を取り込んで、溺れた人間に見せかけるらしいわ」
「なるほど、疑似餌で正解だったか……」
「取り込まれた時点で、磯女の身体の一部となる。つまりそこで死んでるのよ」
「そうなのか――」
椎葉はわざとらしいため息を大きく吐いた。
「弱みにつけ込まれたのね。まんまとはめられてさ――」
「申し訳ない」
最近謝ってばかりだなと、自虐的にそう思った。
「ま――袖篠らしいといえば、袖篠らしい」
椎葉の表情が困惑のものに変わった。何か言葉を躊躇っているらしい。
隼はとりあえず待ってみた。
やっと椎葉が顔を逸らしながら言った。
「カラス天狗を助けてくれたことには、感謝してる――ありがとう」
声は尻すぼみで、礼の部分はやっと聞こえたくらいだ。
照れるくらいなら言わなければいいのに――。
「彼女は他のカラス天狗と違うのよ」
「へえ――」
あのカラス天狗が女子だった、という事実の方に気を取られた。
どう違うのか――それにも興味が沸いたが、聞き返す前に椎葉は話題を逸らした。
「で、千濡媛香は何で逃げたのよ?」
もう照れは消えていた。
いつもの椎葉だ。
残念に思いながらも、推測だけど――と隼が前置きすると、椎葉は頷いた。
「恐かったんだと思う」
「磯女が?」
「それもある。本物の妖怪だからな。言葉が通じない、猛獣以上に感じたのかもしれない」
「他には?」
「争いによる死の恐怖、自分が同じ妖怪だという認識への脅え……。それらが一気に頭を駆け巡って、それで混乱した――」
「なるほど。そんなところでしょうね」
椎葉は腕を組んで頷いた。
「今カラス天狗たちに捜索してもらってる。見つけ次第追うからね」
「でもさ、相手は水中だぞ。追撃なんて――」
「だから、これを用意したわ」
椎葉が胸を張って指したのは、トラック――じゃなくて、そこから下ろされている乗り物だ。
シルエットはボートだが、大きさは二メートルほどしかない。流線型のシルエットにハンドルだけの、水に関連した乗り物とくれば――。
「水上オートバイ!?」
「この機動力なら水棲妖怪も追跡可能!」
「本当か――?」
「あ、あたしを、信頼しなさいって、言ったでしょ……」
さっきのキレはない。
「なんで一台だけなんだ?」
川岸へと運ばれている車体以外、他に水上オートバイは見えない。
答えるまでも無く、追うのが隼だけだからだ。
「あたしが空からフォローするから」
「お前、飛べねえじゃねえか」
「さっき約束しただろ。あたしがフォローする代わりに、あんたは死んでも犯人を捕まえるって」
「そんなに割の悪い取引だったっけ?」
「いいから、さっさと乗れるようになっておいで!」
逆ギレされた――と、隼は閉口しながらも土手を滑っていった。
椎葉は隼に指摘された通り、空は飛べない。
だが手はある。
天城家が使役しているカラス天狗は、天城一族によって全て管理されている。
物理的にも、精神的にもである。
意識で通じ合えると言っていい。
つまり椎葉は、カラス天狗たちを通して情報を共有できるのだ。しかも一方通行ではなく、椎葉から指示も出せる。いわゆる神通力だ。
だから椎葉自身が飛べずとも、飛び回るカラス天狗から、空の情報は得られる。
知っていながらの指摘だったが、椎葉は真に受けてしまったらしい。
ばつが悪いまま、隼は川岸へと歩み寄った。
水上オートバイの側にいた男性が講師らしい。
スーツを着た、メガネの真面目そうな人で、水上スポーツをやっているようには見えない。
丁寧だが、事務的に説明を始めた。
本当は免許が必要らしいが、とりあえずこの場で教習、次いで仮免ということで済ませるらしい。
天城家お得意の『強引』だ。
「お嬢様に言われたから許可しますが、仮免は今限定です。もし、ここ以外で乗ったら、即刻訴えますからね」
穏やかな言い方だが、冷ややかな眼差しに、隼は何度も首肯した。
「ではレクチャーを開始します」
水上オートバイは立って乗るものと、座って乗るものがある。今回は立って乗る――スタンドアップタイプだ。
「こちらの方が扱いは難しいんですが、小回りが利きます」
「天城が決めたんですね」
男性は指でメガネを押し上げながら頷いた。
「それで正解だと思います。相手は人じゃないんで」
隼がそう言うと、何故か憮然とした表情で説明は続いた。
エンジンや出力の講義は、専門用語と単語だらけで頭に入らなかったが、要は水を吸引してプロペラを回し、その水を噴出する勢いで進むらしい。
操船方法も、アクセルのみでブレーキは無し。オートバイのブレーキに当たる部分がスロットルレバーで、ここで速度をコントロールするようだ。
「始動してから立ち上がるのに、バランスが必要ですが、乗ってしまえば、後は野となれ山となれです」
この短時間の説明ではそれしかないだろう。
隼は苦笑しながら言った。
「あなたが乗った方が効率的だと思うんですが」
「いえいえ、私では――」
「もしくはプロのチームで臨むとか」
隼には、にわかドライブテクニックで追えるほど、簡単ではないように思えてならない。それ故の提案だ。
男性はちら――と椎葉を見た。
隼もつられた。
椎葉は土手上で、調査チームの報告を受けている所だ。
自分より遙かに年上の男性たちに、気後れすることなく会話している。
「これは内緒ですよ」
「はい――?」
「実は私も、同じ提案をお嬢様にしたのです」
至極当然の流れだ。だが通らなかった。だからこそ、隼一人が追跡することになったのだ。
「どうしてダメだったんですか?」
お嬢様には秘密にしてくださいね――と、男性は同じことを念押ししてから続けた。
「何人用意できますか?」
と、椎葉は訊いたという。
「七、 八人です」
と答えると、椎葉は首を横に振った。
「それでは、袖篠一人の方がましです」
椎葉は言い切ったらしい。
「買いかぶりすぎだ」
隼は思わずそう漏らした。
「プロ二十人くらいでなければ、OKは出せないと――」
「何だよ、それ――」
「それだけ信頼されているのですよ」
男性はそう言ってめがねの鼻の部分を押し上げた。少しだけ見えた感情は嫉妬か――。
「私もできる限りサポートします」
「お願いします」
「お手並みを拝見させていただきますので」
めらっとした言い方に隼はたじろいだ。
椎葉が部下に慕われているというのは分かった。
しかし、それ故の嫉妬なんて、堪ったものではない。
隼から言わせてもらえれば、これは単なる過剰業務に過ぎないのだ。
隼はウェットスーツに着替え、ライフジャケットを着用しながら、椎葉との関係を改めて考えてみた。
日本の東側の妖怪を牛耳るのは、天狗の血を引く天城一族だ。
隼は一度だけ彼らに会ったことがある。
椎葉の祖父源三郎、父の松ノ心、叔父の鷹善だ。
源三郎は見た目が完全に天狗で、身長も三メートル近くあった。松ノ心は入り婿らしく、肩身が狭そうにしていた。影は薄いが優しそうな人だった。
問題は鷹善だ。次期頭領を狙っているらしく、油断していると利用だけされて捨てられかねない――そんな人だ。
一癖も二癖もありそうな一族とは、関わらない方が良い――それが隼の結論だ。
ところが、椎葉の強引な依頼を受ける形で、つきあいは継続している。
隼は、天城家とではなく、椎葉を信頼する形で妖怪と戦ってきた。
それは、これからだって変わらない気がする。
打たれた頬の痛みで再認識した。
だから一人で追う事が椎葉の意見なら、何か考えがあってのことかもしれない。
隼はそれを信用することにした。
「いた! よし、袖篠――死んでこい!」
本当に信用していいんだよな――?
一抹の不安を抱きながらも、隼は川へ降りると、水上オートバイへと走った。
「道案内は?」
「指示はこれでする」
椎葉がインカムを投げて寄越した。
隼が右耳にセットしていると、カラス天狗が飛んできて、左上方に滞空した。
「現場では彼女がサポートするから」
このカラス天狗はさっきの子とは違う。隼にもそれは分かる。
だが性別の区別がつかず、目が泳ぎつつも胸元へ――。
ぺたんこで分からないな――。
「早く行きなさい!」
イヤホンから椎葉の叱咤が響いた。
生声も同時だ。
「あ――はいはい」
水上オートバイの講師を含む、男性陣の冷たい視線が集まる。
隼は堰の向こうまで、水上オートバイを押していった。
浅瀬では給水口に小石などが入るため、ある程度の深さが必要なのだ。
「本流に乗ったら上流へ」
「了解」
堰の向こうの本流へ、水上バイクを浮かべる。
流れに揺れる姿が、追いかけたくてうずうずしているようで、頼もしく見えた。
テザーコードを手首に付ける。
キーに繋がっていて、落水した時にキーが外れて、水上オートバイが止まる仕組みだ。
エンジン始動。動き出すのを見計らって、膝をフロアに乗せる。スピードが出始めたところで、一気に立ち上がった。
教えられた通り、アクセルを引いて速度を上げていく。
流れに逆らって走り出した。
「今、上流へ向かっている」
「小戸吉橋へ」
「名前を言われたって分かるか」
「しょうがないなぁ。そこから三つ目の橋だ。急いで、カラス天狗が戦闘に入った」
隼は短く返事をするとアクセルを開いた。
水しぶきが川を割るように進む。
波の反動が直に伝わってきた。
後ろにいたカラス天狗が、隼を追い越して前に立つ。
道案内するということか――?
ちら――と彼女は振り向いた。
確かに目でそう言っているようだ。
「よし、分かった。頼む!」
カラス天狗は頷くと、羽を一仰ぎ、速度を上げた。
隼は限界速度で追随する。
二つの橋は並んでいた。
一つ目は道路橋だが、二つ目は鉄橋だ。電車が走っていく。
その二つ目を潜ると、急に川幅が広がった気がした。
土手上を歩く人の姿が豆粒ほどだ。
川は三百メートル以上先で、右へ曲がっている。
昼過ぎの陽光を受け、川面が流れの形で照り返した。
視界が滲み、岸向こうの団地も霞んで見える。
滑空するように先行するカラス天狗は、当然川なりに飛んでいく。
緩やかで大きなカーブを曲がった辺りで、更に速度を上げた。
アクセルは限界だ――さすがに追いつけない。
しかし彼女が速度を上げた理由は想像がついた。
カラス天狗に遅れること数十秒――カーブを曲がると、海かと思えるほどの川幅がまっすぐ続いていた。
おかげで遠くまで直視できる。
先導役のカラス天狗が点のように遠ざかっていく。
その延長線に三つ目の橋が見えた。
目を凝らすと、その橋の下で水しぶきがある。
鳥が魚を捕ろうとしているようにも見えるが、スケール感からいって、もっと大きい。
ならば、その正体は一つ――。
「天城、見つけたぞ!」
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