7章
遠果川は御高峯山から海へ達する本流だ。
つまり磯女はこの川を遡上してきたのだろう。
しかし、身を潜めるとなると、本流ではなく支流だろうな――と隼は睨んでいた。
「どうしてですの?」
「全く噂を聞かないからさ」
本流は国道と併走し、川幅が広いから橋も大きく、幾つも架かっている。更には高速道路が川を見下ろす位置に通っている。
日曜の昼なら、水上オートバイや水上スキーを楽しむ人もいるくらいだ。当然釣り人もいる。少しでも変な波紋を作れば、話題になっているだろう。
「報道規制とか?」
「それもないよ」
こういった情報は、まず天城家に集まる。
知っているのなら、河原の事件と既に結びつけているはずだ。
だから隼は支流へと向かっていた。
更に、一番人目に付きにくい観点から、数多い支流から絞り込んだ。
波美と別れた後、大通りでタクシーを拾うと、支流の分岐点まで自動車で向かった。
領収書をもらってから、タクシーを降りる。
「サラリーマンみたいですわね」
媛香が笑った。
しばらく不機嫌だったが、タクシーの中で回復したようだ。
「天城家に請求しないと、自腹なんかじゃやってられないよ」
隼は正直に言った。
「家計にうるさいヒーロー、ただいま参上――ですわね」
「おれはただの高校生だって」
支流に沿う小道を、隼が先頭で歩んでいく。
分岐点から水量が調整されているようだ。
段差があるから、本流からは多く流れ込んでこないのだ。
そのせいで、流れが弱くて、濁りも強い。
ぴりりと産毛を摘まれるような刺激は、単なる先入観ではない。
この辺りの空気が持つ緊張感だ。潜んでいるものの呼吸がもたらす、異世界の変容した気配なのだ。
妖怪との戦いをくぐり抜けてきた経験か、それとも妖怪の血による天賦の才なのか。隼には分からないが、ここに犯人がいるのを確信した。
隼は足を止めて、媛香を振り向いた。
媛香は玉のような汗を、額に幾つも浮かべていた。
表情に怯えが見えないから、意識下で感じ取っているのかもしれない。
「千濡さんはここで待ってて」
「どうしてですの?」
いる――という確信は、言葉で伝えるには弱かった。
「もしおれに何かあった時に、逃げて欲しいんだ」
「それは――」
「天城に知らせてくれれば、助かる確率が高くなるからね」
戦力にはならないと自覚のある人が、首肯せざるを得ない言い方を、隼はした。
多少狡いとは思ったが、媛香を危険な目に遭わせるわけにもいかない。
媛香が頷くのを確認すると、隼は再び歩き始めた。
気のせいか、足下の草も枯れ気味な音を立てる。
背後の川向こうにはビルが並ぶ、近代的な景色が色付いている。
しかし向かっている正面は、今は稼動していない工場が鎮座し、セピアの情景に沈んでいた。
鉄柵が道奥で行く手を遮っている。
そこで道は終わりだ。
川も鉄格子から、地下水路に流れ込んでいっている。
この先には化学工業の工場跡地がある。人気のない場所を求める輩に荒らされているが、入り口は別にあり、ここから入ろうとする物好きはいないと、聞いている。
昼間なら人通りは皆無の支流――条件にはぴったりくる。
ある程度の川幅と深さ。流れは緩く、水は濁っているから中まで見通せない。
磯女はここにいる――。
水泡、波紋、わずかな変化も見逃さないように支流の外れまで歩いたが、何も収穫はなかった。
振り向いた隼は、黒点が近付いてくるのを見た。
黒い翼を羽ばたかせながら、ゆっくりと媛香の方へ向かってくる。
「思った以上に早かったな」
隼は悔しさを隠さずに呟いた。
天城家に仕えるカラス天狗だ。
これだけの早さは、この展開を椎葉が読んでいたか、元々警戒されていたか――。
どちらにしろ、信用がないのは分かった。
ま、なくて当然か――隼は自分の行動を鑑みて思った。
歩いた距離を半分戻るまでに、媛香もカラス天狗の接近に気付いた。
羽音を響かせてカラス天狗が舞い降りてきた。
心なしか怒って見える。
隣へ並ばれて、媛香が困惑の表情を隼へ向けた。
その微妙な反応がおかしくて、笑い事ではないと思いつつ、隼は苦笑いを浮かべた。
媛香が耐えきれなくなったようで、隼の方へ一歩、二歩と足を踏み出した。
その時――水飛沫が視界を覆った。
右手の川から、爆発的な勢いで水が扇状に飛んできた。
何が起こったのか――隼は考えつつ、しかし身体も前に出ていた。
宙に舞う水の中へ突入した。
唐突な出来事に硬直している影――媛香を掴み、引き寄せつつ倒れ込む。
彼女が立っていた辺りに、別の影が水を伴いながら迫った。
太く長い影――磯女だ。
その蛇型をした下半身である。
水をまき散らして通り過ぎる尻尾に、小さな影――カラス天狗が巻き付かれているのが見えた。
隼は尻尾に立ちはだかると、左の脇で抱えるように受け止めた。
衝撃が激しく脇腹を打った。
腕を離しそうになるが、逆にしがみつくように力を込めた。
描く弧の円周に引きずられ、土手を滑り落ちる。
動きを止めるため、体勢低く、地面へと足を押しつけた。
「おれはパワー系のキャラじゃないっつうの!」
まとわりつくような飛沫の中で、隼は怒鳴った。
その勢いを利用して体を反らした。
ぐん――と最後の抵抗を耐え、尻尾の動きは止まった。
磯女の下半身が水から三メートルほど露出している。隼が掴んでいるのは、尻尾のほぼ末端だ。カラス天狗はその中間ほどで絡め取られていた。
置いていかれたように、水が足下の地面へ落ちて濡らした。
カラス天狗が瞑っていた目を開け、状況を確認するように瞳を動かした。
「まだ落ちてないよ」
とはいえ、水へ引きずり込まれる寸前なのは確かだ。
隼は右腕を柔らかく動かし、気を掌に集中させた。
尻尾が隼から逃れようと、左右へうねりだした。
硬い鱗へ、隼は右掌を叩きつけた。
人間には効果の薄い攻撃だが、妖怪にはよく効くらしい。
掌から発せられた気は、鱗を波打って、円心上へ拡散した。
尻尾の力が緩んだ。カラス天狗の周囲に隙間ができた。
今だ――そう思った時には、隼の身体は半回転していた。泥状になった土手へ、背中から叩きつけられていた。
暴れた尻尾に振り払われたらしい。
足下にカラス天狗も転がっている。
頭を振りながら、起き上がる所だ。
当の尻尾は川の中だ。
大きな波紋が、護岸のコンクリートで水を跳ね返している。
「大丈夫? ここから離れましょう」
隼はカラス天狗に言った。
羽根が濡れていて、まだ飛べそうにないから、手を貸して土手を登る。
「隼くん、後ろ!」
悲鳴のような媛香の声が、土手上から降ってきた。
振り向くと、川から女性の上半身がゆっくりと姿を現した。
目の部分まで隠れた長髪だ。
耳が鰭の形なのが水棲生物っぽい。
ゆらゆらと藻だらけの身体を揺らしている。
へそ辺りから、ごつごつした鱗を持つ下半身に変わっている。
「千濡さんをお願いします」
隼はカラス天狗を土手上へ押しやった。
水気を含んだ足音が、素直に駆け上がっていく。
「隼くんはどうするの?」
「いいから、ここから離れて」
何か言いかけた声が少し遠ざかった。
カラス天狗に引っ張られたのだろう。
周囲は耳で把握し、目は磯女の上半身から外さない。
ただ右に左に、ゆっくりと揺れているだけだ。
何の意味があるんだ――隼は呼吸を整えながら、漠然と思った。
その動きに意味があるとすれば、誘いか、囮だ。
狙いは千濡さんたちか――隼の視線が一瞬横へ逸れた。
わずか一秒に満たない刹那に、言葉が浮かぶ。
疑似餌――。
視界の端で水上へ飛び上がる長い影。
閃きに身体が反応していた。
隼の両手がゆらりと持ち上がる。
一呼吸の間で、隼と磯女が交差した。
僅かに隼の方が速い。掌を突き出した。
硬い鱗を持つ重い身体が両手へのしかかる。
地面へ踏み込んで耐えた。
両掌が、丸太のような巨体を静止させた。
視線の下の方に、パックリと割れた顎が牙をむいている。
よく見ると、口の横――つまり下半身の脇に目らしきものもある。
側面で出っ張った球体に、濁った黒目と白目がある。
なるほど、こっちが本当の顔か――。
先端についている女性の姿はまさしく疑似餌だ。
溺れているように見せ、近付いた人を喰らっているのだ。
隼の掌から波紋のように、同心円が硬い鱗を波打せた。
目がぐりんと裏返り、顎を限界まで開いて弓反った。
声無き悲鳴を上げながら、磯女は水へ逃れようとした。
逃がすか――まだ見える長い身体を隼は追いかけた。
川の縁ギリギリまで行った所で、水飛沫を伴った影が迫った。
尻尾だと認識した時には、宙へ飛び跳ねていた。
視界を覆う飛沫の中で、質量を増した影へ足を突き出した。
鞭のような磯女の尻尾へ、着地するイメージだ――が、パワーは想像を超えていた。
体重差もあり過ぎた。
昨晩戦って、分かっていたことなのに――。
隼は弾き飛ばされた。軽く放り投げたボールを打つようなものだ。
打球は土手へ叩きつけられた。
意識が飛んだ。
このまま気を失う誘惑に負ける寸前であった。
激しく暴れる水音が気になった。
すぐに磯女が浮かぶ。
まだ倒していない。
戦いは終わってないんだ――隼の意識がその現状を引き出すと、暴れる水音は争いによるものだと気付く。
ぼんやりだが、視界が戻った。
隼が倒れている位置からでは、土手の縁しか見えない。
激しい水音を裏切らない飛沫が、川から躍り出ていた。
未だ鈍い思考は、カラス天狗だと想定したが、空中に浮かぶ黒い影に否定された。
隼は飛び起きた。
そうなると残るのは、媛香しかいない。
背中に走る鈍痛を無視し、隼は川へ駆け寄った。
「千濡さん!」
大蛇のような妖怪が二体、絡み合っている。川面に揺れる数状の紅い帯は血だ。
どちらのものか、なんて考えるまでもなかった。
媛香のものだ。
身体の大きさが劣っているだけではない。
磯女の鱗の硬さや牙は、他を攻撃することを目的としている。
それに対し、濡女は姿だけが妖怪なだけで、攻撃法といえば水弾を放つことくらいだ。
同じ水棲妖怪ではあっても、同じではないのだ。
このままじゃ――隼は周りを見回した。
援護する方法を探す。
時折水飛沫に混じる紅い色が思考を乱した。
それでも手を必死で考える。
磯女を引き剥がす。できるなら水から引き上げて、地面で決着をつけたい所だが、贅沢は言っていられない。
振り向くと、本流と支流を分ける堰があった。
使えるかどうかを考えるより先に、その水門に駆け寄っていた。
支流へ流れ込む水量を調整するものだ。
完全には閉ざせないようだが、全ての弁は連動している。
一箇所を固定すれば弁は止まる。
隼は側にあった楕円形の石を抱えて川へ入った。
弁を閉ざす位置に石を置いた。
流れを止められた川水が、息を止めたように引いていく。
隼は支流を振り向いた。
見る見る水が減っている。
千濡さんを助けなきゃ――と、隼はそのまま支流を進んだ。
まだ膝下ほどまで水がある。
絡み合う媛香と磯女まで、水の抵抗をかき分けながら駆け寄った。
磯女の飛び出た方の目が、ぐりんと隼を認識した。
隼は腕だけで拳法の型を取りながら進む。
天の型、地の型、民の型――。
磯女が迎え討とうと、姿勢を入れ替えた所で、やっと水位の異変に気付いたようだ。
「弱いものいじめをしてるからだ!」
磯女は逃げようとしたが、身体を覆うほどの水量が無く、動きが止まった。
もう水位は足首を埋めるくらいだ。
「千濡さん、離れて!」
媛香は妖怪体を解除して、半人半妖怪の姿になった。
このくらい水が少なければ、脚の方が移動しやすい。
対照的に身動きがとれず、のたうつ磯女との距離を詰める。
傷だらけの痛々しい媛香とすれ違う。
磯女が尻尾を振り上げ、真上から落としてきた。鞭のようにしなってはいるが、水の中でこそ支えられていた体重だ。攻撃にスピードが伴っていない。
ほとんど水の無くなった川底を、隼は尻尾をかいくぐった。
磯女の長い身体の横を走る。
驚愕に見開いた目が、隼の接近を出迎えた。
磯女は身をよじったが、もう遅かった。
頭部とおぼしき部分に右、左、もう一度右――三連撃がヒットした。
僅かな水をまき散らしながら磯女が河床を転がった。
硬い鱗と気の練りが甘かったせいで、致命傷を与えられてはいない。
元々殺すつもりはない。
動けなくするだけでいいのだ。後は椎葉に引き継げば良い。
隼はふう――と息を継ぎつつ、媛香を振り向いた。
すぐ近くで待っているものと思っていた。ところが、どんどんと遠ざかっている。
媛香は妖怪体に戻っていた。
なぜか堰へ向かっている。
隼は媛香の名を呼んだ。
その声は届かなかった――。
恐怖のせいで錯乱しているのだ。
磯女との戦いに、命を失う危険性を感じたに違いない。
隼は追いかけたが、媛香はイルカのように跳ね上がって、堰を越えた。
その時に尻尾が、支えの石を叩いてしまった。
やばい――!
弁が開き、ストレスを発散するように水が支流へ溢れてきた。
たちまち隼の足が水に浸かった。
隼は磯女を振り向いた。
流れ込んできた川水で潤されるように、徐々に身体を持ち上げている。
もう深さは膝丈ほどに達している。
隼は水流に耐えながら演舞をこなす。
天と民の型だけだ。
一撃で倒すためには短縮形ではダメなのだ。そして、地の型は足で地面を打つ必要がある。水の中では効果は薄くなる。だから、天と民だけにした。
右へ左へゆっくりと、大気中の気をかき集める。
逃がしたらだめだ――。
隼は両の掌を、正面へ向けて突き出した。
もう川水は元の水位に戻っている。
磯女は先端の疑似餌の部分しか露出していない。
川下への流れが、磯女の所で水を白く弾いて分かれていた。
ゆらりゆらり疑似餌が揺れる。
隼の耳に入ってくる音たち。川の音。自動車のエンジン音とクラクション。遠い小学校の子供の声。それらを分け入ってくる水音。
ごおお――と血液のように流れる、川水に混じるノイズ。
人の世に逆らうような動きに伴う、僅かな音へ集中する。
それは川中で磯女が、長い身体をうねらせている音だ。
大きくなった――隼がそう聞き取った時、磯女が水へ潜った。
逆流にもかかわらず速かった。
しかし隼も集中力を切らしていない。
耳はその音を捉え、気配に変換し、距離として把握していた。
隼は片膝を付き、姿勢を下げていく。全身が水へ浸かり、顔だけを水面へ残す。すうっと掌を前に向けて、両手を突き出した。
水中で気を打ちつけるなんて、試したことはない。
だが、溜めて練った気は身体そのものだと、隼は思っている。
水に拡散して消えるはずがない。
タイミングを計り、呼気を止めて水中へ。
ふん――と掌を打ち出す。
両手が何かを捉えた――が、手応えは軽かった。
水泡の向こうで、水が赤黒く濁る。両手の先には確かに影があるにもかかわらず、横を通り過ぎる気配がある。
視線を動かすと、赤黒い帯はその先端から出ている。
磯女が疑似餌を切り離した――隼がそう思い至った瞬間、疑似餌が隼の肩を掴んだ。
飾りと思っていたものが動く――それに気を取られた。
その一呼吸にも満たない間に、正面から更なる影が迫った。
それが尻尾だと気付くより先に、隼は迎え撃つ選択肢を取った。
肩を掴む疑似餌へ二度目の掌打ち、そのまま疑似餌を、迫る尻尾へ突き出した。
ごうん――と衝撃が腕に響く。
疑似餌が間に挟まれたのだ。
骨が砕ける音が掌を通して伝わる。
隼は顔をしかめながらも、足を前後に広く開いて、振り切られないように耐えた。
パワーでは磯女に分がある。
だが、水流の助けもあり、膠着状態に出来た。
止めていられれば、次手も考えられる――隼はそう思った。
ところが――。
「お願い、助けて――」
声は水の振動を通して聞こえた。
正面、隼の両手の前から発せられたように感じた。
疑似餌は飾りじゃないのか――。
生きているとなると、話は別だ。
迷いが均衡を崩す。
隼は尻尾に振り切られ、河床へ倒れた。
水流に巻き込まれたが、身体を反転させて、立ち上がった。
水面から顔を出した時、磯女の尻尾が堰を越えていくのが見えた。
本流へと入っていってしまったのだ。
「逃げられた――」
流れが穏やかになってきた支川で、隼は崩れ落ちた。
助けるべき媛香も、捕まえるべき磯女も離れて行ってしまった。
隼は無力感を抱きつつ、それでも立ち上がった。
追わなければ――その使命感のみが、隼の気力の源であった。
振り向くと、磯女の先端部分だけが川岸に引っかかって、力無く支流に揺れていた。
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