第2話
それから僕は空きコマを一人図書館で本を読んで過ごし、売店でミネラルウォーターと肉まんを買って食べ、英語の授業を受けた。三つあるコースのうちの一番下のコースを受講しているが、学年と英語力が反比例しているのを最近感じている。それに加え、金曜日にあるもう一つの英語の授業は生徒の間違いを鼻で笑う感じの悪い講師が担当だった。そいつが誰かの間違いを鼻で笑う度にどんな呪いをかけてやろうかと頭を悩ませたものだが、すでに誰かから呪われているんじゃないかと思わせるほど頭が豆電球みたいに輝いていたので、それについて考えるのはやめることにした。そんな感じで僕にとって英語は大学生活の苦痛のうちの一つになってしまっている。
僕は電車とバスを使ってそのままバイト先へと向かった。気づいたら外は暗くなっていたが蒸し暑さは相変わらず身体じゅう纏わりついてきた。まだ少し時間があったのでコンビニで缶ビールを一本買い、十分ほど飲みながら歩くとちょうどよくバイト先の個人塾についた。
そこは地元の中学生が通う小さなビルの二階にある小さな塾だった。そこは二十五帖程度の広さで、受付と十一個のブースと僕の身長以上ある床置きの業務用エアコンで完結していた。その中に講師と生徒三十人以上が詰め込まれていた。
僕はそこで二年間働いているが今まで担当した生徒はたった二人だけだった。そのうちの一人には三か月前に担当を変えられてしまった。室長から担当替えを告げられた時はショックで顔が引きつったのをよく覚えている。深いため息の混じった笑顔がこぼれ、社会から戦力外通告を通達されたような気分になり一刻も早くその場を去って一人になりたかった。辞める選択肢もあったがその時は辞める勇気も気力もなかった。しかしすぐに新しい生徒の担当を回され、僕はそれに従うほかなかった。僕は考えることをやめていた。
僕は六十分間中学三年生の男の子に数学を教える。とてもいい子だ。前の子に比べて愛想がいいので僕もリラックスして教えることができている。時々自分の世界に入ってしまって説明を繰り返さなければいけなくなることや、課題に出した宿題をやってこないことが多いことを除けば、優秀で弟のようにかわいがれる子だった。そのおかげでバイトも幾分か居心地のいい場所になった。
授業が終わると僕たちは少しの間お喋りをする。学校のこと、アニメやゲームのこと、勉強のこと、何でもよかった。僕が授業の後始末をしている間、彼が好きなことを話して僕が相槌を打った。いくつかの短い質問に答え、いくつかの話に共感をした。それは夏の山奥に流れる川のように目を覚まさせる刺激と穏やかさと少しの恐怖をもたらした。そこで僕は自分が過去の時代の人間になりつつあるのを感じた。それは時代において行かれることによるものではなく、底の見えないそれに無抵抗に流され続けているようなものだった。水が口の中に入り込み肺や胃や心臓までも侵食してくるのを感じながら自分が流れに乗れない人間であることを実感するのだ。
窓際で話していた男女五人の生徒の笑い声がポッポコーンのように心地よく連鎖した。生徒たちの多くはまだ教室に残っていて各々の不規則な動きがより教室を窮屈に感じさせた。彼は僕に何か言って笑いかけたがうまく聞こえなかった。僕は曖昧な返事をして彼と別れ、その日の仕事を終わらせた。すでに時刻は九時を回ってた。
外は昼間の名残を残し、僕の足取りを重くさせた。塾から家までは十五分ほどかかりその中間地点にバイトの前に寄ったコンビニがあった。毎回バイトが終わったあと晩飯を買って帰るのが習慣づいている。店内には年齢も性別もばらばらの十人ほどの客と二人の若い店員がそれぞれの役割に沿って存在していた。
レジの前を通り抜け酒類コーナーへと向かったが、薄くストライプに模様が入っている半袖シャツを着た男がビールを吟味していたので先にカップ麺を選ぶことにした。カップ焼きそば二つと豚骨ラーメンを悩んだ末に手に取ると男はすでに会計を済ませていたので再び酒類コーナーへと向かった。そこには数えきれないほどの種類の缶ビールが八つの層に分けられていて、上から三つ目の層にある缶からは輝く自分の目が見えた。その輝きに思わず見とれてしまっていたが、背後に人の気配を感じたので適当に選んだビールをカゴに放り入れ、足早にレジへと歩を進めた。
自動ドアが開くとなだれ込むように生暖かい空気が僕の脇や股の間まで満遍なく包み込んできた。空にはまばらに雲が漂っていて月が少し隠れていた。しばらくぼおっとそれを眺めていると月の面積はどんどん減っていつしかチェシャ猫のような表情をしていた。月は本当に雲に隠れているのだろうか。あの雲の裏側にきっと月はあるのだろう。それならば月が雲に隠れているのか、雲が月を隠しているのか、いや、考えるのはよそう。それとも今日は半月だっただろうか。覚えていない。ああ、もうそんなに隠れてしまって。もしかしたら雲の裏側で月の半分は粉々になってしまっているかもしれない。ばかげている。実にばかげている。しかし、今の僕にとって月の半分は存在していないも同然である。僕は今すぐに月の安否を知りたかった。
冬眠の誘惑 森岡 亮 @morioka_ryo
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