冬眠の誘惑

森岡 亮

第1話

 六月二十一日



 僕には霊感がある。十歳位のときだろうか、子供のころはよくそんな気がしていた。実際、空を波打つように飛ぶUFOを見たことがあった気がするし、女の人の首吊り騒動があった近所の森では、誰もいない公衆電話の扉が勝手に開閉したりする現場を目撃したことがあったと思う。もう昔のことなのであまり記憶は鮮明ではないが、当時は自分が特別な人間な気がして、不思議な体験に対する怖さよりも優越感が勝っていた。UMAや幽霊の本を買って自分と同じ人間の話に親近感を感じ、同胞の神聖な体験に夢中になっていた。

 

 急ブレーキで身体が左側に倒れそうになるのを、右手で必死で耐えた。隣の若い女の人の茶色で化学的な甘ったるい匂いのする髪の毛が僕の右頬を掠めて、もとの場所へ帰っていく。 

 

 ところが、いつからだろう――霊感を認識し始めた時か、小学校六年生の時、小便中彫刻刀を失くしたことに気づいた時か、はたまた生まれてくる前か、思い返す度にいつも異なる結果にたどり着くが、確かなことは今ではもうどうでもよくなっていた。――友達はどんどん減って、いつの間にか学校で口を開くことは授業中先生に当てられたときか、給食の時間だけになっていた。


 後悔しているといえばあの頃の自分を否定してしまうことになるので言わないが、今の僕はこの頃を基盤としているのは確かだろう。



 『チャージしてください』


 運転席の真横に設置された機械が、赤いランプとともに声を発した。イヤホンをしていたせいで反応するのに少し時間がかかり、右足の半分はすでにバスの外に出ていた。


 「え、」後ろにいる黒いスーツを着た女の人から声が漏れるのを僕は聞き逃さなかった。


 雨の日の通勤・通学の時間帯なので通常より道が混み、バスは予定より三十分以上遅れていた。車内は湿気と人々の焦りで酷い空気をしていて、曇った眼鏡をTシャツで拭う度に吐き気がした。


 音楽が流れたままのイヤホンを両方とも左ポケットに入れる。そのまま左手は右肩にかかっているトートバックへと向かって行き、財布を探す。一つ動作を終えるごとに誰かが咳をする。僕にはそれだけで十分だった。


                  1 


 先に食堂行ってるよ、授業中時刻を確認するためにスマホの画面を付けたちょうどその時、文字がふわりと音もなく浮かび上がった。十二時十分、授業はまだ二十分残っている。奇数クラスはたしかフランス語Ⅲの授業だったか。僕はスマホを伏せ視線をあげた。前で話をしている講師と目が合ったが、講師はすぐ手元の教材に目を落とし、説明を続けた。四十代とみられるその女講師は、空気中に舞う目に見えないなにかの機嫌を損ねぬように、十分な落ち着きと弱々しさをもって声を発し、集中とも無関心ともとれる様子で仕事をこなした。


 授業が終わったのは十二時二十八分だった。僕は急いで、すでに行列を成している食堂の一階にある定食コーナーへと向かった。二階には麺・丼コーナーがあるが定食コーナーより何倍もの人が並んでいた。食堂は日替わりメニューを提供していて、今日、水曜日はチャーシュー入りの豚骨ラーメンと決まっていた。


 三ツ橋と中峰は二階の奥にある窓際の四人掛けテーブルに向かい合って座っていた。昼食を食べる水曜と金曜は決まってこの席だった。


 「おはよー」

 二人は会話を中断させ、目線を僕へと向けた。


 「お、今村」中峰は言った。


 「やっと来た」三ツ橋は言った。ほとんど同時だった。


 テーブルには二つの豚骨ラーメンが並んでいた。


 中峰の隣に座ると、クセのある濃厚なにおいが僕の鼻から口へとまとわりつくように侵食してきて、いくらか心地悪かった。目の前にある焼きホッケ定食は何の味もしなかった。


 「そういえば、土井からライン来た?」これまで二人の話に適当に相槌を打っているだけだった僕に突然中峰は訊いてきた。


 「あー、あのイベント勧誘のやつでしょ」僕はホッケの骨を取り出す手を止めて言った。「あいつ知り合いに片っ端から連絡してるらしいけど二人は行くの?」


 土井は僕らと同じ二年生で、法学部に所属していて頭からつま先まである奇抜なアクセサリーが目立つ男だ。三ツ橋と同じ非公認のダンスサークルに入っているため、三ツ橋に連れられ何回か酒の席で一緒になることがあった。最近は音楽系のイベントサークルで幹部をやり始めたらしく、その集客に精を出しているという。


 「俺たちは行かない」何拍か間をおいて三ツ橋は言った。


 「じゃあ僕もいいかな」


 「いや、今村は行ってみたら?」コップに注がれた水を飲みながら三ツ橋は言った。「おれが土井には言っといてあげるよ」


 「いいよ、クラブみたいのは性に合わないし、二人が行かないんだったら行く必要ないよ」


 「行ってきなよ、一人で。行って鍛えてきなよ」と三ツ橋は言った。


 「何を?」


 「静かな性格」中峰はずっとこの質問を待っていたかのように短く鋭く答えた。


 「違うよね、今村は変わってるだけだよね」と三ツ橋は笑った。「今日だって豚骨ラーメンがある日にホッケ定食はないだろ」


 「まあ今村っぽいから俺たちはいいと思うよ」中峰はテーブルにうつ伏せにして置いてあったスマホを手にとりながら言った。


 数分の間僕たちは独りぼっちだった。食堂の喧騒の中に確かに存在する、ホッケの骨を取る音、豚骨ラーメンのスープをすする音、スマホの画面を爪ではじく音だけが僕たちを繋ぎ留めていた。


 「あ、そういえば三ツ橋が出会い系アプリでネパール人と遊んできた話したっけ」中峰が自分のスマホ画面に映る出会い系アプリのアイコンを指さして言った。


 「まだ聞いてない」僕は言った。「なに、ネパール人?」


 僕は取り損ねたホッケの骨が喉を突き刺すのを感じた。

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