第5話 重力
アパートの扉を開くと灯りが付いていた。
あの女、電気も消さずに帰ったのか。
手を使わずに靴を脱ぎ捨て、明かりをつけずに暗い廊下を抜ける。
「あ、お帰り」
「…」
当たり前のように、昨日の女が挨拶をしてきた。
何でまだこの女が家に居るんだ。
僕は家を出る前にメモを残していた。
それは女が目覚めた後、直ぐにここから出ていく想定だったからだ。
なのに、女はベッドに仰向けに横たわり、リラックスした様子でタブレットを眺めている。
僕が帰ってきたのに動く気配もない。
「ここ、僕の家なんですけど」
「そうだよ」
「帰らないんですか?」
「どこに?」
女と今日初めて目が合う。
その表情はとても切なく見えた。
女に返す言葉が探し出せない。
こういう時、本当に僕の頭は役に立たない。
何も言わないでいると、女が口を開いた。
「分かってるくせに、篤志さんて意地悪な人?」
「どうだろう…そうかも」
昔から人の感情を読み取る事が苦手だった。
そのせいか、周りの人間が出す空気を濁らせてしまう。
意地悪かどうかは分からないが、様々な角度から見た僕は女の言うような人間なのかもしれない。
正解の無い問はいつも僕を困らせる。
「そんな真面目に答えなくて良いのに。もっと適当に流しなよ」
「苦手なんだ、こういうの」
タブレットから手を離した女が体を起こす。
そして、そのまま近付いて来る。
「さっきの嘘。篤志さんは優しい」
肩に回された腕と少し掠れた声が僕を撹乱させる。
仕事で疲れた体には他人と衝突する体力は残っていなかった。
ここで、無理やりこの女を家から追い出すメリットも見つからない。
何かを拒むより、受け入れる事の方が楽だ。
絡まった腕の重さを感じながら愛の所在を探す。
「そう言えば、君の名前なんだっけ?」
「よく最低って言われない?」
「ごめん、思い出そうとしてたんだけど無理だった」
「久遠皐月。死ぬまで忘れないでね」
どこまで本気なのか分からない口振りに、曖昧に頷いた。
「久遠皐月」
結局、今日まで忘れることの無かったその名前を呟く。
あの日と同じベッドの中に今は一人で居る。
彼女は今どうしているのだろう。
曖昧なまま終わった関係を繋ぐものは何も残っていなかった。
3ヶ月ほど続いた同棲生活は彼女の失踪であっさりと幕を閉じた。特に大きな喧嘩をしたとかではない。
家に帰ると彼女の荷物は無くなっていて、最初から彼女は存在しなかったのでは無いかと思う程、自然に消えていた。
最初こそ、彼女の居ない生活に違和感を感じたが、1週間も経てば僕は元の生活に戻っていた。
結局、それくらいの関係だったのだ。
そう思う反面、時折彼女の事を思い出してしまう自分がいた。
一度知ってしまったら、消し去ることは出来ない何かが僕の中に生まれていたのかもしれない。
感情と関係が比例しない事を、久遠皐月と出逢って初めて知った。
「何してんだろ」
彼女の今を知りたいと思い、何度かインターネットで検索をしたことがある。
毎回、成果は何も得られなかった。
6年も経っている。結婚して姓が変わっているかもしれない。それなら探し出すのは困難だろう。
仕方ない、どこかで元気でいてくれたらそれでいい。
今までの僕ならここで諦めていた。
でも、今の僕は違う。
あと7日で僕はぼくを終わらせる。
そうしたら久遠皐月の名前も全て思い出せ無くなる。
全てどうでも良いと思っていたのに、いざ制限が付くと欲が出てくるみたいだ。
彼女の名前を検索するがやはり見つからない。
八方塞がりだった。
ここで諦めるのか?
そうやって、いつもみたいに記憶に残らない一日を過ごすのか?
もう僕には失うものはないじゃないか。
恥もプライドも捨ててしまえ。
そんなもの無価値だ。
いけ、いけ、いけ、いけ。
携帯を取り出し、震える指でメッセージを送った。
相手は松木康平、高校の同級生だ。
クラスが3年間同じでそこそこ仲は良かったが、卒業後は一度も会っていない。
彼は昔、インターネットに強かった。
SNSで自分を誹謗中傷した相手を特定して問題になった事があった。
どうやって特定したのか彼に聞いたら、専門用語が並べられて、僕がもういいと言ったのを覚えている。
そんな事を思い出していると携帯が震えた。
-久しぶり。突然で悪いんだけど、探して欲しい人がいるんだ。手伝って貰えないかな?
-久しぶりだな。お前から連絡来て驚いた。
名前、性別、生年月日、前住んでた住所とか、出身地、相手の知り合い、分かること全部教えて。
-ありがとう。名前は久遠皐月で女…
そこまで書いて指が止まる。
彼女の事をこれ以上何も知らない。
年齢も誕生日も出身地も何も知らない。
それに名前だって、今考えれば偽名の可能性だってある。
僕は彼女の何を見ていたのだろう。
-ここまで情報が少ないと、探し出すのは難しい。出来るだけやってみるけど期待しないでくれ。
-無茶なお願いをしてごめん。協力してくれて本当にありがとう。
-お前から頼られて嬉しい。今度飯でも行こう。
液晶画面に映し出された言葉は、僕の心を簡単に掬い上げた。
人の優しさに触れた心は、枯れた草が色付いていく過程を思わせる。
少しずつ進む今日と、終わりに進む今。
こんなクズで、生産性の無いごみにも優しくしてくれる人がいる。
浮遊した心は脳の制御を抜けて心地いい。
でも、その浮いた気持ちは直ぐに重力に負けてしまう。
あぁ駄目だ。
「上手く生きられなくてごめんなさい」
仕事を辞める前、真夜中に何度も呟いていた言葉が溢れ出した。
隕石落下まであと7日
つづく
僕は隕石で死にたい 香月 詠凪 @SORA111
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