第4話 他人事


 窓から漏れる光で目を覚ました。


 暖房で乾燥した部屋には二人分の湿度だけが救いだった。


 昨日会ったばかりの女が隣ですやすやと眠っている。

 時計を確認すると、普段の起床時間よりも20分ほど遅れていた。


 アラームをかけ忘れていた事に今気づく。


 ベッドを刺激しないように布団を出た。


 そのまま昨晩入り損ねた風呂に急いで入る。

 欧米式のシャワールームはトイレと浴槽が同じ空間に存在する。

 浴槽の中に入り防水のカーテンを引いた。

 硬くなった蛇口を捻ると冷水が脚に掛かった。

 冬のシャワーは温まるのが遅く、あまり好きではない。


 軽くシャワーを浴びて風呂を出た。

 髪を乾かしながら歯を磨く。


 鏡に映った自分を見てひどい顔だなと思う。

 目の下には黒く燻んだクマが目立つ。

 髭を剃るために肌を触ると潤いが無くかさついていた。


 22歳の肌とは到底思えない。

 次の給料が出たら良い洗顔料でも買ってみるか、それで解決するかは謎だが。


 くだらない事を考えながら支度していると、既に家を出なければ不味い時間になっていた。


 髪を整え、ジャケットを羽織る。

 鞄に手をかけた所で人の気配を感じた。


 そういえばと思い出す。


 ベッドを見ると女はまだ眠っていた。

 生死を感じさせない呼吸が何処か不気味に思える。

 相当疲れていたのだろうか、これだけの生活音を出しても起きる様子は無い。


 無理やり起こすのも気が引けたのでメモを残しておく事にした。

 毛布からはみ出た肩に奪われた目を逸らし、毛布を掛け直す。


 この女と会うのはこれで最後かもしれない。

 メモの上に合鍵を載せ、ベッドの脇に置いた鞄を持ち玄関へ向かった。


 昨晩の非日常な出来事を思い出し、不思議な気持ちになる。

 気がついたら夜が明けて現実に戻っていた。


「こんな事、本当にあるんだな」


 こういう事は自分には縁遠いと思っていた。

 でも、そんな事は無かった。


 どんな出来事だって、実際に起こるのだとしたら誰にだって可能性はある。

 ただ、それが自分に起こるなんて大抵の人間は想像すらしないだろうけれど。


「行ってきます」


 普段なら言わない台詞を言ってみる。

 勿論返事はない。

 でも、何だか何時もより気分が良い。


 自分の足にピッタリと合った靴を履き、家を出た。





 記憶にも残らないような仕事を終えて帰路に着く。


 新人の僕に回ってくる仕事は、誰の役に立っているのか見えにくい。

 こんな仕事必要か?と、疑問を持つような雑用が多く何だかなと思う。

 子供の頃に想像していた大人像とは随分とかけ離れていた。

 それでも仕事を辞めないのは生活があるからで。


 星の見えない夜空の下を一人歩く。

 街灯の少ない道路は月明かりだけが頼りだった。


 昔、旅行で行った長野県の星空を思い出す。

 長野の夜空はどこまでも澄んでいて美しかった。


 いつまでも見続けていたい、そう思わせる何かがあそこにはあった。

 同じ国なのに、こんなにも見える景色は違っていた。


 毎日同じことを繰り返している。

 そこに不満が無いかと問われたら否だ。

 でも、今を変えられる程の力が僕には無い。

 それは今回の転職で学んだ事だった。


 前職は高校を卒業して3年程勤めた。

 仕事内容は工場のライン作業だった。


 最初は、給料は安いけれど何も考えなくても出来るため楽でいい仕事だと思った。

 ただ、同じ作業の繰り返しだと飽きてくる。

 その内、僕はこんな所で何をやっているのだろうと焦りを感じてきた。


 工場で働いている人達は、主婦や僕と二回りほど年齢の離れた男が多かった。


 だからこそ、僕はこんな所に居るべきじゃないと焦った。

 僕にしか出来ない仕事をしたい。

 そう思い転職を決意した。


 実際に転職をしてみると、どの仕事でも労働はストレスが溜まる。

 どうしたって、何かを得るためには何かを捨てなければならない。


 明らかに前職よりも増えた残業時間。

 多少給料は上がったが、労働時間と照らし合わせると割に合わなかった。


 アスファルトを踏む足が痛む。

 通勤電車で座れた記憶は殆どない。


 毎朝、意識が朦朧とした頭で同じ時間の電車に乗り会社へ向かう。

 毎晩、大した事をした訳でも無いのに、疲労した身体で電車に乗り家に帰る。

 家に帰ると、真っ暗な部屋が静かに僕を迎え入れる。


 こんな毎日を繰り返していると病んでしまいそうだ。

 それが分かるくらいには自分を客観視出来ていた。




 つづく




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