第八章 迫りくる、最後の戦いの始まりその二

 前方から出現したのは、天へと伸びる無数の突起だった。幽界で円形の島で見かけたものと酷似したそれらが、突如として地面から突き上がったのだ。

 それも鬼巌村の入り口の方向へと向かうように――。突起が現れた地上の低い位置を土煙が舞い、走行中のパトカーのずっと向こう側でゆらゆらと蠢いている。


「いるんだな、真奈美っ。そこにっ」


 俺は周囲に対する警戒を解かぬまま、パトカーを全速力で飛ばした。

 真奈美に近づく程に地面は今までと違い、若干ぬかるみを帯び始める。そのため事故らないように走らせるのに、一苦労させられるようになった。

 また、次第に、前方や左右にあの巨大な突起が聳え、その突起の森の中を走らせているかのようで、精神的にも気分が悪くなってくる。

 あれがどんな役割を持った何なのかは、見当もつかない。先端部分が天に伸びて蠢くだけで、特別攻撃をしてくる訳でもないのだから。

 そんな不気味な森の中を俺が運転するパトカーは走り抜け、いよいよ地割れで外界と遮られた鬼巌村の入り口付近へと辿り着く。


「ユカリ、神代雪羅っ! それに……空木瞬成っ!」


 そこには俺の見知った顔ぶれが、並んで立っていた。俺は村入り口の看板があった辺りでパトカーを停車させると、勢いよく扉を開いて外に飛び出す。

 ユカリ達三人はこちらに背を向け、村外に続く地割れがある方向を見ている。そんな彼らの向こう側にいる一人の女性に遅れて気付き、俺は足を止めた。


「真奈美っ……」


 下は底が見えない地割れで、その真上に浮いているのは真奈美だった。

 正確には宙に浮かんでいるのではなく、背中から伸びた触手の先端を地割れの壁に突っ込んで固定させているのだ。

 彼女は俺達に後ろを向けて空中に静止したまま、今は動きを見せていない。しかし、これから何をしようとしているかなど、愚問だ。

 鬼巌村を出る前に、最後の総仕上げをしようとしている。俺達を皆殺しにすることで、僅かな心残りをも拭い去ってから、外界に旅立つつもりだろう。


「来たのかね、ヨミ君」


「ああ、かなり苦労したがな。俺の力不足のために、幽界で真奈美が鬼神の肉体を得るのを止められなかった。すまない」


 俺はユカリの隣に並び、その横顔を見やりながら、正直に詫びた。結局、真奈美には好き放題されてしまい、幽界に行った意味など何もなかったのだから。


「気にしなくていい。私と雪羅君では、あの鳥居の向こうに立ち入ることさえ叶わなかったのだ。君が行った後、扉が閉ざされてしまったんだからね」


「そうか、それで……」


 真奈美が幽界に招待したかったのは、俺とカズマだけだったのだろうか。仇敵のカズマは分かるが、俺も彼女の中で大きなウェイトを占めていた――?

 だとすると、嬉しくもあり、悲しくもあった。もしかしたら真奈美が、俺に自分の凶行を止めてくれることを期待していたのかもと、考えたからだ。


「真奈美、俺はどうすればいい。どうすれば、お前を救える……?」


 俺はこの場に立って尚、真奈美を殺す気になる程、非情になれなかった。いや、そもそも最初から、この手で彼女を殺せる訳などないんだ。

 実際に間近で顔を見さえすれば――。もしかすると、何か救うための妙案を思いつくかと淡い期待を抱いていたが、それもない。

 ただ、真奈美と距離が縮まったことで、自分の身体に取り込んだ、前任シャーマンの遺体の骨盤から下の部位が彼女と引き合っているのを感じる。

 しかし、こんな遺体があった所で、どう打開策に繋がるというのか。俺は縋るような気持ちで、真奈美と対峙する三人の顔を横から覗き見た。


「――」


 ユカリと神代雪羅を両脇に置いて、中心に立っている男。彼が恐らく、念視で一瞬だけ顔が見えた空木瞬成だろう。

 見た目はかなり若く、俺と同年代……高校生くらいに見える。ただ、黒スーツを着用していることから、彼も社会人で警察の職員なのは確かなようだ。

 そして何よりも、異質なのは全身を身に纏う力強さだ。細身な体型であるにも関わらず、あの神代雪羅に引けを取っていない筋量を感じる。

 そんな俺の視線に気付いたのか、彼は俺に声をかけてきた。


「君が、九条ヨミか? ユカリ達から、聞いている。真奈美が世話になったようで、礼を言う。ただ、今は前を向け。あいつが、いつ仕掛けてくるか分からない」


「ああ……そうだな、すまない」


 非凡な実力は伝わってくるが、見た目通りに穏やかな男のようだ。人を落ち着かせる話し方で、俺は素直にそれに従う。

 視線の先にいる真奈美は、今もまだ俺達に背中を向けたまま動こうとしない。反応がないから、俺達の会話が耳に入っているのかさえも、不明だ。

 そんな膠着状態に痺れを切らしたのか、神代雪羅が地割れの方に近づいていく。そして彼女の背中に対し、場にそぐわない明るい声で呼びかけた。


「おーい、真奈美ちゃーん! そろそろこっちを振り向いてよっ! 戦うにしても、まずは顔を合わせなきゃ始まらないでしょっ!?」


 神代雪羅のその言葉を聞いてから、しばらくは無言が続いた。しかし、真奈美はややあって笑い出した。腹を抱えて、何が可笑しいのか笑い続ける。

 それから数分し、彼女は笑みを浮かべた顔で、ようやく俺達の方を振り向いた。


「あはっ、はははははぁっ! 相変わらず馴れ馴れしいよね、この悪党っ。お前だって、元々は大蜘蛛一族の一員だった犯罪者のくせに。気安く僕の名前を呼ばないでくれるかな。虫唾が走るからさぁ」


 真奈美は俺達より高い位置から、つまらない物でも見るかのような目で見下ろしている。そして彼女が、右手を空に翳した瞬間、俺はぎくりとした。

 脅威を感じたのは、他の三人も同様だったようで、全員が身構える。その直後、前方から無数の触手が、こちらにぞわぞわと音を立てて迫り始めた。

 そのすべてが彼女の背中と接続されていて、自在に動いている。肉体の一部として機能しているようだ。


「でも、分かってるよ。旧い僕から脱却を図るためにも、お前らは殺さなきゃならないって。そう、これは儀式なんだよ。生贄のお前ら全員を確実に殺し、その血を浴びる。新たな鬼神の誕生を告げるためにさぁ――っ!」


 真奈美が叫ぶと同時、凄まじい勢いで大量の触手が上空へと伸び上がった。高高度まで伸び上がった触手の集まりは、空高くで体を反らせる。

 そこから上へと覆い被さるように、その先端を真下へと急襲させてきた。俺達が立っている場所を狙って、次々と――!

 それら触手は地面を打ち砕いていき、砂利や土が派手に飛び散る。俺達がその一撃一撃を回避していく中、神代雪羅は懐から取り出した拳銃で連続発砲した。


「悪いねえ、真奈美ちゃん。君が物凄過ぎて、手加減はできそうにないよっ!」


 神代雪羅が拳銃から撃ち出した銃弾は、確実に真奈美の身体に命中した。何発も何発も被弾の度に、真奈美の身体が跳ねて血が飛び散る。

 意外にも、銃火器が通用しているようだ――。彼女が黒いパンツスーツの下に着ている白いシャツが、真っ赤に染まっていく。

 銃撃を受け、しばらく彼女は顔を俯けていたが、やがてその顔を上げた。


「ふふ、ははははっ。何これ? ずいぶん可愛いことしてくれるよね。元、大蜘蛛一族首領の忘れ形見風情がさぁっ」


「やっぱりこんなチャチな拳銃じゃ効果なしかぁ! だったらっ!」


 神代雪羅は拳銃を仕舞い、今度は代わりに注射器を手に取った。その注射針を首筋に刺すと、押し子をぎゅっと指先で押し込む。

 その途端、あっという間に彼の雰囲気が変わった気がした。筋肉増強のドーピング剤、真っ先に俺の頭を過ぎったのはそれだった。


「ふぅぅー、さあて、待たせたね。それじゃ仕切り直しだよ、真奈美ちゃん」


 ドーピング後の神代雪羅は、見た目こそ劇的な変化はない。しかし、筋肉が凝縮されて纏う強者としての貫禄は、さっきまでとは桁違いだ。

 真奈美は地割れの真上でそれを眺めていたが、愉悦の表情を浮かべる。地割れの壁に固定していた触手をしならせ、残像を残す程のスピードで跳ねた。

 次の瞬間、彼女は神代雪羅の目の前に、爆発音と共に降り立っていた。土煙が舞う中で、お互いに笑って睨み合う。


「高みの見物をやめて、降りてきてくれてありがとう、真奈美ちゃん。おたくのそんな実直な性格、大好きだよー?」


「あは、僕が実直だってぇ? 勝ち誇ってるお前の顔を見たら、無性に殴り殺してあげたくなっただけだよ。それも同じ土俵でさぁ」


 しかし、タイマンがお望みの神代雪羅とは違い、空木とユカリの考えは違ったようだ。神代雪羅と対峙する真奈美を、二人は左右から挟むように立った。

 そして空木は横から割り込むように、彼女の腕をがしっと掴む。


「真奈美、正気に戻るつもりがないなら、俺はお前を殺さなくてはならない。あまり手を焼かせてくれるなよ」


「まだ僕の恋人気取りのつもりなの、瞬成? もう君との関係は、終わったんだからさぁ。妙に上から目線で、昔から癇に障っちゃうんだよね、その態度」


「同じ特殊埋葬課で働く先輩として言っているんだ。だが、そうか。お前がそのつもりなら手加減はせん……っ!」


 元恋人――? いや、それ以上に、俺は自分の目を疑ってしまう。あの細身の身体のどこにそんな力があったのか、空木は真奈美を膂力で上回っていた。

 彼は彼女の腕を掴んだまま決して放さず、瞬時にして足払いをかける。為す術なく真奈美は転倒し、空木はそのうつ伏せの後頭部を黒いブーツの踵で踏み潰した。

 ぐちゃっと彼女の顔が地面にめり込んで、そこから血が流れ出す。恐ろしく熟練度の高い柔道技だと思った。

 それ以上に、空木のあの筋肉密度は尋常じゃない。その強さのカラクリに疑問が頭を駆け巡っている間に、彼は追撃を仕掛けていった。


「悪く思うな、真奈美っ!」


 空木は真奈美の後頭部を、何度も踏み付ける。人間相手ならその一撃一撃が即死級の威力で、踏む度に血や土が飛び散っていく。

 彼が猛攻を仕掛けている間に、ユカリが俺の側に寄ってきて説明してくれた。


「空木君は、ミオスタチン関連筋肉肥大と呼ばれる特異体質でね。私達、特殊埋葬課で最強のエースだ。かつて大蜘蛛一族の前首領を倒したのも、彼なのだよ」


「そうか、道理で皆から信頼されているはずだ。あの鬼神となった真奈美と戦っているのに、あんた達の顔に不安さは微塵も浮かんでいないのを見ればな」


 俺とユカリの会話が聞こえたのか、空木は攻撃を続けながら否定してきた。


「買い被るな、仲間と力を合わせたから辛うじて勝てただけの話だ。実力では俺など完全に、あの男に負けていた!」


 空木は最後にもう一押しとばかりに、大きく息を吸い込む。その直後に足を高く振り上げると、際立って強力な蹴りで真奈美の頭を踏み潰した。

 謙遜、だろうか。あれだけの実力があって、驕っている様子もない。カズマの口ぶりからして、大蜘蛛一族の前首領が超絶の実力者だったのは事実だろうが。

 その空木の猛攻を見て、神代雪羅だけはやけに不満そうに口を尖らせている。


「こら、空木ぃ。僕が彼女とタイマン張るつもりだったのに! 途中から割り込んで横取りするなんて、ズルいぞ!」


「何を言っている、雪羅。私情を挟むな。これは仕事だぞ! 犠牲者を出すことなく、勝つことを最優先するのは当然のことだっ」


 空木の駄目押しの一蹴りが真奈美の後頭部に直撃し、血や土が高く舞う。そして彼女の顔面はより一層、深く地面に埋まった。まさか殺害したのか――?

 と、一瞬だけそんな不安な思考が過ぎるが、そんなはずはない。今の真奈美は、神に等しい力を得ているのだから。

 そう簡単に倒されることなど……いや、俺の恩人を殺されてなどたまるか。この期に及んでも、真奈美の身を案じていた時だった。


「くく……くくくくく……あははははぁっーー!!」


 突然、地面に伏せる真奈美から、笑い声が轟き渡る。甲高く耳を劈く声で、指向性すら伴って、俺達の次の動きを牽制するには十分な威圧感だった。

 それから間を置かず、この辺り一帯から幾つもの咆吼が聞こえ始める。声の出所を探すと、生物のように動いている空高く伸びる、あの無数の突起からだった。

 辺りを見回していたそんな俺達を余所に、真奈美はゆらりと立ち上がる。


「虫けらが、可愛い真似してくれちゃってさぁ。ムカついたから、ここからは少し本腰を入れさせてもらうよ。ねえ、瞬成。まずはお前から……死ねよ」


 人間の五倍ほどもある無数の大きな突起が、地面から抜け出し始めた。それらが地面に横たわると、その胴体を這わせるようにして、こちらに接近してくる。

 それを見て、俺はようやく空に伸びていた、あの突起の正体を理解した。無数の足を規則的に動かして突撃してくる姿は、芋虫に限りなく近い。

 それを知ったことで、役割もおのずと見えてくる。機動力は低いようだが、あの巨体で進行方向にいる敵を潰し、面を制圧するために設計されているのだ。

 しかも、あれだけの数となると、すべてを相手にするのが困難なのは必至。

 まして真奈美と戦いながら、対処していくとなると果たして……。それが非常に難しいのは、この場の誰もが理解しているようだった。


「厄介だが――狙われているのは俺か。仕方がない、後は頼むぞ、三人共」


 そう口走るや否や、空木は地割れと反対方向、鬼巌村内の方へと走り出した。あの芋虫達を引き受ける行動だということを、この場の誰もがすぐに察する。

 実際、彼が芋虫達の真横をすり抜けるように走っていくと、緩やかに奴らも方向転換し、その後ろ姿を追跡し始めた。

 ただし、緩やかとはいえ、人と比べれば、かなりの速さなのだが――。遠ざかっていく空木の背中を見送りながら、神代雪羅とユカリは各々の想いを口にした。


「あー、もうまたかー。空木の奴、今回も危険な仕事を真っ先に買って出ちゃって。ちゃんと生き延びて戻って来いよなー、絶対」


「空木君なら、上手くやってくれるだろう。それより彼から任されたこちらの仕事の方も、それ以上に危険なんだ。私達も生き残れるかの心配をしないとね」


 神代雪羅とユカリはそうぼやきつつ、顔には空木への信頼が滲み出ていた。

 しかし、背後から迸る殺気に気付いた俺達は、緊張感を湛えた顔で振り向く。そう、俺達はあの芋虫よりも、強大な相手と戦わなくてはならないのだから。

 隣の二人は、攻撃を仕掛けるでもなく二の足を踏んでいる。そんな中、俺だけが勇気を振り絞って何とか前に進み出ると、真奈美と向かい合った。

 ただ、まだ救うための方法が思いつかず、不安な気持ちが募るだけだった。


「なあ、真奈美。……俺は、お前を救うためにここへ来たつもりだ」


「僕を救うって? へえ……まだ言ってんの、それ。君には僕が、そんなに気の毒に見えるのかな? 救うだなんて、思い上がらないでよねぇっ!」


 俺を嘲笑した真奈美の背面から、接続された幾つもの触手が動く。それらはまるで槍のような鋭さで、俺と彼女を囲むように次々と地面に深々と突き刺さった。

 俺を閉じ込めて逃がさないつもりなのか、まるで触手による檻だ。彼女は自ら作り上げた檻の中で、俺の顔を獲物でも狙うような目で眺めて笑う。


「お前は、人の心を失った。そんなお前を元に戻したい……。ただ、そのための方法を考えてみても、どんなに悩んでも、まだその方法は浮かんでこないんだっ」


「うっわぁ、おめでた過ぎて、ほんとに調子狂うなぁ。君ってさ、本当に一途だよねー。そういう所、嫌いじゃないよ。じゃあさ、君こそ僕の仲間にならないかなぁ?」


 そう言って真奈美はニコリとして、俺の前に右手を差し出してきた。

 この手を取って、自分の仲間になれということだろうか。俺はしばらくの間、その手を黙ったまま見つめ続ける。

 ただ、迷いは少しだけ生まれたが、俺はついにその選択肢は選べなかった。


「ふふ、だよねぇ。言ってみただけ。君の性格はよーく分かってるから。でも、そろそろタイムリミットが近いけど、時間切れには気をつけなよ、ヨミ君?」


 真奈美はそんな俺を嘲笑いながら、夕焼けの大空を見上げた。何を言わんとしているか、すぐに理解することができた。

 太陽が、もうかなり地上近くまで接近してきているのだ。あれが鬼巌村に墜落するまで、もしかしたら残りは、もう三十分を切っているかもしれない。

 真奈美を殺したくはないが、何かしら反抗に動くことはすべきだ。俺は震える手でポケットに手を入れ、ナイフの刃を握り締めた。


「ねえ、ヨミ君。面白い話をしてあげようか。僕はね、ずっと神代カズマの目を通して視てたんだ。鬼巌村の有力者、北条宗一郎が次第に壊れていく様をさ」


「――? いきなり何の話をしている?」


「ただの思い出話だよ。あいつ、老い先短い人生を気にして、不相応にも若くて強い不老不死の肉体なんて夢見てたんだよ。笑えるよね、くだらない人間のくせに」


 真奈美から急に殺意が消え、どこか遠い目をして俺に語りかけてくる。圧倒的な力を持つ彼女が、他愛ない話で時間稼ぎをする意味があると思えない。

 ただの気紛れ、だろうか。話はまだ続くようで、俺は警戒は解かずに黙って耳を傾けた。


「だから、僕は神代カズマに命令して、弱めの毒を盛ったんだ。毎日毎日、少量ずつね。徐々に衰弱していくあいつは、とうとう怯えて神頼みに出たんだよ。ふふ、笑えるよねぇ。まさかその祈った相手がさ……」


 真奈美は顔を両手で覆って、より一層、高らかに笑い出した。その様子は、まるでその行為が愉快で仕方がなかったかのようだ。


「そんな病弱にされてまでさぁ! あいつが救済を求めたのは、自分を弱らせた張本人の僕だった! 僕以外は誰も信用しなくなって、あの神社の下にシェルターを作って閉じこもって祈り続けてたんだよ!」


「――っ! 今、そんな話をして、俺に何が言いたいっ!?」


 こんな非道を、あの優しかった真奈美が打ち明けている事実に怒りが湧く。しかし、それでも相手は、どこまでいっても命の恩人なのだ。

 救わなければならない対象を傷つけるなど、あり得ない――俺は自分にそう言い聞かせ、怒りが臨界点を迎えさせまいと努力しようとした。


「あ、お、ぁあ……っ」


 ただし、それを試みようとする程に、俺の心が壊れていく。何しろ、ナイフの刃で手を傷つけることなく、自身に巣食う暴獣が心を支配しかけているのだ。

 こんなことは今までになく、生まれて初めてのことだった。俺は手にしていたナイフを使用することなく、足元に落としてしまう。


「ぐ、るぁ……真奈……美――っ」


「つまりね、どれだけ人間を殺したとしても、人々は神を敬ってくれるんだ。だから、僕はもっと殺す。殺して殺して、屍の山を築く――! ふふ、あははっ……何より楽しいからねぇ。昔から、生まれた時からそうだったんだから――」


 これもさっきの話も真奈美ではなく、前任のシャーマンの記憶だろうか。どうやら彼女も、先天的に心のブレーキが壊れた人間だったのかもしれない。

 憐れみを覚え、その言い分を糾弾したいが、もう俺の理性は消えかかっていた。巨大な暴力の災害の如き本能に上書きされ、暴獣に支配されていく。


「が、る……っ。……るるるぁっ! グガャャアアアアアアッーー!!」


 俺は薄れゆく意識の中で、自分が空を見上げて雄叫びを上げたのを聞いていた。そんな俺に真奈美は、更に距離を詰めてくる。


「暴獣と鬼神の対決かぁ。ふふ、面白そうだよねぇ。僕も一度、殴り合ってみたかったんだ、その状態の君とさぁっ!」


 俺と真奈美は、至近距離から互いの両手を合わせて組み合った。どちらも一歩も譲らず、目一杯力みに力んで押し合う。

 両者の足が地面にめり込んでいき、力比べで優ったのは……。


「はは、はっ……あははぁっ!」


 俺の身体が、徐々に背後へと押し返されていく。その結果にショックを受ける理性はあまり残っていなかったが、力勝ちしたのは真奈美だった。

 さっき空木に力負けした時よりも、彼女の力が増している――? いや、違う。暴獣化しても心の根っ子の部分で、俺には躊躇がまだ残されているからだ。

 もしこのまま自分が殺されれば、真奈美を本物の化け物にしてしまう。それに気付くや俺は、暴獣化したまま自分の理性を半ば強引に取り戻して、反撃に転じていた。


「……あ、あれ――っ?」


「だああぁっ!!」


 俺が仕掛けたのは、カズマから見様見真似で学んだ武術の理合いだった。真奈美のバランスを崩し、自分の足元に這いつくばらせる。

 たった今、起きた出来事に、真奈美は何が起きたか分からないという顔だ。そんな彼女の背中を見下ろし、俺は強めの語気で言ってやった。


「俺だって成長できていたらしい。まだまだ発展途上だが、理合いと暴獣の力。この二つを合わせた完成形に至れば、俺はお前にだって勝てる。お前を止められるはずだ」


「――っ。へえ……神に対して言うじゃない、ヨミ君もさ」


 真奈美がそう言い放つと、場に満ちる殺気が急速に膨れ上がった。そして俺達二人を取り囲むように作られた触手が地面から抜け、高く持ち上がっていく。

 その檻がなくなったことで、俺の側に神代雪羅とユカリが駆け寄ってきた。


「さあ、来い。お前を神という名の大量殺人鬼にだけは、させる訳にはいかない。それを止めるためなら、俺もこの躊躇を迷いなく捨て去る覚悟だ、真奈美」


「ふふ、ふ……舐めるなよ、虫けらが」


 真奈美は怒気を発しながらも、まだ地面に伏せたままだ。しかし、その背中から伸びた触手の一本の先端が、ゆっくりと持ち上がる。

 更に続けて、十本以上の触手も同様に天高く舞い上がる――。大地がそれを合図として揺れ動き、彼女の声がさながら冥府からの死神のように響く。

 しかし、俺は気圧されすることなく前へと踏み出し、戦いの意思を固めた。

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