第五章 絡み合う妄執その二
俺は道なりに走って走って、走り続けた。足元には数え切れない鬼達が惨たらしく殺されていて、屍を晒している。
カズマがこれを一人でやったのだとしたら、恐れ入る強さだ。しかし、あの男のまだ生きている部下は、洞窟内には一人たりともいなかった。
どこか別の場所で、別の任務に就いているのだろうか。どこで何をさせているのか分からないが、真奈美を追う途中、不安だけが駆り立てられてしまう。
「真奈美ぃぃっ! 我が神は、決して悪魔を生かしてはおかん――っっ!」
真奈美を追跡している俺の後方からは、カズマが張り上げている大声が、何度も反響してきていた。
真奈美を悪魔と呼び続け、殺害することを望んでいる。昔、彼女に救われた者として、それだけは許せないし、絶対にさせる訳にはいかなかった。
しかし、真奈美の身に、尋常ではない異変が起きたのは確かだ。顔に呪術のような紋様が浮かび、心がおかしくなり始めている。
そして何よりも、カズマを圧倒した、あの人知を超えている膂力だ。あれが望まぬ力なら彼女を元に戻す手段はあるのか、俺が一番知りたいのはそれだった。
「神代カズマ、お前の相手は後回しだ。今はそこで吠えていろっ!」
俺は、そう吐き捨てた。気持ちばかりが焦り、さっきからいくら走れど引き離される。全力で疾走しているのに、真奈美の背中がどんどん遠くなっていくのだ。
どうやら彼女の腕力も走力も、何もかもが、大幅に強化されているということらしい。そんな状況下で、ポケットのナイフに頼ることも、一瞬、考えたがやめた。
リスクが大きく、そう何度も連続で使用できない諸刃の剣なのだ。いざという時に取っておくため、温存しておかなくてはならない。
そう決意していた所に、誰かが背後から、肩をがしりと掴んだ。気配をまるで感じさせず、突然現れたかのように。
「さっきは見事だった。あの武才溢れる、神代カズマと互角以上に渡り合うとはね。ただ、進むのは待ちたまえ、ヨミ君」
「あ、あんた……いつの間にっ!?」
俺のすぐ後ろから声がかかり、振り向くと、ユカリがいた。彼女は、焦っている俺の腕を掴むと、力づくで腰を地面に下ろさせた。
すぐにユカリ自身も、俺の側に腰かけて、ポケットから電子タバコを取り出す。
「まあ、楽にしたまえ。どうせ、もう間に合わないのだから」
「どういう意味だ? 真奈美は、どこへ向かったか知っているのか?」
ユカリは淡々と、どこか諦め気味に話しているが、俺は気持ちが急いていた。真奈美に早く追いつきたいのに、有無を言わさず、水を差されてしまったからだ。
そんな時にユカリは、呑気にも電子タバコを咥えようとしたので、俺が「おいっ!」と語気を強めて、話の続きを催促する。
すると、彼女は電子タバコを口から離して、話を再開してくれた。
「真奈美君はね、死者の住まう国と私達が生きている現世。その国境線に向かったんだ。そこで特定の選ばれた者だけが成功させられる、禁断の儀式を行うために」
「儀式? 昔、鬼巌村の有力者がやろうとした、鬼神伝承の再現というやつか?」
「そう、真奈美君のあの顔に浮かんだ紋様と変貌ぶり、私も見たことはないし、伝承にも残されてはいない。ただ、村の入り口で見たあの地割れ、あれは天変地異を引き起こすという鬼神の仕業だと見ている。ここからは推測になるが……」
ユカリはそこで言葉を区切って、更に続ける。俺は逸る気持ちを抑えつつ、一言一句聞き漏らすまいと、彼女の話に聞き入った。
「鬼神は、恐らく不完全ながら現世に呼び起こされたのだ。最初は、あのカズマの仕業かと思ったんだがね。あの様子だと、どうやら彼は失敗だったようだ」
「じゃあ、真奈美が……やったと言うのか? 鬼神の力を借りて、あれを」
「彼女の意思によるものではないだろう。ただ、真奈美君が村の湧き水を口にしたことで、鬼神と精神が共鳴したのかもしれない。それによって鬼神の意識は、目覚めたのではないかと私は考えている」
「では、なぜ真奈美なんだ。他にも湧き水を飲んで、鬼に成り果てた連中はいただろう。どうしてあいつだけ、こんな事態を引き起こしたんだっ?」
ユカリは落ち着かない様子で話を中断し、口寂しそうに唇を舌で舐めている。これまでポーカーフェイスだった彼女も、僅かに動揺しているのが窺えた。
そんなにタバコに頼りたい心境なのだろうか。埒が明かないと思った俺は、仕方なく譲歩してやることにした。
「分かった。そんなに吸いたいなら、吸え。だから、続きを早く話せ」
「悪いね。年甲斐もなく、私も緊張しているのだよ。では、遠慮なく」
そう答えながら、ユカリは電子タバコを吹かし始める。それで気分が落ち着いたのか、少し遅れてから話の続きを始めてくれた。
「もしかしたら、鬼神に見初められたのかもしれないな。一点の曇りもない純粋な心の清らかな乙女、それが鬼神が好むシャーマンの条件なのだからね。鬼神伝承の再現には必要不可欠だが、かつての有力者も用意できなかった者だ」
「確かに、あいつほど自分の心に真っ直ぐな女もいないだろうが……。それは先天的な脳の疾患のためだ。そこに付け込まれたというのか。そんなことのために」
真奈美は、生まれた時から心のブレーキが壊れている。そのために感情の抑制が効かず、湧き上がる己の欲求にどこまでも忠実だ。
それは本来なら、普通に社会生活を送るのも困難な特性といえる。ただ、さすがにそれが今回、得体の知れない鬼神などに求められるとは、不憫でしかない。
「こうなる前に、私も目的を果たしたかったんだがね。ただ、この不動鬼宿洞窟に眠るのは鬼神の魂の方だ。今、我々がすべきことは、一刻も早くここから逃げて、残る鬼神の肉体を捜し出すことだ。彼女よりも先にね」
「逃げる、だと? 馬鹿なことを言うなっ!!」
俺は腹立たしさのあまり、声を荒らげて立ち上がった。しかし、ユカリは驚くことなく、座ったまま、顔だけを上げて俺を見ている。
今、まともな精神状態ではない真奈美を放って、逃げるなどあり得ない。たとえ彼女が、鬼神に魅入られたのだとしても、そこから助け出さなくては――。
恩を返すまでは、この身を彼女のために捧げると誓ったのだから。
「どうしてもというのなら、止めはしないよ。君の人生だ、好きにすればいい。ただ、相応の覚悟を持ってから、この先に進みたまえ」
「ああ、元よりそのつもりだ」
俺はユカリに背中を向けて、先へと走り出した。洞窟に反響している音からして、水が流れている場所は、もうそこまで迫ってきている。
目的地で待つであろう真奈美の姿を求めて、俺はラストスパートをかけていく。
そんな時、詰め所らしき場所から夥しい血の匂いがして、ふと足を止めた。そして嫌な予感がしつつ、入り口を仕切っているカーテンを開ける。
「これ、は……っ」
その詰め所の中は、血で溢れていた。埋め尽くすようにあったのは、パイプ椅子に座った状態で、手足が縄で拘束された女性達の死体だ。
死体の足元からは、流れ落ちた血が周囲に広がって赤く染め上げていた。致命傷となったのは、恐らく喉の刺し傷だろう。
彼女達の喉笛に、深々とナイフが突き刺さっている。ただ、血はすっかり乾いており、今、殺されたばかりの状態ではない。
何日も経過したことで、どの死体も顔は青くなり、劣化が始まっていた。
「まさか……大蜘蛛一族が殺ったのか……っ! こんなに大勢の女性達をっ!」
大量殺人の現場を見て、頭が真っ白になりかけるが、どうにか堪えた。足元に、見覚えのあるナイフが落ちているのを見つけたからだ。
これは真奈美が、愛用しているナイフだった。もしかすると、彼女もここに立ち寄って、この惨状を見てしまったのだろうか。
だとすれば、正義感の塊のようなあいつのことだ。今、心中にどれだけ怒りと悲しみを覚えているか、想像に難くない。
しかも、ただでさえ精神状態が、常軌を逸し始めているのだ。何を感じたにしろ、悪い未来しか思い描けなかった。
「何をやろうとしているか知らないが、早まるなよ。せめて俺が行くまではな……」
ただ、未来に定まった形はない。どんな運命だろうと、抗えば変えられる。俺は今の真奈美と顔を合わせる勇気を奮い起こし、詰め所から出た。
近い。占い師としての直感が、ここのすぐ奥からただならない不吉を感じ取る。
――水の流れ。古来、日本がまだ一つの国家になるより以前、大小の国に分けられていた時、河川は国境線の一つだった。それは現代においても変わらない。
死者の住まう国と、俺達が今生きている現世。その国境線もまた水なのだ。それが鬼巌村に鬼という怪異が現れ出でた、大きな理由かもしれない。
「真奈美っ、真奈美っ……!」
洞窟内を駆け、入り口にも出口にも見える穴が近づいてきた。俺はそこに手をかけて、一気に穴の中に飛び込んだ。
洞窟の最奥で、俺が願った通りに待ち受けていたもの――それは川の前で、こちらに背中を向けて佇む、真奈美の姿だった。
俺は走り出したい気持ちを抑えて、一歩一歩、慎重に彼女と距離を縮めていく。
「真奈美っ、捜したぞ。もう帰ろう、この村にはすでに俺達が望むものはない」
俺が話しかけても、真奈美は振り返らなかった。この距離で聞こえていないはずはないが、念のため、もう一度、名前を呼びかけてみる。
「真奈……」
「ヨミ君さぁ、こんな所まで何をしにきたの?」
俺の言葉を遮って、やっと真奈美が振り返ることなく口を開いた。口調と語気は普段通りな彼女だったが、その背中には近寄りがたい気配が纏わりついている。
しかし、俺はそれに抗い、気を強く持って歩いていく。そして目と鼻の先まで近づくと、彼女の肩を掴んで、こちらに振り向かせようとする。
「おい、帰るぞ。後のことは、警察から送られてくる応援に任せればいい。もう俺達の用は終わったんだ」
真奈美は、抵抗することはしなかった。無理矢理にぐいっと振り向かされた彼女は、きょとんとした顔で俺を見ている。
ただ、目はさっきのように血走り、顔の紋様も依然、禍々しく残ったままだ。
「真奈美、俺があんたを元に戻してやる、約束する。だから、心配はしなくてもいい。まずは山を下りて、街の病院に行こう」
「まだ言ってるの、ヨミ君。僕なんかにいつまでも依存して、こんな所まで追ってくるなんてさぁ。でも、終わってなんかないよ、始まるのはこれからなんだから」
真奈美の目は、俺を見ているようで、どこか遠くを見ているようだった。
普段の彼女を知る俺にとって、ここまで変わり果ててしまった姿に胸が痛む。しかし、どんなになったとしても、恩人である事実は揺るがない。
「真奈美、頼む。大人しく俺と一緒に……っ!」
大人しく従ってくれと縋る思いで、俺は真奈美の腕を掴んだ。そのまま引っ張って、無理やりにでも連れ出そうとした、が――。
「邪魔しないで欲しいなぁ。僕は、この世の悪を一掃するんだ。まずは手始めに、大蜘蛛一族を全員殺す。そして日本全体、世界と、僕の正義を拡大させていくんだ」
「目を覚ませっ! できる訳がないだろう。そんな夢みたいなことがっ!」
「もう契約は済んだんだ。だからさぁ。いい加減に目障りだよ、ヨミ君」
真奈美が俺の手を振り払うと、強烈な風圧が生じる。たったそれだけの動作で、俺は背後に十数メートルはふっ飛ばされてしまう。
その先でバランスを建て直し、前傾姿勢を取って何とか地面に踏み止まった。
「く、うっ……」
「君は悪人じゃない。黙って見ていれば、僕が作り上げる理想郷に連れて行ってあげるけどさぁ。逆らうなら殺すよ」
真奈美の背後に流れる川の底で、何かが赤く煌々と光っている。次第にその川底から、人の姿をした誰かが這い上がってきていた。
いや、人ではない。顔がうっ血し、筋肉が肥大化した鬼達だった。服装はほとんどボロ切れに近く、人相も崩れている。
どうやらここ最近で、鬼になったばかりの連中ではなさそうだった。
奴らは全身を痙攣させながら緩慢な速度で歩き、かっと目を見く――そして十数体の鬼達が、俺を敵と認識して走り出してきた。
俺の命を奪おうと、真っ直ぐにこちらへと迫ってくる――! しかし、その時、洞窟全体に大声が響き渡った――!
「真奈美ぃぃっっ!! 我が神による天誅を受けるがいいっ!!」
「か、神代カズマっ!?」
俺の後方から走って飛び出してきたのは、カズマだった。そのまま鬼達の群れに飛び込み、鬼達の喉を拳で破壊し、蹴りで足を捩じり折っていく。
相変わらず、心技体が揃っている出鱈目なパワーだった。しかし、あの男が標的として狙い定めているのは、鬼達などではない。
十中八九、その向こう側にいる真奈美だろう。しかし、真奈美は特に動きを見せず、ただ冷徹な目で、カズマが暴れている姿を眺めている。
傍観することなどできず、すぐに俺も、あの男の背中を追って走り出した。
「真奈美ぃぃっ! この悪魔めっ!」
「気安く呼ぶなぁ。何が神だよ、この悪党がさぁ!」
鬼達を跳ね除けて、カズマが真奈美に拳を振り上げる。瞬間、凄まじい殺気が前から押し寄せ、全身を突き抜けていった。
ぞくりと背筋が凍るが、カズマのものではない。放ったのは真奈美だと気付いた時には、あの男の身体が蹴り上げられ、天井高くまで舞い上がっていた。
あの重く頑強な肉体を誇るカズマを、軽々と――!
その間も、走って距離を縮めた俺は、真奈美の眼前に迫った。それと同時に、拳を後ろに引いて力を漲らせる。
「真奈美っ、許せっ!」
俺は恩人を殴ることに躊躇したが、やむなく殴り掛かる。だが、勢いよく放たれたその拳は、真奈美の顔面へと届く直前に、動きを静止させていた。
いや、止められたんだ――何にも、触れられてさえいなかったのに。彼女の前髪が拳圧によってなびくが、それでも当の本人は瞬きすらしていない。
「なぜだっ……なぜ届かないっ?」
「君が怯えたからだよ。怖かったんだよね、恩人を殴るのがさ」
俺が怯えた――。確かにそれは事実だと、自分自身がよく分かっていた。だとしても、どれだけ全身に力を込めても、身体が意思に反して動かない。
ただの恐れだけで、ここまで人間の行動を縛れるものなのだろうか。
いや、きっと何かカラクリがあるはずだ――そう思い、辛うじて目と口を動かすと、真奈美の背後で川の奥底から赤く輝く何かが浮上してきている。
「な、何だ、あれは……?」
水面に大きく波紋が広がり、川底から巨大な物がせり上がってきている。目を凝らせば、血のように赤く染まった巨大な木のような……。
俺が注視する中、やがてそれは凄まじい勢いで水飛沫と共に水面から姿を現す。
「よく見ておくといいよ、ヨミ君さぁ! これが、僕を呼んでいた誰かなんだ!」
「……っ!?」
最初は、巨大な樹木かと思った。無数に突き出した極太の枝に、びっしりと繭みたいな物がぶら下がっているのだと。
しかし、違った。それは赤く淡い光を発する、巨大な蜘蛛の化け物だったのだ。
繭がぶら下がっている枝かと錯覚していたのは、八本の長い手足――そして背中には、同様の繭がびっしりと張り付いている。
顔は鬼のような怒りの形相をしていて、水面から完全に姿を現した後、そいつは八つある目の全部で、俺を見下ろした。
「なるほどなっ、この威容こそ私の先祖が崇めた鬼神の全貌だという訳か。だが、こんなものは、まやかしだがな! 私の目は欺けんぞ、悪魔めっ!」
背後から聞こえたのは、カズマの声だった。そして恐らくあの男が、後ろで拳銃を天井にでも向けて発砲したのだろう。
甲高い音が響き、気が付くと、目の前にはもう大蜘蛛の姿はなかった。あれだけの巨体が、跡形もなく消え去っている。
さっきは、あれだけはっきりと見えていたのに――。そう考えてから俺は、ここに来る途中、ユカリが言っていたことを思い出す。
「そうか、ここに封じられていたのは鬼神の魂の方で――。まだそれが宿る肉体は、取り戻せていないということか……」
しかし、それに気付けても、身体はまだ金縛りに遭ったままだった。俺はそれを解くべく、噛み締めた奥歯から血が滲むほどに、全身を力ませる。
大声を上げようとして、気合いで無理やり脱そうとするが、叶わなかった。その間に真奈美は素知らぬ顔をして、俺の隣を歩いて通り抜けていく。
前方の川からは、鬼達が次々と這い出して俺を無視し、彼女に続いていった。振り返れないので、彼女と鬼達がどこへ行こうとしているのかも確認できない。
「真奈、美……。待って、くれ……」
辛うじて、俺はそれだけ声を絞り出す。背後では鬼達の唸り声と、カズマが戦っている拳の打撃音が聞こえる。
何もできない無力さに、真奈美を止められない悲しみが押し寄せる。胸が張り裂けそうな程の感情と共に流れてくるのは、両目からの涙だった。
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