第三章 心の外に現れる、破れない過去の誓いその二

「さて、勝機はあるのかね、ヨミ君?」


「確実じゃない。しかし、何もしなければ、奴らに囲まれて嬲られるだけだ」


 屋敷の穴から飛び出し、ユカリの質問に俺は正直に告げるしかなかった。

 唯一の希望は、真奈美の同僚達が駆けつけて来てくれることだ。最初からこうなる事態も想定して、鬼巌村に来る途中で彼女に電話を掛けさせたのだから。

 だが、今を生き残り、夜を越さなくては救援に期待することもできない。屋敷の外壁を背にして前方を見やれば、十人以上の鬼達が奇声を上げて歩み来ていた。

 服装は多種多様で、作業服や浮浪者のようにボロ着の者達もいる。ただし、青紫色にうっ血した顔や、充血して濁った目は、もはや人間のそれではない。


「ねえ、ヨミ君さぁっ。逃げる気じゃないよねぇ?」


「ああ、こう取り囲まれていては仕方がない。やるしかないな」


 真奈美も――かつての俺も、武闘派で鳴らしてきた人間だ。俺達二人なら、たとえ真っ向から挑んだとしても、易々とやられはしない自負心はある。

 戦いを前にして、さっき大蜘蛛一族の女性が、言っていたことを思い出す。もう手が付けられない事態になっていると。

 本当に奴らが、昔から鬼巌村に介入していたとしても、だ。鬼達が現れ、数を増やし始めたこの事件が起きたのは、つい最近なのだろう。

 そうでなければ、こんな怪異染みた事件――もうとっくに、大騒ぎになっていてもおかしくないはずだ。


「まあ、だとしても、やるべきことは変わらないがなっ」


「うん、全員ぶっ潰してやろっ。戦わずに逃げるなんて、僕はごめんだからさぁ」


 この鬼巌村で大蜘蛛一族が活動しているのは、もう間違いなさそうだ。

 最低限、奴らの居場所を調べなくてはならない。そうしなくては、たとえ救援が駆けつけてきたとしても、真奈美はきっと納得して村を出ようとしないはずだ。

 危険を伴うが、彼女の望みとあっては無下にすることはできない。俺は真奈美に先んじて、鬼達の群れに一歩を踏み出そうとする。

 そんな時、隣にいたユカリが電子タバコを吹かしながら、俺達に話しかけた。


「お手並み拝見させて頂けるかな。君達二人だったら、止められるかもしれないからね。この事件を引き起こした、大蜘蛛一族の凶行を」


「ああ、よく見ているといい。俺達の暴れっぷりを存分になっ!」


 俺は地面を蹴って、前方に疾走する。対する鬼達は、身体を痙攣させながら、じりじりと間合いを詰めてきている。

 これ以上、接近すれば、俺達を敵と認識して動き出すのは間違いない。

 だが、上等だ――。そのつもりなら、こっちも受けて立てばいい。そう心に決めて、走っていた俺の隣から、真奈美が飛び出していった。


「僕が、先に行かせてもらうからさぁ! ああぁぁっ!! こんのぉっ!!」


 真奈美が、スーツの上着から取り出したナイフを素早く前方に投擲する。一瞬後に、それは鬼一人の脳天に突き刺さり、仰け反らせて歩みを止めさせた。

 そして更に、そいつの間近まで駆け寄った彼女は、額に刺さったナイフの柄を掴み、力強く一息に斬り下ろす。

 断裂した顔面から血が頭上にまで噴き出し、鬼から絶叫が上がった。撃破したかに見えたが、それでも鬼は倒れず、よろけて数歩後退しただけだ。


「がっ……るぅぅうっ!!」


 鬼の瞳が、ぎょろぎょろと回転――。そして真奈美のナイフを持つ腕を掴んだ。

 奴らの膂力は、車を一撃で大破させる程に強い。俺は彼女のピンチに青ざめて、助太刀に入ろうと全力で走り出す――!

 しかし、窮地のはずの彼女は、微塵も怯む様子など見せてはいなかった。

 即座に鬼に足払いを仕掛け、体勢が崩れた隙に背負って投げようとする。だが、その際に、彼女の表情が苦痛に歪んだ。


「……っ! く、このぉーっ!」


 鬼は頭部から地面に叩き付けられ、頭蓋骨が砕ける音と共に、身体が跳ね飛ぶ。

 今度こそ、倒せた――。ただし、当の真奈美も無傷とはいかなかったらしい。怪我をしたのか、服の袖から血がポタポタと滴り落ちている。


「真奈美、平気かっ!?」


「んんー……こいつら手強いね。まあ、所詮は僕の敵じゃないけどさぁ!」


 真奈美は地面で寝転がるさっきの鬼の死体を、足で蹴り飛ばす。死体はごろごろと転がり、通った地面を血で濡らしていった。

 一度、敵を見定めて戦いに入れば、こいつは戦闘本能の塊と化す。痛みや出血すら、まったく気にかけない程に。

 事実、すでにその目は、次なる敵を求めている。こちらに緩慢な動きで歩いて来ている鬼を見つめながら、ナイフを構えていた。


「無理はするな、俺がお前の盾と剣になる。無慈悲な狂戦士ぶりというなら、むしろ、俺の方が専売特許だからなっ」


「もうっ。年下の癖に、何て格好いいこと言うんだよ!」


 啖呵を切って前に進み出た俺に、十数体の鬼達がわらわらと近付いてくる。

 ゆっくりと、緩やかに――しかし、一定の間合いに入るなり、蠢き回った目玉の焦点が俺の姿を捉える。そしてその瞬間、弾かれたように走り出した。


「いいから、下がっていろ。奴らは、俺が一人で始末する!」


 鬼達は、相当に強い。その上、数人ならともかく、今回は相手が多すぎる。確実に勝利をもぎ取るには、自分が知る限り最強の暴力を解き放つしかないと思った。

 俺は震える手で、ポケットに入れておいたナイフを抜き放つ。刃が痛んでいて、切れ味が鈍っているが、十分だ。


「ちっ、明朝まで俺の身体が、持ってくれればいいが」


 あえて刃の部分を、右手で力強くぎゅっと握り締める。これは過去のトラウマと、かつて振るっていた力を呼び起こすために行う、一種の儀式だ。

 かつて同じ境遇の子供達を、何人も殺した。また殺されそうにもなった。それが終わりの見えない長い期間続き、心が崩壊しそうになった悪夢の日々だ。

 指と指の隙間から血が滴り、脳からドーパミンが過剰に分泌される。そして理性が、巨大な暴力の災害の如き本能に上書きされ、俺は頭上を見上げて吠えた。


「うごぉろおおおぉぁっ!! 加減はっ、もう効かないと思え……っ!!」


 俺は目の前に迫った鬼の頭部を両手で挟み、力任せに胴体から引き抜いた。千切れた断面から、血が溢れて吹き出す。

 しかし、その間に間合いに踏み込んだ鬼達の拳が、俺の顔面を殴り――蹴りが胴体に炸裂し、鋭い牙で首筋に噛みついてくる。

 確実に身体の各所の筋肉や骨に、損傷を受けた感覚があった。だが、俺はこの場から一歩も動かずに、踏み止まる。


「ぐ、るぅああぁあぁっ!! それしき、かっ!!」


 俺は痛みを押して、二人の鬼の頭を両手で掴み、勢いよく地面に叩き付ける。砕けた頭部から、脳漿と血が飛び散って、手と周辺を赤く濡らした。

 残りもう一人――が、俺から逃れて、真奈美の方へと走っている。心配するあまりに、動悸が高鳴って、頭が真っ白になってしまう。

 俺は地面を蹴って疾走し、彼女に殴りかかろうとしていた鬼の肩を掴む。が、先に振り返った鬼が、俺の横っ面をぶん殴る。

 口の中を切って、唾液に血が混じった苦い味がした。


「真奈美に、手を出すなぁ――っ!!」


 俺も即座に顔面を殴り返し、よろけた鬼を、更に蹴り倒す。そいつが地面に転がり倒れた後も、腹部を幾度も執拗に踏み付けた。

 踏み付ける度、鬼が背中をつけた地面にビキビキと亀裂が入っていく。


「ちょっと、ヨミ君。無茶し過ぎだって! その技、危険なんでしょっ!? 僕だって、戦えるんだよ。そこまで過保護に守ってもらう必要ないしさっ!」


 俺が足元の鬼に追い打ちを掛けている間、真奈美は他の鬼達と交戦していた。防御を疎かにして攻撃一辺倒で立ち向かっていく彼女は、確かに善戦はしている。

 だが、ナイフ一本で立ち回るその姿は、どうも危なっかしく見えて仕方がない。もし彼女の身に何かあれば、受けた恩を裏切ることになる。

 もはやこの感情は、呪いだとすら思う。真奈美と鬼巌村にやって来たのだって、彼女へ降りかかる危険を一身に引き受け、昔の恩を返すためなのだから――!


「ぐる、るっ。真奈美っ、無理せずに俺が行くまで待てっ!」


 俺は、すぐに真奈美に駆けつけようとする――が、彼女の向こう側に、一人の男が佇んでいるのが見えた。

 筋肉質で眼鏡をかけた、Tシャツとジーンズのラフな服装をした成人男性だ。

 顔は、辺りが暗くて良く見えない。ただ、無視できない程の威圧感を放ち、こちらをじっと見ているのは分かった。

 しかし、その時、背後から鬼達が、駆けてくる足音が聞こえた。やむなく振り向き、闘争心を滾らせた所で、精神の昂りが限界に達する。

 そして肉体だけが敵に立ち向かっていく感覚の中、俺の記憶は途絶えた――。


 ****


「ヨミ君、ヨミ君さぁ! しっかりしてっ! もう、戦いは終わ……てっ!」


 俺の耳元で、真奈美が叫んでいる声が聞こえる。気付けばいつの間にか、すぐ目の前に心配そうに覗き込んでいる彼女の顔があった。

 記憶がやや飛んでいると自覚し、今の状況にやや混乱してしまう。だが、どうやら俺は、夜空を見上げて、仰向けで寝ていたようだった。

 またか、と俺は自嘲する。暴獣モードに入ると、いつも途中で意識が途切れて、無意識のまま敵を蹂躙してしまう。

 そして後に残るのは、全身を酷使した反動による疲労と筋肉の激しい痛みだ。

 俺は地面に手をついて、起き上がろうとする――が、さっきの戦いでかなり痛手を負ったようで、骨と肉が痛み、それすら一苦労する。


「そういえば、あの男は……」


 俺は記憶が途切れる前に見た男のことを、ふと思い出す。何者か分からないが、只者ではないことだけは、はっきりと感じ取れた。

 それも鬼などではなく、人間だったようにも思う。しかし、真奈美はそんな俺の言葉が聞こえなかったのか、遮って話しかけてくる。


「もう、無茶するよね、ヨミ君さ。何だか君、あまりに必死で痛々し過ぎるよ」


「気にするな、俺が好きでお前を助けているだけだ」


「そうっ! それだよ、それぇっ! いっつもそうだよね、君さぁ。何でそんな恩義をいつまでも気にしちゃって、危険を顧みないの? もう昔の話なんだから、いい加減にそろそろ生き方を変えてもいいんじゃないかなぁ……」


 俺は上半身を起こすと――それが自分にとって、重要なんだと言いかけて黙る。その一瞬の間と表情が、思いつめていそうに見えたのだろうか。

 真奈美は心配そうに、俺の額を指で小突きながら言った。


「君みたいな年下が、僕の保護者面するなんて、十年早いんだから。むしろ、僕のことをお姉さんだと思って、頼っていいんだよ。分かったかなぁ?」


「まあ、一応は考えておこうか。ずいぶん精神年齢の低い年上だがな」


「もうっ、言ったな。この可愛くないガキめぇ」


 真奈美が悪戯っぽく笑いかけながら、俺の身体に覆い被さる。そしておちょくるように、俺のこめかみを両方の親指でぐりぐりしてきた。

 普段通り――いつもの他愛のない、スキンシップだ。俺はそれを薄く笑って、抵抗することなく甘んじて受け入れる。


「お二人さん、痴話喧嘩はその辺でいいかね? まずは場所を変えようじゃないか。いつまた奴らが、やって来るか分からない」


 話の腰を折るように声をかけてきたのは、すぐ側に立っていたユカリだった。

 俺と真奈美はそこで我に返って、彼女の顔を見る。今までの一連のやり取りを楽しげに眺めていたようだったが、そろそろ痺れを切らしたのだろうか。

 考えてみれば、今いる場所はまだ鬼巌村の中で事態が好転した訳ではないのだ。それを思い出した俺と真奈美は、申し訳なさそうにそそくさと立ち上がる。


「ああ、すまなかった。つまらないものを見せてしまったな」


「でも、勘違いしないでね。別に僕らは、恋人でもないんだからさ」


「いや、気にしないでくれたまえ。恋人や夫婦じゃなかろうが、仲が良さそうで何よりだと思っただけだ。微笑ましい光景を見せてもらったよ」


 ユカリはそう笑って、咥えていた電子タバコを口から離し、蒸気を吐き出す。

 少しの間、愉快そうに俺達の顔を交互に眺めていた彼女は、やがて大事そうにトランクを片手に持ち、踵を返した。


「籠城できそうな場所に心当たりがあるんだがね。私について来てくれるかな」


「助かる。そんな場所があるのか? なら、ぜひ案内してくれ」


 それだけ言葉を交わすと、俺達はユカリを先頭にして歩き出した。夜空は満月で、美しい月の光に照らされて、道を行くのに不都合はない。

 ただし、地上をただ歩くだけでも、さっき負った傷がズキズキと痛んだ。

 多数の鬼達に襲われ、やむを得なかったとはいえ、肉体の限界を超え過ぎた。もしまた鬼達が現れたら、次はあの力に頼るのは無理だろう。

 真奈美を守り抜くためにも、せめて傷が癒えるまでは、戦いになるのは避けたかった。


「ねえ、ヨミ君。顔色が悪いよ。汗も酷いし、大丈夫なんだよね?」


「心配ない、これしき……」


 そう言いかけた時、真奈美がふらつく俺の肩を支えてくれた。少し恥ずかしかったが、お陰で歩くのが、すいぶん楽になる。

 ユカリの後ろに付いて、俺達二人はそのまま歩き続けた。川の上流に向かい、山を登っている隣で、彼女の息遣いが間近に聞こえてくる。


「もっと僕を頼ってよ。僕だって、君に守られるだけの弱い存在じゃないんだよ」


「ああ、そうだったらいいんだがな。あんた、自分の身を顧みないだろう」


「それはお互い様じゃないのかなぁ? さっきあんなリスクが大きい諸刃の技を使って、痛い目を見てる奴の台詞じゃないよ、それさぁ」


 真奈美は、茶化すように笑って言った。確かに前の戦いで無茶をしたのは事実で、その結果として、このザマなのだ。

 図星をつかれてしまい、俺は言い返すこともできなかった。だから、ばつの悪さを隠すために話題を変え、前から気になっていた別の質問をしてみる。


「なあ、真奈美。あんた、何で警察になったんだ?」


「悪い奴をやっつけたかったからだよ。僕の有り余る力を有意義に使うには、警察が一番向いているって思ってさ」


「それだけか? 本当は、目の前の困っている他人を救いたいんじゃないのか。その、昔の俺をそうしてくれたように、な……」


 俺からの質問に、真奈美は照れ臭そうに笑う。


「かもねぇ。一番は、やっぱりそれ。その願いを叶え続けるためにも、僕は今よりもっと強くならないといけないよ」


「なれるさ、普段から努力しているお前ならな」


 そう、俺は真奈美が人一倍、努力しているのは知っている。自分よりも格上ばかりな課の同僚達に追いつけるように、一日も鍛錬を欠かしたことはないことを。

 占いにやってくる度に話してくるから、もう耳にタコができてしまった。その甲斐あってか、初顔合わせの時よりも、ずいぶん体術が向上しているようだ。

 鬼巌村に到着してからの戦いぶりを見ていれば、それは一目瞭然だった。


「ふうっ……」


 ふいに真奈美が疲れたが出たかのように、息をつく。そしてこの場に腰を屈めて、座り込んでしまった。


「おい、どうした、真奈美?」


 俺も腰を低くして訊ねるが、真奈美の顔が少し熱っぽいことに気付く。慌てて彼女の額に手を当ててみたものの、特に熱がある訳ではないようだ。

 ただ疲れが出ただけか――と、安堵するが、どちらにせよ休ませた方がいい。そう判断した俺は、前へと進み続けるユカリに声をかけた。


「なあ、ユカリ。真奈美の疲労が溜っている。目的地はまだなのか?」


「ん、もうそろそろだよ。ほら、あそこがそうだ。あの神社が、鬼巌村でもっとも安全な場所になるんだ。まあ、シェルターみたいなものだね」


 俺と真奈美は、ユカリが指を差した方向を目で追って見上げる。

 その高台にあったのは、錆びて赤茶けた鳥居が一つ――そして古ぼけて、こじんまりとした神社の本殿だった。

 いずれも、時間の流れを感じさせる傷み具合だ。しかし、まさか霊験あらたかな場所だから、鬼達が近づけないとは言うまい。


「あそこは晩年、被害妄想気味だった有力者が、身を隠すために拵えた建造物だ。狭いが、この人数なら余裕で一夜を明かせるだろう」


 高台に上がっていったユカリが、鳥居を潜り、神社の扉に手をかける。軋む音が鳴り、両開き扉はゆっくりと開いていく。

 隣に目をやると、真奈美の体調はますます悪化し、玉のような汗を流している。俺はそんな彼女に肩を貸し、一縷の望みをかけてユカリに続いた。

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