第二章
第二章 遭遇する脅威からの逃走劇その一
日本の屋根と呼ばれる長野県に入って、どれだけ経過しただろう。さっきから真奈美の運転で走っている山道は、幅が狭く曲がりくねっている。
まだ日こそ沈んでいないが、周辺の背が高い木々のせいで、陰気で薄暗かった。
運転席の真奈美は、というと。恐れなどまるで知らない顔をして、鼻歌を歌いながらカーナビの表示を確認している。
「もうすぐ着くよー。お腹空いたし、到着したらまずは腹ごしらえだね」
「ああ、特に反対はしない」
三日分の食料は、持ってきている。それが底をつく前に、テロ組織の大蜘蛛一族が村にいるかいないかだけでも、手掛かりを掴みたい所だ。
進行方向の先では、山間に肉眼でも確認できる小さな集落が見えてきている。
「あれが鬼巌村かな?」
「カーナビを見る限りは、そうだろうな」
目的地であるその村は、小さな盆地にひっそりと家々を建てて存在していた。
寂びれていて、建物の造りも昭和の初期頃に建てられたかのように思える。何はともあれ、一先ずここまでは無事にやって来られたことに、ほっと胸を撫で下ろす。
「念のためだ。もう一度、万事が上手くいくかを占ってみるとするか」
俺はシャッフルしたタロットカードの束から、一枚を指で引く。すると、今回、引き当てたのは、逆位置の女帝だった。
男がこれを引いた場合、女難を意味している。ただ、女といえば、ここには俺の隣で車を運転している真奈美しかいない、が――。
「わあっ! あ、危な……っ!」
真奈美が叫びながらブレーキを踏み、車が大きく音を立てながら急停止した。最初は、動物でも前方を横切ったのかと思った。――が、違う。
前を見ると、フロントガラスの向こう側にいたのは、一人の若い女性だった。しかし、こんな山の中で、女がたった一人で歩いていることに、違和感しかない。
さっき引いた逆位置の女帝――女難の暗示を思い出し、俺は用心しながらドアを開けて外に出た。
「あんた、こんな所で一人で何をしている? 誰か連れはいないのか?」
彼女は茶色に染めたロングヘアを手でかき上げて、切れ長の目で俺達をじっと見ている。
上半身には黒い革材のジャケットで、下半身も同様に黒いズボンという服装だ。
手にはトランクを持ち、敵意を向けてくるような怪しい動きは取っていない。だが、彼女は、俺達の前方に現れて轢かれそうになったのに、呑気に電子タバコを吹かしていた。
かなり肝が据わっている女だ。そう思っていた所、女性は俺達に対して頭を下げて謝ってきた。
「いや、すまなかった。私のせいで、驚かせてしまったかな。ちょっと仲間達と逸れてしまっていてね。皆を、探していたのだよ」
最初の印象とは違い、かなり礼儀正しい所作をしている。彼女は頭を上げた後、ジャケットのポケットから何かを取り出して、俺に見せてきた。
どうやらそれは学生証らしく、大学院生の秋山ユカリと書かれている。
年齢は真奈美より、やや上という程度だろうが、ずいぶん大人びた話し方だ。
ここでようやく真奈美も、車内から出てくると、彼女に笑いながら話しかける。
「僕らの方こそ、悪かったね。もしも女一人で困っているんなら、手を貸してあげよっか? こう見えても、僕はさ。警察の人間なんだよ」
真奈美は得意そうに警察手帳をユカリに見せながら、胸を張る。その際、俺は僅かな変化をも見逃すまいと、ユカリの観察を怠らなかった。
しかし、警察手帳を見せられても、彼女の表情に違和感は見当たらない。やましい目的があるなら少しでも動揺があると思っていたが、杞憂だったのだろうか。
「警察か。では、目的地まで送ってもらえないだろうか。登山サークルの仲間達と、そこで落ち合う約束をしていてね。皆は、もう着いているのかもしれない」
「それは場所次第になるが、あんたはどこに行くつもりだった?」
まだ疑いの目を向ける俺の問いにも、ユカリは事もなく答えてくれる。
「鬼巌村だよ。この辺りの名所と言ったら、そこしかないだろう。一部の人間にとっては、だがね」
それを聞くなり、俺と真奈美は顔を見合わせる。たまたま出会ったユカリの行き先も、まさか俺達と同じ鬼巌村だとは思わなかったからだ――。
こんな偶然の一致があるのかと思いはした。だが、確かにこの辺りに行く場所など、まだ少し遠いが、ここからも見えるあの村以外にないだろう。
どうも腑に落ちなかったものの、今は偶然の二文字で納得するしかなかった。本当はあまり気乗りしないが、きっと真奈美なら警察官として助けようとするはずだ。
「それは奇遇だな。ちょうど俺達も、そこへ向かう所だった。いいのか、真奈美?」
「いいに決まってるよ。こんな山中で女の一人歩きじゃ、どんな犯罪に巻き込まれるか分かったもんじゃないしさぁ。警察として、見過ごせないって」
予想通り、真奈美はそう言って、後部座席のドアを開けると、ユカリに入るように促す。その対応に、彼女は薄く笑って応じた。
「ありがとう。それでは、お邪魔させてもらおう」
「あ、そうだっ。まだ僕らの自己紹介をしてなかったよね。僕は君島真奈美、そしてこっちの子は……」
「俺は、九条ヨミだ。短い付き合いになるだろうが、よろしく頼む」
俺と真奈美の自己紹介に、ユカリはまた笑いかけてから車内に入る。俺達二人もそれぞれ運転席と助手席に戻り、再び車は鬼巌村へと出発していく。
道中、地面が砂利道になり始めたせいで、車体が何度も揺れ動く。やがて辺りが薄暗くなり始めた頃、ふと盆地にある村に目を向けると、明かりが見えた。
目の錯覚なんかじゃない。遠目に見える家々に、光が灯っている。廃村のはずだが、どうしてまだ電気が通っているのだろうか。
あそこに今も、まだ誰かが住んでいる。もしくは、訪れているのだろうか――と、思った矢先、すぐに光は消えて見えなくなる。
「今、村の方から人工のものらしき光が見えた。誰かがいるのかもしれない」
「む……。では、私の連れ達かもしれないな」
バックミラーで、そう発言した後部座席のユカリを見る。彼女は窓の外を眺めながら、落ち着いて電子タバコを吹かしている。
「おっと、失礼した。電子タバコの蒸気とはいえ、苦手だったかな」
「いや、構わない。ただ、あんたがなぜ鬼巌村などに行こうとしているのか、気になってな。もし良ければ、教えてくれないか?」
最初は不審者かもしれないと疑ったが、思い過ごしかもしれない。だから、今の質問は純粋な好奇心からだったが、ユカリは躊躇いなく話し始めてくれた。
「ん、そうだな。一言で言えば、あの村の鬼神伝承を調べようと思ったのだよ」
「鬼神伝承……ネット記事にも書かれていた、あれのことか」
「そう、ずいぶん尾ひれがつき始めているとも思うがね」
勿論、そんな伝承は作り話だろうが、ホラースポットになっているとあった。ユカリ達、登山サークルの目的も、それに近いものだということか。
「昔、あの村は鬼の集落だった……というのは、よくある話だがね。食すれば、鬼の如き膂力が手に入る果実を人に与える神が、そこにいたというんだ。江戸時代初期には、それを目当てにして大勢のもののふ達が集い、村は栄えたらしい」
「では、まさかその果実を食べた者が、鬼と呼ばれるようになったと?」
「そのようだよ。しかも、果実を食して、鬼となった者は、自分達の仲間を増やそうとするらしい。他の人間にも、果実を食べさせることでね。そうなると、必然的に鬼達と人間の間で、血みどろで凄惨な争いは起きることになる」
果実を口にした村人達が、仲間を増やそうとした――とは、初出の情報だ。ネット記事では鬼とは元から鬼であり、山を下りて人を襲うと記述されていた。
「最終的に戦火の拡大を恐れた当時の信濃国の信濃守が、兵を討伐に向かわせた。それによって、村人達は討ち取られたらしいがね。殺すことは叶わなかった鬼神だけは、魂と肉体に分け、それぞれいずこかに封印されたそうだ」
「あんたの知る鬼神伝承は、そんな顛末になっている訳だ。夢がないが、真実はどうせ国に害をなす無法者達を信濃守が討伐した、という所だろう」
「そうかね? ただ、私にとっては、信頼に足る理由があるんだ。それはね……」
俺と声を弾ませたユカリが話していると、真奈美がハンドルを大きく切る。そしてゆっくりと速度を落としてから、車を停車させた。
「さ、到着したよ、お二人さーん! 占いで出た場所で間違いないね、ここさ」
前方には確かに水晶玉で念視した、あの「鬼巌村」と書かれた看板があった。
ただ、想定より到着が遅くなり、すでに日が傾き始めている。今からどれだけ人探しができるか分からないが、現場からだと、更に正確な念視できるかもしれない。
そう考えた俺は車を降りて、トランクに積んだ旅行バッグの中を漁る。そして水晶玉を見つけて取り出すと、さっそく手を翳した。
「なあ、少年。それは何をしているのかね?」
後から遅れて車外に出てきたユカリが、興味深そうに横から覗き込んできた。その隣には、真奈美も一緒について来ている。
これからすることを隠す理由は、特にない。だから、正直に答えようとしたが、俺に先んじて真奈美が代わりに解説をし始めた。
「占いをしてるんだよ。もっと正確に言えば、念視かなぁ。この子は占い師でね、僕が探している連中のことを調べてくれようとしてるんだよ」
「念視? しかし、それは超能力であって、占いというものとは、別物なのではないのかね」
もっともな疑問だ。的中率は高めとはいえ、占いはただの技術に過ぎない。一方で、念視は、後天的に発現した特殊能力になる。
制限はあるものの、正確に場所や人の位置を探ることが出来てしまうのだ。ただ、あまり吹聴していないから、客はそれを知らずに占いの一環だと信じているが。
「確かに別物だな。念視は、トリックでも何でもない。俺の本物の能力だ」
「ふむ、まさか超能力なんてものが、実在したとは驚きだよ。どうやら私は運がいいようだ。試しに見せてくれると、有り難い。今からするつもりだったんだろう?」
「ああ、構わない。場に蓄積した情念や人の邪念が邪魔しなければ、俺達が探している人物、あるいはその取っ掛かりが映るはずだ」
俺はそう言うと、水晶玉に手を置いて軽く念じた。すると、強力な思念を送り込まれた水晶は、虹色の輝きを発し、どこかの景色を映し出す。
いや、違う。どこか遠方ではない。見えたのは、俺達三人の背中のようだった。
この村……それも別の位置から見た、俺達が今、立っているこの場所――。それが上下に揺れながら、不規則な足音や息遣いと共に克明に映し出されている。
「ねえ、ねえ、ヨミ君さぁ。これって、誰かの視界じゃないの?」
「……ああ、真奈美、用心しろ――っ! 後ろに何かがいるぞっ!!」
俺達は戦々恐々として一斉に、がばっと背後を振り返った。そこにいたのは、口から泡を吹きながら、焦点の定まらない目をした人間、か――?
全身の筋肉は肥大化し、顔色は青紫に染まり、目はうっ血している。そいつを辛うじて人間の男性と判断できたのは、警察官の制服を着ているからだ。
「警察官……っ。おい、真奈美。あんた、同僚に応援を頼んだのか?」
「ううん、君も聞いてたから知ってるでしょ。ここに来る途中、うちの課に電話したけど留守だったから、留守電に鬼巌村に出向くって入れといただけ」
真奈美は首を振りながら、それを否定する。そう、改めて確認してみたが、道中、俺の方からそうするように忠告したのだから間違いない。
「では、君と同じ警察官だが、顔見知りじゃない、ということかな?」
「うん、そういうことみたいだねっ」
ユカリが質問し、真奈美はそう答えた。異形の制服警察官は、俺達が固唾を呑んで動向を注目する中、ふらふらした足取りで近づいてくる。
そしてこちらに残り数メートルまで接近した後、ぴたりと動きを止めた。濁った両眼が俺達に焦点が定まり、彼の大きな体躯が一度だけ大きく痙攣する――。
すると、まるでそれが合図であるかのようだった。瞬間、警察官は今までの緩慢な動きが嘘のように走り出し、拳に強烈なスピードを乗せる。
そのまま凝視した俺達の方に接近しながら、拳を振り抜く――!
「まずいっ、避けろーーっ!」
俺が咄嗟に庇ったのは、真奈美ではなく、一般人のユカリだった。押し倒すように、揃って地面に倒れ込む。
直後に、凄まじい破壊音が辺りに響いた。放たれた警察官の拳は、命中したセダンの車体をひしゃげさせ、吹き飛ばす程の威力を見せたのだ。
「ああっ。セダンが! まだまだローン返してないのにー!」
やや間を置いてセダンが、跳ねて真っ逆さまにひっくり返った。そんな壮絶な光景を目の当たりにさせられ、血が凍り付いたように背筋が寒くなる。
ユカリに覆い被さったまま俺が顔を上げると、真奈美が反転攻勢に出ていた。
「こんのぉっ……!! セダンの恨み!」
「やる気か、あいつは――っ」
真奈美は鼻息を荒くし、走りながら警察官の顎を勢いよく蹴り上げた。彼の巨体が宙を舞い、大きな音を立てて地面と激突する。
そのまま何度も警察官は、びくんびくんと小刻みに痙攣して、再び立ち上がるのに十数秒の時間を要した。
「驚いたな。何だ今のは……女性、いや、人間の力を大きく超えていないかね」
真奈美の戦闘力を目撃したユカリは、感嘆したようにそう漏らす。
「真奈美は生まれつき、心のブレーキが働いていない」
「何だって?」
「つまり、一度、決断すれば何をするにしても全力全開で、常に火事場の糞力が働いているようなものだ。彼女の所属する課は、ああいった常人離れした特異体質の持ち主だけを集めているんだよ」
「ほう、まさかそんな存在があるとはね。何とファンタスティックなのだろうな」
俺が身体を起こすと、折り重なっていたユカリも一緒に立ち上がる。見やると、あの警察官は、まだ戦闘不能になった訳じゃなかった。
人間なら即死していたかもしれない、あの蹴りを耐えてのけたのだ。戦意はまったく失っておらず、今も獣染みた唸り声を上げている。
そんな姿を見て、脳裏を過ぎったのは、村に伝わるあの伝承のことだった。
「鬼……まさかな。そんなものが、この世にいてたまるものか……っ」
ただ、真奈美は実際にそんな鬼染みた相手に対して、戦闘続行の意思を見せている。一方の俺は、敵の正体が知れないまま戦うのは、分が悪いと判断していた――。
だから、彼女に駆け寄って、背後からその腕を掴んで引き止める。
「待て、深追いはするなっ」
「何で止めるのさぁ、ヨミ君!」
真奈美が顔だけを俺に向け、納得がいかないのか歯噛みしている。
「村にいる化け物が、こいつ一人とは限らないからだっ。タイマンでは勝機があっても、徒党を組んで来られたらどうなるっ!?」
「で、でもぉ……!」
まだぐずって意見を変えない真奈美を、俺は力ずくで無理やり引っ張っていく。
そのまま逃げるために、警察官と反対方向に向かって走り出す――が、後ろではユカリが、逆さまになった車のトランクから旅行バッグを取り出してくれていた。
有り難い、食料も道具もあれに入っているのだから。気を利かせてくれた彼女に感謝し、俺達三人はこの場から一目散に逃げ出した。
「もうっ、覚えてなよっ! 後で、必ず舞い戻って決着つけてやるからさぁ!」
俺達は鬼巌村の、更に中心部に向かって走っていく。
ユカリの仲間達のことは分からないが、あの化け物以外の警察官……。俺の予想が正しければ、警察官は複数人で来ているはず。
だとしたら、まだ正気を保った者もどこかにいるんじゃないのか――?
「ちっ、俺達が明朝まで生存できる確率、二十一パーセント、か。……だが、十分だ。一人の犠牲も出さずに生き延びてやるさっ」
走りながら引いたタロットカードから直感で生存確率を割り出し、俺は誰に言うともなく、そう吐き捨てた。
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