雪降る夜の一夜酒

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雪降る夜の一夜酒

 綿のような雪が降っていた。

 その光景は、まるで夢の中のようだった。

 空は灰色で、太陽も月も見えなかった。

 天気予報によれば、午後から急に天候が崩れて夜から未明にかけて吹雪になるらしい。

 この辺りの積雪量はそれほど多くないが、それでも積もり始めれば10cmくらいにはなるだろう。

 白く雪化粧にそまりつつある町を抜け、学ラン姿の少年が山道へと向かっていた。

 身長は170cm程。

 育ちのいい近ごろの子供からすれば、決して高い方ではない。

 痩せた体つきをしていたが、ひ弱な印象はない。

 樹木が持つ柔らかで、温もりを感じさせるせいだろうか。どことなく大きく、根が張ったような落ち着きが感じられるのだ。

 顔立ちは整っているが、表情がない。

 無表情という訳では無い。

 顔も姿も含めて直感的なものを、あえて言葉にするなら巌、だろうか・・・・。

 四季が移り変ろうと、雲が流れようとも、霧に包まれても、雪に覆われても、動かない、動じない。

 そんな静けさと力強さを感じさせた。

 少年の名前を、天神聖治あまがみせいじと言った。

 肩掛けの学生鞄を肩に担ぎながら、彼は学校指定のスクールコートとマフラーに身を包み、足早に歩いていく。

 白い息が気温の低めな外気に触れて一瞬だけ現れ、そして消える。

 午後を下って夕方前だというのに、既に周囲は薄暗くなっていた。

 日照時間の短い冬だから仕方ないのだが、それに加えて天気の悪さも影響しているようだ。

 鉛色の空を見上げ、聖治は呟くように言った。

「今夜は冷えそうだな」

 雪景色の中で独り言を言うその姿は、どこか寂しげだ。

 しかし、誰も見ていない場所でのことだし、別におかしなことは何も無い。

 黄昏る。

 聖治にとってみれば日常の一コマに過ぎなかった。

 やがて山の入口に着くと、聖治は足を止めた。

 少し曲がりくねった道先に、1人の女性の姿を見たからだった。

 淡い桜色の色無地の着物を召した女性。

 年齢にして20歳あたり。

 色白な肌は雪のように透き通り雫が転がるように滑らかで、艶やかな黒髪は烏の濡羽色のようにしっとりとしていた。

 その黒髪セミロングをシニヨンに結い上げてお団子を作り、ゆるっとした後れ毛を耳横に垂らしている様は、なんとも色っぽい雰囲気があった。

 背丈はやや高めだが、すらりとした体型のため長身という程でもない。

 同性の者ですら魅了されそうな美貌を持つ女性の姿は、花に例えるなら百合の花のように気品と優美を持っていた。

 名前を天神弥生あまがみやよいと言った。

 弥生は、蛇の目傘を差していた。

「姉貴」

 聖治は弥生の姿を見かけるなり、そう言葉が漏れる。

 すると弥生は、聖治の方へ、ゆっくりと近づいてきた。

 そして、聖治の前で立ち止まると、優しい声で話しかけてきた。

「お帰り。聖治」

 そう言って彼女は傘を傾けると、弟の聖治の頭の上にあった雪を軽く落としてやった。

 聖治は無表情のまま何も言わず、ただ黙ってそれを受け止めるだけだった。

 その様子を見て、弥生は微笑する。

 まるで子供みたいだとでも思ったのだろう。

「こんなに雪が降ってるのに、何でこんな所に居るんだよ」

 聖治がぶっきらぼうに言うと、弥生は口元に手を当てクスリと笑う。

 それから、悪戯っぽく目を細めて答えた。

 どうやら聖治の反応が面白くて仕方が無いらしい。

 一方の聖治は、そんな姉の態度に苛立ったのか眉間にしわを寄せたが、すぐに諦めた様子で小さく溜息をつく。

「傘。持って行ってなかったでしょ?」

 そう言いながら弥生は、持っていた傘を弟に差し出した。

 すると、弥生は少し顔をそむけ、口元を覆う。

 しゅん

 と、小さくクシャミをした。

 それを見て、聖治は慌てて自分のマフラーを姉に巻いてやる。

「ショールぐらい羽織って来いよ」

 聖治は素っ気なく説教をする。

 突然の出来事に、弥生は驚いた顔を見せた。人肌に温まったマフラーが首周りを温めてくれる。

 弥生は嬉しさを隠しきれず頬を染める。

 その瞳には、うっすら涙が浮かんでいた。

 聖治は何も語らず気恥ずかしくて、そっぽを向いていた。

 そして、弥生が持つ蛇の目傘を手に取ると、それを姉の方へと傾けた。

 相合い傘だ。

 聖治は左手に傘を持ち、右側に聖治、左側に弥生が立つ形になった。

 2人は寄り添いながら歩き出す。

 雪を踏みしめ、山道を登っていく。

 その道は、家がある方向だった。

 2人の家は、山道を登った先にあるのだ。

「姉貴さ。迎えに来るんなら傘は、二本用意しておいてくれよな」

 聖治の言葉を聞いて、弥生はクスッと笑う。

 それから少し申し訳なさそうに言った。

「ごめん。すれ違いになったら、荷物になると思ってね。それに……」

 そこまで言って、弥生は言葉を止める。

 何かを考えているような顔つきだった。

「なんだよ。続きは? 気になるだろ」

「ふふ。秘密」

 聖治が促すと、弥生は意味ありげに微笑んだ。

 そんな姉の反応を見て、聖治は苦虫を噛み潰したように表情を歪めた。

 この姉はいつもこうなのだから、と内心思っていた。

 肝心な事は教えてくれない。

 それは、昔から変わらない事だ。

 だから、聖治も深くは追及しない。

 別に今更知りたいことでもないし、何より、あまりしつこく聞いてしまうと、機嫌が悪くなるからだ。

 聖治は諦めて、話題を変えることにした。

「ところで、今日はどうだった?」

 聖治は、弥生の顔を見て尋ねた。

 すると、弥生は少し困ったようにしてから答える。

「簡単な仕事よ。相変わらずね」

「そうか。大変だったな。お疲れ様」

 聖治は理解した。

 弥生は聖治の右肩に雪が積もりかけているのを見た。対して自分は、聖治が傘で雪が被らないようにしてくれているのだと。

 その優しさを感じ取り、弥生はまた嬉しくなった。

 聖治が、自分を大切に思ってくれている証拠でもあるからだ。

 しかし、その気持ちを上手く表現することが出来ず、弥生は誤魔化すように言葉を紡ぐ。

 どこか恥ずかしそうな様子でもあった。

「聖治。もう少し、傘の中に入りなさいよ。あんたの方が雪に濡れちゃうじゃない」

 弥生は弟の右肩に手を添え、自分の方に引き寄せる。

「お、おい」

 聖治は姉との距離が近くなりすぎることに戸惑う中、雪道で弥生の足元が滑った。

 そのまま、聖治の方へ倒れこむ。

 そして、聖治の胸に顔を埋める形で抱きついてしまった。

 弥生の柔らかい胸の感触が服越しに伝わり、聖治は慌てて姉を引き剥がそうとする。

 だが、弥生は足元が突然滑ったことに取り乱した為か、離れようとしなかった。

 むしろ、さらに強く抱きしめてきた。

 聖治は困惑したが、雪道で転ぶのは危ないと思い、とりあえずは弥生がケガをしないように、その体を支えてやる事にした。

「……まったく。姉貴はドジなんだから」

「ごめん。ありがとう」

 聖治が呆れた声で呟くと、弥生は照れくさそうに謝りながら、お礼を言う。

「仕方ねえな。少し古神道こしんとうの術を試してみるか」

 そう言って聖治は、傘を弥生に預けて身を離す。


 【古神道】

 それは、太古の昔から受け継がれた日本人の知恵。

 教義も経典もない。あえて宗教とするなら、教祖は神であり、大自然が経典、教義は大自然や人から謙虚に学びながら自分を作っていく。

 その歴史は古く、旧石器・縄文時代に遡る。

 古墳時代以降、天皇家や有力豪族は伯家、物部、中臣、吉田(卜部)、出雲などそれぞれの古神道を創設する。

 しかし、大陸から陰陽道や仏教が伝わると、その霊性は地下水脈として潜り、日本人の表面上から消えていった。

 現在の神社神道は、明治時代に祭式が統一された儀礼中心の神道。

 それに対し、古神道は、神道の持つ普遍的な霊性や幽冥観を重視し、まじないや呪文、印、呼吸法・行法もある。


 聖治は目を閉じ、集中し始める。

 すると、聖治の周囲の空気が変わった事に弥生は気付いた。

 聖治は右掌を上方に向け、五指は軽く開き伸ばす。

 左手は物を掴むかのように指先によで、右掌の中央部に付けた。

 古神道における地印つちのいんであった。

 密咒を弥生にだけ聞こえる小声で唱える。


 地成くになりて 地載くにのするより

   世界よさかる 地尾つちのをの神 皇太神すべらおほきかみ


 すると、白く染まった山道の雪が風に吹かれたように舞い上がり、道の奥まで続いて行った。

 まるで見えない手によって、雪が取り除かれたかのような光景だった。

 先程まで雪に覆われていた足元は、綺麗な地の道に戻っていた。


 【地印】

 この秘印は、天地の運行と密接な関係を有する重要な神印だ。

 人間がいかに祈ろうと、絶え間ない努力を続けようと太陽は東から上がり西に沈む。

 天地の間のことは、神々の密作によるものであって、一個人によってどうにもなる問題ではない。

 しかしながら、微々たる人間といえども、その本性においては天御中主神の一霊を享けて生まれた小宇宙である。

 よって、この秘印を結んで祈ることによって、天地の間における万物の生成化育に多大な影響を与えることができる。


 聖治が行った術に、弥生は驚いていた。

 それは、足元を滑らせる原因を取り除くものであったからだ。

「さすがね。天神家の古神師、次期当主」

 弥生は、素直な感想を述べた。

 天神家は、古神道の行法を代々継承してきた家系であり、聖治はその跡取り息子なのだ。

 古神道は神伝相承といって、師匠が口伝形式で高弟に秘伝を授ける。通常は、道統は一子相伝で嫡男に伝えられる。道統の継承者が家元となる。

 聖治はまだ修行中の身ではあるが、それでも既に多くの行法や秘術を習得していた。

 弥生は弟を誇りに思うと同時に、少し寂しくも感じていた。

(私が教えられることは、もう何もないかもね)

 そんな事を思う。

「姉貴が俺に叩き込んだんだろ」

 聖治は、ぶっきらぼうに言い返す。

 聖治にとって、自分ができて弥生にできないことはないのだから、それを当たり前の事だと思っていた。

 しかし、弥生は何も言わなかった。

 聖治は、姉の反応を見て、自分が言った言葉が少し意地悪だと気づく。同時に、弥生が自分を褒めてくれた事が嬉しかった。

「帰ろうぜ。凍えちまう」

 聖治は傘を取ると、弥生に向かって蛇の目傘と共に左腕を差し出す。

 でも、視線は合わせず、そっぽを向く。

 弥生は、意味を理解すると、表情を和らげて右腕を聖治の左腕に絡めた。

 聖治は弥生を伴って歩き出した。

 今度は最初から身を寄せるのを許していた。

 二人は寄り添い、雪が降る中を、ゆっくりと家路についた。

「姉貴と相合い傘なんて、恥ずかしいな」

 聖治が呟く。

 聖治は照れくさそうにしていたが、嫌そうな様子はなかった。

 むしろ、聖治はどこか楽しそうにも見えた。

 聖治は昔から、姉には頭が上がらないところがある。

 弥生は、弟の顔を見つめながら思った。

 聖治は、弥生にとっては可愛い弟であり、守るべき存在だった。

 それは今も変わらない。

 ほんの少し前まで、子供と思っていたのに、もう背を追い越されてしまい、今となっては、その身長差は頭一つ分もあった。

 だが、その表情や仕草は昔のままだった。

 そのことが、弥生はとても愛おしいと思った。

 今日は、それを実感したくて傘を一本しか持ってこなかったと言えば、きっと聖治は呆れるか、怒るだろう。

 それ程。聖治は姉との距離を隔てる傾向がある。

 だがら、今日は雪を逆手にとってやった。

(男の子って、成長が早いのね)

 自然と弥生の表情がほころぶ。

 その笑顔は、聖治が初めて見るものだったかも知れない。

 普段、あまり表情を変えず、クールな印象を与える弥生だが、今の彼女はとても優しい顔をしていた。

「私も、弟となんて、ちょっと恥ずかしいわ」

 弥生は、聖治を見上げて照れくさそうに笑む。

 それから、聖治の腕に抱きついたまま、しばらく黙って歩いていたが、不意に思い出したかのように口を開いた。

「ねえ、聖治。今日の夕飯は何が良い?」

 突然の質問に聖治は少し戸惑う。

 すぐに思いついた物を口にした。

「寒いから、うどんとか食べたいかなって……」

 弥生は微笑む。

「じゃあ。鍋焼きうどんなんてどう? 温まるわよ」

 弥生の提案に聖治は賛成する。

 そして、アレも追加した。

「ああ。アレね。寒くなってきたもんね」

 弥生は納得して、料理の具材を考える。

 程なくして、二人は家へと着いた。

 山林の奥に、建てられた家は、雪化粧をした木々に囲まれ、神社のようにひっそりと建っていた。この家が、天神家の住居であった。

 家屋からは、暖かな光が漏れていた。

 弥生は、玄関を開けると、聖治と共に帰宅を告げる。

 と言っても、姉と弟の二人暮らしなので、あいさつはただの形式的なものでしかない。

 聖治は部屋着に着替え、上着には半纏はんてんを羽織る。

 弥生も浴衣に着替えて夕食の準備をする。

 冬に浴衣とは変ではあるが、浴衣が現在に近い用途になったのは江戸時代。

 銭湯の普及に伴って庶民の間に入浴の習慣が広まり、現代で言う所の、お風呂上りにバスローブのような感覚で浴衣を着るようになる。

 その後、主に部屋着として定着。

 今のように日中の普段着として着られるようになったのは、明治時代以降だという。

 浴衣は着物より手軽に着付けができ、浴衣の素材は基本的に木綿、もしくはポリエステルなどの化繊がほとんど。自宅で洗濯ができるので洋服と同じような感覚で手入れができる。

 そこで浴衣の裏地にニットキルトを付けた、冬用浴衣を弥生は自作している。それでも寒ければ、下に着込むことで寒さを防ぐ事ができる。

 弥生の着物好きは幼少から続いており、和裁の腕前はプロ級であった。

 弥生は、暖色系の茜色あかねいろの浴衣に着替えて食事の用意をした。

 聖治と弥生は、椎茸、長ネギ、鶏のつみれ、油揚げ、かまぼこを具材にした鍋焼きうどんを一緒に食べ始めた。

 いつもながら、弥生の料理は美味しかった。

 特に、今日は身体が冷えていただけに、熱い鍋焼きうどんは絶品だ。

「おいしい」

 聖治は、味わいつつも夢中で食べた。

 そんな弟の様子を、弥生は嬉しそうに見つめている。

 おいしい。って言われながら、大切な人と食べる。これ以上の幸せはあるのだろうか。弥生は思う。

 聖治と弥生は食事をしながら、今日あった出来事を話す。

 学校での出来事や、仕事での出来事。

 二人は、それぞれを楽しげに、同意を示すように聞いていた。

 聖治が食事の片付けを行い、それが済むと、弥生はお盆に湯呑を二つと急須きゅうすを乗せて炬燵こたつのある居間にやってきた。

 酒の香りがする。

「おまたせ」

 弥生が持ってきた湯呑を見ると、白い液体が入っていた。

 甘酒だ。

 冬の定番とも言える飲み物だろう。

 だが、俳句において夏の季語となっている。うだる暑さに、滋養をつけるため、甘酒は庶民にとって身近な栄養源だったのだろう。甘酒は、半日で造れることから「一夜酒ひとよざけ」とも呼ばれた。

 江戸時代前期までは夏の飲み物としてとらえられていた甘酒が、江戸時代中期には、おもに冬に売られていた。

 その様子は、松尾芭蕉の『寒菊や 醴造る 窓の前』という俳諧をはじめ、当時の笑い話を集めた噺本『坐笑産ざしょうみやげ』や『富来話有智ふくわうち』などに冬の物であることが記されている。

 そして、この家では冬になると飲む事が多い。

 冬の風物詩になっていた。

 聖治は、弥生に礼を述べる。

 弥生は、聖治の入っている炬燵の席に対し斜向かいに座る。

 聖治は甘酒を一口飲む。

 それは、いつもと同じ味だった。

 甘酒といえば、大きく分けて2種類のものが主流だ。

 酒粕に水と砂糖を加えて造るものと、米麹から造るものがある。

 酒粕から造ると微量にアルコールが含まれるが、米麹から造る甘酒には、アルコールは含まれず、子どもも安心して飲むことが出来る。

 弥生の作る甘酒は、米麹から作ったものだ。

 麹菌の発酵によってブドウ糖から甘みが作られる為、砂糖を加えなくても発酵による自然な甘味を感じられるのが特徴だ。

 そして、原材料から作るためか、何より心地良く感じるのが、この香りだ。

 アルコール臭と言ってしまえば、それまでだが、丁寧に語るなら色々な言葉がでる。

 青りんごに似た爽やかな甘い匂い。

 マスカットの香り。

 梨の果実香。

 華やか花の蜜にも似た芳しい芳香。

 それらが混ざり合った独特の薫香だ。

 その味わいも素晴らしい。

 気づかぬ程の微かな酸味と、ほのかに残る米由来の優しい風味。

 それでいて後味はスッキリとしている。

 まるで、疲れた体を労わってくれるような優しさがあった。

 甘くて、温かく、香る。

「美味しい。姉貴に作る甘酒は世界一だな」

 聖治の言葉に、弥生は微笑む。

 照れ隠しに、遠慮がちに「バカ」と返しておいた。

 弥生も、自分の分を飲む。彼女も、世界一はともかく、おいしさは同じ感想を持った。

 二人はしばらくの間、無言で甘酒を飲み続けた。

 そして、飲み終わる頃、弥生が口を開く。

「見て聖治」

 弥生は縁側から見える雪景色を指し示す。

 その言葉を受けて、聖治は正面に広がる庭を見る。

 そこには、雪が降っている光景があった。

 雪は、まだ降り続けているようであった。

 最新の天気予報によれば、今夜から未明にかけて大雪になるらしい。買い物は弥生が午前中に済ませていたので、特に問題はなかった。

「明日が土曜日でよかったよ。学校も休みだし、買い出しも行かなくて済むな」

 聖治が呟く。

 弥生は微笑んで同意した。

「そうね。こんな夜なら、雪見酒も悪くないわ」

 弥生は、急須きゅうすを少し揺すってから、空になった湯呑に二杯目を注ぐ。

 弥生は、聖治の湯呑に、さらに自分の湯呑にも注いでいく。それから、弥生は自分の湯呑を手に取ると、聖治の方に差し出した。

 聖治は、弥生の意図を理解して彼女の差し出す湯呑に、自分の湯呑を合わせる。


 カチン

 

 と小さな音がした。

 乾杯の合図。

 弥生は、甘酒に息を吹いて飲んだ。

 聖治も甘酒を口に含む。

 そして、再び雪が降る庭を見た。

 その横顔に弥生が話しかける。

 聖治の横顔を眺めながら。

 彼女は、どこか楽しそうな表情を浮かべていた。

 弥生は、聖治に言う。

「雪が綺麗に見えるのは、降って積もっている間だけなのよ。

 いずれ、すぐに溶けて消えてしまう。だから、私達は、そんな美しいものを目に焼き付けようとするんじゃないかしら。今、この瞬間しか見る事のできない光景を」

 聖治は、弥生の言葉を聞いて思ったことを口にする。

「確かにそうだ。でも、俺達が忘れなければ、きっと何度でも見ることができるはずだ。だって、今日見たこの景色は、永遠に記憶の中に残るものなのだから」

 聖治は、甘酒の中に映る自分を見つめて言った。

 弥生は、聖治の言葉に対して、何かを言うことはなかった。

 ただ、弟と。

 家族と一緒に居られる細やかな幸せに静かに笑みをこぼしていた。

 二人は、しばらく黙ったまま庭の雪景色を見ていた。

 静寂の中、二人の湯呑に、甘酒を注ぎ足す音だけが響いていた。

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