また会う日まで
「どうだったって、また抽象的な質問だね」
「あ、ごめん」
「謝ることじゃないでしょ。ただの感想だよ」
柔らかな笑み。
細められた瞳は優しい色をしていて、胸が鳴る。
「俺も聞きたい」
「えー……そんな期待するようなものでもないと思うんだけど」
うーん、と柳生くんは言葉を探すように目を動かす。
「この一ヶ月も、だし、それまでの八年間くらいも、なんなら高校くらいから。ずっとずっと長い夢を見てるみたいだった、かな」
「夢?」
問い返せば、柳生くんはうなずく。
「そう、夢。それが、これから覚めちゃう感じ。ずっと楽しいことばかり、とはいかなかったけれど、幸せを感じる時間は、それまでよりも遥かに多かった」
茶色い瞳が、遠くを見る。
諦めの色がそこにはあった。
「目的は、達成できたのか?」
目的。
柳生くんが今ここにいる目的のことだ。
柳生くんの視線が、ゆっくりと木津くんへと向いていく。
「どうだろう」
柳生くんは私を見て、また木津くんへと視線を戻し、曖昧に微笑む。
「もう、二人とも色々と秘密を共有したから、言うけれど。僕には二つ、目的があった。一つ目は、田所さんが持っている、死にたいっていう感情……希死念慮を、軽くすること。二つ目は、木津の中から、俺への罪悪感を消すこと。その二つがちゃんとできたら、二人は幸せになれると思ったから」
微笑みが、かすかに歪む。
瞳の諦めの色が、更に濃くなった。
「結局、虻蜂取らずというか。中途半端に引っ掻き回すだけになっちゃったね、ごめん」
「謝るなよ」
私が口を開くより先に、木津くんが言葉を放った。
その声は、三人でイルミネーションを見た帰り道に聞いたのと同じ、深い悲しみと怒りを乗せた、重たい声だった。
「確かにまだ、俺はお前に対して罪悪感を抱いている。でも、それで幸せになれないなんて、そんなことはないだろ」
「じゃあ、木津は今、幸せなのかよ」
「幸せだ」
即答だった。
「俺は生きているし、田所もいる。お前を失ったことをちゃんと覚えているし、思い出すたびに、罪悪感と後悔とが胸を刺すが、それくらい、大切な人がいたってことだろ。十分に幸せだ」
どこか言い聞かせるように木津くんは言葉を紡いでいく。
その目は今まで見たことがないくらい真剣だった。
なんとしてでもこれだけは伝えないといけない。
そんな強い意志を感じた。
「お前が、俺や田所を幸せにしたいって俺に言った日から、俺はずっと、俺自身の幸せについて考えてたんだよ。考えるたびに、真っ先に浮かぶのはいつだって、ここにいる三人で過ごした日々だった。お前を失った今は、そのときとまったく同じ幸せはもう来ない。そんなこと、わかってるんだ。でも、同じ幸せが二度と来なくても、俺も田所も生きている。環境も、人間関係も、自分自身も、生きている限り変わっていくんだ。いいも悪いも関係なく。幸せの形だって変わっていく。俺は」
木津くんはそこまで言うと、一度口を閉じた。
言うことは決まっているのに、言いたくない。
言ってしまうのが、怖い。
そんな、悲痛な表情だった。
「木津」
静かに柳生くんが木津くんの名前を呼ぶ。
「いいよ、言ってよ」
木津くんはしばらくうつむいた後、ゆっくりと柳生くんを見た。
「俺は、明日から続く俺の幸せの中には、お前はもういない。それも含めて、罪悪感ごと抱えて生きていく。抱えていたって、俺は幸せになれる。……もちろん、お前がいれば更に幸せだったろうけどな」
そして木津くんは笑った。
木津くんにしては珍しい、自嘲するような笑みだった。
「それなら、もっと幸せそうな表情で言いなよ」
そう言う柳生くんは、悲しみや、安堵や、その他いろんな感情を混ぜ合わせたような、そんな笑みを浮かべていた。
「それができたら苦労しない」
「強面だからね」
「だな」
「俺に関しては、無駄骨だったな」
「ひっどい」
「でも、一緒にいられた時間は、間違いなく幸せだったよ」
「……それならよかった」
やっと木津くんが、安心したように目尻を下げて微笑む。
温かくて、悲しい笑みだ。
「田所は?」
「私、は」
木津くんに振られて、私は考える。
「この一ヶ月、一緒にいられて、間違いなく幸せだった。それは絶対」
胸の中にいる感情は消えていない。
明日から、いつだって支えてくれていた柳生くんがいない中で、その感情がどうなるのか、なんてわからない。
ここで、もう大丈夫だよ、と本心から言ったとしても、明日感情に飲み込まれてしまう可能性だって、否定はできない。
だから、大丈夫、なんてすぐには言えなかった。
柳生くんと一緒にいられた一ヶ月は、本当に幸せだった。
それは、嘘ではない。
柳生くんと、そして木津くんと出会えたこと。
その二人と、高校を卒業したあとも会うくらい、仲良くなれたこと。
失うことが怖いと思えるくらい大切な人ができたこと。
それはすべて幸せなことで。
それはすべて、胸の中にこの感情を、希死念慮を抱いていても感じられていた幸せだった。
「正直、抱えている感情が軽くなったかどうかは、わからない」
きっと、基本的な重さは変わってはいない。
「でもね、抱えていても、ちゃんと幸せを感じられていたよ。それじゃあなんの解決にもなっていない、なんて言われたら、もう黙るしかないんだけど。でも、今の私はきっと、この感情を抱いていても、幸せになれる。それは、今までずっと柳生くんが吐き出させてくれたから。そもそも、初めて話したあの日、二人が助けてくれなかったら、私はここにはいなかったかもしれない」
高校二年生のあの日。
学校のベランダから落ちかけた私を、二人は助けてくれた。
景色の一部だったクラスメイトたちから、二人の友人になったのは、そこからもっと時間が経ってからだけれど、あの日のことがなければ、友人になることはなかっただろう。
それどころか、私が死んでしまっていた可能性もあるけれど。
「死にたいって感情を抱いているのはすごく苦しいし、それを捨てたいのに捨てられないのも、起こった出来事に対して収まる感情が常にそれなのも、そんな自分も、本当に嫌になる。その感情を抱えていることだけを見れば、確かに幸せではないのかもしれない」
でも、と私は続ける。
「私の感情は、それだけじゃない。苦しいけれど、でも、死にたくなることだけが起きるような世界じゃない。それに」
私は意識して微笑む。
今までのお礼を込めて。
「死にたいって思ってても、生きていていいんでしょ」
「……そうだね」
柳生くんは、過去のその出来事を思い出すようにうなずいた。
苦しいからって、幸せになれないわけじゃない。
幸せだからって、苦しくないわけじゃない。
きっと、死にたいって思わなくても、苦しい、はたくさんある。
でも、それでも生きていていい。
つまりは、簡単には死ぬなよって言われているようなものだけれど。
死なないでほしい、という願いでもあるのだろうけれど。
「柳生くんの目的は果たせなかったかもしれないけど、でも、私はまた会えたことが嬉しかった。幸せだったよ」
生前最後に見たのと同じ背格好の柳生くんを、じっと見つめて言う。
こうして見ていると、柳生くんだけ一人、時間に取り残されてしまっているように見えた。
「……無駄には、ならなかったのかな」
つぶやくような声は、まるで迷子のようで。
「少なくとも、俺と田所にとってはな」
「そっか」
息を吐くような声。
柳生くんの横顔は、すごく儚くて。
夜空に吐いた白い息のような、そんな頼りないものに見えた。
呼び止めないと、それこそ消えてしまいそうで。
だけど、呼び止めていいものなのかもわからなくて。
ただ、じっとその横顔を見つめることしかできなかった。
しばらくして、柳生くんはおもむろに口を開いた。
「思い通りにいかないものだね」
「そら、俺たちは他人だからな」
「確かに、それもそうか」
ふっと吹っ切れたように笑うと、柳生くんは頬杖をついて、木津くんを見上げた。
「なんだよ」
「僕ね、木津のこと、人として結構好きだったよ」
「唐突だな」
「駄目だった?」
「驚いただけだ」
「そ」
ならよかった、とニコニコしながら柳生くんは言う。
そして今度は、私のほうを向いて、微笑んだ。
「田所さんのことも、結構好きだったよ」
「それは」
「人としてってことにしておいて」
一瞬笑顔が切なげに見えたのは、私の見間違いかもしれない。
もしかしたら、そうだったらいいな、という願望が、そう見せたのかもしれない。
「僕は、二人のことが本当に大切で、大好きなんだ。だから、絶対に幸せになってほしかった。でもそれって、僕がどうにかするものではないし、僕にどうにかできるものでもないんだなって、なんか、今になってわかったかも」
そう言って笑う柳生くんの顔には、もう儚さはない。
高校生の頃よく見ていた、柔らかい笑顔だった。
「できるだけ長く生きて。また会ったとき、一か月なんて時間じゃ足りないくらいの思い出を聞かせて。楽しみにしてるから」
私たちがうなずくと、柳生くんは満足げにうなずき返してくれた。
それは、ほんの一瞬のことだった。
柳生くんの輪郭がぼやけたと思ったら、瞬きする間に消えてしまった。
コーヒーカップが一つ、ポツンと置かれている。
「消えたな」
木津くんが、静かに言う。
「いなくなっちゃったってこと?」
「そうだな。気配も、もうない」
「……そっか」
もう、柳生くんには会えない。
湧き上がってきそうな感情を押し殺すように、コーヒーを一口飲む。
「冷めちゃった」
「新しいの、頼むか?」
木津くんの言葉に、私は首を横に振って、微笑んだ。
「今は、これがいい」
コーヒーの冷たさだけが、柳生くんとの時間が確かに存在したのだと、そう証明してくれているような気がしたから。
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