誤解
高校三年生になって、二人とクラスが別れた。
それだけ、と言えば、ただそれだけ。
今までだって、一緒にいた人たちと次の学年では別クラス、ということは沢山あった。
だけど、それとはまた別の寂しさというか、切なさというか。
あるはずのものがなくなってしまった。
そんな喪失感が、心の中にあった。
別クラスも集まるような授業や集会、説明会なんかでは姿を見るのだし、会おうと思えばすぐに会える距離なのに。
なんとなく、他クラスの教室に行って異性を呼んでもらうのは、ハードルが高かった。
そのため、こちらから会いに行くことはなかったし、おそらく向こうも同じ理由で、会いには来なかった。
だからこそ、文化祭を一緒に回らないか、というメールをもらったときは、嬉しかった。
結局、委員会が忙しすぎて予定が合いそうにもなかったので、断ってしまったけれど。
実際、文化祭当日は目が回りそうなほど忙しかった。
場所を訊かれれば案内をし、イベントがあれば観に来た人の波を整理し、トラブルが起きれば対処するために駆けつける。
いわゆる文化祭専用のなんでも屋になるわけだ。
そんなわけで忙しなく走り回っていた文化祭も、あともう少しで終わる、というときだった。
私は、迷っている人がいないか見回るために、比較的人が少ない校舎裏を歩いていた。
「あの、すみません」
「はい、なんでしょ、う、か……」
呼ばれて振り向いて、思考が停止する。
私に声をかけた本人は、微笑みを浮かべていた。
「久しぶり、未結」
それは、私を連れて線路に飛び込もうとした、中学生時代の友人だった。
あのときを思い出したのか、心臓が暴れ始める。
気を抜けば、手足だって震えそうだ。
強張っていく表情の中、なんとか口角だけでも上げる。
「久しぶり。どうしたの」
「いとこがちょうど、この学校に入学してね。招待してもらったんだ。未結にどうしても会いたくて」
「……そう」
なんでもいいから、はやく立ち去ってほしい。
そう、心の中で思いながらも、笑みをなんとかキープする。
嫌いとかではない。
ただ、いつ、死にたいと思っていたことを、一緒に自殺していたかもしれなことを、この場で口にされるのかわからなくて、ひやひやしていた。
「間もなく、文化祭が終了いたします」
タイミングよく、アナウンスが流れた。
学校関係者以外の帰宅を促すものだ。
「帰らないとだね、私」
「そうだね」
「じゃあ、また会おうね」
「うん、気をつけてね」
「ありがとう、ばいばい。またメールするね」
彼女が、手を振って去っていく。
背中が見えなくなってやっと、ほっと息を吐いた。
と同時に、心の中でとぐろを巻いていた感情と目が合った。
嘘つき。
冷えた瞳。
静かな声。
心臓が、落ち着くことなく暴れている。
引かれる手を、必死に止めたこと。
それが正しかったのだと必死に言い聞かせれば言い聞かせるほど、彼女のあのときの言葉が頭の中で響いて、胸を刺していく。
嘘つき。
嘘じゃない。
私だって、本当に死にたいと思ったことはあった。
あとから知った話だと、彼女は受験に失敗して、第一志望校に入れなかったそうだ。
だから、あのときの彼女の死にたい、は、それが原因のものだったのだと思う。
でも、それを知ったところで、あのときの状況がなにか変わるわけでもなく。
彼女は落ちたのに、私は受かった。
彼女は死を望んだのに、私はそれを止めた。
だから彼女は私を嘘つきだと言ったし、私はそれをその場で訂正できなかった。
そして今も、思い出すたびに死にたくなってしまうのだ。
裏切るような形になってしまった罪悪感と、誤解を解けなかった後悔と、もともとそこにいた死にたいという感情とが、手を取り合って、私に死にたいと訴えかける。
目の前が暗転していくような、実際そんなことはないのにそんな心地がした。
荒くなっていく呼吸をもとに戻したいのに、責める声がうるさくて、どうすればいいのかわからなくなってくる。
死にたい。
死なないといけない。
死にたいと思ってしまう苦しみを知っているのに。
私はあのとき、彼女を止めてしまった。
きっと、勇気がいることだっただろうに。
裏切った。
傷つけた。
本当に死にたいと思っていたのだと示すためには、死ぬしかないんじゃないのか。
彼女に信じてもらうには、それしか。
駄目だ、死んじゃいけない。
それに、当時の彼女を傷つけてしまったのは事実だけれど、それでも会いに来てくれて、また会おうと言ってくれた。
今の彼女から責められなかった。
だとしたらそれは、止めたことが正解だった、とならないだろうか?
必死にそう言い聞かせれば言い聞かせるほど、言い聞かせている言葉の空っぽさを自覚してしまう。
だって、自分が本当にそうは思えていないということを、私が一番知っているのだから。
堪えきれなくてとうとうその場にうずくまってしまう。
どうにかして立たないと。
委員会の仕事もあるし、クラスの片付けもある。
迷惑をかけるわけにはいかない。
震える足で、なんとか立ち上がったけれど、上手くバランスをとれなくて、そのまま崩れ落ちそうになる。
転ぶ。
わかってはいたけれど、ふっと投げやりな私が、別に転んでもいいじゃないかと囁いた。
だから、特に受け身を取ろうともしなかった。
それなのに。
痛みはなかった。
誰かの腕が、支えてくれたから。
「大丈夫? 田所さん」
男の子にしては、少し高めの声。
最悪。
柳生くんだ。
声をかけてはくれるし、基本的には優しい人だけど、ときどき酷く冷たいときがある。
なにがきっかけでそうなるのかわからない。
普段ならある程度流せるけれど、今は無理だ。
「立ちくらみしただけだから、大丈夫。ありがとう」
荒い呼吸を無理やり抑えて、微笑みを浮かべて彼を見上げる。
一人にしてほしかった。
「……なにかあった?」
「なにもないよ」
「流石に下手すぎ、もうちょっとうまくごまかしなよ」
柳生くんの指が、私の頬に触れた。
拭う動きに、初めて自分が涙を流していたことに気がついた。
「ごめん」
「謝ってほしいわけじゃないから。なにがあったの」
さっきより、少し強い声音で問われる。
言えるはずがなかった。
だって、言ったら引かれるだろうから。
柳生くんが知ったことはきっと、木津くんにも伝わるのだろう。
そうしたらきっと、二人に引かれて、そしてもう、話してはもらえなくなる。
彼女の冷たい瞳を思い出す。
もしかしたら、彼らにも、嘘つきだと思われるかもしれない。
死にたいと思っておきながら、私は生きているのだから。
実行に移せていないのだから。
構ってほしいだけの嘘つき。
そう思われることが、すごく怖かった。
恐ろしかった。
だけどきっと、なにか理由を言わなければ、柳生くんはどこかへ行ってくれない気がする。
ここで例えば、はねのけるようなことを言ったとして。
そしたらきっと呆れられて、もう話してはもらえなくなるだろう。
柳生くんを傷つけるかもしれない。
柳生くんが傷ついたらきっと、木津くんは私を許してはくれないだろう。
どうしたらいいのだろう。
私は、二人とまだ友人でいたい。
だけど、死にたいと思っている私が、この感情を抱いたまま友人でいていいのだろうか。
いつか。
いつか、彼女のように、二人に一緒に死のうと言ってしまうのではないのだろうか。
胃が冷えるような心地がした。
それは駄目だ。
絶対に、駄目だ。
それならもう、引かれてしまったほうがいい気がした。
うまくごまかす言葉だって、出てこない。
今度こそ、私は一人になるのだろう。
でも、もうそれでいい気がしてきた。
だって、一人なら、誰かを巻き沿いにすることはないから。
「中学時代の友人にあったの」
「嫌なこと言われた、とか?」
私は首を横に振る。
嫌なことは、言われていないから。
「言われなかった」
「嫌な思い出があった人だった……?」
嫌な思い出、そうかもしれない。
でも、その一言で片づけていいものとは、私には思えなかった。
「昔、その子に、死にたいって思ったことある? って訊かれたことがあって。私は正直にうなずいた。そしたら、じゃあ一緒に死のうよって」
私の腕を引く力強さ。
必死で止めるためにすがるように掴んだ腕の細さ。
死に物狂いで踏ん張った地面の硬さ。
横切っていく電車の轟音と風。
目の前で今起きている出来事かと思うほど、リアルに思い出すことができる。
私はその記憶から目をそらすように、うつむいて下唇を噛んだ。
「私は、一緒に死ねなかった。それどころか、その子を必死で止めた。友達を裏切って、傷つけたんだ」
それを思い出しちゃったんだ。
無理やり微笑んでもう一度柳生くんを見上げる。
きっと、引かれているんだろう。
冷ややかな視線が、そこにあるに違いない。
もしかしたら、ひどく困惑させているかもしれない。
唐突にそんな話をするなんて、空気の読めないやつだ、と。
そう、覚悟していたのに。
視界に入った茶色い瞳は、まっすぐに私を見ていた。
そこには、軽蔑も、困惑も、そういった色は一切含まれていなかった。
思わず動けなくなってしまった私を見て、話が終わったと解釈したのだろう。
柳生くんは言葉を探すように目を動かしながら、ゆっくりと話しだした。
「責めたいわけでも、突き放したいわけでもなく、事実として、僕には、その友人と田所さんがどのくらい親しかったかはわからないけれど」
前提ね、と柳生くんは付け足す。
「その上で。僕がもし、木津に死にたい、一緒に死んでくれって言われて、
そのとき僕もすごく死にたかったとしてさ。たぶん、僕は止めるよ」
「それは、友達だから?」
うーん、と柳生くんは考えるように腕を組んで、頭上を見上げる。
「友達とか、一般常識とか。そういうのじゃなくて。二つ理由があるかな」
「二つ?」
「一つは、一緒に死のうとしたとして、どちらもちゃんと死ねる可能性って、百パーセントじゃないんだよ。どちらかが生き残る可能性だってあるし、どちらも生きている可能性だってある。そのときに、その後の生活に支障を来たすレベルの怪我をしている可能性だってある」
もちろん、その怪我も片方かもしれないし、両方かもしれない、と柳生くんは上を見たまま続ける。
「まあ、つまりは、どういう可能性であれ、そのときに相手や自分の状況を見て、恨んだり、後悔したり、そういった感情は疲れちゃうだろうし、極力そういった感情は抱きたくないなって思う。それに、それが原因で死にたくなったとしても、二度目は一度目より周りに警戒されているだろうからやりづらいだろうし、さらに生きづらそう。それが、一つ目の理由」
「二つ目は?」
「相手が勝手に道連れにしようとしてるんだから、こっちも勝手に止めてやるってこと」
「え?」
予想外の言葉に思わずまばたきをしてしまう。
柳生くんはこちらを見ると、いたずらっ子のような、それでいて強い意志がそこにあるような瞳で微笑んだ。
「死にたいにもいろいろあるでしょ、きっと。はやく寿命を迎えて死にたい人、とにかく痛みから逃れたくて死にたい人、いろいろ疲れちゃって死にたい人、幸せなまま死にたい人……。僕が今思い浮かぶだけでもそれだけいるんだから、人の数ほど死にたいの種類もあるはずでしょ? もちろんだからって、よし、死んでいいぞ! って言うわけじゃなくてね。死にたいって言葉でひとまとめにされて、それで一緒に死ななかったら駄目、なんて、乱暴すぎるでしょ」
目から鱗というか。
そういうことを考えたことがなかったから、ただただ驚いてしまった。
私に視線を戻した柳生くんは、私の表情を見て、むっとした表情になる。
「なに、ポカンとして」
「そういう考え方があるんだなって思って」
「的外れだった?」
柳生くんの問いかけに、私は慌てて首を横に振る。
「そんなことない! なるほどってなっただけ」
必死になってそう言えば、今度は柳生くんが目を大きく開いた。
「そう……。まあ、的外れじゃないならよかった」
「ごめんね、ありがとう」
「謝られるようなことはしてないでしょ」
「……だって、私に時間を使わせちゃったから」
ふと思い出したのは、ときどき投げられる、冷たい言葉たちだった。
少なくとも、好かれてはいないだろう、と思っていた。
だから、ここまでたくさん話してくれるとは思っていなかった。
もしかしたら、すごく優しい人なのかもしれない。
そうだとしたら、気をつかわせてしまっているかもしれない。
いや、そうでなくても、内容が内容だけに、気は使わせてしまっているだろう。
「だから、ごめんね」
「……もしかしたら、今までの僕の態度でそうさせてるのかもしれないから、言うけれど。別に僕は、田所さんが嫌いなわけではないからね」
どこか拗ねたような、表情に迷っているような、そんな顔で、柳生くんが言う。
言葉の意味をうまく理解できなくて、私は首を傾げた。
そんな私の態度に、柳生くんはうなりながら、また上を見る。
「僕は、田所さんのことを嫌いなわけではないし、可能なら、友人として、仲良くなりたいなと思ってもいる。……なに笑ってるの」
「なんだか、安心して。嫌われてるかもって思ってたから」
もちろん、先ほど死にたいって言ったばかりの人間に対して、お前が嫌いだとは言いづらいだろうこともわかってはいる。
でも、よく考えたら、嫌いな人間相手に、泣いている理由を訊くことも、話をすることも、柳生くんならしないだろう。
詳しく彼を知っているわけではないけれど、でも、勝手に道連れにしようとしているのなら、勝手に止めると言っていた彼のことだ。
たぶん、嫌いな人間に対しても、泣くのなら勝手に泣いていろ、となってもおかしくはない。
「自業自得ってこういうことを言うんだろうな」
「……?」
「なんでもない。木津には、僕からはなにも言わないから、安心して」
「あ、ありがとう」
「今、意外だって思ったでしょ」
「……うん」
「僕と木津は仲がいいけれど、それと、田所さんのことをなんでも話すかどうかとは別」
よっと声を出して、柳生くんがゴミ袋を持ち上げる。
中には、装飾に使ったのであろう色とりどりの画用紙たちが入っていた。
そこでやっと、今が文化祭の片付けの時間だと思い出す。
「本当にごめん、時間、大丈夫?」
「んー、僕は大丈夫。力仕事できないし、役立ちそうになかったから、ごみ捨てに来ただけだし。それより田所さんのほうが大変じゃないの?」
「……貧血で動けなかったとか」
「保健室行きなよって話になると思うけど。まあ、目の赤みもだいぶ取れたし、顔洗ってから行けば、なんとか誤魔化せるんじゃない?」
「そうする、ありがとう」
「あ、あと」
急いで戻ろうと背を向けた私を、柳生くんが呼び止める。
振り向けば、ごみ袋を手に持ったままの柳生くんがこちらを見ていた。
「吐き出したくなったら、いつでも連絡して。聞くくらいならできるから」
予想外の言葉に、思わず目を見開いたけれど、優しさがありがたくて、気づけば微笑んでいた。
「うん。ありがとう」
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