失う、という絶望は、知りたくなかった。
仕事帰りに、取り置いてもらったものをお店で受け取り、最寄り駅の近くのケーキ屋さんで予約していたケーキも受け取る。
あとは昨日の時点で用意してあるので、帰るだけだ。
早番万歳。
クリスマスイブに誰かと過ごすなんて、いつぶりだろう。
高校を卒業してから、人間関係をやり直したくて、一人で上京した。
大勢の中でお面を被ったような、そんな状態でいるのを辞める。
できるだけ、自分に正直に生きる。
それが、上京してからの私の目標だった。
十八年も塗りたくってきた分厚いお面を、その瞬間からすぐに外した状態で生きていけるかというと、そんなはずもなく。
結局大学生になっても、私は大勢の中の一人からなかなか抜け出せなかった。
それでも、意識して短時間はがすことはなんとかできた。
だから極力長時間大人数でいるようなことを避けていたら、気づけば誘われなくなっていた。
そう考えると、もしかしたら高校以来、かもしれない。
就職と共に木津くんも上京してきたけれど、柳生くんがいない状態でイブに会うのは、なんだか違う気がして声をかけることができなかった。
バレンタインやホワイトデー、その近辺なんかも、同じような理由で会えていなかったっけ。
そこまで考えて、胸がチクリと痛む。
柳生くんと過ごせる時間。
そのタイムリミットは、無言で近づいてきている。
もうあと、一週間もない。
ひゅっと息が詰まるような感覚がする。
あ、まずい。
そう思ったときには、ずっとこちらを見上げていたその感情が、かぱりと口を開いた。
この一か月弱。
毎日が本当に幸せで、楽しくて、温かかった。
学生時代好きだった人。
ずっとずっと想い続けていた人。
大切な大切な友人。
そんな、唯一無二の人。
代わりなんていない。
その人が、家に帰れば当たり前に迎えてくれて、一緒に時を重ねられたこと。
何度も何度も、この幸せが続けばいいと願い続けていた。
その願いは永遠に叶うことはないと、心のどこかで確信しておきながら。
なんとか、近くの壁にもたれかかるけれど、すぐに力が抜けて足が立つことを放棄する。
ずるずると上着で壁を拭くように、体重を預けたまましゃがみこんだ。
あと一週間もしないうちに、あの家はまた、私だけの家になる。
いってきますと言ってもいってらっしゃいは返ってこないし、ただいまを言ってもおかえりなさいは聞こえてこない。
柳生くんがいる部屋は、また空いて、客室になる。
お散歩も、ただ一人で黙々と歩くことになるのだろう。
だって、一緒に歩く人はいないのだから。
どうしよう。
キツイ。
コーヒーは一杯。
座る椅子は一つだけ。
一人だ。
どうしようもなく、独りだ。
地面が、柔らかく、不安定なものな気がした。
歪んで、揺れて。
昇って、落下する。
まるで、悪夢に出てきそうなジェットコースターだ。
セーフティーバーなんてあってないもので。
振り落とされないように、必死に自分の体を抱きしめた。
止める、なんて思考する間もなく涙はボロボロ溢れて、新井胡弓の音だけが鼓膜を揺らす。
ひとりでいたくない。
怖い。
柳生くんを、失いたくない。
柳生くんがいない世界で、生きていたくない。
また会えばいい。
そう、言い聞かせる。
二度と会えなくなると柳生くんは言っていたけれど、でも、それでも、言えばきっと会ってくれる。
もしかしたらとんでもない無理を強いることになるかもしれない。
でも、きっと、きっと。
死にたい。
生きている意味なんてない。
その言葉を聞かないために、すべて押し流すように、必死に言い聞かせる。
柳生くんがいない世界が辛いのなら、その世界が訪れる前に、終わればいい。
それは、唐突に閃いたものだった。
「柳生くんがいない世界になる前に、終わる……」
それはつまり、そういうことだ。
何度も心の中で復唱する。
そうすればするほど、それはこの上ない名案のような気がした。
だって、柳生くんがいなくなる前に、私がいなくなれば。
私は、柳生くんを失う喪失感を抱えて、それからの独りの時間を生きていかなくて済む。
ちょうど、向こうから迫ってくる二つの明かりが見えた。
車だ。
ギリギリのタイミングで、走りこめばいい。
それだけでいい。
車の形が見え始めた。
立ち上がる。
体は不思議と軽くて、だけどさっきまでよりも呼吸の音が酷くうるさくて。
光が迫る。
ふっと、それがあるものと重なって見えて。
硬いものが腰に当たって、その場にへたり込んだ。
車は、ガードレール越しに私とすれ違ってはるかうしろに走り去っていった。
心臓の音がする。
呼吸の音だけじゃない。
街路樹のささやくような、葉をこすり合わせる音。
頬撫でる風は、頬を濡らした涙のせいで、冷たさを増している。
近づいてくる足音に顔を上げれば、青い顔をした柳生くんが私を見ていた。
彼のうしろに広がる夜空はどこまでも暗くて、散らばった星々は、煌めいて存在を私に知らせるくせに、手が届きそうなんて微塵も思えないほど遠く感じた。
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