コーヒー二杯と、クロワッサン一個と、幸せはできるだけ。

 やりたいこと、というのが、意外となかったのは、今が幸せということなのだろうか。

 それとも、見つけられないくらい、あまりよろしい状態ではないのだろうか。


「無欲だねぇ……」

「そうかな? どうなんだろ……」


 未だ真っ白なノートのページを睨みつけていたら、苦い笑いを浮かべているであろう柳生くんの声がした。

 顔を上げずに返事をすれば、小さな笑い声。


「あんなに、僕のやりたいことについて訊いてきたのに、いざ自分の番になると浮かばないんだ?」

「返す言葉もない……」


 ため息を吐いて、机につっ伏する。


「あーあーあーあー……」

「やりたいことってなんだろ」


 やりたいことがない訳じゃない。


 柳生くんや木津くんとずっと一緒にいたい。

 度々私に牙を剥くこの感情と、さよならしたい。


 前者は私一人の意思ではできないこと。

 そしてどちらも、長期的なもの。

 だから、今ここでやりたいこと、としてあげるべきではない。


「柳生くんは、私としたいことある?」

「えー……とりあえず思い浮かばないのなら、そこら辺散歩する?」

「それ、いいかも」

「じゃあ、支度して、終わったら玄関で待ち合わせね」



 まだ温まりきっていないからか。

 外の空気はまだ冷たくて、私は思わず首を縮こまらせた。


「寒い?」

「十二月もそろそろ下旬だもん。柳生くんは?」

「んー、寒い」

「だよね」


 お互いに笑いあう。

 胸が温まる心地がして、ああこれが幸せか、なんて噛みしめる。


「今、やりたいことしてるかもしれない」

「……ずいぶんとお手軽だね」


 困ったように小さく笑って、柳生くんが歩き出す。

 いつも職場に行くときとは逆の道だ。


「こっちの道歩くの?」

「僕、こっちあんまり歩いたことないから。歩きたいなって」

「なるほど」

「なにかまずかった?」

「ううん。どうしてだろうって思っただけ」

「そっか」


 そういえば、今月は初めてこの道を通るかもしれない。

 先月までは、なにかある度にここを歩いていたのに。


 最寄りの駅から家までの道には、コンビニやスーパー、ドラッグストアなどなどがあり、生活に必要なものをそろえる、という意味ではすべてが事足りる。

 それならこの道にはなにがあるのか。

 私のお気に入りのお店がある。


「柳生くん、ちょっと寄りたいところあるんだけど、いいかな」

「いいけど、どこ寄るの?」

「パン屋さん。お気に入りなんだ」


 話している間にも、段々とお店が見えてきた。

 ドアを開けば、温かなパンの香りに包まれる。

 胸いっぱいに吸い込みたいのを我慢して、店内に足を踏み入れた。


「僕、外で待ってるよ」

「わかった」


 サッと目的のものを購入して、お店を出る。


「なに買ったの?」

「クロワッサンとコーヒー」


 手に持った紙袋を、胸の前で開く。

 上から覗き込んできた柳生くんが、ポソッとつぶやいた、いい香り、という声が降ってきた。


「そこに小さな公園あるから、ちょっと休憩しよ?」

「まだ歩き始めたところだけど?」


 からかいの色を含んだ声。

 いいんです、とわざとむくれて見せたら、笑われた。


 公園は空いていて、いつものベンチに座ることができた。

 日差しが当たりつつも、そばに立っている樹の葉のおかげで、当たりすぎることはない、ちょうどいい具合の場所。


 コーヒーは二つ、クロワッサンは一つ。

 本当は柳生くんにも食べてもらいたかったけれど、押し付けるのはよくない。

 だから、クロワッサンは一つ。


「コーヒー、どうぞ。ブラックだけど、一応ミルクとスティックシュガーもらってきたから、必要だったら袋にあるよ」

「いつもありがとう」

「いいえー。ここのクロワッサン、すごく美味しいんだけど、一口食べてみる?」

「あー……、食べたいけど、ごめん」


 申し訳なさそうに謝る柳生くんに、気にしないで、と返す。

 クロワッサンを一口かじる。

 サクサクとした食感に、口いっぱいに広がるバターの味。


「田所さん、美味しそうに食べるね」

「だって美味しいから」


 ふふ、と笑えば、柳生くんも笑い返してくれる。


「ここ、よく来るの?」

「そうだけど、どうして?」


 首を傾げて問えば、このベンチを選ぶのに、迷いがなかったから、と柳生くん。


「だから、よく来るのかなって」

「……ぼーっとしたいときに、よく来るんだ。屋内だと窒息しそうな気がすることがあるから。ここは、近くに大きい公園があるからかあんまり人が来ないし、パン屋さんからも近いからちょうどよくて」

「じゃあ、ここが安全地帯なんだ?」

「確かに、そうかもしれない」


 安全地帯。

 なんだかその言葉選びに、ほっこりしてしまう。


「そういえばさ。上京したての頃、ワンルームに住んでるって言ってた記憶あるんだけど、引っ越したの?」

「ああ、うん。前の家、ベランダで柵にもたれたらそのまま柵ごと一緒に転落しちゃったみたいで」

「みたい……?」

「記憶が途切れ途切れなんだよね、その前後の」


 大学一年生の夏だった。

 ベランダに出たのは覚えているけれど、どうして出たのかは思い出せず。

 気づいたら病院のベッドで寝ていた。

 築年数がかなり古いものだったから、おそらく経年劣化でもろくなっていたところに、体重をかけたから転落したらしい。

 そのときに頭を強く打ったらしく、その影響で記憶が飛んでいる部分があるのだろう、とお医者さんから説明を受けたときは、そんな映画みたいなことがあるのかと驚いたっけ。


「で、そんなところに娘を住まわせるわけにはいかないってなった両親が探して見つけた家が、今の家」

「都内であの広さって、結構な額するんじゃないの」

「本来ならね。大家さんがお母さんの古くからの友人で。かなり安くしてもらってるんだ」

「大家さんとはよく会うの?」

「よくってほどではないけれど、たまに。連絡取りあったり、予定が合うことがあれば会ってお話聞いてくださったりって感じ。なんだろ、東京でのお母さんとか、お姉さんとか、そんな感じの人だよ」

「その人にはその……田所さんのあれのこと、言ってるの?」

「言ってないよ」


 言えなかった。

 お部屋を借りているのに、希死念慮を抱えてます、なんこと、言えるはずがない。


「あ、そういえば。大家さんに柳生くんが泊まってること、話したの」

「……え」

「柳生くんがこっちにいる間に、タイミングが合えば会いたいって」

「あー……そっか。タイミング、合えばね、うん」


 妙に歯切れの悪い返事に、私は首を傾げたけれど、そろそろお散歩に戻ろう、の言葉でその話は終わってしまった。

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