有限な時間

「柳生くんさ、今日はなにか予定ある?」


 朝ご飯を食べ終えて、食器類を一緒に洗いながら、柳生くんに問いかける。

 彼はこちらを見ると、首を傾げた。


「どうして?」

「うーん……一緒にいたい、から……?」

「疑問形?」


 まあいいけど、と柳生くんが笑う。


 三人で会った日に、木津くんから言われた言葉ははっきりと覚えている。

 馴染むな、と。


 きっと、私がこれからしようとしていることは、ある意味では木津くんへの裏切り行為になるのだろう。

 それでも。

 この数日間悩んで、私は決めた。


 自分の足で立つために。

 いつ別れが来ても、後悔だけはしないために。


 お互いにやりたいことを、残りの約二週間でやれるだけやる、と。


 それをそのまま、柳生くんに伝えた。


「だからね、今日はその話し合いをしたいなと思って」

「なるほどね……」


 キュッと音を立てて、蛇口を閉める。

 手を拭いてから、私たちは席に着いた。


「あ、ノート」


 慌てて、私は自分の部屋からノートとボールペンを持ってくる。


「別にそんな急がなくても」

「だって、気が変わらないうちにって思って……」

「変わらないよ。無理難題言われない限りはさ」


 今度こそ席に着くと、私はノートを開く。


「やりたいことって、僕がここにいられる日までの間にってこと?」

「うん、とりあえず、そう」

「そっか。とは言っても、僕、今できる範囲でしたいこと、全部やっちゃったからな」

「え、そうなの?」


 私は思わず、目を丸くして柳生くんを見る。

 頬杖をついた柳生くんは、私と目が合うと微笑みを浮かべた。


「そうだよ」

「私に気をつかってるとかない……?」


 机に手をついてズイッと身を乗り出せば、ないない、と向かいに座った柳生くんが、顔の前で手を横に振る。


「本当?」

「そんなに信用ない? 僕」

「というよりも、遠慮してそう。柳生くん、もともと私に対してそういうところある」

「あー……まあ、遠慮は多少してるけど」

「言うんだ」

「言うよ。でも、やりたいことやり切ったのは本当」

「今できる範囲で、やりきったって言った」

「言ったね」

「今できない範囲では、まだやれてないってことだよね?」

「そうだけど」

「それなら――」

「田所さん」


 静かな声が、私の名前を呼ぶ。

 確かな拒絶を感じて、私は言葉を飲み込んで、乗り出していた身をもとに戻した。


「言ってなかったけど、さ。本当はね、僕、就職とかできないんだ」


 なんの話だろう、と思って、そうだ、と思い出す。

 就職先を見つけるか一か月経つまで、柳生くんはここに泊まる約束をしていたんだった。


「できないって?」

「遠いところに行かないといけなくて。だから、ここでは就職できない。で、そこに行ってしまえば、二度と田所さんにも、木津にも、会えなくなる」

「海外、とか?」

「もっともっと遠いところ。星よりも遠いかも」

「……」


 冗談のようなことを、真面目な表情で、柳生くんは言う。

 どういうこと? と訊きたいけれど、言えるのならもっと直接的な言葉で言うだろう。

 柳生くんは、からかいはするけれど、そういう人だから。

 言わないのは、言いたくないのか、言えないのか、そのどちらかだ。


 できるだけ長く、木津と田所さんと一緒にいたかったな。


 星空を見上げてそう言った彼の横顔を、ふと思い出した。

 別れを受け入れた目も。

 同時に、三人でいたときに、木津くんが怒った出来事を思い出す。

 自分が邪魔だったか、と言った柳生くんに対して、その冗談は笑えない、と言った木津くんを。


 木津くんは、知っていたんだ。

 柳生くんが遠くへ行ってしまうことを。


 だから木津くんは、馴染むなと言ったのだろうか。

 柳生くんは、自分に幸せそうな笑顔を見せるなと言ったのだろうか。


「で、そこに行く前に、僕は木津と田所さんに会いたかった」


 目の前の柳生くんを見る。

 困ったように眉尻を下げて、優しく微笑んでいる柳生くんを。


「それだけ?」

「それだけ。強いて言うのなら……」


 じっと、茶色い瞳が、私のなにかを伺うようにに見つめてくる。


「田所さんの中にいるあれを、軽くできるのならしたいなって思ってる」

「……」


 息が詰まったような心地がした。


 柳生くんは、私に襲い掛かる嵐のような感情を知っている。

 学生時代、二人でいたときに、そういったことがあったから。

 木津くんは知らない。

 柳生くんだけが、唯一知っているのだ。


「消えないよ、これ」

「知ってる。知ってるし、田所さんがそれを抑えるために頑張ってるのも知ってる。僕があのとき言った言葉、覚えてるよね」


 記憶をなぞる。

 大丈夫、ちゃんと覚えてる。


「うん」

「今も、その言葉は変わってないよ。……三十歳のほうは?」

「三十……?」


 チリッと頭の奥が痛む。

 記憶を思い出そうとするけれど、一定のところで靄がかかって思い出し辛くなる。


「あ、ごめん、違う、三十歳のほうは、木津との約束だったかも」


 思考に割り込むような、いっそわざとらしいくらいに明るい柳生くんの声。

 いつの間にかうつむいていた頭を上げれば、彼はどこか寂し気な微笑みを浮かべていた。


「本当に?」

「本当。だから、田所さんは知らないやつだ」

「そっか……。そうなんだ。安心した」


 ほっと息を吐けば、柳生くんの笑みが、へらっとしたものに変わる。


「話は戻るけど。田所さんの中にいるそれは、僕はお医者さんでもカウンセラーさんでもないし、もちろん田所さん自身でもないわけだから、消すことはできない。まあ、同じ理由で、軽くできるかどうかもわからないんだけどね」


 だから、と柳生くんは続ける。


「田所さんがやりたいことに付き合うよ。もしかしたら、それがなにかにつながるかもしれないし」

「つながらない可能性もあるけれどね」

「可能性だからねー。まあ、やるだけやろう。一緒にいられる時間は限られてるんだしさ」


 さらっと言われた言葉が胸に刺さる。

 そうか、柳生くんと一緒にいられる時間は限られているんだ。


 一緒に暮らし始めたときから決まっていたことなのに、なぜかそれが嫌に恐ろしく感じて、気づけばペンを強く握りしめていた。

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