星には、なれない。
柳生くんが我が家に来て一週間が経った。
家族以外の人と暮らすのは初めてだったからどうなることかと思っていたのだけど、意外となんとかなっている。
駅から家までの道を歩いていたら、スマホが鳴った。
木津くんからだ。
「もしもし?」
「田所? 木津だけど」
「電話かけてくるなんて珍しいね、どうしたの?」
「そっちに柳生、行ってないか?」
どこか焦っているような声に、違和感を抱く。
「来てるけど、どうしたの?」
「今、そばにいるのか?」
「いや、私今退勤して家に帰ってるところ。柳生くんはうちにいるかな」
「……やっぱりか」
呆れたようなため息が聞こえる。
「木津くん?」
「田所、一人暮らしだろ。柳生も一応男だぞ」
「知ってる。でも一週間うちにいるけど、特になにもなかったよ」
「一週間もいるのかよ」
「長くて一か月はいる予定だけど」
「……」
無言。
たぶん、呆れと、そのほかいろんなものが混ざってるやつだ。
「大丈夫だよ、うち、部屋の数はあるから」
「そういう心配をしてるんじゃない」
言おうかどうしようか。
そんな空気を感じて、私は口を閉じる。
数メートル先の信号が点滅し始めた。
何人もの人が、私を追い越していく。
その背中を、なんとなく目で追いかけた。
「……田所」
「うん?」
「お前、まだ柳生のこと、好きだろ」
信号が赤になる。
立ち止まった私の前を、何台もの車が通っていく。
みんなどこへ行くんだろうか。
家に帰るのか、それともこれから外食にでも行くのか。
「好きだよ」
もしかしたら、行く当てもなくただドライブをしているだけの人もいるのかもしれない。
それなら、この思いもどこかに連れて行ってほしい。
だって、それこそどこにも行く当てがない、消えてくれるのを待つだけのこの思いは、抱えているだけでも苦しいのだから。
チリッと、頭の片隅でなにかがよぎるような痛みが走る。
だけど、それは捕まえる暇もなく、どこかへ消えてしまった。
ただ一つ、どうしようもない虚無感を置いていって。
まずいな、と思った。
学生時代から抱えていたものとよく似た、だけど大人になってから明らかに質が変わってしまったそれを、必死に抑える。
「近いうちに会おう」
「わかった」
とぐろを巻いて心の中からこちらを見上げる感情から目をそらしながら、うなずく。
はやく電話を切りたい。
一人になりたい。
「それと、もしもなにかあれば言ってくれ。柳生のことでも、田所のことでも」
「うん、ありがとう。それじゃ」
「悪かったな、帰宅中に。気をつけろよ」
「うん」
もう一度お礼を言って、電話を切る。
同時に、信号が青になって、私は駆けるように歩き出した。
辿り着いたのは、家の近くの公園だった。
本当は家のほうが安全だけども、今は柳生くんがいる。
一人にはなれない。
しだれ柳の下をくぐって、公園に入る。
一番近くにあったベンチに腰かけて、ギュッと自分自身を抱きしめた。
死にたい。
それが、私の中でとぐろを巻いている感情の、言葉だった。
心にぽっかり空いた、底なしの穴。
そこへ引きずり込もうと、それは口を開いて襲い掛かってくる。
海のど真ん中、いかだに乗った状態で、荒れ狂う風と波に弄ばれるような、そんな心地。
必死で自分を繋ぎとめて抑え込まないと、このまま命を絶とうとしてしまいそうで。
物心ついたときからそこにいた怪物は、私と一緒に時を重ね、大きく、強くなった。
それは、いつだってそばにいて、私を食らいつくそうとしてくる。
例えば、算数の問題を間違えて答えてしまったときとか。鼻歌を聞かれてしまったときとか。陰口を言われているのを知ったときとか。すごく幸せなことがあったときとか。
そういうきっかけがあれば、ほぼ確実にそれは口を開く。
きっかけがなくたって、唐突にこうなることもある。
私が生きている意味なんてあるんだろうか。
それが、言葉を吐き出す。
死にたいと思っている私が生きている意味は、あるのだろうか。
キュッと拳を握りしめて、胸に当てる。
生きている意味があるかなんてわからない、まだ、わからない。
でも、少なくとも今死ぬ理由がない。
重い病気にかかっているわけでも、人生に絶望したわけでも、死なないといけないような罪を犯した訳でもない。
必死でそう言い聞かせる。
止めてしまいそうになる呼吸を、意識的に行う。
気管に物が詰まっているかのように、息の通りが悪くて、どんどん呼吸音が荒くなっていく。
でも、と、それは喚く。
同じくらい、生きている意味も理由もないじゃない、と。
ただただ、自分を抱きしめて、凪ぐのを待つ。
そうしてどのくらい経っただろう。
ようやく呼吸がちゃんとでき始めたときだった。
「お散歩?」
上から、男性にしては高めの、聞き慣れた声が降ってきた。
振り向けば、柳生くんが静かに微笑んでいる。
「いつから……?」
「今。帰ってこないな、と思って探してたら、ベンチに座ってるのが視界に入ってさ」
優しい声色に、ほっと息を吐く。
同時に、罪悪感が芽生えた。
「ごめんね、寄り道しちゃって」
「大丈夫、ちゃんと見つけられたから」
帰ろうか。
柳生くんの言葉に、私はうなずいて立ち上がる。
心はいつの間にか凪いでいて、そのことに少しだけ安心した。
しだれ柳をくぐって、数歩。
なんの気なしに振り返れば、ベンチは枝に隠れて見えなかった。
柳生くんは、ベンチに座っている私が見えた、と言っていたけれど、確信を持って目を凝らさないと、見えないんじゃないだろうか。
つまりは、それだけ探させてしまったということで。
申し訳なさに、胸が痛んだ。
「星、見えないね」
空を見上げながら歩いていた柳生くんが、ポツリと呟く。
彼の視線を辿る。
住宅街だから、人工的な灯りは、都内と言ってもいくらか控えめの明るさではあるのだろう。
それでもやっぱり、見える星の数は実家とは比べ物にならない。
隠れ損ねたのか、それとも目立ちたがりなのか。
数えられるほどの星たちが、パラパラときらめいていた。
「でも、月は見えるよ」
「確かに。よく晴れてるなあ」
「……夜空見て言うせりふ?」
「わかんないけど、星見るのが好きな人は言うかもよ?」
「柳生くん、星好きだっけ?」
「人並みかな」
「じゃあ、あれは何座?」
「知らない座」
小さな笑い声が重なる。
きっと、本当にくだらないやりとり。
何年も経ったときに覚えているかどうかも怪しい、そんなやりとり。
でも、私の心を温めるのには、ちょうどいいぬくもりだった。
「なあに」
「え?」
気づけば、柳生くんが私を見ていた。
立ち止まった彼に合わせて、私も足を止める。
「なんか、いい笑顔してた」
「嘘」
「ほんと。スマホ持ってたら、写真撮ってたかも」
「持ってないの?」
「売っちゃった」
ペロッと舌を出して笑ったあと、柳生くんは困ったように、眉を寄せてほほ笑んだ。
「駄目だよ」
「なにが?」
「僕にそんな、幸せそうな笑顔、見せたら」
「どうして」
「田所さんが辛くなるから」
瞬間、胸がキュッと痛む。
顔が強張ったのが、すぐにわかった。
「ごめん、私……」
「あー、違う、そうじゃなくて」
まるで浮いている言葉から正解を探すかのように、柳生くんが目を泳がせる。
「田所さんには、ちゃんと笑っててほしい」
「笑ってるよ。おかげさまで、ここのところ毎日」
「うん、知ってる。この一週間、毎日見てたから」
違うな、と柳生くん。
「この一週間だけじゃなくて、高校の頃も、同じクラスでよく視界に入ってたわけだし」
「……友達なのに、視界に入るってレベルなんだ?」
唇を尖らせて言えば、なんとも言えない表情で柳生くんが私を見る。
「なに、まじまじ見てたって言ってほしい?」
「それはそれで怖いから嫌かも」
「よく笑ってたし、今はもっとよく笑うようになったなって思うよ」
「だったら、どうして?」
うーん、と迷うように柳生くんは腕を組む。
そのうしろ。
キラッと光の粒が一筋、夜空を駆けて行った。
「あ」
「ん?」
「流れ星」
「え、どこ」
柳生くんは組んでいた腕を解いて、キョロキョロと夜空を見回す。
それがなんだか、高校生の頃のようで、気づかれないように小さく笑った。
「もう行っちゃった」
「ですよねー」
残念そうにため息を吐きつつ、柳生くんの視線は夜空に向いたままだ。
私もつられて、夜空を見上げる。
吐いた息が、ゆらゆらとか細い線になって、空気に吸い込まれていった。
「死んだら、星になるってよくあるじゃん」
静かに、柳生くんが言う。
さっきまで抑えていた感情のことが脳をかすめて、心臓が鳴った。
「……うん」
「実際そうなることはないけどさ。遠いよね」
しっかりとした手が、視界に入る。
柳生くんが、夜空に向かって手を伸ばしているんだ。
「それに、場所や季節や時間帯によっては見えないわけで」
「うん」
「……僕さ。ずっとずっと……できるだけ長く、木津と田所さんと一緒にいたかったな」
頭が、チリッと痛む。
どこか祈りのような、切実で、悲痛な響きが混じった声に、胸が騒ぐ。
「過去形……?」
「え?」
「今、いるよ。今もいるし、柳生くんさえ望んでくれたら、私も、木津くんだって、そばにいるよ。ずっとは、無理かもしれないけど……。でも、会うことは、でき、る……」
視線を下ろして。
柳生くんを見たら、言葉が出なくなってしまった。
だって。
「うん、そうだね」
うなずくくせに、その目はそれが決まった事実だと、受け入れている目だったから。
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