忘れてはいけない。

 パンが焼ける香りで目が覚めた。

 ベッドから起き上がり、思いっきり伸びをする。

 関節が小気味いい音を立てた。


 のそのそと立ち上がって、着替えをし、サクッと身だしなみを整えて部屋を出る。

 ドアを開けた瞬間に、朝食の香りが濃くなった。

 お腹が鳴るのをなんとか我慢して、洗面所に行き支度をしていく。


「……よし」


 すべてを終えて、鏡の自分と目を合わせてひとつうなずいた。


「おはよう」


 キッチンに入って、エプロンを脱ごうとしている背中に声をかける。

 柳生くんはこちらを振り向くと、にこりと微笑んだ。


「おはよう。朝食、口に合うといいんだけど」


 目玉焼きと、トマトとレタスのサラダ、コーンポタージュに、こんがり焼けたトースト。

 どれもすごく美味しそうだけど……。


「柳生くんの分は?」


 すべて一人分なのだ。

 席に座りつつ問いかければ、柳生くんはいたずらっ子のような笑みを浮かべる。


「実はもう自分の分食べちゃったんだよね」

「そうなの?」

「うん。起きてすぐ食べないと動けなくて。それより今日早番だよね? 冷めちゃうし、はやく食べなよ」


 ほらほら、と急かされるままに、いただきますの挨拶をして朝食に手をつけた。


 柳生くんは、しばらくうちに泊まることになった。

 長くて一か月。

 その間に職が見つからなければ、実家に帰ってもらう。


 お互いの部屋には絶対に入らないこと。

 うっかりの事故を防ぐために、お風呂に入るときと出たときは絶対に声をかけること。

 ご飯は私が材料を買ってきて、柳生くんが作ること。

 それが、昨夜話し合った中で決めたことだった。

 最後の決め事は、泊めてもらう身だから、と柳生くんが言い出したものだ。

 私は別に気にしなくていいのに、と言ったのだけど、結局話し合いの末、この形に収まった。


「じゃあ、いってきます」

「うん、いってらっしゃい」


 家を出れば、冬のするどい空気に、ふっと夢から覚めたような心地になる。


 私は、高校生の頃に柳生くんに振られている。

 友達でいたいと、そう言われたのだ。

 だから、本当なら一緒に住むなんてことはありえなかったわけで。


 喜んではいけない。

 でも、それでも、また会えたこと、こうして一緒にいられることが、嬉しいのだ。


「浮かれないようにしないと」


 私たちは友達だ。

 それ以上でも、以下でも、ないのだから。

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