忘れないで
山野エル
忘れないで
誰かが置いていったのだろう。
拙い折り鶴が隣の部屋の前、通路を挟んだ手すりの上で風に揺られていた。
きっと、この部屋の子どもが習ったばかりの鶴を誰かに見せたかったのだ。
折り鶴は、ノートの切れ端で作ってあるようだった。私は毎朝、通学の時にその折り鶴を一瞥しては、心が温かくなっていた。
晴れた日も雨の日も、折り鶴はそこにあった。風の日には、テープで止めてあったりもする。よっぽど、鶴を折れるのが嬉しかったのだろう。
毎日少しずつ違うのは、毎日新しいものを折っているのだ。
私にも、そんな幼かった頃がある。
今じゃ、受験を控えるせかせかとした女になってしまった。
「この折り鶴、可愛いですよね」
土曜日の朝、ちょうど同じタイミングで玄関を出てきた隣の住人にそう声を掛けた。きっと、鶴を折った子の母親だろう。
私に声を掛けられて、彼女はビクリ、と全身を震わせた。妙な空気だった。彼女は一瞬だけすさまじい怒りを表情に落として、手すりの上にあった折り鶴をひったくるように掴み取って、部屋の中に消えてしまった。
私はなぜか、自分がいけないことをしてしまったような、そんな居た堪れなさを抱きつつ、塾へと急いだ。
「え? お隣さんにそんな小さい子いないわよ」
母が味噌汁のお椀を片手にそう言った時、背中に冷たいものが走った。
「だって、手すりの上に折り鶴が……」
母の隣でビールの入ったコップを干した父が「ああ」と声を漏らした。
「この前ゴミ出しに行った時、奥さんがえらい形相で回収してるの見たぞ」
「イタズラかな?」
私がそう言った時、どこかで女性が怒号を発しているような声が漏れ聞こえた気がした。
「ねえ、今の聞こえた?」
「なにが?」
両親は気づかなかったようだった。私は笑って「なんでもない」と言った。
外からマンションに帰って来ると、通りに面した通路に玄関のドアが並んでいるのが見える。
私が午前の塾を終えて見上げると、ちょうど隣の部屋からひとりの女性が姿を現した。ひどく痩せ細って、まだ秋も来ていないというのに、ニットの帽子にマスク、薄手のコートを羽織っている。異様だった。この前、声を掛けた人の娘かもしれない。
昔から好奇心が旺盛だったという自覚はある。
気づいたら、彼女の後を追いかけていた。彼女は周囲の怪訝な視線を浴びながら、二駅先の心療内科クリニックに入って行った。心の病気なのかもしれない。
もしかすると、この前聞いた女性の怒号は彼女のもの……? そんな想像をしながら、私は帰路についた。
マンションに戻り、家に入ろうとしたが、隣の家の手すりの前にまたしても折り鶴が置かれているのが見えた。覚えたてみたいに、紙の揃っていない折り方。ノートの切れ端。よく見ると、何か文字が書かれたノートを使っているようだった。
フッと風が吹いて、鶴が通路の床に落ちる。拾い上げようとして目に入った文字があった。
──死。
≪──……死んでも……──≫
紙が折れていて、それしか読めない。胸騒ぎを覚えながら、ゆっくりと鶴を開いていった。
思わず、絶句した。
ノートのページに書かれいていたのは、殴り書きされた呪詛の言葉たちだ。どこかのクラスメイトの名前と、彼らから受けたであろう仕打ちが呪いのように刻まれていた。
≪私が死んでも寺本のことは許さない≫
びっしりと書かれた文字の中に、その一文が見えた。寺本……隣の部屋の表札を見た。同じだった。
何か恐ろしいことが起こっている。
それを放置したままにすれば、忘れてしまえば、気が楽になるのかもしれない。
でも、あの漏れ聞こえた怒号が耳の中に蘇るのだ。怒りとも、悲しみとも、恐れともとれるような、情念のこもった声……。それが私を突き動かすのだ。
マンションの向かいには、チェーンのファミレスがある。私はそこの窓際の席で待つことにした。誰が折り鶴を置いているのかを。
母に「勉強もしないで」と小言をぶつけられないように、テキストやノートを持ち込んだ。
数時間が経って、夕闇が迫ってきた。向こうの空が、オレンジとパープルのグラデーションを描く。その空の下を、よたよたと歩く女性が現れた。母よりは年上だろうか。
その女性は迷うことなくマンションに入って行き、しばらくして、私たちの部屋のある階の通路に姿を現した。そして、うちの隣の部屋の前の手すりの上に、そっと何かを置くと、すぐにエレベーターのある方へと戻っていく。
──あの人だったんだ。
その衝撃よりも、彼女がこのファミレスに真っ直ぐと向かってくることに、震えるほどの恐怖を感じた。
店内に入店音が響く。店員に迎えられた彼女は、こちらの窓際の方を眺めて、空席を指さした。店員の先導で歩く彼女は、どこか悪いのかぎこちない足の運びだった。席についた彼女はしわがれた声で、
「ホットコーヒー」
とだけを店員に伝えた。店員が下がっていくと同時に、彼女の顔がマンションを見上げた。
教科書で顔を隠しながら、女を見た。心がそこにあるのか分からない無感情な瞳はじっとマンションへ向けられていた。
──ああ、そうだったのだ……。
彼女はあの折り鶴を見た隣の住人の反応を確認しようとしているのだ。
しばらくして、彼女の目がわずかに細められた。
その視線を追ってマンションを見ると、うちの隣の部屋から女性が顔を覗かせた。そして、あの時と同じように、手すりの上の折り鶴を見つけて、忌々しそうに鷲掴みにして、部屋の中に消えていった。
女の方に視線を移す。
うっすらと笑っていた。
心が芯から凍るような、そんな笑顔だった。彼女は口をつけていないコーヒーを残して席を立った。会計を済ませているその姿から目が離せなかった。私も急いで支度をして、あとを追った。
「あの」
店を出て歩いていく彼女の背中に、恐る恐る近づいた。振り向いた彼女はごく普通の人のように見えた。
「あの……、どうして、あんなことを……」
私がマンションの方を指さすと、彼女は笑った。
「あのガキが私の娘を殺したのよ」
その短い一言を残して、彼女は去って行った。私は、身動ぎひとつ、呼吸ひとつすらすることができなかった。
その後姿に夕日が重なって、激しく燃えているように見えた。
翌朝、隣室の前の手すりに載った折り鶴を、私は見ることができなかった。
忘れないで 山野エル @shunt13
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