第10話 今は亡き君へ
こんなところにいたのかい、と声をかければ、彼女は
月明かりに照らされた鼻先は、ほんのりと赤い。舞踏会用のドレスは肩がむき出しだから
王城の片隅、小さな
「あなたのほうこそ、こんなところまで大変ね。狼さん」二人の間だけの名を呼び、彼女はからかうように視線を上下させた。「それに、まるで貴族の殿方みたいな格好だわ」
「仕事なのさ。今日は鼻持ちならない貴族の護衛でね。おまけに、彼の令嬢と踊れときた」
「踊ったの?」
「とんでもなく下手くそだった」
大げさに肩をすくめれば、「あら」と言って、彼女はもう一度笑った。ただ、長くは続かない。さっきもそうだった。ふとした瞬間に、彼女の笑みが冬間近の空気に溶けて、消える。
丸池の水面に、銀の細月が浮かんでいる。
「らしくない、って思ってるんじゃない?」動かぬ水面を眺めながら、彼女が言った。「私がこんなところで、こんな顔をしているなんて、って」
「残念、はずれだ」彼女の細い首筋を流れる後れ毛をさらって、上着をしっかりと
「ふふ。ありがとう」
上着から離そうと思った指先を、彼女の冷たい指が押し止める。つめたい指同士が絡まった。やっぱり池のほうを向いたまま、彼女がため息をつく。
「休憩をしていたのよ」
「休憩?」
「そう。たくさん笑って、疲れてしまったの」
「なるほどね。かのアンナ・ビルツ王女の御学友という立場も、簡単にはいかないってわけだ。殿方とやらは、ずいぶんと君たちに鼻の下を伸ばしていたようだけど」
「アンナがいたからだわ。めったに公の場に出ない国王の末娘。おまけに彼女は綺麗だから。中身は
俺は、触れあった指先に力をこめた。
「……アンナ・ビルツのことが嫌いになったのかい?」
「いいえ」きっぱりと首を横にふったわりには、彼女は困ったような顔をして見あげる。「大好きよ、アンナのことは。でも、あの子と私はよく似てて……ときどき、正しい感情だけではいられなくなるの。見えすぎてしまうのね」
「
「そう。好きだからこそよ」
「俺には理解できそうにない。嫌いなものは嫌いでいいと思うんだけどな」
「あなたは
さぁ、休憩はおしまい。そんなふうに明るく言って、彼女が指先をするりと引き抜く。一歩前へと踏み出してしまった。
俺の手は宙に浮く。けれど空っぽの手をただ握りしめるのも気にいらない。
迷わなかった。俺は彼女の手を追いかけて、もう一度つかむ。
「俺は、どんな君でも愛せる自信がある。リリア」
彼女が振り返る。色づきはじめた百合の花弁を一枚溶かしたような、
けれどそれも、やっぱり一瞬だ。
「知ってるわ、優しい狼さん」
声をたてて、彼女は嬉しそうに笑う。驚きが一瞬であることさえ、愛おしんでいるかのようだった。そうしていると、まるきり年頃の少女だ。アンナ・ビルツがそうであるように、リリア・ロレーヌもまた、ただの人間でしかない。
彼女は俺を愛している。俺も彼女を愛している。俺と彼女は手をつないだままで、さりとて抱きしめあうことはしない。彼女は存外に奥手で、近すぎる距離は苦手だ。俺はそういうことを気にしないけれど、彼女は気にする。俺は彼女といられるだけでいい。だから、いつまでも手をつないでいられる。そんなことは山とあった。
彼女は、アンナ・ビルツと、国の行く末を気にかけている。俺は、〈
この時間がいつまでも続けばいい。まるで子供みたいに俺は願う。
彼女はけれど、違った。
お礼に、私も贈り物をしましょう。彼女は優しく目を細めて、まるで宝物に触れるみたいに俺と手を重ねた。
「乗り越えられないほど辛い出来事にであったときはね、それを許さなくても大丈夫よ。誰かを憎んでもいいし、傷つけることがあってもいい。私たちはちっぽけな人間だもの。目をつぶって、耳をふさいで、立ち止まって……冬の嵐が過ぎ去るのを待ってもいいのよ。でもね、最後にはちゃんと顔をあげて。目を開いて、耳を澄ませてね」
だって、と彼女は言う。
その言葉を俺は覚えていて、でも、それがなんだというのだろう。
*****
「っ、はは。笑ってしまうね、これは」
アルヴィムはひとりごちた。
目の前に広がるのは、
ところが今はどうだ。誰も彼もが、
色とりどりの花々が、絶え間なく広場に降り注いでいるからだった。
花々は、しかも、暴力を
男たちが殴りあえば、彼らの拳が触れたそばから
誰かが振りかざした
馬鹿馬鹿しい。
本当に、馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
アルヴィムは処刑台へ目を向ける。
花々に祝福された彼女を守るようにルーが立ち、短剣をかまえるのが見えた。その両腕はすっかり元通りだ。癒やしたのだろう。アンナ・ビルツの魔女の力が。誰に説明されずともアルヴィムはそう理解した。
あらゆる争いを花に変えてしまう。優しき花々は、傷さえ癒やしてしまう。いかにも美談じゃないか。人々の涙をさらう、約束された幕引きそのものだ。
「――
アルヴィムは低く吐き捨て、地面を蹴った。
白銀の鎌を握る。これもたしかに武器だが、花にはならない。
ルーの
都合がいい、とアルヴィムは思った。なんであれ、利用するつもりだった。機を逃すつもりもない。足も止めない。だって、そうだろう。
小綺麗な花を
ありえない。アンナ・ビルツ、君は人殺しで終わるべきだ。憎まれるべきだ。
リリア。君はきっと、アンナ・ビルツを許すだろう。分かってるよ。でもさ、
愛は陳腐すぎる動機で、復讐は使いふるされた演出だ。優秀な脚本家は、俺を見て笑うだろう。でも、いいんだ。それでいい。
俺が君にしてあげられることは、これしかない。
アルヴィムは鎌を振りあげた。ルーの全身がぴんと張りつめるのが見えた。恐れはなく、おごりもなく、哀れみもなく、アルヴィムはただ、邪魔者を殺すためだけに大鎌を振り下ろす。正確にいえば、振り下ろそうとした。できなかった。
ひとひらの花びらが舞い落ちてきたからだ。
『でもね、最後にはちゃんと顔をあげて。目を開いて、耳を澄ませてね』記憶のなかの彼女が、無邪気に笑う。『だって、』
だって、世界はこんなにも美しいんだから。
アルヴィムは目を見開いた。ルーが短剣を振るうのが見える。けれどなぜか、避ける気になれなかった。
一閃と、激痛。切られたのか、殴られたのか。とにかく、アルヴィムの視界がぐるりとまわる。急速に遠ざかる意識のなかで、青い空が目にはいる。花々が降り注ぐ空が。
まぶしくて、まぶしすぎて、アルヴィムは目を閉じた。
あぁ、リリア。俺はこれを美しいとは思えないよ。
でも、そうだね。きっと君は、この風景を見たかったんだろう。そのために生きて、戦って、死んだんだろう。
そんな君を、やっぱり俺は愛している。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます