第9話 魔女の雨庭
誰かに名前を呼ばれた気がして、アンナはまぶたをあげた。
何度かまばたきする。ひとりきりで歌う小鳥のさえずりが聞こえた。冬の太陽のいっときのやわらかさが長窓からさしこみ、アンナが体を預ける
私、どうしてこんなところにいるのかしら。古びた椅子から背を浮かたアンナは、足元で目を留める。「……あ」
くすんだ青色の
古びてすりきれた革表紙の伝承集だ。ぱらぱらとページをめくれば、透けるほど薄くて黄ばんだ紙に
そう、そうなのだわ。アンナは何もかもを思い出し、急に勝ちほこった気持ちになる。とにかく珍しい本を探しましょう。相手を驚かせたほうが勝ちよ。リリアとそんなふうに言葉をかわして、書架の森に足を踏みいれたのだった。冬の休暇をむかえた学園は静まり返っていて、帰るあてがないのはリリアとアンナだけだ。だから
そして、この本を見つけた。花の魔女に関する伝承集だ。
うん、やっぱり聞いたことのない話ばかりだわ。リリアもきっと楽しんでくれるはず。アンナはうきうきしながら本を抱きしめ、歩き始めた。日のさす窓辺から遠ざかり、薄暗い書架へ足を踏み入れる。
「リリア、どこ? わたくし、ちゃんと見つけたわよ」
まさかあの子も、こんな本を見つけるとは思ってないはずよね。目を丸くして驚くはずだわ。想像するだけで胸が浮き立って、アンナの足取りが軽くなる。まぁ、そんな本を? 開口一番はこれね。まさか歴史書のところに行くなんて。そう言って
それから、彼女はどんな表情を向けてくれるだろう? ふと疑問がよぎって、アンナは足を止めた。
「あ、れ……?」
親友は、どんな顔をしていたのか。優しくて、ふわふわとした人だった。そのことは覚えている。けれど、どんな顔立ちだったのか。思い出せない。銀の目と、薄紅色の唇と、小さくて整った鼻。ひとつひとつのパーツを言葉にすることはできるのに、それがうまく一つに組み合わなかった。
なんでかしら。こんなにも近くにいるのに。
「……リリア。ねぇ、どこ?」
アンナはもう一度声をあげる。学園の図書室は広い。広いといっても、迷子になるほどではない。だから自分の声も聞こえているはずなのに、しんと静まり返っている。アンナの声は、
探さなきゃ。アンナはぶるっと身震いし、小走りで書架を抜ける。「どこなの……? ねぇ、リリア……あっ、」
不意になにかに足を取られた。前のめりに転んだアンナの手から、本が離れる。じん、とにじむような痛みに、アンナは
どうしてかしら。ぼんやりと思いながら、アンナは地面をずるずると
不吉な予感に顔をあげたアンナは、青ざめた。
そこはもう書架ではなく、戦場だった。アンナは丘の上にいる。崩れかけた
銃声、馬のいななき、悲鳴にも似た兵士たちの怒号。
知っているわ。アンナは唇の裏を強く
ロレーヌ領が国王軍に攻めこまれたからだ。
表向きの理由は、領主が国庫の金をくすねたこと。本当の理由は、領主の一人娘を殺すためだ。彼女は革命軍に協力していた。それは事実だったが、彼女は賢く、証拠のない
領主の一人娘であるリリアは国王軍に殺されようとしている。アンナに対する見せしめだ。国王軍は、アンナ・ビルツがこの場所にいることを承知の上で攻めている。そうできるだけの兵力が彼らにはあった。そして、彼らを止め、リリアを救い、革命軍の人間全員を生きて返すだけの力がアンナにはない。悲観ではなく、事実だった。
アンナ・ビルツには、すべてを救うだけの力がない。
そんなもの、どこにもないから、選ばなければならない。
たくさんの命を
……でも。
「お願いです、アンナ様! 我らをお助けください!」使者の必死な声が、アンナの鼓膜を打つ。「
――でも、リリアが待っているわ。私のことを。
アンナは服の
「もちろんよ。リリア・ロレーヌは必ず助けます。私の命にかえても」
親書を携えた使者の顔に、疲れきった喜びの表情が浮かんだ。
革命軍の男たちがざわつく。あからさまに
幻滅。期待外れということだ。それが、でも、なんだというの。私が嫌われてすむのなら、少しだって構わないわ。そんなものでリリアが救えるというのなら、世界中の人に嫌われたっていい。心の底から、アンナはそう思う。
でも、そうか。
私はもう二度と、ルーさまに会えなくなるのね。
不意に、泣きたいほど胸が痛くなった。
「案内して」
迷いをふりきるために、アンナは使者に声をかけた。
兵をまとめて出立する。あからさまな死地だ。戦場へたどりつくまでに、
「人殺しめ」
呪いのような言葉を吐き捨てて死んだのは、禿頭の大男だった。
耐えきれなくなって、アンナは走り始めた。振り返らない。戦場を進む。途中で案内役の使者も切り殺される。彼の手から離れた親書が、リリアが自分に
最後なんかじゃない。私が今からリリアを助けるのよ。だから手紙なんていらないの。見る必要なんてないの。何度も言い聞かせて、アンナは走った。体中が痛くて、心臓のあたりはもっと痛い。泣きたい。でも、足を止めたくない。助けなきゃ。助けたいの。それだけが願いなの。そのはずなの。
リリア。あなたが生きて、私が死ねば、きっときっと、何もかもがうまくいっていたはずよ。だってあなたのほうが頭が良くて。優しくて。あなたならきっと、誰もが悲しむ選択肢ではなく、正しくて誰もが幸せになれる道を選べたはず。そうすれば、たくさんの人が生きていられたはず。だから。
足が絡まり、アンナはつんのめった。床に倒れる。痛みにうめきながら顔をあげる。そこはもう戦場ではない。
インクの染みがにじむように、扉の隙間から真っ黒で細い
だって、助けられるのは私しかいないもの。これこそが、私の望んだことだもの。きっと皆幸せになれるわ。これで。ようやく。やっと。だから。
「――駄目だ」
低い声とともに、背後から手首をつかまれた。
アンナはつかの間、息をすることを忘れた。心臓さえ止まっていたかもしれない。ならばそのまま永遠に止まってしまえばいいのに、そうはならなかった。
ひきつるような痛みとともに、
嬉しいと思った。そんな自分を殺した。どうしてここにいるの。八つ当たりのような怒りを抱く自分を殺した。痛い。裏切り者の自分を、彼はきっと
痛いよ。
「……まぁ、ルーさま」
ひびわれた唇から漏れた自分の声は、場違いなほど穏やかだった。
アンナはゆっくりと振り返った。微笑みを向ける。夜明け色の髪の青年は、あちこちが傷だらけだった。右腕は力なく垂れ下がっている。血まみれの左手で、アンナを引き止めている。灰をまぶした炎色の目は
いたい、とアンナは思った。いたくて、ばらばらになってしまいそうだ。でも、大丈夫。まだ大丈夫。少なくとも、彼の目に映る自分は、綺麗で美しい女の形を保てている。
大丈夫。
「どうなさったの、こんなところまで」
青年がかすかに
「君を助けに来た」
「優しいのね」
「優しさなんかじゃない」
「なら、
「死にたいのか」
「やりなおしたいの」
「やりなおせるはずがない」
「できるわ。
「君が願っても叶わない」青年は美しい目に、ひとかけらの寂しさを滲ませた。「死んだ人間は、それきりだ。君だって分かっているんだろう、アンナ」
呼吸一つぶんの冷たい空気が、アンナの
「……なあに、それ」
ぽつりと漏れた返事は、信じられないくらい弱々しい。駄目だわ。そう思う。だからアンナは、言い直そうとする。でも、なにを言い直せばいいのかしら。どこからやりなおせばいい? 私はどこで間違ってしまったの? 駄目。駄目よ。
我知らず、アンナは後ずさる。ぎゅうと締めつけられた心臓を押さえる。殺したはずの感情が、痛みとともに染み出してくる。駄目。そう思うのに、止まらない。体を折り曲げる。口元を押さえる。
「待って」そう、待ってて欲しい。「ちゃんとするから……少しだけ、待って。大丈夫だから……」目を閉じる。震える息を整える。自分を殺そうとする。でも何故かできなかった。できない。
悲しくなった。寂しくなった。目の前の彼が美しいと思った。好き。好きなのよ。でも、私はあなたを傷つけた。あなただけじゃない。たくさんの人を傷つけて、彼らの大切なひとを殺した。なんでだったのかな。どうしてなんだろう。
誰かを助けたかったの。訳の分からない冬の暇つぶしで、死んでいく人たちを見るのが耐えられなかったの。暖かな貴族の
「……私が生きてちゃ、駄目なのよ」アンナは声を絞り出した。ばらばらになってしまいそうな自分をつなぎあわせて、顔をうつむけたまま笑う。勝手に流れる涙をぬぐう。「駄目なの……私じゃ、うまくできない……もう嫌なの……」
「……アンナ」
「そんなふうに、名前を呼ばないで……っ!」
訳の分からない怒りに突き動かされて、アンナは顔をあげた。手を振り払おうと思った。これ以上、ここにいたくない。彼と話したくない。そう思ったのだ。
なのに、できなかった。
彼が痛いほど強く、アンナの手首を握ってくれたからだ。
灰がかった炎色の目は、いっときだってアンナから
「僕は、君のことを憎んでいる」彼は言った。「許せるはずがない。〈
「っ、……離してよ……」
「勝手に決めて、勝手にどこかへ行こうとする。そんな君も嫌いだ。君一人が死んだって、誰も生き返りはしないんだ」
「離して……」
「大丈夫って笑う君の顔だって、腹が立つ。なにも大丈夫じゃないくせに」
「……っ、おねがい……私、」
「でも、ずっと会いたかった」
アンナは唇をうすく開いた。
目を見開いた自分が、青年の――ルーの目に映っている。
彼の表情はやわらかい。
「会いたかったんだ、アンナ。君が憎くて、嫌いで、腹が立っても、僕は君に会いたかった。今だけじゃない。仲間を殺して、
「……ルー、さま……」
「君は、どうだった?」
彼が首を傾ける。優しく尋ねてくれる。
あぁ、とアンナは声を漏らした。それは、ずるい。そんなふうに聞かないで。大切ななにかを抱きしめるみたいに、尋ねないで。アンナは口元を
こんなふうになってしまったのに、きっともう手遅れなのに、これは罪深いことなのに、唇が動く。
「……会いたかったわ、私も。ルーさま」
だから生き残った。生きるための選択をし続けた。親友を殺して、誰かにとっての大切な人を殺して、彼にとっての大切な人を犠牲にして、でも、生き残った。だから、生き残った。
あなたと一緒に生きたいと、願って。
「――それは許さないと、言ったはずだよ」
冷ややかな声が響いた。アンナとルーを分かつように、ひとすじの
アンナの目の前で
血の気が引いた。悲鳴は、けれど、出ない。怖さが勝れば、声すら出ないのだ。指一本だって動かせない。そんなアンナを
冷ややかな怒りに満ちた若葉色の目。獣に食いちぎられたように途切れた左腕。その右手には、鮮血のしたたる白銀の鎌がある。
厳冬の死神のごときアルヴィムは、うすく笑った。
「お前が救われるなんて、そんなこと。許されるはずがないだろう? アンナ・ビルツ」
息ができない。アルヴィムが
「……いや……」
アンナは唇を震わせた。
やっとの思いで体を動かす。なにかに腕を引っ張られて、ひれ伏すように転んだ。地面に
でも、いやだ。
もう、いやなの。
「っ、助けて、よ……っ」アンナはルーへ手を伸ばす。涙声で叫んだ。「助けて、ルーさま!」
ルーが顔をあげた。アンナへ向かって腕を伸ばしてくれる。灰がかった炎色の目が見える。美しい赤だ。夜を照らす
それはまるで、アンナがはじめて彼の罪の名前を呼んだときのようだった。
そうであるならばきっと、彼が贈るのは、アンナのための名前だ。
『〈
ルーが呼ぶ。二人の間で、光が弾ける。それは、四季の花々を映した輝きだ。たくさんの思い出がつまった
そしてアンナは、光を
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