第8話 輝ける狼星
かしいだ屋根を雨が
昔ながらの石造りの家の裏手には、古い荷箱が雑然と積みあげられるばかりだ。枯れた葉のかけらと、黒っぽい土くれであちこちが汚れた箱の一つに座り、ルーは頬の傷に薄布をあてる。薬草が染みた。ぴりとした痛みに顔をしかめたところで、声をかけられる。
「反省はできたかい」
ルーは手を止め、じろりと視線を横に向ける。白銀の髪の青年は隣の荷箱に腰をおろし、「それにしても、湿っぽいところに逃げこんだものだね」と、独り言なのか、からかいなのか、判別しがたい声音で言った。
「……反省する必要を、感じません」ルーは両手を膝の上におろし、ぼそりと付け足す。「どう考えても、
「君の手紙を
ぽたぽたという雨音のはざまの返事はのんびりとしている。
ルーはきゅっと、小さな手を握った。
「そのうえ、僕のことを馬鹿にした」
「大笑いしてたもんねえ」
「子供なんですよ。
「……さすがにそれは、本人の前で言わないようにね?」
「
事の始まりは、ルーの書いていた手紙を
彼女はとにかく色々なことを知っていたし、知ることに
ところが酒に酔った
結果として、勝ったのはルーで、負けたのは
ルーたちはそろって、宿舎を管理する
「どっち、と言われてもねえ」いつもどおりの煮えきらない声音で、青年がわざとらしく視線を天にあげる。「ほら。俺ってば、君たちの上に立つ人間だし? 片方に味方するのも良くないっていうかさ」
「優柔不断」
「世渡り上手ってことだよ」
「物は言いようですね」
「ルー」青年が、若葉色の目を感動したように光らせた。「君、ずいぶんとたくさんの言葉を知るようになったんだねえ……! やっぱりこれも、初恋にして、ぼくのたいようアンナちゃんとの手紙のおかげ、あっづ!?」
「人の手紙を勝手に読むな」
男のつまさきを力いっぱい
でもねえ、という男の声がしたのは、その時だ。
「どんな規模かはさておき、情報共有は必要だよ。俺たちは〈
ルーは
空気が揺れた。頭領は、困ったように笑っている。
「おやおや。ちょっと前までは、早くなりたいって言ってたのにね」
「……なりたくは、ある、けど……」
「アンナちゃんを守りたいんだもんね」
「っ、うるさい」
「はは。ごめんごめん。つい面白くって、」
「別に、それだけが理由じゃない」ルーは早口で付け足した。「僕が、頭領たちの仕事を手伝いたいからだ」
白銀の髪の青年が、笑みをおさめた。だというのに、表情は嬉しそうだ。にんまりとした、だらしない顔。これじゃあ、ほとんど笑ってるも同然じゃないか。ルーがますます
ルーは仕方なく、頭領の隣に腰かけてやった。頭をぐしゃりと
「嬉しいな。そう言ってくれて」青年がしみじみと言う。「俺だけじゃない。他のやつらも……それこそ、
「……喜ばせるつもりとか、ないですし……」
「ふふ。そうかい? じゃあ、俺たちで勝手に喜ぶってことで」
「それも、情報共有ですか」
ルーが
「情報というのは、人の命と同じくらい重要だ。知っていることで救える命もある。分かるかな」
「……はい」
「ところが厄介なのはね、情報の価値は常に変化するってことなのさ。どうでもいいと思っていたことが大切になったり、必死に守ってきた秘密が、一瞬で
「
「まさに彼女の得意分野だからね」我が事のように嬉しそうに同意したあと、青年は
「…………」
「どうかな。いやだって、思ったかい? ルー」
「……いいえ」
ルーはしぶしぶ息を
頭領がゆっくりとまばたきをする。賢すぎるのも考えものだね、と呟いたあと、彼は若葉色の目をしばし前へ向けた。
すっかり葉を落としてしまった
不意に、青年が言った。
「じゃあ、俺の秘密も教えておこうかな」
ルーは、ぱちりと目を瞬かせた。隣を見やる。青年は悪巧みする子供のように目を輝かせて、「これは、
「俺はね、君たちを大切に想う気持ちを〈王狼〉の鍵に預けたのさ」
さらに二度、ルーはまばたきをした。身を離す。若き〈王狼〉の長は、何かを期待する眼差しだ。得意げでもある。
ルーは半眼になった。
「……それって、秘密でもなんでもなくないですか?」
「ええっ」青年がわざとらしく傷ついた顔をした。「どうしてだい? 誓って、
「誰にも言ってなくても、ばればれですよ。見ればわかる」
「どういうところが?」
「全員の誕生日とか、好みを全部覚えてるでしょう。僕たちみたいな子供が殺しをしなくてすむように、裏で頑張ってるみたいですし……それに、まぁ……こうやって話を聞いてくれることも、評価できるというか……待ってください、
「いやあ、ルーは俺のこともよく見てくれているな、と思ってね」
「……あなたはよく目立つから」
「そうかい? 俺としては、次の”
「馬鹿言わないでください。僕は嫌ですよ。
ルーの反応がよほど面白かったらしい。〈
「なるほど。それじゃあ、ますます頑張らないといけないね。ルーたちのために」
*****
あのときのあなたは幸せだったのだろうか。
少なくとも、その目は、朝一番の太陽の光を浴びた時みたいに、明るく輝いていた気がする。
けれど、それだけだ。
記憶をとりもどしたって、僕が分かることはそれくらいしかない。
真実を知りたければ尋ねるほかなく、その機会は二度と来ない。
ルーは後ろにとびすさった。直感は正しく、
ルーは地面を
「っ……!」
ルーは奥歯を噛みながら、後退した。
かわしきれなかった。右肩に鋭い痛みがある。急に力が抜けて、手から短剣が滑り落ちた。がらん、という
目の前には、一人の男と、彼の従える数十の黒い人影がある。
アルヴィムの隣だ。鞘に収めた長剣で、肩を叩いているのは
〈
短剣についた鮮血をはらい、アルヴィムが試すように若葉色の目を光らせた。
「懐かしいかい、ルー?」
「少しは」痛みで震える左手を短剣に向かって伸ばしながら、ルーは小さく笑った。「だが、それほどでもない」
「そうか」
アルヴィムはそれ以上なにも言わなかった。目を細め、〈
「殺せ」
ルーは左手を動かした。短剣で、
真っ黒な人影に突き倒された。体のあちこちに痛みが走った。誰かに
もしかして、僕は死んでしまったのかもしれないな。ルーはふと思った。実際、彼らに殺されたと言われたって、信じられそうだ。だって、僕が彼らを殺したのだから。
どれだけ鮮やかな像を結んだって、結局は幻だ。
彼らは生きていない。彼らの心を、願いを、本当の意味で知る機会は永遠にない。それでも僕は生きていて、彼らのことを覚えている。全部を覚えているなんて、だいそれたことは言えないな。きっと忘れていることもあるだろう。これから忘れてしまうこともあるのだろう。そのたびに僕は思い出の
そのことを思うたびに、少し泣きたくなるんだ。本当は。それでも僕は、身勝手に思い出すだろう。懐かしむだろう。
僕が生きるべきだと言ってくれた、君たちのその言葉を信じているから。
「――だから、力を貸してくれ」
短剣を水平にかまえ、ルーは静かに名前を呼ぶ。
罪ではなく、誇りの名前を。
『〈
灰がかった赤の目を映す刃が、ゆらりと揺らいだ。水面にかかる
それは銀の毛並みを持つ狼だ。
時に、片目の潰れた男で、
ルーは迷わなかった。短剣を強く握って走り出す。不思議と痛みはない。動きに支障が生じることもない。銀に輝く短剣で黒を裂く。ひとつひとつの黒が分かれて、魔女の未練の形になる。その一人ひとりに、銀の霧が襲いかかった。真っ黒な
横あいから研ぎ澄まされた刃の気配。
ルーは体をねじった。アルヴィムの初撃を短剣で受け止める。弾く。二撃目はアルヴィムのほうが早い。ルーはのけぞる。首から下げていた
二人の視線がぶつかる。殺意に光る若葉色の目を見据え、ルーは短剣を強く握りしめる。
「行かせてもらう、アルヴィム・ハティ!」
「許すと思うかい、ルー・アージェント!」
互いの刃が再び重なった。ルーはけれど、あえて受けきらない。わずかに力を逃がす。左後方へ。
アルヴィムの
けれどそこで、白銀の毛並みをもつ
その事実だけで、十分だ。
身をひるがえし、ルーは
ルーは短剣を走らせた。何本もの
いいや、違う。
これもやっぱり幻聴だ。
君の声で答えを聞くまで、僕は絶対に諦めない。
「っ、アンナ!」
そしてルーは、投げ出されたアンナの手に触れた。
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