第7話 王狼
処刑台のたもとで、ルーとアルヴィムは同時に地面を蹴った。
互いに
右目のすぐそばで、ルーはアルヴィムの短剣を受け止めた。じんと腕が
ならば、なにを?
視界の端で、アンナが見知らぬ男に地面へ引き倒されるのが見えた。ルーの腹の底が冷え、攻めに転じるはずだった短剣の切っ先がぶれる。
「アンナ……っ!?」
アルヴィムに足払いをかけられた。避けきれない。首元をねらった刃は弾いたが、それが精一杯だった。アルヴィムの左膝が、ルーのこめかみをとらえる。
激痛とともに、視界が揺れた。地面にうずくまったルーの首筋に、ひやりと冷たい刃が当てられる。
「戦闘中によそ見とは」アルヴィムは、息一つ乱さず言った。「そんなにあの女が大事かい?」
「っ、……」
「あぁ、ごめんね。よく見えないか。ほら、これでどうだい」
アルヴィムに髪の毛をつかまれ、ルーはぐいと顔をあげさせられた。息が止まりそうになる。目の前の光景が、あまりにもひどかったせいだ。
何人もの男たちが、アンナを
ルーの頭が一瞬で怒りに染まった。体が自由なら、今すぐにでも下種野郎を殺していただろう。実際、ルーの体は動き出す寸前だった。けれど、できなかった。いち早く気づいたアルヴィムが、ルーの左手に短剣を突き刺したからだ。
焼けつくような痛みに、ルーは悲鳴をあげる。
アルヴィムが笑った。「ははっ。だから、よそ見はやめろと言ったのに」
「……離して、ください……」ルーは荒い息を吐きながら言った。「アンナを助けにいかないと……」
「どうしてだい? アレが彼女の望みだよ」
「違う……」
「わかりやすい否定だ。なるほどねぇ」アルヴィムはわざとらしい沈黙のあと、明るい声で言った。「じゃあ君は、どんなアンナ・ビルツを助けたいのかな?」
「……っ、は……ッ……ぐ」
おもむろに短剣を引き抜かれた。おもわず
なにせ、今の君はたくさんのアンナ・ビルツを知っているわけだから、と。
「子供の頃、最初に護衛になったときの、無邪気なアンナ・ビルツを取り戻したいのかい? あるいは、
「……っ、……そ、れは……」
「そうだろう? ルー。君は、アンナ・ビルツのことを憎んでいる。でもね、
ルーは息をのんだ。頭の内側に、鋭い痛みがはしる。
記憶だ。封じていた記憶が――封じていたことさえ、忘れていた記憶が、ここにきて色鮮やかな像を結ぼうとしている。あぁ、だが、どうして。今さら。やめるべきだと思った。けれど止まらなかったのは、アルヴィムの言葉以上に、知りたいと望む自分がいたからだ。
秋の
ルーはおもわず目を強く閉じる。
僕は、彼に望んだのだ。恋と憎しみを
だから僕は、仲間との過去を
僕は、僕自身の意志で、逃げ出したのだ。現実から。
「己を責めることはないよ、ルー」
どこまでも優しいアルヴィムの声に、ルーは現実へ引き戻された。処刑台広場。暴力と悲鳴が響く争いの場所。かの男は、ルーの前にひざまずいている。〈王狼〉同士の殺し合いから助けた時と同じように、アルヴィムはルーの頬を両手で包んだ。
「君は優しい子だ。誰も傷つけたくなかったんだろう? だから死者ではなく、生者であるアンナ・ビルツを守る選択をした。そういうことなんだ。君は何も間違っていない」
アルヴィムの口調は、どこまでも穏やかだった。そのせいに違いない。ルーは、自分が〈
「心配いらないさ。〈王狼〉の人間であれば、君がそういうやつだって分かってる。誰も君を責めたりはしない。当然、何も知らない君が、なにも知らないアンナ・ビルツともう一度恋に落ちようとも……まぁ、からかわれることくらいは、覚悟すべきだけどね」
例えば、ルーが間違いを犯したとする。その時に説教をするのも、決まってアルヴィムだった。彼はけれど、決して声を荒らげたりしないのだ。ルーの納得できる意見から話をしてくれる。ひとつずつ認識の違いを確認して、時には冗談もまじえて言葉をかけてくれる。
「ルー、俺たちは君を責めないよ。でもね、だからこそ言わせてもらおう。アンナ・ビルツは駄目だ。君の優しさで、許してはいけない」
アルヴィムは目を伏せた。ルーの記憶のなかの彼と同じように。
「〈王狼〉を殺すことを、最終的に決めたのは彼女だ。この一年で、君に淡い期待を抱かせて、めちゃくちゃにしたのも彼女だろう。あるいはあの女が、革命なんてものを起こさなければ、誰も死ななかった。分かるかい、ルー。優しい君は、心を痛めるだろう。けれどね、憎しみも
アルヴィムが言葉をきった。その視線は、悲しみに満ちていて、優しくもある。何も言わない。けれど、下手に言葉を重ねるよりも、頼もしさがある。ルーがどんな返事をしようとも、許してくれるのだろう。そんな暖かさすら、あの頃にそっくりで。
あぁ、でも本当に、似ているだけなのだ。そのことを痛感して、ルーは胸が苦しくなった。
目の前のあなたは、先代の眼差しをしている。僕にとっての頼るべき師で、仲間たちにとっての父であり、兄であり、悪友だった。そんなあなたにそっくりだ。
けれど、昔のあなたなら、誰かを憎めなんて、絶対に言わなかっただろう。君はどう思うかな、と、尋ねてくれたはずだ。あなたは公平な人だったから。僕じゃない。あなたこそ、優しい人だったから。
先代。あなたは誰よりも、相手の心を大切にできる人だった。
「……嫌、です……」
ルーは唇を震わせた。アルヴィムの眉が跳ねあがる。不愉快そうに。
記憶とのずれがいっそう大きくなって、ルーの
「……嫌だ……それだけは……アンナを憎んで……その気持ちだけで終わることは……もう、嫌なんです。僕はそれを、したくない……」
「…………」
「先代……あなたの怒りも理解しています……でも、駄目だ。アンナを憎めというなら、聞きいれられない……昔のあなたなら、そんなことをしろとも、言わない……そのことを僕は知っているから、」
「
アルヴィムがため息をついて立ちあがった。彼の気配が遠ざかる。いったい何をするつもりなのか。のろのろと顔をあげたルーは、体を強張らせた。
血しぶきが舞った。アンナに群がる男たちを、アルヴィムが一瞬で斬り伏せたからだった。命を奪われた男たちが、糸の切れた人形同然に崩れ落ちる。
地面に倒れ伏したまま動かないアンナへ、アルヴィムはぞんざいに声をかけた。
「聞こえていたんだろう? アンナ・ビルツ。ねぇ、どう思うんだい? いまだに綺麗な俺たちを信じているルーの言葉を、君は
「……いいえ……」
ややあって聞こえたアンナの返事は、かすれていた。それなのに、ルーと逃げることを拒否したときと、全く同じ声音だった。
何度も失敗しながら、アンナが細い体を起こした。彼女は殺された男たちを見やる。青の目をかすかに揺らす。唇を
「わたくしは、許されるべきではないわ」
アルヴィムは、満足そうにうすく笑った。「俺もそう思うよ、アンナ・ビルツ」
灰色の髪の女はほっとしたように表情をゆるめ、立ちあがった。処刑台のほうだけを見て、まるでそこに救いがあるかのように、よろめきながら歩いていく。
真実それが、彼女の望みなのだ。
そして、復讐は、アルヴィムの望みでもある。
途方もない寂しさと苦しさで、ルーは胸がつぶれるような思いがした。もう、なにもかもが手遅れなのかもしれない。そんな弱音が浮かぶ。けれど、同時に思う。
たとえそうだとしても、まだ、諦めたくない。
「おや、泣いているのかい。ルー」
アルヴィムが振り返った。心の底から同情しているように、ルーに向かって両眉を下げてみせる。「おまえはいつもそうだね」
ルーはのろのろと首を横に振る。
「……分かったような口を……聞かないでください……」
「おや、ひどいなあ。分かるさ。家族も同然のお前のことだ」
「僕には、あなたが分からない」
「俺は、アンナ・ビルツに
アルヴィムは微笑んだ。安心しなよ、と言葉を続ける。
「こうみえても俺は、アンナ・ビルツを死なせるつもりはないんだ。なんせ彼女の願いは死ぬことだ。なら、絶対に死なせてやらない。適当な頃あいを見て、処刑台から引きずり降ろして……そうやって、また死に損ねたことを後悔させてやるさ。死ぬほど苦しいのに、死ねないなんて、アンナ・ビルツにぴったりの罰だろう? まぁ、そんなものですら、生ぬるいだろうけどね。
「……やめてください……」
「ははっ。相変わらず、ルーは優しいね。でも、アンナ・ビルツへの罰は正しく与えられるべきで、」
「違います。〈
白銀の髪の男が、口をつぐんだ。その目に冷ややかな色が灯る。「……おかしなことを言うね、君は」
「おかしくなんて、ありません」ルーはゆっくりと体を起こした。「もうあなたの口から、仲間の名前を聞きたくない」
「どうしてだい? 彼らは、俺にとっての仲間でもあったんだよ」
「なら、あなたは僕を責めるべきだ」
ルーは声を大きくした。
「先代、分かっているでしょう? 〈
「……っ、はは」
アルヴィムが乾いた笑い声をたてた。
「まさか、それを君に言われるとは。ルー、君だって〈王狼〉の記憶を都合よく忘れていたくせに」
「分かって、いる」
「なのに君は、俺に〈王狼〉を語るなと言うわけだ」
「そうだ」
「
「なら、お前も僕に言えばいい」ルーは相応の覚悟をもって言った。「〈王狼〉のことを語るな、と。その権利がお前にあることも、僕は理解している」
「馬鹿だな」
アルヴィムが、つと、表情を緩めた。その一瞬だけは、彼はたしかに〈王狼〉の長だった。
「言わないよ、そんなこと。ルー、君はちゃんと〈
それは間違いなく、かつての師からの最大限の賛辞で、別れの言葉でもあった。
白銀の髪を揺らし、アルヴィムがゆったりと短剣を構える。ルーもそれにならった。まるで鏡合わせのようなそれは、〈王狼〉にいた頃に何千回と繰り返した
アルヴィムは笑った。
「俺は勝つよ、ルー。どんな手を使ってでもね。アンナ・ビルツは罰を受ける必要がある」
「止めてみせるさ。どんな犠牲を払おうと」ルーは、アルヴィムの若葉色の目をまっすぐに見返した。「僕はアンナを助けるために、ここにいる」
二人は同時に動き出した。短剣を重ねる。弾き返す。距離をとると見せかけて、
アルヴィムの蹴りをかわす。続く短剣での強襲を、ルーはあえて左手でいなした。アルヴィムの刃が、再び傷口をえぐる。激痛で、視界が明滅する。けれど、とらえた。
ルーは短剣を動かし、アルヴィムの腕に刃を突き立てる。鮮血。白銀の髪の男はしかし、笑う。
「そろそろ準備ができたようだね、アンナ・ビルツ」
空気が変わる。
ルーは思わず短剣を引いた。アルヴィムの視線を追う。処刑台だ。
アンナ・ビルツは、そこにいた。血と土汚れにまみれた彼女は、黒銀の
そして彼女は、十字架に願う。
『みんなの大切な人を、生き返らせて』
ぱきんっ、という音がして、薔薇の十字架が砕けた。アンナの手の中で黒銀の光が弾け――次いで秋の嵐のような暴風が吹き荒れる。
「っ……!?」
ルーは思わず手をかざした。立っていられないほどの風だ。周囲で争っていた街の人間たちが、悲鳴とともに次々と倒れていく。風はしかし、ほどなくしてぴたりと止んだ。
ルーは、目を見開く。
処刑台にはアンナが倒れていて――彼女に根を下ろすようにして、巨大な漆黒の植物がそびえている。
一見すると、それは大樹だ。けれどよく目を
枝の先には、いくつもの
ルーはどきりとした。嫌な想像だが、なぜか確信がある。蕾のなかには、誰かがいる。あるいは、誰かが人としての形を取り戻そうとしている。それが誰かなんて、問うまでもない。
みんなの大切な人だ。
アンナは、死んだ人間を生き返らせようとしている。
気づいたときには、ルーは大樹に向かって走っていた。言葉にすれば綺麗なはずの願いが、ずいぶんとおぞましいものに思えたからだ。なにより、
それとも、もう、死んでいる?
「死にはしないさ。
耳元で、アルヴィムの声がした。
顔を歪め、ルーは身をひねる。短剣の一撃を、かろうじてかわす。どちらのものともしれない鮮血が、ばたばたと地面を濡らした。
大樹を守るようにして立ちはだかったアルヴィムが、のんびりと言う。「それにしても、だ。
ルーは
「これがなにか、お前は知っているんだな?」
「アンナ・ビルツの願いだよ」アルヴィムは肩をすくめた。「
「……馬鹿げてる」
「そうさ、馬鹿げたことだよ。死んだ人間は蘇らない。だから、アンナ・ビルツが十字架にかけた願いは、必ず失敗する」アルヴィムはせせら笑った。「それなのに、彼女は何度も同じ過ちを繰り返すのさ。死んだ人間を取り戻して、ってね。そんなもので罪が軽くなるはずもないのに……なかなかどうして、
わざとらしい声をあげて、アルヴィムがルーの短剣を受け止めた。「ひどいなあ。まだ話している最中だったのに」
「どいてくれ」ルーは短剣を握る手に力をこめ、低い声でいった。「アンナは、見世物なんかじゃない」
「見世物だよ。どうしようもない願いを、いつまでも叶えようとする。できの悪い人形だ」
「っ、そうなるように、おまえが仕向けているんだろう!?」
「賢い子だ。そのとおり。これもまた、アンナ・ビルツへの罰でね」アルヴィムは、若葉色の目を細めた。「だからこそ君に、邪魔されるわけにはいかない」
アルヴィムが、ルーの短剣をはらいのけた。左手を突き出す。素手ではない。そこには金属の飾りが握られていた。
銀の
ルーにとっては、あまりにも馴染みのある代物だった。
『――来たれ、〈
唇に笑みを刻み、アルヴィムが
金属のこすれるような音を響かせて、〈王狼〉の鍵が鳴った。
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