第6話 無垢の遊炎

 つかんだ腕越うでごしに見えたティカは、みっともないくらい情けない顔をしていた。


 レイモンドは、思わず笑ってしまいそうになる。おいおい、そういう顔は俺の得意分野だろ、なんて。軽い冗談じょうだんでも言えればよかったし、お前なら間違いなく口にしていただろう。


 でもな、ディエン。それはお前だから出来たことなんだ。下手くそな冗談であっても、お前相手なら笑わざるをえない。怪我けがの痛みは絶え間なくて、自分のことで精一杯なのに、誰かを笑わせるなんて到底無理だ。


 今になって思うよ。お前は強かった。誰よりも。最後まで。俺はお前の人生を半分も理解していなかっただろう。そのなかには、俺の嫌悪する事実もあったのかもしれない。なんといっても、お前の書いてきた履歴書りれきしょは嘘八百だったんだからさ。


 それでも、思うんだ。

 お前はやっぱり、俺の誇りだ。

 そんなお前に、一歩でも近づきたいと思っている。


 なぁ、ディエン。生きるっていうのは、そういうことだろう。


「……レイモンド……」


 泣き出しそうなティカの声を無視して、レイモンドはなんとか体を起こした。剣で執拗しつようりつけられた右腕から、ちょっと引いてしまうくらいの量の血が出て、苦笑いする。痛すぎる。とれるんじゃないか。思考が断片的なのも、きっと血が足りていないせいだ。


 よくないな。

 よくない。

 でも、まだやれるはずだ。


「らしくない声だすなよ、ティカ」レイモンドは普段のティカを真似まねて、からかうように笑った。「そんなに可愛かわいらしい性格でもないくせに」

「っ、でも、君、傷が……!」

「それはまぁ」返事にやや詰まったのは、本当に痛かったからだ。「大丈夫っていうかんじではないけどさ」


 ティカが不安げな顔をする。いや、さすがにそこまで完璧なやせ我慢は無理だって、とレイモンドが思ったところで、視界に影が差した。


「……なんで、ティカちゃんとれしくしてるの……」


 顔をあげる。


 すぐ近くまで来ていたフラウが、鬼のような形相でレイモンドをにらみつけている。その後ろでは、ダグラスが老練ろうれんわしさながらに鋭い視線を向けていた。


 けっこうというか、かなり怖い。ただそれ以上に、冷静に周囲を観察できている自分に安心もする。レイモンドは、ティカの腕から手を離し、唇の端をげた。挑発するなら、ディエンを真似まねるのが一番だ。


「分かりきったことを聞かないでくれよ」レイモンドは気づかれないよう、地面へ指先をわせた。「あなたがそういう態度だから、ティカが追い詰められてるんじゃないか」

「なんですって……?」

「まぁ、そのへんはティカとじっくり話しあってもらうとして、さ――俺としては一つ、お礼を言いたいことがあってね」


 ダグラスの片眉かたまゆが動いた。おいおい、ここで気づくのか、なんて。レイモンドは呆れ半分、焦り半分に思う。


 恐れはなかった。

 嘘だ。怖いけど、やってやる。そういうことだ。


 レイモンドは、地面に描いた紋様に左手をかざした。長剣を引き抜いたダグラスが駆け寄ってくる。それよりも早く、ほとんど感覚のない右手でニケを抱き寄せ、レイモンドは自らの罪の名前を呼ぶ。


『――〈星砂の命者〉トレミー


 ばちっと、空気がぜる音とともに、レイモンドたちを守るように赤銅色の光の壁が現れた。間髪入かんぱついれずにダグラスの一閃いっせんが打ちこまれ、光の壁が大きく揺れる。かの男が、わずかばかりまゆをひそめた。「……魔女の力」


 そうだよ、とでも返してやるべきだったが、さすがに余裕はなかった。無理やり動かした右腕がちぎれそうだ。笑ってしまう。というか俺、さっきから笑いしか出てないんだけど、大丈夫なのか?


「な、なんで……」光の内側で、ティカがぽかんとした声で呟いた。「どういうことなの、レイモンド……? 罪の名前は、誰かに呼んでもらわないと駄目なんでしょ……?」

「それが思いこみだった、ってことだ」レイモンドは、ニケの無事を確認しながら返した。「フラウさんが、どうして魔女の力を使えているのか、ずっと考えていたんだ。彼女の周りにいる誰かが名前を呼ぶことも考えたけど……君を大切に思っているフラウさんが、それを許すはずがない」

「だから、自分で呼んだって思ったわけ?」

「仮説だけどね」

けじゃん」

「相変わらず、俗っぽい言い方が好きなんだな。君は」


 軽口で返せば、ティカがむっとしたような顔をした。生意気だが、いかにも彼女らしい反応に、レイモンドはほっとする。


 そうさ。君にはそういう顔のほうが似合うよ。そんなふうに言えば、きっと君は、ますます機嫌をそこねるんだろうけど。


「手短にいこう」レイモンドは顔をひきしめた。「俺がダグラスを引き受ける。だからティカ、君はフラウさんを止めるんだ」

「それは……」ティカが、あからさまにひるんだ顔をした。「そうしたい、けど……でも……」

「できるよ」

「……っ」

「できる」レイモンドは強く言いきった。ティカの紫水晶アメジストの目をまっすぐに見る。「ティカ、君は本物だ。だから、できる。絶対に」


 ティカの目が大きく揺れた。泣くのだろうか。そんなレイモンドの心配は、けれど、杞憂きゆうだった。


 黒髪の少女は一度だけ顔をせたあと、目元を強くこすって顔をあげる。そこにはもう、見慣れた勝ち気な笑みがある。


「生意気だよ、レイモンドのくせに」

「そこは素直に、ありがとう、だろ」


 レイモンドは笑みを返して、ティカの手を離した。


 ダグラスが三度目の剣閃けんせんを放ったところで、レイモンドの喚んだ光の壁は崩壊した。


 砕け散る様子は、硝子ガラスの破片そのものだ。その合間をぬって、ティカが飛び出していく。アンナの叔父おじはしかし、レイモンドに狙いを定めた。踏みこみとともに、彼の男の長剣が空気を鳴らす。


 レイモンドは、ディエンの双子を抱えて後ろに飛びすさった。間一髪で避ける。目の前の地面がえぐれるのは、なかなかに壮観な光景だ。というか、そうとでも表現しないとやってられない。


輝ける盾デネボラ偉大なる額アルギエバ天上の王レグルス!』レイモンドは指先で星を紡ぐ。『めいを成せ、獅子レオニス!』


 光が弾け、赤銅色の毛並みをもつ大獅子おおじしあらわれた。


 ダグラスのやいばをかいくぐり、獣が男の右足に食らいつく。男の判断は、しかし、早かった。獅子ししきばが男の肉に突き立つより早く、左足で獣の腹を蹴りつける。靴底に仕込まれた刃で腹を裂かれ、星獣けものが光の粒になって霧散する。レイモンドはすかさず、次の獣の名をんだ。


『命を成せ、海蛇ハイドラ!』


 ダグラスの足元が水面のように揺れ、赤銅色の鱗をもつ巨大な大蛇が飛び出した。「いいねえ、面白い!」男が笑い、長剣をふるう。


 水滴とも光の粒ともしれない何かが、ほおを打ちつけていく。レイモンドはゆっくりと後ずさりながら、奥歯を噛んだ。海蛇ハイドラは、先の獅子レオニスに比べれば、ダグラスとうまく渡りあっているようだ。だが、かの男を止めるには、あとひと押しが足りない。


 いっそ、飛び道具でも喚んで多方向からダグラスを攻めるか? 駄目だ。それじゃあ、周りの無関係な人まで巻き込んでしまう。


「っ、レイモンドお兄ちゃん!」


 ニケの悲鳴に、レイモンドは我に返った。真っ二つになった海蛇ハイドラの間から、ダグラスが黒衣をひるがえして飛び出してくる。長剣の一閃。


 レイモンドは、ニケにおおいかぶさった。背中に焼けるような痛みがあって、悲鳴をあげる。また右側だ。悪趣味にもほどがある。それとも戦場なら、これが普通なのか。


 だとすれば、戦争なんてものはすべからくクソだ。最低だ。最悪だ。


 体を震わせるニケへ、レイモンドは呟いた。「……大丈夫だ。君は、俺が守るから……」


「誰が、誰を守るというんだね?」


 ダグラスの嘲笑ちょうしょうを聞きながら、レイモンドはなんとか体をひねった。ニケをかばうようにして顔をあげる。


 老練の戦士は、すぐ近くにいた。一歩踏みこめば、レイモンドの首を体から切り飛ばせる位置だ。彼はひたいと右足から血を流しながら、レイモンドを見下ろしている。


「君では私に勝てないよ、レイモンドくん。機会があったとすれば、魔女の力を最初に使ったときだった。不意打ちこそ、弱者が強者に勝利するただ一つの道だ」

「はは。まさか、あなたから忠告をいただけるとはね……」レイモンドは、引きつった笑みをうかべた。

「忠告ではなく、失望さ。君は、このおよんでも私を殺すつもりがない」ダグラスは目を細めた。「まったく、呆れたものだ。君があの廃倉庫はいそうこで私を躊躇ちゅうちょなく殺していれば、ディエンくんも死なず、彼の子供や、ティカお嬢さんが苦しむこともなかった。そのことを正しく理解していないから、君はまた、見栄みばえばかりいい綺麗事きれいごとを並べ立て、誰かを救った気になっている」


 何十回と斬りつけられるよりも、ずっと重くて痛い言葉だった。


 レイモンドは、強くこぶしを握りしめる。それがどうしたと、すぐに言い返せればよかった。できなかったのは、自分自身がよく分かっているからだ。俺には誰かを殺す覚悟がない。


 相棒を殺すことはできたのに、目の前の元凶を殺すことには、いまだにためらいを覚えている。


 我ながら安い正義だ。ディエン、このことを考えるたびに、俺はいつだって、俺のことを笑いたくなる。ちょうど目の前のダグラスみたいに。


 でも、さ。こうも思うんだ。


 今の俺を、お前はきっと笑わないだろう。

 それどころか、相手のことを笑ってやれとさえ、言うだろうな。


「……おかしな話だよ」レイモンドは、ダグラスの視線を真っ向から受け止めた。「あなたの話を聞いていると、まるで死にたがっているように聞こえる。王家の人間ってのは、みんなそうなのか?」

「まさか。私はのんびりと余生を楽しみたいと思っているよ」ダグラスが肩をすくめた。「ただねえ、平和な世界というのは刺激が足りない。生きるか、死ぬか。そういう命のやりとりを続けるほうが、よっぽど人生に張りあいが出るというものさ」

「時代遅れだ。革命は三年も前に終わった」

「だが、不和も争いも、容易たやすく呼び戻せる」まぶたをなかばまで閉じ、ダグラスは暗い喜びに目を輝かせた。「その種をまくための労力を、私はいとわんさ。手間暇てまひまかけて育てるほど、私好みの争いの花が咲く。まさに今、この時のようにね」

「ご高説どうも」レイモンドは地面に指先をわせた。「でも、残念だ。俺には少しだって理解できそうにない……!」


 指先でひっかくようにして、レイモンドは紋様を描く。


 レイモンドとダグラスを分かつように、再び光の壁が現れた。老いた狂戦士はわらい、長剣で斬りつける。レイモンドが見たのはそこまでだ。


 気力だけでニケを抱え、レイモンドは走る。即席の光の壁。それも二回目だ。ダグラス相手に同じ手が通じるとは思わなかった。実際、すぐに壁の砕ける音がする。背後からの一閃をかろうじてかわし、レイモンドは地面を転がりながら、もう一度、紋様を描いた。「もう一枚!」


 新しい光の壁。剣に斬りつけられる鈍い音。わずかな足止めの合間に、レイモンドは距離をとる。走りながら打開策を考える。右腕からは痛みというより、猛烈な寒さが這いあがってくる。血の流し過ぎだ。悪態をつく間に、壁の砕ける音がする。だから、次の壁を喚ぶ。


「っ、もう……もういいよっ! レイモンドお兄ちゃん……! お兄ちゃんが死んじゃうっ……!」


 ニケが、ぼろぼろと両目から涙をこぼした。馬鹿言うな。いいわけないだろ。そんなふうに返したつもりだったが、たぶん、音になってない。


 足がもつれて、レイモンドは地面に倒れこんだ。もはや痛みというより、寒さと眠気が強い。


 死の足音がする。幻聴げんちょうでも比喩ひゆでもなく、ダグラスの足音だ。戦いを味わう余裕がある。たのしげに、空気に刃の音を響かせている。かの男にとって、これほど楽な戦いはないということだろう。なにせ、レイモンドには彼を殺す意志がない。殺さずに彼を止める方法を探して、探し続けて、今にいたっても見つけられていない。


 じゃあ、諦めるのか、なんて。散漫さんまんな思考の狭間はざまで、お前の声がする。


 まったく、笑える冗談はよしてくれよ。


「勝つんだよ……っ! 俺の……俺たちの正しさで……っ! なぁ、そうだろっ!」レイモンドは振り向きざまに指先を宙に踊らせ、無我夢中で怒鳴どなる。『命を成せ、〈無垢の遊炎〉ブルーダー……ッ!』


 指先が結ぶはいびつ矩形くけい。その中心から、魔女に喚ばれた赤銅の光嵐こうらんが噴き出す。


 刃をかざし、ダグラスがそれを受け止めた。勢いを殺しきれずに、その体が後退する。しかして彼の顔に、純粋な驚きの色がにじむ。


 光嵐が人の形をしていたからだ。禿頭とくとう。大男。武器はないが、その男は凶悪な笑みを浮かべて拳を振りかざす。


「ダディ……!」


 ニケの声がした。相棒そっくりの光の影が、ダグラスへこぶしを振り下ろす。ごんっという、なかなかに痛そうな音がして、レイモンドはしりもちをついたまま思わず苦笑いした。点数をつけるのなら、百点中百点ってところか。


「ほんと、最高だよ……おまえってやつはさ……」


 *****


「ぜったいにボクより前に出ないで。みっともなく泣かない。え? 怖い? ばか。ここまで来れたのに、今さら弱気になるな。ディエンの子供なら、それくらいできるでしょ」


 もぎとった包丁ナイフを放り投げ、ティカは早口にまくしたてた。ディエンの双子、赤毛のヴィナは、目元が真っ赤になるまで手で涙をこすったあと、くちびるを大いにひんげる。


「ゔう……わかったけど……ぉ……ティカお姉ちゃん、ぜんぜん優しくない……ぃ……」

「ああもう、面倒くさいなぁ! だからガキの世話は嫌いなんだよ!」

「ヴィナだって、子供の相手は嫌だもん……っ……!」

「はぁ!? ボクのどこが子供だっていうのさ!?」


 思わずヴィナに詰め寄ったところで、ティカの耳が足音を拾う。


 あぁそう、いい加減に待てないってことね、なんて。あきれた感想が浮かぶくらいには、ボクも持ち直してきたってことだ。それがレイモンドのおかげだっていうのが、気にいらないところだけどさ。


 ヴィナを背中にかばいながら、ティカはまっすぐに前を見た。定まらない視線とふらついた足取りで、こちらに近づいてくる男が五人。そんな彼らを従えて、相変わらず陰気な顔をしたフラウが非難がましい目つきをしている。


 ティカはあごをあげ、厳しい声で宣言した。


「ヴィナに手を出したら、絶交だからね」


 フラウと男たちが立ち止まった。ティカの親友は、ぎゅっと眉根まゆねを寄せる。「……ティカちゃんは、だまされてるよ……」


「騙されてる?」ティカは鼻先で笑った。「このボクが、いったい誰に騙されてるっていうのさ?」

「全員……だって、アンナちゃんは私達を殺すために裏庭バックガーデンを作ってた……ルーはティカちゃんの舞台をめちゃくちゃにしたくせに、あなたの仲間ヅラしてる……それに、レイモンド……」フラウの目に怒りがにじんだ。「あいつ……絶対に許さない……馴れ馴れしい言葉をかけて……私のティカちゃんに勝手に触ったりして……!」

「ふうん。それで?」


 フラウがぽかんとした顔をした。


「……それ、で?」

「そうだよ。それで?」なにも言わないフラウに腕を組み、ティカはやれやれと息をついた。「あきれた。それっぽっちで、全員とはね。じゃあ、言わせてもらうけど、あいつらみたいな大根役者に、ボクが騙されるわけない。唯一ボクを騙せる人間がいるとすれば、それはね、フラウ。君だけだ」


 親友の顔がこおりついた。傷ついたんだ。ボクが傷つけた。胸が痛い。悲しい。そうだよ。でもさ、それとこれとは、話が違うでしょ。


 ボクは君に傷ついてほしくない。でもね、それ以上に、君に誰かを傷つけてほしくない。


 フラウ。君はぜったいに、誰かを傷つけたことを悔やむだろう。その選択をした己を許せないだろう。なんで分かるのかって? 馬鹿言わないで。


 ボクは君の一番の友だ。


「フラウ・ライゼン」親友の名前を呼び、ティカは華やかに笑ってみせた。「ボクはぜったいに君を止める……どんな手を使っても、ね!」


 ティカは地面をり、一直線にフラウのほうへ向かう。武器もなにもないが、ティカの親友は、ティカと同じくらい戦いの素人しろうとで、ティカ以上に舞台慣ぶたいなれしていない。


 案の定だ。焦ったように後退あとずさりながら、フラウは男たちに命じる。


『っ、私を守って!』


 一人目の男と交戦する直前で、ティカは、身を低くした。


 外套がいとうが風をはらんでひるがえり、男の視界をさえぎる。ティカは重心を素早く移動させた。かかとを軸に体を反転。踊るように、惑わせるように。けれど体の軸はぶらさない。前日にルーから受けた戦いの手ほどき――その結論は、いたって単純シンプルだ。君は武人にはなれないが、武を演じる役者にはなれる。


 そうさ。ボクは天才じゃない。英雄じゃない。武人じゃない。

 けれどこれが舞台であるのなら、なんにだってなれる。


 ボクは、本物だ。


 男が闇雲やみくもに突き出した木の棒を、ティカはぎりぎりでかわして奪い取った。素早く手の中で棒を回転させて、近くにいた他の男二人のすねを打って退しりぞける。最初の男と目があった。武器を取り返そうとしたのか、ティカをなぐりつけようとしたのか。その真意を、けれど、読む必要はない。だって、舞台はつくるものだ。


 ティカはあえて視線を左へ流す。男の意識がそちらへ向く。そうして演出したうまれた隙をついて、男の顎に木の棒を叩きこむ。そこで、右手から荒々あらあらしい足音。


「……っ、」


 ティカは半身を引いたが、間に合わなかった。新手あらての男が振り下ろした剣が、木の棒を真っ二つにする。刃はご丁寧にも、ティカの右手をかすめていった。


 ぱっと鮮血が散る。傷は浅い。料理中に間違えて指を切ってしまった。それよりも少し深いくらいだ。けど、結構というか、かなり痛いんですけど?


「……うそ、」


 フラウの底冷そこびえするような声が聞こえ、ティカは思わずそちらへ視線を向けた。ぎくりとする。親友はまっさおな顔で、ティカを斬りつけた男を凝視している。


「うそ、うそ、うそ……!」フラウが両手で顔をおおい、金切り声をあげた。「なんでティカちゃんを傷つけてるの……!? それは許せない……ッ、許せないよっ……! ……っ!」


 ざっと、空気が音をたてて変質した。


 まずい。ティカは慌てて、一番近くの男の手から剣を奪い取る。ならばと言わんばかりに、男は自分で自分の首に手をかけようとした。いや、そういうはいらないから!


 ティカは仕方なく、全力で男の急所をりつけた。下半身を押さえて、男が悶絶もんぜつする。けっこうというか、かなり申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、立ち止まってる暇はない。


 辺りを見回せば、他の男たちも似たような有様だった。武器を持っている者は、自身にその切っ先を向けている。武器を持っていない者は、己の首を締めようとしている。全員を止めてまわるなんて、とても無理だ。


 このままでは人が死ぬ。フラウのせいで。


「あぁもう……っ! だから、それをやめろって言ってるんだよ、ボクは!」ティカは無意識のうちに口を動かす。『〈灰かぶりの偽証〉ヴェイルっ!』


 ティカ・フェリスの罪の名は、ただしく彼女に魔女の力をもたらした。


 周囲のあらゆる物体に、紫光しこうの刻印が灯る。


 ある男の剣が、彼の右目に突き立った。しかして彼に傷はなく、身代わりに剣が砕けた。


 ある男の手が、そののどを握り潰した。しかして彼の体に変化はなく、身代わりに足元に転がった酒瓶さかびんが割れた。


 その繰り返しだ。すべての男たちの暴力が、同じ空間にある物質の破壊に置換されていく。誰かが死のうとするたびに、次々と紫の光が弾け、破壊されたなにかの破片が舞う。


 あぁ、けれど、フラウの魔女の力も絶対なのだ。ティカは唇を噛んだ。男たちは止まらない。気絶しない限り、彼らは何度でも自分を殺そうと試みる。身代わりになる物体の数のほうが限られていて、紫の刻印はどんどん数を減らしていく。


 このままじゃジリ貧だ。どうにかして、フラウを止めなければならない。指先が薔薇十字ロザリオに当たった。いっそ、十字架に願おうか。そんな考えが浮かんで、けれどすぐに、嫌だな、と思った。


 得体の知れない力に頼りたくない。だってさ。そういう物に手を出した物語って、たいてい悲劇バッドエンドだし。ティカは十字架から手を離した。というか、ボクが好きなのは幸せの結末ハッピーエンドで。


 なにより、フラウ。君の前でくらい、格好良くありたいってのもある。


 じゃあ、そのために、今のボクにきれる手札は?

 親友を救うために、ボクが支払えるものはなんだ?


「っ、フラウ!」


 ティカはあえて、親友の名前を呼んだ。フラウがびくりと体を震わせて顔をあげる。その泣き顔で、ある考えが浮かんだ。一世一代、我ながら天才的なひらめきだ。


 ティカは走った。


 紫の光が散る。たくさんの物が破壊される。それと同じ数だけ、誰かを殺すための暴力が振るわれる。生きることと死ぬことが目まぐるしく入れかわる戦場を抜けて、ティカはフラウのもとへ飛び出した。


 跳躍。親友の驚いた顔を見下ろす。ティカは左手の人差し指を、とんっと、自身のこめかみにあてた。


 美しく笑って、魔女の力に命じる。


『ボクを身代わりにしろ!』


 紫光しこうの刻印が、ティカの左目を中心に花開く。戦場のどこかで、男の一人が己の心臓に刃を突き立てようとする。その暴力を肩代わりするために、紫の光が鮮烈に瞬いて。


 フラウが目を見開き、悲鳴をあげた。


『やめてッ!』


 魔女の声が響き渡り、男たちが一斉いっせいに動きを止めた。


 ティカは、フラウに抱きつくようにして地面に倒れこむ。膝を強く打ちつけて、じんとしびれるような痛みがあった。けれど、痛みはそれだけだ。


 あぁいや、まぁ、右手を切ったところも痛いけどさ。


 息を整えて、ティカは半身を起こした。見下ろす先で、フラウが泣き出す寸前の顔をしている。


 ティカは、にっと笑った。


「どうだった? ボクの舞台は」

「……ゔう……」フラウが顔をぐしゃぐしゃに歪めて泣いた。「……最高だった……最高だったよ、ティカちゃん……ごめんね……ごめん……私……」

「馬鹿」


 春の日と同じようにティカは顔をほころばせ、大切な親友を抱きしめた。「ちゃんと止めてくれて、ありがとう。フラウ」

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