第5話 選択の代償

「僕たちを利用するとは、どういうことだ」

「言葉のとおりよ、ルーさま」


 フラウの声が響きわたったことで、処刑台広場は騒然そうぜんとなった。議会の人間たちは殴り倒され、それでは足りないとばかりに、街の人間同士でも争っている。


 暴力の嵐が吹き荒れる処刑台のたもとで、しかし、アンナは平然と、ルーに向かって言う。


「私には、民からの悪意が。この国には、新しい精神的な柱が必要なの。銃声が聞こえるかしら? ダグラス叔父様おじさまの兵士が、、街の人たちを撃っているのよ。事情を知らない人間からすれば、王族がみっともなく生にすがりついているように見えるでしょう。あるいは、先王の再来とも思うかもしれないわね。いずれにせよ、彼らは私を憎んでくれるわ。そのうえで、私が処刑されれば、あなたたちが残る」


 まゆをひそめたルーに向かって、アンナは冷ややかな笑みを浮かべた。


「あなたも、ティカさんも、レイモンドさんも、誰かが死ぬのを良しとしないでしょう。だから必死で止めようとする。この姿をフラウ・ライゼンが魔女の力でたたえれば、きっと誰もがあななたちを英雄とみなすわ。世界中がルーさまたちを祝福してくれるはずよ」

「……そう上手くいくはずがない」

「あら。ルーさまは、フラウ・ライゼンの力を見くびっているのね」

「違う」


 アンナが口を閉じた。ルーは彼女の手をつかんだまま、強い口調で言う。


「僕が君を助けるからだ」

「……そう」アンナは無表情になり、乾いた声で言った。「それ、私の一番嫌いな言葉だわ」


 頭上からてついた殺気を感じ、ルーは仕方なく、アンナの手を離した。


 二人の間に、刃をひらめかせて白銀の影が降り立つ。ルーは素早く短剣を抜いた。襲撃者の初撃を弾き、繰り出された蹴りを片腕で防ぐ。重い。奥歯を噛むと同時に、二撃目が来た。右斜下からすくいあげるような斬撃を、身をらしてかわす。逃げ遅れた髪の毛が一房ひとふさ斬れる。


「相変わらず、右からの攻撃が苦手だねぇ」


 距離を置いたルーに、のんびりとした声がかかった。


 アンナをかばうように、白銀の髪の男が立っている。覚悟はしていた。けれど、やはり、ルーの胸は締めつけられた。


 ルーと相対する男は、若緑色の目をしている。白を基調とした衣服は、男が戦闘のときに好んできていた服だ。彼が握る短剣は、ルーの持つそれと同じ形をしている。というより、ルーの短剣が、男のそれと同じなのだ。


 かの男は、ルーに戦うすべを教えた師匠だった。

 あるいは、かつての〈王狼おうろう〉の長でもあった。


 その男――アルヴィム・ハティへ、ルーは短剣の切っ先を向ける。


「来るだろうと思っていました。先代」

「予想していたのに、その動きかい? だとすれば、腕が相当ににぶったようだ。ルー」

「そんなことは、どうでもいいでしょう」ルーは目を細めた。「僕が知りたいのは、あなたがアンナに協力するか否かです」

「協力するよ、もちろん」アルヴィムが、にっこりと微笑んだ。「それでアンナ・ビルツが苦しむのならね」


 *****


 どうしてあの時、見つけられなかったんだろう。ティカは走りながら後悔した。


 フラウさんはいないみたいだ、なんて。あいつの言葉を信じなければよかった。馬鹿レイモンド。なんで、ちゃんと確認しなかったんだよ。君ならできたはずでしょ。ボクより、たくさんのものを見れるじゃないか。いるかもしれない可能性を考えることだってできたはずだよね。それなのに。


 それなのに? ティカの理性がせせら笑った。それなのに、じゃないでしょ。レイモンドのせいにしないでよ。ボクが見つけるべきだった。ボクが慎重になるべきだった。たくさんの可能性を、ボクが考えるべきだったんだ。それなのに、文句ばっかり言って、頼りきりでさ。


 だから、こういうことになる。


 引きちぎれそうなほど痛むのどで吸いこんだ空気は冷たくて、ティカは身震いした。あちこちで銃声じゅうせいが響いている。それだけでも最悪なのに、処刑台の近くはもっとひどかった。


 議会の人間とおぼしき男たちは、血だらけで地面に倒れている。それで終わりにすればいいのに、街の人間たちは、言い争ったり、殴りあったりしていた。包丁ほうちょうを振り回している男もいる。逃げ遅れた子供を守るために、数人がかりで誰かを袋叩ふくろだたきにしている大人たちも。暴力と怒号どごうと悲鳴。そして、うずくまった人々のうめき声。


 その中心に、フラウはたたずんでいた。


 見慣れた白と黒の魔女の正装に、室内帽しつないぼうをかぶっている。いつもどおりで、。あちこちで血が流れているのに、フラウ・ライゼンだけは無傷で――まるで裏庭バックガーデンの時間の延長のように、ティカへ笑みを向ける。


「待ってたよ、ティカちゃん」

「待ってた? 馬鹿言わないでよ」ティカは親友に向かって、厳しく言い返した。「いったい、どういうつもりなのさ? 関係のない人たちを傷つけるようなことをして。いい? 今すぐやめさせて。みんなに謝るん、」

「い、や」


 フラウのはっきりとした否定に、ティカは思わず口をつぐんだ。 

 陰気いんきな親友は、ひどく嬉しそうな顔をする。


「うふ。驚いてるティカちゃん……かわいいね……みんなもきっと、あなたを愛してくれる……」

「は……? 愛する……?」

「そう。この国の人たちみんなが、愛してくれるんだよ。ティカちゃんのこと。だってこれから、あなたは聖女になるんだもの」


 ティカはたじろいだ。フラウはいったい、何を言っているのか。

 沈黙を、けれど、フラウは純粋な疑問と捉えたらしい。夢見心地で、陰気な親友は言う。


 ぜんぶ、台本どおりなのよ、と。


「たくさんの人が、戦ってるでしょう? これはね、アンナ・ビルツが仕向しむけたからなの。彼女は最後まで悪人で、だから処刑されるの。でもね、そんなものじゃ、戦いは終わらない。きっときっと、たくさんの人が死ぬでしょう。だからティカちゃんが、それを止めるの。あなたは優しいから、終わらない戦いに涙を流すわ。あとは簡単だよ。想像できるでしょう? ティカちゃんの涙に感動して、街の人達は正気に戻るの。彼らはきっと争いをやめるでしょう。そしてティカちゃんは、みんなに平和の大切さをいた聖女になる」


 無茶苦茶だ。そんなのできるはずがない。ティカは、そう言いたかった。けれど言えなかった。


 言えるはずがない。


「そうよ、できる」見たことないほど満ち足りた笑みを浮かべて、フラウが手を伸ばす。「私ならできるよ。のろわれた声を使って、ティカちゃんの望みをぜんぶ、叶えてあげる。ねぇ、これって正しいことでしょう?」


 ティカは凍りついた。


 フラウの言葉も、態度も、死ぬ間際の姉にそっくりだったからだ。私は正しいと、何度も繰り返していた姉と。彼女はそれにすがっていた。それを、けれど、ティカが否定した。


 だから、姉さんは死んだ。ティカの喉奥に、冷たい何かがこごる。そしてボクは、フラウを死なせたくない。


「っ、ティカ!」


 レイモンドの余裕のない声が響く。我に返ったティカは、群衆の狭間で黒鉄くろがねの輝きを見た。


 歩兵銃マスケットの銃口だ。まっすぐに自分のほうへ向けられている。銃声が響いた。避ける余裕なんて、あるわけがない。


 つまるところ、ティカは諦めたのだ。

 けれど、彼はそうではなかった。


『消えろ!』


 レイモンドの怒鳴どなり声が響くと同時、ティカの眼前に赤銅色しゃくどいろの光が現れた。正体を見極めるひまもなく、こぶし大の光はまたたく間に大きくなって、弾ける。


 まるでレイモンドの願いを叶えたみたいに。

 あるいは、ティカを害そうとする悪意を退けるかのように。


 まぶしさに、ティカは思わず手をかざした。爆風はない。ほんとうに光が現れて消えただけだ。たったそれだけのことなのに、どうやら自分は生きているらしいとティカは気づく。


 腰元こしもとに、なにかがぶつかった。


「っ、いたっ……」ぶつかってきた何かもろとも地面に倒れたティカは、盛大にほおってうめいた。「ちょっと、なんなの、いきなり、」ずた袋のような何かを押しのけて、文句を口にしかけた彼女は、しかし、言葉を失う。


 ぶつかってきたのは、ずた袋なんかじゃない。レイモンドだ。おびただしい血を流す右肩を押さえ、真っ青な顔で地面にうずくまっている。傷口きずぐちが開いた、なんていう言葉じゃすまされない。


 何度も斬られたのだ。今ここで。やいばのようなもので。容赦ようしゃなく。


「……レイモンド?」


 血の気がひいた。ティカはそろりと名前を呼ぶが、返事がない。嘘。冗談でしょ? ティカは慌てて、レイモンドの体に触れた。「レイモンド! ちょっと、しっかりしてよ!」


 脂汗あぶらあせのにじむレイモンドの目元が、少しばかり動いたような気がした。錯覚さっかく……じゃない。レイモンドは消えいりそうな呼吸をしている。目は閉じられたままだ。でも、まだ生きている。


 ティカは、安堵あんどに包まれた。全身から力が抜けて、思わず地面に尻餅しりもちをつく。よかった。そう思った。全然よくないと思い直したのは、そのすぐあとだ。


「やれやれ、後先あとさき考えずに、願いの使い捨てとは」


 穏やかで冷たい、老成ろうせいした声が響いた。


 ティカは顔をあげる。背中に嫌な汗が伝った。いったい、いつの間に。フラウの隣に、一人の老紳士が立っていた。黒灰色チャコールグレーの髪と目、しわは刻まれているが整った顔立ち、禍々まがまがしい黒衣こくい


 アンナの叔父おじ、ダグラスは長剣をふるって、刃についた鮮血をはらいおとした。


 ティカは直感する。こいつが、レイモンドに斬りつけたのだ。


「ねぇ」フラウが不機嫌そうにダグラスをめつけた。「私とティカちゃんの邪魔しないでよ……間男まおとこ野郎やろう……」

「これは手厳しいね、魔女フラウウィッカ・フラウ」ダグラスがからかうように肩をすくめた。「私としても、そういうつもりはなかったんだが。獲物えものが逃げこんでしまったんだ」

「白々しい……あなたのところの兵士が、ティカちゃんを撃とうとしてた……」

「ならば、我々はレイモンドくんに感謝せねば。彼の願いが、ティカお嬢さんレディ・ティカを守ったのだから」ダグラスは、レイモンドに向かって侮蔑ぶべつの眼差しを送った。「せっかく手にした薔薇十字ロザリオを、そんなくだらないことに使うなんて、私には理解できないことだがね」


 レイモンドの腕に添えた手に、ティカは力をこめる。


「っ、レイモンドを悪く言わないでよ」

「悪く? まさか。これは事実だよ、お嬢さん」ダグラスは穏やかに言った。「彼には様々な選択肢があった。なんせ、薔薇十字ロザリオはすべての願いを叶える。たとえば、民を傷つける兵士を止めることもできただろう。私と彼との実力差は天地ほども離れているが、彼が願えば、私を殺すことだってできたはずだ。大局たいきょく見据みすえる戦士ならば、そうすべきだった。だが、彼が選んだのは君だった」


 ティカは血の気が引いた。こみあげた無力感と羞恥しゅうちに打ちのめされて、胃の底が焼けるように痛む。「……ボクのせいって、言いたいの」


「おや」ダグラスが、申し訳なさそうな表情を浮かべてみせた。「存外、繊細せんさいなのだね。困ったな。もう少し抵抗してもらわないと、暇つぶしにもならない、」


 そこで、ダグラスが言葉を切った。長剣を横薙よこなぎに振るう。


 金属音が響き、突進してきた小柄こがらな影が吹き飛んだ。金の巻き毛の、小さな子供だ。ダグラスが喉元のどもに切っ先を突きつければ、子供は青い顔で視線をわせ――いで、悲鳴のような声で、片割れの名前を呼ぶ。


「ヴィナっ!」


 彼が見つめる先で、フラウが赤毛の女の子の首元をつかんでいた。包丁ほうちょうを握る少女の手は、あわれなほど震えている。「ニケ……」


「ふ、ははっ! まさかディエンくんのわす形見がたみに会えるとは!」ダグラスが愉快ゆかいそうに言った。「これは面白くなってきた。迷わず刺しにくるところといい、そこらの大人よりもずっと見込みこみがある」

「っ、うるさい……っ!」金髪の少年ニケが、涙声で叫んだ。「ヴィナを離してっ! 人殺し!」

「人殺しとは、心外だ。私は誰も殺してなどいないよ」

「っ、嘘だ! おまえがダディを殺したんでしょっ! ニケも、ヴィナも……ちゃんと……っ、ちゃんと分かって、ひっ」


 ダグラスが、少年の喉元のどもとに切っ先を沈めた。にこりと微笑む。


「殺したのは、レイモンドくんだよ。彼が選んだ結末だ」

「っ……ぁ……」

「そうだ。せっかくだから、君も選んでみようか――魔女フラウウィッカ・フラウ


 心底嫌そうな顔をしながらも、フラウが呟いた。


『包丁を自分の首元に突きつけなさい、ヴィナ』


 赤毛の少女の体が、不自然にねた。「や、やだ……」かぼそい泣き声をあげながら、ヴィナの手が、フラウに命じられたとおりに動く。


 ダグラスが、ニケから刃を引いた。わざわざ地面に落ちた短剣を拾い、ことさら優しく、少年の手に握らせる。


「要するに、君はディエンの敵討かたきうちに来たんだろう? ならこれで、レイモンド君を殺しなさい」


 ニケがおびえたような顔をした。きっと、ティカも同じ顔をしていたはずだ。そんな二人を眺め、ダグラスがのどを鳴らして笑う。


「さぁ、賢く選択してくれ。二人とも」


 ヴィナの泣き声がいっそう大きくなった。その声に背中を押されたように、ニケが短剣を握りしめて、立ち上がる。蒼白な顔で、ティカたちのほうへ近づいてきた。かぼそい声で言う。「どいて……ティカお姉ちゃん……」


 息ができないほど、ティカは胸が痛くなった。駄目だ。そう思う。だって、おかしい。こんなの、おかしいでしょ。


 ボクたちは誰も間違っていない。おかしいのはダグラスたちだ。めないと。やめさせないと。ティカはそう思う。思うのに、結局、同じ結論に戻ってきて、死にたくなる。


 ボクなんかじゃ、止められない。


 人質がある限り、ニケはやいばを降ろさないだろう。

 武人のダグラスに、勝負を挑むなんて無理だ。

 今のフラウに、ボクの説得が通じるはずもない。


 ボクは。


「――私を頼ってくれてもいいんだよ?」


 フラウの声がした。短剣を持つ少年の肩越かたごしに、ティカは親友を見る。フラウは、憐憫れんびん一匙ひとさじの喜びをたたえた表情で、地面に座りこんだティカを眺めている。


「心配しないで。言ったでしょう? ぜんぶぜんぶ、ティカちゃんの望むとおりにしてあげる。それが私の願いなんだもの」


 そうか。ティカはぼんやりとした頭で、不意に悟った。そうだよ。ボクに力はない。けれどボクがフラウを選べば、きっとすべてが丸く収まるだろう。そういうことなんだ。だからダグラスは、と言った。弱いボクにできるのは、それしかないから。


 あぁ、なんでかな。

 なんでボクは、ボクの手で、誰かを助けることができないんだろう。


「っ、ボク、は……」


 悲しくて、悔しくて、ティカの目から、涙がこぼれ落ちた。けれど、全部個人的な感情だ。だから我慢した。我慢しなきゃって言い聞かせて、ボクは親友のほうへ手を伸ばした。彼女が嬉しそうに駆け寄ってくるのがみえる。ボクは、全然嬉しくない。でも、仕方ないじゃないか。


 ボクは天才じゃない。英雄でもない。武人でもない。

 偽物なんだよ。

 だから、こうするしかないんだ。


 そう思った。その時だった。


「……ふざけるなよ」


 ひび割れて、苦しげな声が聞こえる。ティカは、はっとした。

 うっすらと目を開けたレイモンドが、ティカの腕に触れて、繰り返す。


「ふざけるな、ティカ。俺は、そんなことのために、君を助けたんじゃない」

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