第4話 革命家の末路

 はじめて魔女のことを知ったのは、彼女との他愛たあいない雑談のときだった。


 二人で古い図書室ライブラリにいりびたって、誰も読んだことのなさそうな本を探して回ったのだ。女ばかりが閉じ込められた学園は花嫁修業はなよめしゅぎょうのための場所で、私達には退屈極まりなかった。私達の親は、聡明そうめいすぎる女を気味悪がって、冬の長期休みでさえ、家に戻ってくることを禁じた。


 私達は、似たもの同士だったのだ。だから、広大こうだいほこりのかぶった図書室ライブラリの探索という、長い冬の暇つぶしに興じた。あとから私の父親が楽しんだに比べれば、ずっと他愛なくて、ささやかな遊びだ。


 すべては、革命の一年前のこと。


 魔女に関する本は、陽のささない書架しょかの奥にあった。きっちりと詰めこまれた歴史書と、棚板の間の――指一本はいるか、はいらないかの隙間すきまに差しこまれている。


 ずいぶんとほこりをかぶっていたから、何十年も前に誰かが置き忘れたに違いない。私が得意げに推理を披露したところで――とにかく私は、親友からの称賛がほしかったのだ――、本をざっと読んだらしい彼女は、目を伏せてこう言った。


「ほんとうに、魔女みたいな人がいればいいのにね」


 今にして思えば、その伝承集でんしょうしゅう脚色きゃくしょくだらけだった。


 魔女は不思議な力を持っていて、どんな不可能も可能にしてしまうとか。魔女の心は優しく、困っている人がいたら必ず助けてまわるだとか。魔女の住まいは美しい花園はなぞので、魔女に愛された花はことごとく人々を癒す力を持つだとか。


 そのなかのどれが、あなたの胸に刺さったのだろう。

 私とちがって、誰にもあこがれることのないあなたが、唯一口にした憧れだった。


 リリア。ねぇ、でも、知っている? 


 魔女は罪人つみびとなのよ。後ろめたい人殺しをした人間が、魔女になるの。彼らには罪の名前があって、誰かに名前を呼ばれてはじめて、魔女の力を使えるの。


 罪の名前はね、かぎのようなものだわ。鍵を外せば力が使える。鍵をかけて力を封じる。その鍵を、けれど、魔女たちは他者にゆだねている。罪人つみびとが、自分の罪を本当の意味で受けいれることなんてできないの。そんなことをすれば、罪悪感に押しつぶされて死んでしまう。


 正しい心を持っているなら、誰かを殺してしまった時点で、自分の命も絶ってしまうものなの。


 リリア。さといあなたなら、もう分かったでしょう。


 私が生きているのは、おかしいのよ。

 たくさんの人を殺したのに、のうのうと生きているなんて。


 罪と感じるべきだって、そんなことは分かってる。悲しい気持ちだってあるのよ。でも私は、いつだって命をはかりにかけることができた。軽いほうの命を捨てることだっていとわなかった。これからだって、必要にせまられれば人を殺すでしょう。私は、私自身がそういう血も涙もない人間だって、分かってる。


 だから私は、魔女になれなかった。

 魔女になれない私は、魔女を利用することを考えた。


 彼らが生む薔薇十字ロザリオは、願いを叶える力を持つから。それこそまさに、どんな不可能も可能にする力で、私が欲しい物だった。リリア。あなたが死んで、私はたくさんの書物を調べたのよ。魔女たちと暮らしながら、いくつもの実験もしたわ。それで分かったの。


 薔薇十字ロザリオは、すべての魔女が持っているわけではない。十字架が生まれるには、なにかの条件を満たす必要がある。三人目の魔女が死んだとき、私はようやく理解したわ。


 魔女が大切な誰かを殺すとき、薔薇十字ロザリオは生まれる。


 そこからは簡単よ。私は魔女同士が不和ふわになるよう立ち回った。あるいは、私自身が魔女にとっての大切な存在になるように仕向しむけてみせた。結果はすぐに出て、一年目の冬には二つの薔薇十字ロザリオが手に入った。私は早速願ったけれど、叶わなかった。きっと薔薇十字ロザリオにも品質があるのね。育てた薔薇ばらの大半が、虫に食われたり、色褪いろあせたりして、一級品と呼べるものが、ごく一部であるのと同じよ。


 一年目の薔薇十字ロザリオはすべて駄目で、廃棄したわ。

 二年目は三つの薔薇十字ロザリオが手にはいったけれど、これも粗悪品だった。


 私の下心がよくないのかもしれない。そう思ったから、三年目にはいる直前の秋に、私は『私』を殺したの。記憶のない『わたくし』は、でも、駄目ね。薔薇十字ロザリオは二つ生まれたけれど、『誰も死んでいない』ときに生まれた十字架なんて、失敗作に違いなかった。まさに『わたくし』自身がそうであったように。


 私は、だから、もう一度『わたくし』を殺した。そうしたらどうなったと思う? 


 リリア。ここからは笑い話なのだけれど、私が『わたくし』を殺した時、薔薇十字ロザリオが生まれたのよ。わたくしは魔女ですらないのに、黒銀こくぎん薔薇十字ロザリオが。


 ほんとうに、笑っちゃう。


 魔女たちにひどい仕打ちをしたのに、それは全部無意味だったの。無意味なことのために、魔女たちの人生をめちゃくちゃにしたの。そういうことができる、救いようのない女なの。なのに、薔薇十字ロザリオが生まれたの。


 あれだけたくさんの人を殺しても動じなかったのに。ルーさまの心を傷つけても生きていられたのに。私は、、動じてしまった。


 あなたでもなく、民でもなく、ルーさまでもなく……私こそが、私にとっての大切な誰かだった。


 最悪よね。救いようがない。何度殺したって、殺し足りない。


 でも、私の手には薔薇十字ロザリオがある。

 すべてのいのりを聞き届ける薔薇ばらの奇跡が。

 それなら私は、願いを叶えるわ。ずるくて傲慢ごうまんな女なのだから、ためらいなんてない。



 そんなもの、あるはずがないの。



 *****


 秋の強風が、ばたばたと外套がいとうのすそをはためかせていく。


「ほんっと、辛気臭しんきくさい」

「うるさいぞ、ティカ」

「はぁ? 声ならきちんとおさえてますけど? レイモンドくん?」

「思ったことを、わざわざ口に出さなくてもいいだろ」

「細かいなぁ。その言葉、そっくりそのまま自分に返ってくるって分かってる?」

「二人とも」ルーはため息をついた。「少しだまったらどうだ」


 ひそひそと言い争っていたティカとレイモンドが、そろって口をつぐんだ。レイモンドが気まずそうに咳払せきばらいをし、ティカが眉根まゆねを寄せてぼやく。


「だって、こんな環境で文句言わないほうがおかしいでしょ。ここに来るまでに、服は引っ張られるし、ぶつかるふりして体を触ってこようとするし、わざわざボクの顔をのぞきこんで、気色悪い笑み浮かべたりとかさ……! そりゃあ、ボクが可愛いのが罪なわけだけど!」


 最後のほうのティカらしい自画自賛に苦笑しつつも、ルーは内心で同意した。たしかにティカの言うとおり、今いる場所は少々礼儀を欠いた人間が多い。


 なにより、異様な空気に包まれている。


 ここは、街の中心に位置する広場だ。外套がいとう目深まぶかかぶったルーたちの周囲には、大勢の人々がたむろしている。


 煌華祭ファルヤードから三日が経っているにも関わらず、これだけ多くの人が集まった。あちこちで言葉がかわされ、冬のような寒さに手をすりあわせている者もいる。笑顔がある。それなりのにぎやかさも。けれどやはり、どこか活気に欠けていて、誰かがふと口を閉じた時に、ぴりついた空気が漂う。


 広場は浮足立うきあしだった不安で満たされていて、アンナ・ビルツの処刑の時を待っている。


 美しき革命家の末路、腐った王家のあわれなる没落ぼつらく、国の歴史をけがす大罪人。大衆紙タブロイドがこぞって書きたてた見出しを、ルーは頭から追い出した。


 再びの冷たい風に顔をあげる。たった三日で再興さいこうされた処刑台は粗末なもので、人々の目線より少し高い位置に、木製の柱が立てられているだけだ。


 ひっかけられた麻縄あさなわが、風に吹かれてぶらぶらと揺れている。


 ティカがぼそりとつぶやく。


「よく冷静に見てられるね」

「まさか。最悪の気分だ」


 ルーは率直な感想を吐き捨てた。ティカは驚いたように目を丸くし、それからほっとしたように笑って、ルーの腕を軽く叩く。「奇遇きぐう。ボクもまさに同じ気持ちだよ」


 辺りを見回していたレイモンドが、緊張した面持ちで二人に声をかけた。


「やっぱりここに、フラウさんはいないみたいだ。魔女の力が使えれば、もう少しやりようがあったんだけど」

「ないものをねだってもどうしようもないでしょ。いいよ、探しに行くだけだもん」


 ティカの言葉はなげやりにも聞こえるが、ルーたちの総意でもあった。


 アンナ・ビルツの処刑日が決まってから今日まで、数日と経っていない。情報を集める余裕はなかった。ルーたち三人に、頼れる先があるはずもない。魔女の力のひとつでも使えればやりようはあったかもしれないが、それこそないものねだりだ。


 罪の名前を呼ばれてはじめて、魔女の力は開花する。けれどルーたちの罪の名前を呼んでくれる相手は、ここにいない。単純な話だ。


「俺たちの手札は少ない」前日の夜、処刑が行われる広場周辺の地図をにらみながらレイモンドはそう言った。「なら、何ができるかじゃなくて、何をしたいかで考えるべきだ。推測だけど、フラウさんに身の危険がせまってる可能性は低い。確実に命の危険があるのはアンナさんのほうで……なら彼女の救出を全員でするか。人手を分けるか」

「僕だけでいい」ルーは言った。「君たちよりは戦い慣れているし、広場に見物客が集まるのなら、そこにまぎれこんで逃げることもできるはずだ」

「ひゅう。いかにも白馬の王子様ってかんじ?」


 ティカのからかうような声に、ルーは口元をゆるめて、肩をすくめた。「そうあれるように、最大限の努力をしよう」


 レイモンドがうなずき、広場の南側を指で叩いた。


「なら、ティカ。俺たちは議会場ぎかいじょうに行こう」

「はぁ? なんで?」

「フラウさんを探しに」レイモンドは言う。「君の仮説を信じるなら、フラウさんはアンナさんの近くにいる。さらに踏みこんで仮説をたてることが許されるのなら、彼女はアンナさんとなんらかの協力をしているはずだ。なら、処刑当日のフラウさんの居場所は二箇所に絞られる。アンナさんと一緒に広場にいるか、アンナさんが拠点としていた場所にとどまるか。ビルツていが燃えた以上、アンナさんの拠点は議会しかない」


 処刑の日は、きっと人の目もそちらに向くだろう。議会の警備も手薄になるのではないか。レイモンドはさらに意見を述べ、それならば戦い慣れていない二人でも十分対応できるだろう、とルーも同意した。でも万が一のこともあるから、まずは広場に行って、確認しておきたい。それがティカの言い分で、今がある。


 たいした別れの挨拶あいさつもせず、ティカとレイモンドが人混みにまぎれて移動を始める。相変わらず刺々しい会話を繰り広げているようだが、彼らなりの冗談をわしているようにも見えた。


 二人の背中を見送りながら、ルーは懐かしさと感謝の念を抱く。ここ数日のルーたち三人の距離感は、ルーが〈王狼おうろう〉の仲間に囲まれていた頃と同じものだ。そして、二人がいたからこそ、ルーはここまで来ることができた。


 裏庭バックガーデンが壊れても、残るものはあるのだ。


 アンナ。僕たちの選択があやまりだったとしても、過ごしてきた時間は決して無意味なものではなかった。


 不意に、広場が水を打ったように静まり返った。


 ぴり、とした空気が強くなる。全員の視線が、処刑台のたもとへ注がれている。真っ黒な礼装に身を包んだ男たちがいた。老いていて、体つきも一般市民と変わらない。されど眼差しは鋭く、老獪ろうかいという印象が際立きわだつ。


 議会の人間だ。ルーは短く息をき、ゆっくりと人混みの中を移動した。


 あちこちで、人々がささやいている。あれがうわさの。思ったよりも若い。春の演劇場でも、相当に傲慢ごうまんな態度だったらしいぞ。みじめだが、まぁ、仕方ないんじゃないか。結局のところ、あの女は国王の娘だったということだ。他人事ひとごとで、いささか後ろめたそうな会話は途切れることがない。足を止めることこそなかったものの、ルーのなかで身勝手ないらだちがつのっていく。


 そこで彼は、びた鎖のこすれる音を聞いた。


王狼おうろう〉の鍵ではない。

 囚人しゅうじんの手首と足首にくくりつけられた鎖が、石畳いしだたみをこする音だ。


 探し人の姿を認めたルーは、つかの間言葉を失う。


 アンナは、目と鼻の先にいた。いつも綺麗にまとめられている灰色の髪はほどけていて、血色の悪いほおにかかっている。真っ黒で質素なワンピースはボロ布とそう変わらない。体が震えているのは寒さのせいだろう。彼女は素足すあしで、はたから見てもわかるほど赤くれていた。一歩進むたびに無骨な鎖が彼女の肌をこすり、血がにじむほどの傷を刻みつけている。


 アンナは、顔をうつむけていた。悲壮ひそうだ。けれど過度かどの悲しみも、なげきも感じない。どちらかといえば……そう、まるで心がないかのようだった。


 心がなくて、透き通っている。

 美しいが、てついた湖のように底知そこしれなくて、恐ろしい。


 こんなものが、君の望んだものなのか。


 刃で斬りつけたときのように、ルーの心が痛んだ。傷口は冷たく、息をするたびに深くなる。この結末を、君は本当に願っていた?


 アンナが目の前を通り過ぎていく。ルーに気づいた様子はない。目にもいれたくないのだろう、というのは、まだ楽観的な考えである気がした。彼女の世界に、ルーは不要になったのだ。だから見る価値がない。


 僕では、君を殺せないから。


 ふざけるな。


 ルーは人混みから飛び出した。衝動的しょうどうてきにも見える行為だったが、正確に時機タイミングをはかったうえでの行動だ。議会の男たちは処刑台の周辺へ移動していたし、そのうちの一人は、アンナの罪状を読みあげんとしていた。アンナの周囲に護衛はなく、彼女の鎖を握る男は処刑台へ続く階段を登っていて、初動が遅れることは容易に想像がついた。


 人々の悲鳴があがるより早く、ルーは鎖を握る男を昏倒こんとうさせた。一番近くにいた議会の男が目を見開き、何事か叫ぼうとする。その脇腹に、ルーはりを叩きこんだ。枯れ木のような体が吹っ飛んで、他の議会の男たちにぶつかる。


 議会の男たちと、物見遊山ものみゆさんの人々。二種類の悲鳴が一斉いっせいにあがり、処刑台の周囲は騒然そうぜんとなった。


 ルーはアンナの手をつかむ。


 彼女をかかえて逃げるつもりだった。それができる自信があった。過信ではない。人々はルーの襲撃に気がついたが、この群衆だ。護衛がたどりつくまでには時間がかかる。人混みに紛れて移動できれば、人々を盾にすることもできる。〈王狼おうろう〉のおさとしての経験が、ルーに正しい解を与えた。


 ルーは強引にアンナの細い手首をつかんだが、この判断も間違いではなかった。まずは安全を確保する。言葉をかわすのは後でいい。至極当然で、守ることに慣れた人間なら誰しもが選ぶ選択肢だった。


 ただ。


「アンナ! すまないが、僕と一緒に来て、」

「――いいえ」



 ただ、ルー・アージェントという男に唯一落ち度があったとすれば、かのアンナ・ビルツが相手であるということだけだった。



 抑揚よくようのない声で否定したアンナが、ゆるりと顔をあげる。温度のない青の目で、彼女はひたとルーを見据みすえ、言った。


「あなたたちを利用させてもらうわ」


 群衆のほうから、妙な声が聞こえてきたのは、その直後のことだった。


 *****


『あぁ、なんて可哀想かわいそうなのかしら。アンナさまは私達の命を救ってくれたのに』


 その声は、なんの前触れもなく広場に響き渡った。


『彼女はたしかに人を殺したけれど、それも私達を思ってこそだと思わない?』


 よどみなく、ためらいなく、あくまでも純粋な憐憫れんびんだけをのせた声音は、歌のよう。


『まずはアンナさまを救うのよ。さぁ、勇気ある青年に従って。彼女を害する権力者たちを殺しましょう。それを邪魔する者たちも。私達はきっと、彼らにだまされている』


 さして大きな声というわけでもない。なのに、正体不明の女の声は、広場中に響き渡って、その声を聞いた人々の心を理屈なしに震わせた。


 いな、狂わせた。


 処刑台の真下にいた果物屋くだものやの店主は、間近にいた議会の男になぐりかかった。


 家具屋の男は、たまたま隣にいた商人の男と協力して、逃げようとする議会の男を囲いこみ、その腹を何度も蹴りつけた。


 不幸だったのは、隣人の奇行を突如とつじょたりにした他の人々だ。女の声を聞かなかった彼らは正気をたもっていて、子連れの女は突然暴力をふるいはじめた男たちにおののき、若い男は突然おかしくなった親友を止めようとして袋叩きにされた。


 前触まえぶれなく始まった暴力の連鎖はあっという間に広がり、女の声を聞いていようがいまいが、辺り一帯でなぐののしるの争いが生まれていく。


 明らかに異常だった。大半の見物客たちは、混乱のままに広場から逃げ出そうとした。当然、処刑台から遠い人間には何が起こっているか分からないから、前に進もうとする人間と、逃げようとする人間が入り乱れる。


 怒号と悲鳴の飛び交う大混乱の広場で、しかし、状況を正確に把握している者がいた。


「これ、フラウの声だ……」


 立ち止まったティカが、血の気のひいた顔でつぶやく。女の声が聞こえて、彼女は足を止めた。この騒ぎだ。そのままでは危険だったから、レイモンドがなんとか広場の片隅へ引きずってきたのだ。


 その彼の苦労は、しかし、今のティカには届いていないようだった。

 彼女はただただ困惑し、結局、ひとつの言葉を吐き出す。


「……フラウを止めなきゃ」

「ティカ、落ち着いて」レイモンドは神経質に周囲を見回してから、硬い声で言った。「状況を整理しよう。それから次にやるべきことを決めて、」

「っ、整理なんて! そんなことしてる場合じゃないでしょ!?」

「ティカ、」

「さっきの声、間違いない!」八つ当たり気味に、ティカはまくしたてた。「フラウが魔女の力を使ったんだ! だからみんな、急におかしくなった! 早くフラウのところに行って、やめさせないと!」

「っ、それは分かるけどさ!」レイモンドはいらいらしながら叫び返す。「いきなりフラウさんが力を使うなんて、おかしいじゃないか! 君が罪の名前を呼んだわけでもない! ここで力を使った意図も分からない! 他に見落としていることだって……だったら、それも確認しないと!」

「そんなことしてたら、フラウが人殺しをすることになるでしょ!?」


 怒鳴ったティカが人混ひとごみに向かって駆け出した。最悪だ。考えなしにもほどがある。残されたレイモンドの頭に文句がいくつも浮かんだが、結局最後に残ったのは一つだけだった。


 それほどまでに、ティカにとってのフラウは大切な存在なのだ。


「くそっ……だからこそ、冷静になるべきだろ……っ」


 レイモンドは小さくどくづいて、ティカを追いかけようとし――銃声じゅうせいが響いた。


「っ!?」


 息をんだレイモンドは、慌てて足を止める。


 彼の目の前で、群衆の一人が悲鳴をあげながら地面に倒れた。致命傷、ではない。右足の太もも。ズボンに赤い染みがじわりとにじんでいる。哀れな怪我人けがにんに気づいた人々が、ぎょっとしたような声をあげ、辺りを見回す。レイモンドもそうした。がして、嫌な汗が止まらなかった。頭の片隅で、ディエンを殺したときの鮮血がちらついている。


 それでも、レイモンドは見つけた。


 東側に通じる道の近くだ。外套がいとうをかぶった男たちが、群衆に向けて古めかしい歩兵銃マスケットをかまえている。一人ではなかった。何人も。彼らは黒色の革手袋グローブをはめていて、銃と外套がいとうの隙間から、複雑な刺繍のほどこされた黒い袖口そでぐちが見える。


 レイモンドはぞっとした。


 刺繍には見覚えがある。役人になるための試験勉強にいそしんでいたとき、歴史の参考書に載っていた。


 黒薔薇くろばらと、それをいだドラゴンの紋様。

 その紋章は薔薇抱く血竜ロジエ・ドラゴと呼ばれ、先の王の弟を示す。


「安心するといい。死なない程度に威嚇いかくするだけさ」


 背後から穏やかな男の声が響いて、レイモンドは弾かれたように振り返った。


 数歩離れた先に、老いた紳士が立っていた。黒灰色チャコールグレーの髪と目。若い頃はさぞ女性にもてはやされたであろう、魅力的で品のある顔立ち。


 黒衣に身をつつんだかつての王弟おうてい――ダグラス・ダナンは、長剣片手に、ゆったりと微笑む。


「さて。敗残兵はいざんへいしたたかになるともいうが……君はどうだろうね? レイモンドくん」

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