第3話 泡姫の誘歌

 薔薇窓ばらまどから黄昏たそがれの光がさしこみ、複雑な影を床に落としている。


「おめでとう、私のお嬢さんマイ レディ」チェスばんで白の騎兵ポーンを前へと進め、老いた男は肘掛ひじか椅子いすに身を沈めた。「処刑の日が決まったそうだね」

「ご協力、感謝するわ。ダグラスおじさま」真正面に座った彼女は、表情一つ変えずに冷たく応じる。「けれど最後の日まで、決して手を抜かないでいただきたいところだけれど」

「もちろんだとも。かわいいめいの頼みなのだから」


 黒灰色チャコールグレーの目を細め、男が人好きのする笑みを浮かべてみせる。女はやはり、応じなかった。黒の女王クイーン僧兵ビショップを弾き、こまを進める。


 こんっ、という音は、軽々しくて、むなしい。


 女の中身そのものね、とフラウはあざけった。ティカちゃんなら、きっともっと、華麗かれいに指してくれるはずなのに。そんなふうにも思う。


「だから嫌いなのよ、って?」


 頭上から声が降ってきた。


 部屋の片隅でうずくまっていたフラウは、ゆっくりと目だけをあげる。


 自分と同じように、影のなかに立つ男だ。彼はしかし、暗闇のなかにあっても存在感があった。白銀の髪、若緑色の目。うっすらと浮かべた笑みは、相手がどうでもいいほど愛想よく、チェスにきょうじる女に近ければ近いほど軽蔑けいべつしきったものになる。


 今のフラウの立場は、やむなしとはいえ、女に近い。だから男の視線も冷たかった。


 フラウにとっては、けれど、至極どうでもいいことだ。


「……別に」フラウは興味なく、視線を床に戻した。「あなたって……ひまなのね……」

「あはは、暇か。面白いことを言うね」

「私がアンナ・ビルツのことを嫌いなんて……わざわざ言わなくても、分かってるでしょう……」

「まったく、そのとおりだ。だから俺は、君に声をかけたんだから」


 でたらめね、とフラウは思う。この男の褒め言葉は、すべてが嘘。フラウは出会った時からそのことを理解していたので、なんの感慨もないが。


 真実はこうだ。白銀の男にとって、フラウの能力はちょうどいい。人を惑わす、のろわれた声。自身の能力を買われたことに、けれど、フラウは驚かなかった。同じような理由でつきまとってくる悪党あくとうは、過去に何人もいた。逃げ切れればいいが、暴力をふるわれてやむなく従ったこともある。最後のほうは、怪我をするのも億劫おっくうになって――だって、とんでもなく痛いんだから――、たいした抵抗もせずに従うようになった。


 そういう不健全な世渡りが終わったのは、ティカと出会ってからのことだ。


 あぁ、ティカちゃん。

 黒髪の女神、舞台上の唯一の華。誰よりも大切な親友の名を呼んで、フラウはうっとりと壁に頭をあずける。


 私、ティカちゃんのためなら何でもできるよ。春の日に、あなたがほしいと願った理想の舞台も、きっときっと取り戻してみせる。だってね、あなたが舞台を失ったのは、私のせいなんだから。私が怖がりで、ルー・アージェントを足止めできなかった。そのせいなんだから。


 でもね、もう大丈夫だよ。怖い気持ちは、もうないの。

 アルヴィム・ハティは信用ならないけれど、彼のくれた薬は、きちんと私の『怖い』を壊してくれた。


 だからもう二度と、失敗しない。

 ぜったいに、ティカちゃんのための舞台を取り戻してみせる。


 こんっ、と再び音が響いて、チェスの盤面が動く。


「――当日の計画を確認しましょう」


 真っ黒なドレスに身を包んだ女が、そう言った。

 灰色の髪に、青の瞳。かつての革命家にして、今やこの国の大罪人であるアンナ・ビルツは、冷たい目で三人を見やる。


「どうか、私を確実に殺してちょうだい。期待しているわ」

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