第2話 花園に眠る、

 意識を失う寸前、南の街にいた。それなのに気づいた時、レイモンドはビルツていへ戻ってきていた。


 まるでありえない現象について、けれど、レイモンドは答えを確信している。


 薔薇十字ロザリオが望みを叶えたからだ。生きろというディエンの願いを、十字架が叶えた。魔女の十字架は、無垢むくの願いを叶える道具だから。


 そうして、赤銅色の薔薇十字は消えた。レイモンドの手から、永遠に。


 *****


 街は、祭りのにぎわいに浮かれている。


 宿の外へ出て行ったティカを探し、レイモンドは狭い路地を歩いた。彼女の行き先には心当たりがあったから、道に迷うこともない。大通りを避けたのは、楽しげな笑い声と、あちこちに飾られた花の美しさに、落ち着かない気分になったからだ。


 煌華祭ファルヤード。三年前の革命で、たくさんの人間が死んだ。彼らをいたむための三日間は、けれど、暗いばかりの祭りではない。悲しい日々を吹き飛ばすように、祭りは華やかなのだった。いたる所に花が飾られ、多くの店がタダも同然で食事と酒をふるまい、いつもより良い服を着込んだ人々が、弾んだ足取りで通りを賑わせている。見知らぬ誰かと喜びを分かちあう――そのための三日間で、今日が最終日だ。


 やがて太陽が沈めば、街を彩った花々は炎にくべられるだろう。

 ささやかな静けさに死をいたんで、人々はまた、新しい一日を積み重ねていく。


 『何を当たり前のことを』と、お前なら、なく返すんだろうな。建物の影と、日の差す場所。まだらに明るくなった石畳いしだたみをたどりながら、レイモンドは思う。でもな、ディエン。今の俺からすれば、それは少しだって当たり前のことじゃない。


 生きることは難しい。レイモンド・ラメドという人間のおかしたあやまちを数え始めれば、きりがないだろう。いっそ、愚かさを数えあげてもいいかもしれない。


 一人で真実を知った気になっていた。俺は正しくて、俺以外のみんなが間違っていると決めつけた。黒幕を見つけたのに、殺しそこねた。


 それなのに、お前のことは殺した。


 俺のかかげた正義なんて、しょせんはその程度の、つまらないで。


 でも。


「なにしに来たの」


 ティカの硬い声が響いた。レイモンドは立ち止まる。


 さびれた演劇場の正面口――倉庫の名残が残る錆鉄色さびてついろの引き扉だ。取っ手を掴んだティカが、こちらを睨みつけている。狭い路地に陽の光が差して、ちょうどティカのいる場所だけを照らしている。


 まるで舞台のように。


 レイモンドは深呼吸し、ティカをまっすぐに見つめた。


「謝りに来た」


 ティカがまゆを寄せ、そっぽを向いた。「君と話すことなんてない」


「っ、待ってくれよ。ティカ」


 黒髪の少女を追いかけて、レイモンドは劇場にはいった。木を打ちつけた床はむき出しで、あちこちに丸椅子まるいすが転がっている。天井近くの小窓から、ぽつぽつと日差しが差しこんでいた。


「話さなくてもいい」先へ先へと進むティカの背中に向かって、レイモンドは必死に声をかけた。「俺のことを許さなくたって。ただ、聞いててほしいんだ。それさえ、君にとっては苦痛なのかもしれないけど」

「長い」

「あっ、えっ、ごめん……」反射的に謝って、レイモンドは、はっと我に返った。「ま、待ってくれ。今のは、長いことに対して謝っただけで……俺が本当に謝りたい、の、は……」


 レイモンドの言葉は、尻すぼみに消えた。舞台の真下でティカが立ち止まった――その小さな肩が、震えたように見えたからだ。「……ティカ?」


「うるさい」背を向けたまま、相変わらずの辛辣しんらつな声でティカが言う。「ほんとに、うるさいんだよ。うるさいし、話が長い。さっきまでは、だんまりだったくせにさ」


 レイモンドは、踏み出しかけた一歩を止めた。じり、と胃が焼けるような感覚がある。「……それは……」今すぐにでも逃げ出したいという気持ちを、気力だけで押し留めて、言葉を続けた。「逃げてたんだ」


 ティカの返事はなかった。何を考えているかもわからない。うそだ。きっと怒っているはずだ。どんな罵声ばせいが飛んできたっておかしくない。


 だから話したくなかったのに。

 臆病な弱音を、けれどやはり、レイモンドは飲みこんだ。


 静まり返った劇場で背筋を伸ばし、レイモンドは告白する。


「何を言っても、君たちを幻滅させるだろうと思った。俺が犯した間違いを話すたびに、俺自身が俺を許せなかった」

「だから話さなかった」ティカが感情のこもらない声で、言葉を継いだ。

「そうだ」

「はっ、最悪。結局は、自分の身が可愛いってことじゃないか」

「……そうだよ」レイモンドは震えそうになった手を、痛いほど握りしめた。「でももう、逃げたくない」


 ティカが振り返った。嫌味な笑い声をたてる。


「馬鹿みたい! いったいどうして、急に心変わりしたわけ?」ティカの声は場違いなほどおどけていて、刺々とげとげしい。「あぁいいよ。答えなくて。どうせルーと話したんでしょ? あいつは優しいもんね。君にいたわりの言葉でもかけて……君はそれを聞いて、許されるかもしれないって思った。どうせ、そんなところでしょ?」

「違う」

「見苦しい。言いわけはよしてよ。言っておくけどね、ボクは君のことを許さな、」

「天才じゃない。英雄でもない。武人でもない」


 レイモンドは、先のティカの言葉を正確になぞった。

 彼女の顔がこわばる。

 それに気づかないふりをして、レイモンドは一歩踏み出した。


「それでも君は、守りたいって思ったんだろ? だから俺は、君に謝りたいと思った。謝って、協力したいと思ったんだ。俺は守れなかったけど、君やルーは、まだ間に合う。そんな君たちを手伝うことなら、俺にだってできる」


 ティカがおびえたように後ずさった。「……嘘だ」


「嘘じゃない」レイモンドは言った。「ただでさえ、君たちに迷惑をかけてるんだ。これ以上、嘘をつけるはずがないだろ」

「口ではなんとでも言える」ティカが言った。

「このことで嘘はつかない」

「やめてよ」

「ごめん。でも、俺は、」

「もうやめてってば!」


 ティカが声を振り絞って叫んだ。あと一歩というところで、レイモンドは足を止める。


「謝るとか手伝うとか、いらないんだよ!」ティカが胸元の薔薇十字ロザリオを握りしめて、泣き出す寸前の声で言った。「君はルーみたいに強くないしっ! アンナみたいに頭もよくないしっ! 口では綺麗事を言うくせに、結局なにもできてなくてっ!」

「ティカ、」

「そもそも、謝るってなに!? ボクが何に怒ってるのかも知らないでしょ!?」

「っ、俺が、君たちを信じられなかったからだろ!」身勝手な胸の痛みをこらえるために、レイモンドは思わず声を大きくした。「あの夏の日に……俺が裏庭バックガーデンを去る前に! 君たちを信じていればよかったんだ。なのに俺は、それをしなかった。勝手に決めつけて、何もかも台無だいなしにした。だから君は怒って、」

「やっぱり、なにも分かってないじゃないか!」


 予想外の返事に、レイモンドは口を閉じた。

 ティカが何度か肩で呼吸をする。やがて顔をうつむけ、苦しげに言った。


「レイモンド。君が裏庭をめちゃくちゃにしたのは事実だよ。ボクはそれを許せない……でもね。もっと許せないのは、ボク自身だ。あの時、ボクは君を信じなかった。君にはどうしようもないところで、ボクは君を責めた」


 レイモンドは息をんだ。痛む右肩――父親の手によって強引に刻まれた薔薇ばら刺青いれずみうずく。


 夏の庭の最後の日に、ティカに投げつけられた言葉が蘇る。それがリンダルムの赤薔薇あかばらのやりくちってわけ?


「姉さんは、リンダルムに殺されたんだ」ティカは陰鬱いんうつな声で言った。「でも、レイモンド。君はあいつらじゃない。馬鹿みたいに空回からまわって、勝手になんとかしようとして、つまずいて……そんなの、全然、あいつらじゃないんだよ。分かってたはずなのに……一番肝心なところで、ボクはいつだって、間違える」


 ティカが鼻をすすった。目元をぬぐって、「最悪」とつぶやく。その声は、すっかり疲れ切っている。


「とにかく、これで分かっただろ。ボクは許せない。だから君と話したくない。帰ってよ。ボクは君を巻き込まないから」


 ティカが背を向けた。まるで永遠の別れを告げるみたいだ。そう思った瞬間、レイモンドはいても立ってもいられなくなった。


 とっさに、ティカの手をつかむ。


「駄目だ」


 ティカが、体を震わせるようにして立ち止まった。文句はない。それを言う気力さえないのかもしれない。レイモンドは胸が痛くなる。やっぱり、俺のせいだ。俺が裏庭を壊しさえしなければ、ティカが自分を責めることもなかっただろう。申し訳無さで死にたくなる。


 嘘だ。死なないよ。ディエン、お前が生きろと願ったから。

 そして生きてる限りは、目の前の誰かを助けていたいから。


「……ごめん」レイモンドは、勇気を振り絞っていった。

「ほんとに、そうだよ」ややあって、ティカがつぶやく。「君のせいで台無し」

「分かってる」

「でも、ボクのせいでもある」

「それは違う」

「…………」

「君のせいじゃない」レイモンドは手に力をこめて、繰り返した。「君は間違ってない。ティカ、君はいつだって、肝心なときに必要な言葉をくれる。そんな君だから、俺は助けたいと思うんだ」


 沈黙があった。レイモンドには永遠にも感じられたが、実際はどうだったのだろう。


 やがてティカが、ため息をつく。「馬っ鹿みたい」


 黒髪の少女が手を振り払った。レイモンドは身構えたが、なんのことはない。振り返ったティカ・フェリスは、呆れ顔を浮かべている。


「必死すぎ。愛の告白じゃあるまいし」

「愛の告白って……」ややあって、からかわれていると気づいたレイモンドは顔をしかめた。「ちょっと待ってくれ。俺は真剣に話してるんだぞ」

「分かってるよ」

「じゃあ、」

「レイモンド」


 静かに名前を呼ばれ、レイモンドは口を閉じた。

 ティカは薔薇十字ロザリオの前で手を組み、レイモンドをじっと見つめる。


「ボクは、許しなんて与えられないよ。それでも助けてくれるってわけ?」


 誰もいない劇場に響いた言葉は、まるで誓いのようでもあった。

 けれど、それが何だというのだろう。レイモンドは臆することなく、真正面から答える。


「当たり前だろ。それが俺のやりたいことなんだから」


 ティカが目を瞬かせ、表情をゆるめた。また冗談でも言われるのかとレイモンドは思ったが、違った。「じゃあ、ボクたちの間にあるのは、願いだね」


「願い?」

「ボクも君も、もう間違えたくない、って思ってる」ティカは紫水晶色アメジストの目を細めて、みしめるように言った。「だからこれは、許しじゃなくて、願いなんだよ」


 大人びた言葉は、じわりとレイモンドの耳に染みた。それは優しくて、だからこそ、重い責任も感じる。


 不意に感謝と尊敬の念がこみあげて、レイモンドは深く頭を下げた。


「ありがとう、ティカ」


 どういたしまして、というティカの返事は、冗談めかしていて、尊大だ。思わず笑ったレイモンドは、ふと首元を引っ張られるような重みを感じる。



 視線を下げたさき、彼の胸元には、失くしたはずの赤銅色しゃくどういろ薔薇十字ロザリオが輝いていた。



 *****



「ちょっとあんた。今日は一人なのかい」


 横合よこあいから声をかけられて、ルーは足を止めた。


 煌華祭ファルヤードでにぎわう通りを歩いていたのは、ただ、なんとなくというだけの理由だった。屋敷から一番近く、買い出しで何度も訪れた街だ。けれど知り合いなんていない。だから、声をかけられるとも思わず、純粋に驚いた。


 右手を見やる。路道ろみちに張り出した露店ろてんだ。橙赤色ポピーレッドの小さな天幕の下に、花をあしらった雑貨が並べられている。


 古びた白磁はくじの茶器に、くも硝子ガラスのオンスびん。真っ白なレースに、銀の刺繍糸でつたと花があしらわれたリボン。


 その向こうから、恰幅かっぷくのいい女が出てきた。可愛らしい雑貨というよりは、昔ながらのミンスパイとか、素朴なキッシュだとか……安くて美味しい食べ物を作っていそうな雰囲気の女だ。


 何も言わないルーを、女がどう感じたのかは分からなかった。彼女はさっと辺りを見回して、出店の奥へルーを引っ張っていく。出店は、元々の店と地続きらしい。狭い部屋に詰め込まれた、細々こまごまとした雑貨――食料品から文房具、用途の分からない小箱まで――を見たところで、ルーはようやく思い出す。


 春先に、アンナと買い物にきた雑貨店ざっかてんだ。


「あの子は元気にしてる?」女主おんなあるじは、続けて問いかけた。

「……あの子、とは」

「あんたの恋人だよ」ルーの戸惑いに気づいたらしい。女は眉根まゆねを寄せて、声を落とした。「アンナちゃんのこと。まさか、別れたんじゃあないだろうね?」


 なんとも答えづらい質問だった。ルーが完全に沈黙すれば、女は大げさにため息をつく。「なるほど。うまくいってないのか」


 ルーは思わず、渋い顔になった。一方的な決めつけだ。それも、見ず知らずの人間の。


「まだ何も答えてないんだが」

「見りゃ分かるよ。別れたのなら、別れたって言いそうな顔だしねえ」


 どんな顔だ、という子供じみた反論を、ルーはなんとか飲みこんだ。女店主は腰に手を当て、大げさに眉を上げ下げする。


「で? どれくらいなんだい?」

「……質問の意図がわからない」

「アンナちゃんとの仲がこじれてから、どれくらい経ったか、って聞いてるんだよ」

「見ず知らずのあなたに、答える義理はない」

「見ず知らず? 馬鹿いっちゃいけないよ。あんたと付き合いはじめる前から、アンナちゃんはお得意様だったんだからね」


 紺色のフレアワンピースに、緑青色ミントブルーひもリボンをあわせたアンナの姿が、ルーの脳裏のうりをよぎった。春一番に、つぼみが花開いたときのような……ぱっと明るい笑顔を浮かべて、記憶のなかの彼女が口を動かす。


 ルーさま。


 つき、とルーの胸が痛んだ。目をせる。「……あなたは、知っているのか」


「なにをだい?」女店主がぶっきらぼうに問う。

「アンナが何者であるのか」

「ただのいとこのお嬢さんだろう?」女は、呆れ返った声で言った。「それから、あんたにぞっこんだった」


 そうだ。僕がどんな態度をとろうとも、彼女は変わらなかった。


 黙りこんだルーに、女店主が鼻を鳴らす。「少し待ってな」と言いおいて、彼女が店の奥に引っ込んだ。いったい、なにを待つというのか。ルーはそう思ったが、思っただけだ。


 店から立ち去ることもできず、ルーは息を吐く。視界の端でなにかが動いた。雑貨に埋もれた姿見すがたみだった。血のように赤い目と、不吉な黒い髪をした男が、あきらかに疲れきった表情を浮かべている。不本意ながら、ルーは女主人の察しの良さを理解した。たしかにこんな顔をしていれば、なにかあったと考えて当然だ。


 大丈夫よ、ルーさま。再び彼女の声がした。やわらかな声音に誘われて、ルーは目を閉じる。美しい泉のような青の目と、生まれたての朝露あさつゆのような銀の髪。アンナは穏やかな笑みを浮かべながら、ルーの指先をそっとでるような仕草をした。わたくしたちは幸せになれるわ。きっと……きっとよ。


 ルーは、目を開けた。かつての彼女が目にしたかもしれない――あるいは、手に取ったのかもしれない雑貨たちに囲まれながら、無力感と郷愁きょうしゅうさびしさに駆られる。


 君はいま、幸せなのだろうか。

 ……あるいは、僕はいま、幸せなのだろうか。


辛気臭しんきくさい顔はおよしよ」


 店主の声が、ルーを現実に引き戻した。文句を言う間もなく、紙袋を押しつけられる。


薔薇ばら砂糖漬さとうづけ。とっておきだよ」女主人は、はきはきと言った。「アンナちゃんと仲直りしておいで。お代はあの子の笑顔でいいからね……ほら、行った行った」


 追い立てられるようにして、ルーは雑貨店の外に出た。振り返れども、女主人は見向きもしようとしない。


 途方に暮れて、ルーは紙袋を眺めた。強引だ。思わずぼやけば、記憶の中の彼女も、同意したような気がする。そうね。でも、わたくしは、おばさまのそういうところが素敵だと思うの。


 まさしく彼女が言いそうなことだ。ルーはふと口元を緩めて、紙袋を抱えなおす。アンナ。僕は君のそういうところが、お人好ひとよしだと思う。


 あてどもなく、ルーはゆっくりと歩き始めた。


 秋の空気は、澄んだ寒さと、陽光の暖かさが混じっている。街は、煌華祭ファルヤードでにぎわっていた。パステルカラーの天幕を張った露店が並び、街の人々が楽しげに店を物色している。若い男女が花屋から受け取ったのは、紫ツツジが咲きこぼれる小さな花束だった。細い路地から飛び出してきたのは子供たちで、小さな飴玉とチョコレートをどうやって分けるか盛んに話しあっている。


 そして行く先々に、花が飾られている。


 紫苑アスターの濃紫と、やわらかな緑の葉を束ねた花飾り。しだれ萩ブッシュクローバーちょうのような花弁が、飾り窓付長屋テラスハウスの窓辺で揺れている。露店の柱にかけられているのは、西洋柊ヒイラギの赤の実と、深緑の葉を組み合わせたリースだ。


 けれどなによりもルーの目を引いたのは、色とりどりの秋薔薇あきばらだった。搾りたての葡萄ぶどうそのものの濃赤ワインレッド、懐かしい夕日で染めたような橙桃色ピンキッシュオレンジ、しまいこんだ手紙を思わせる淡白色オフホワイト


 ふっくらとした花弁かべん幾重いくえにも巻いた薔薇ばらが、人々の手のなかに、彼らの暮らす家々の窓辺に、露店の片隅に置かれている。


 ルーはいつの間にか足を止めていた。秋風が頬を撫でて、また、彼女の声がする。遊び疲れた子供のような、幸せで満ち足りた声だった。綺麗ね、ルーさま。


 あぁ、そうだ。ルーは彼女の声に同意して、それから気がつく。そうだとも。


 世界は美しいんだ、アンナ。

 過去に何があっても。ここに僕がいなくても。あるいは、君がいなくても。

 世界は、どこまでも美しくて。


 でも、僕は。


 胸をつかまれるような悲しさがあった。けれど、それ以上の衝動がある。ルーは唇を引き結び、走り出した。行き先は決まっていたから、もう迷うこともない。


 大通りを端まで進み、さびれた細道へ出た。雑草の生える馬車道だ。さらに進めば、背の高い糸杉いとすぎで両脇をおおわれた通りに出る。それなりの距離だが、ルーは走りきった。疲れはあったし、息も上がっている。けれど立ち止まる気にはなれない。


 焼け残ったビルツていの正門に、ルーは足を踏み入れる。


 秋の静けさだけが、そこにある。建物の外壁は焼け残っていたが、天井のあちこちが崩れかかっていた。裏庭バックガーデンはもっと無惨むざんで、悲しいくらいに見晴らしがいい。草木くさきが焼け落ちてしまったせいだ。


 ルーは足取りをゆるめる。


 割れた窓から見えたのは、食堂ダイニングだった。春の日に、緊張した面持おももちでアンナが魔女たちを出迎えた。その場所は今、落ちた天井で真っ二つになった長卓テーブルだけが見えている。


 二階もろとも天井が抜けていたのは、図書室ライブラリだった。夏の夜に、アンナは頬を赤く染めて、けれど、部屋まで一緒に帰ることを許してくれた。その場所は今、黒焦くろこげになった暖炉だんろと、すすまじりのはいだけが、秋の日差しに照らされている。


 焼け落ちた裏庭の中心にあるのは、丸池ポンドだった。夏の終わり、アンナは真っ青な顔で、記憶を取り戻したルーを眺めていた。その場所は今、水面みなもに秋の空を映していて、草木くさきがらが、インクの染みのようにぽつぽつと浮かんでいる。


 そしてルーは、とうとう足を止める。


 かつての薔薇園ばらえんには、草の葉ひとつ、薔薇ばらひとつ残っていない。真っ黒な死骸があるだけだ。地面に落ちた花びらは、秋風に吹かれるたびに崩れていく。それだけだ。


 ささやかな雨と、月明かりに染まった夜の薔薇園を、ルーは想う。あのときのぬくもりを。失ってしまった何かを。彼女の言葉を。



 泣かないで、ルーさま。



 ルーの目に、じわりと熱いなにかがこみあげた。うめき声とも、息ともつかない何かがこぼれる。


 アンナ、君はこの景色を見て、どう思うだろうか。分からない。分かるはずがない。こんなにもひどい景色を、僕は君と一緒に見たことがない。君の世界は、いつだって美しかったから? たくさんの嘘をかさねて、美しい世界を装っていたから? 違う。


 違うんだ、アンナ。


「君がいないからだ」またたきの間に涙を一つだけこぼして、ルーはつぶやく。「……僕は、さびしい。君がいなくて。それだけなんだ」


 彼女の声は、もう聞こえなかった。

 けれど、それで良い気がした。

 彼女は思い出のなかの人ではなくて、今もどこかで息をしている、大切な人だからだ。


 ルーは紙袋を開いて、小瓶こびんを取り出す。ふたを開けて、一枚だけ薔薇ばら花弁かべんを口に含んだ。砂糖の甘さと、華やかな薔薇の香りがする。なにもかもがほろ苦くて、はかなかった。それでも構わなかった。きっとこれも、君と一緒に食べれば、また違った味わいになるに違いない。


 それがもっと苦くても、あるいは胸焼けするほど甘くても、どちらでも構わない。

 君と一緒にいられるのなら。


 びんふたをする。秋風が、ルーの涙を乾かす。それから彼は、近づいてきた二人分の足音に向かって言った。


「僕は、アンナを助けに行く」


 ルーが振り返った先には、花束を手にしたティカとレイモンドがいた。

 二人の魔女は顔を見あわせ――呆れ笑いとともに、そろって返事をする。


「知ってる」




*****




 その日、ルーたちは日暮れを待って、ティカの持ってきた花束に火をつけた。

 なにもかもが燃え尽きた裏庭で、秋薔薇あきばらが三輪、煌華祭ファルヤードの終わりに燃えていく。





 それは無くした何かをいたむための明かり。

 あるいは、大切な何かを取り戻す――旅立ちのための狼煙のろし

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