第2話 花園に眠る、
意識を失う寸前、南の街にいた。それなのに気づいた時、レイモンドはビルツ
まるでありえない現象について、けれど、レイモンドは答えを確信している。
そうして、赤銅色の薔薇十字は消えた。レイモンドの手から、永遠に。
*****
街は、祭りの
宿の外へ出て行ったティカを探し、レイモンドは狭い路地を歩いた。彼女の行き先には心当たりがあったから、道に迷うこともない。大通りを避けたのは、楽しげな笑い声と、あちこちに飾られた花の美しさに、落ち着かない気分になったからだ。
やがて太陽が沈めば、街を彩った花々は炎にくべられるだろう。
ささやかな静けさに死を
『何を当たり前のことを』と、お前なら、
生きることは難しい。レイモンド・ラメドという人間の
一人で真実を知った気になっていた。俺は正しくて、俺以外のみんなが間違っていると決めつけた。黒幕を見つけたのに、殺しそこねた。
それなのに、お前のことは殺した。
俺のかかげた正義なんて、しょせんはその程度の、つまらないまがい物で。
でも。
「なにしに来たの」
ティカの硬い声が響いた。レイモンドは立ち止まる。
まるで舞台のように。
レイモンドは深呼吸し、ティカをまっすぐに見つめた。
「謝りに来た」
ティカが
「っ、待ってくれよ。ティカ」
黒髪の少女を追いかけて、レイモンドは劇場にはいった。木を打ちつけた床はむき出しで、あちこちに
「話さなくてもいい」先へ先へと進むティカの背中に向かって、レイモンドは必死に声をかけた。「俺のことを許さなくたって。ただ、聞いててほしいんだ。それさえ、君にとっては苦痛なのかもしれないけど」
「長い」
「あっ、えっ、ごめん……」反射的に謝って、レイモンドは、はっと我に返った。「ま、待ってくれ。今のは、長いことに対して謝っただけで……俺が本当に謝りたい、の、は……」
レイモンドの言葉は、尻すぼみに消えた。舞台の真下でティカが立ち止まった――その小さな肩が、震えたように見えたからだ。「……ティカ?」
「うるさい」背を向けたまま、相変わらずの
レイモンドは、踏み出しかけた一歩を止めた。じり、と胃が焼けるような感覚がある。「……それは……」今すぐにでも逃げ出したいという気持ちを、気力だけで押し留めて、言葉を続けた。「逃げてたんだ」
ティカの返事はなかった。何を考えているかもわからない。
だから話したくなかったのに。
臆病な弱音を、けれどやはり、レイモンドは飲みこんだ。
静まり返った劇場で背筋を伸ばし、レイモンドは告白する。
「何を言っても、君たちを幻滅させるだろうと思った。俺が犯した間違いを話すたびに、俺自身が俺を許せなかった」
「だから話さなかった」ティカが感情のこもらない声で、言葉を継いだ。
「そうだ」
「はっ、最悪。結局は、自分の身が可愛いってことじゃないか」
「……そうだよ」レイモンドは震えそうになった手を、痛いほど握りしめた。「でももう、逃げたくない」
ティカが振り返った。嫌味な笑い声をたてる。
「馬鹿みたい! いったいどうして、急に心変わりしたわけ?」ティカの声は場違いなほどおどけていて、
「違う」
「見苦しい。言いわけはよしてよ。言っておくけどね、ボクは君のことを許さな、」
「天才じゃない。英雄でもない。武人でもない」
レイモンドは、先のティカの言葉を正確になぞった。
彼女の顔がこわばる。
それに気づかないふりをして、レイモンドは一歩踏み出した。
「それでも君は、守りたいって思ったんだろ? だから俺は、君に謝りたいと思った。謝って、協力したいと思ったんだ。俺は守れなかったけど、君やルーは、まだ間に合う。そんな君たちを手伝うことなら、俺にだってできる」
ティカが
「嘘じゃない」レイモンドは言った。「ただでさえ、君たちに迷惑をかけてるんだ。これ以上、嘘をつけるはずがないだろ」
「口ではなんとでも言える」ティカが言った。
「このことで嘘はつかない」
「やめてよ」
「ごめん。でも、俺は、」
「もうやめてってば!」
ティカが声を振り絞って叫んだ。あと一歩というところで、レイモンドは足を止める。
「謝るとか手伝うとか、いらないんだよ!」ティカが胸元の
「ティカ、」
「そもそも、謝るってなに!? ボクが何に怒ってるのかも知らないでしょ!?」
「っ、俺が、君たちを信じられなかったからだろ!」身勝手な胸の痛みをこらえるために、レイモンドは思わず声を大きくした。「あの夏の日に……俺が
「やっぱり、なにも分かってないじゃないか!」
予想外の返事に、レイモンドは口を閉じた。
ティカが何度か肩で呼吸をする。やがて顔をうつむけ、苦しげに言った。
「レイモンド。君が裏庭をめちゃくちゃにしたのは事実だよ。ボクはそれを許せない……でもね。もっと許せないのは、ボク自身だ。あの時、ボクは君を信じなかった。君にはどうしようもないところで、ボクは君を責めた」
レイモンドは息を
夏の庭の最後の日に、ティカに投げつけられた言葉が蘇る。それがリンダルムの
「姉さんは、リンダルムに殺されたんだ」ティカは
ティカが鼻をすすった。目元をぬぐって、「最悪」とつぶやく。その声は、すっかり疲れ切っている。
「とにかく、これで分かっただろ。ボクは許せない。だから君と話したくない。帰ってよ。ボクは君を巻き込まないから」
ティカが背を向けた。まるで永遠の別れを告げるみたいだ。そう思った瞬間、レイモンドはいても立ってもいられなくなった。
とっさに、ティカの手をつかむ。
「駄目だ」
ティカが、体を震わせるようにして立ち止まった。文句はない。それを言う気力さえないのかもしれない。レイモンドは胸が痛くなる。やっぱり、俺のせいだ。俺が裏庭を壊しさえしなければ、ティカが自分を責めることもなかっただろう。申し訳無さで死にたくなる。
嘘だ。死なないよ。ディエン、お前が生きろと願ったから。
そして生きてる限りは、目の前の誰かを助けていたいから。
「……ごめん」レイモンドは、勇気を振り絞っていった。
「ほんとに、そうだよ」ややあって、ティカがつぶやく。「君のせいで台無し」
「分かってる」
「でも、ボクのせいでもある」
「それは違う」
「…………」
「君のせいじゃない」レイモンドは手に力をこめて、繰り返した。「君は間違ってない。ティカ、君はいつだって、肝心なときに必要な言葉をくれる。そんな君だから、俺は助けたいと思うんだ」
沈黙があった。レイモンドには永遠にも感じられたが、実際はどうだったのだろう。
やがてティカが、ため息をつく。「馬っ鹿みたい」
黒髪の少女が手を振り払った。レイモンドは身構えたが、なんのことはない。振り返ったティカ・フェリスは、呆れ顔を浮かべている。
「必死すぎ。愛の告白じゃあるまいし」
「愛の告白って……」ややあって、からかわれていると気づいたレイモンドは顔をしかめた。「ちょっと待ってくれ。俺は真剣に話してるんだぞ」
「分かってるよ」
「じゃあ、」
「レイモンド」
静かに名前を呼ばれ、レイモンドは口を閉じた。
ティカは
「ボクは、許しなんて与えられないよ。それでも助けてくれるってわけ?」
誰もいない劇場に響いた言葉は、まるで誓いのようでもあった。
けれど、それが何だというのだろう。レイモンドは臆することなく、真正面から答える。
「当たり前だろ。それが俺のやりたいことなんだから」
ティカが目を瞬かせ、表情を
「願い?」
「ボクも君も、もう間違えたくない、って思ってる」ティカは
大人びた言葉は、じわりとレイモンドの耳に染みた。それは優しくて、だからこそ、重い責任も感じる。
不意に感謝と尊敬の念がこみあげて、レイモンドは深く頭を下げた。
「ありがとう、ティカ」
どういたしまして、というティカの返事は、冗談めかしていて、尊大だ。思わず笑ったレイモンドは、ふと首元を引っ張られるような重みを感じる。
視線を下げたさき、彼の胸元には、失くしたはずの
*****
「ちょっとあんた。今日は一人なのかい」
右手を見やる。
古びた
その向こうから、
何も言わないルーを、女がどう感じたのかは分からなかった。彼女はさっと辺りを見回して、出店の奥へルーを引っ張っていく。出店は、元々の店と地続きらしい。狭い部屋に詰め込まれた、
春先に、アンナと買い物にきた
「あの子は元気にしてる?」
「……あの子、とは」
「あんたの恋人だよ」ルーの戸惑いに気づいたらしい。女は
なんとも答えづらい質問だった。ルーが完全に沈黙すれば、女は大げさにため息をつく。「なるほど。うまくいってないのか」
ルーは思わず、渋い顔になった。一方的な決めつけだ。それも、見ず知らずの人間の。
「まだ何も答えてないんだが」
「見りゃ分かるよ。別れたのなら、別れたって言いそうな顔だしねえ」
どんな顔だ、という子供じみた反論を、ルーはなんとか飲みこんだ。女店主は腰に手を当て、大げさに眉を上げ下げする。
「で? どれくらいなんだい?」
「……質問の意図がわからない」
「アンナちゃんとの仲がこじれてから、どれくらい経ったか、って聞いてるんだよ」
「見ず知らずのあなたに、答える義理はない」
「見ず知らず? 馬鹿いっちゃいけないよ。あんたと付き合いはじめる前から、アンナちゃんはお得意様だったんだからね」
紺色のフレアワンピースに、
ルーさま。
つき、とルーの胸が痛んだ。目を
「なにをだい?」女店主がぶっきらぼうに問う。
「アンナが何者であるのか」
「ただの
そうだ。僕がどんな態度をとろうとも、彼女は変わらなかった。
黙りこんだルーに、女店主が鼻を鳴らす。「少し待ってな」と言いおいて、彼女が店の奥に引っ込んだ。いったい、なにを待つというのか。ルーはそう思ったが、思っただけだ。
店から立ち去ることもできず、ルーは息を吐く。視界の端でなにかが動いた。雑貨に埋もれた
大丈夫よ、ルーさま。再び彼女の声がした。やわらかな声音に誘われて、ルーは目を閉じる。美しい泉のような青の目と、生まれたての
ルーは、目を開けた。かつての彼女が目にしたかもしれない――あるいは、手に取ったのかもしれない雑貨たちに囲まれながら、無力感と
君はいま、幸せなのだろうか。
……あるいは、僕はいま、幸せなのだろうか。
「
店主の声が、ルーを現実に引き戻した。文句を言う間もなく、紙袋を押しつけられる。
「
追い立てられるようにして、ルーは雑貨店の外に出た。振り返れども、女主人は見向きもしようとしない。
途方に暮れて、ルーは紙袋を眺めた。強引だ。思わずぼやけば、記憶の中の彼女も、同意したような気がする。そうね。でも、わたくしは、おばさまのそういうところが素敵だと思うの。
まさしく彼女が言いそうなことだ。ルーはふと口元を緩めて、紙袋を抱えなおす。アンナ。僕は君のそういうところが、お
あてどもなく、ルーはゆっくりと歩き始めた。
秋の空気は、澄んだ寒さと、陽光の暖かさが混じっている。街は、
そして行く先々に、花が飾られている。
けれどなによりもルーの目を引いたのは、色とりどりの
ふっくらとした
ルーはいつの間にか足を止めていた。秋風が頬を撫でて、また、彼女の声がする。遊び疲れた子供のような、幸せで満ち足りた声だった。綺麗ね、ルーさま。
あぁ、そうだ。ルーは彼女の声に同意して、それから気がつく。そうだとも。
世界は美しいんだ、アンナ。
過去に何があっても。ここに僕がいなくても。あるいは、君がいなくても。
世界は、どこまでも美しくて。
でも、僕は。
胸をつかまれるような悲しさがあった。けれど、それ以上の衝動がある。ルーは唇を引き結び、走り出した。行き先は決まっていたから、もう迷うこともない。
大通りを端まで進み、さびれた細道へ出た。雑草の生える馬車道だ。さらに進めば、背の高い
焼け残ったビルツ
秋の静けさだけが、そこにある。建物の外壁は焼け残っていたが、天井のあちこちが崩れかかっていた。
ルーは足取りを
割れた窓から見えたのは、
二階もろとも天井が抜けていたのは、
焼け落ちた裏庭の中心にあるのは、
そしてルーは、とうとう足を止める。
かつての
ささやかな雨と、月明かりに染まった夜の薔薇園を、ルーは想う。あのときのぬくもりを。失ってしまった何かを。彼女の言葉を。
泣かないで、ルーさま。
ルーの目に、じわりと熱いなにかがこみあげた。
アンナ、君はこの景色を見て、どう思うだろうか。分からない。分かるはずがない。こんなにもひどい景色を、僕は君と一緒に見たことがない。君の世界は、いつだって美しかったから? たくさんの嘘をかさねて、美しい世界を装っていたから? 違う。
違うんだ、アンナ。
「君がいないからだ」またたきの間に涙を一つだけこぼして、ルーはつぶやく。「……僕は、
彼女の声は、もう聞こえなかった。
けれど、それで良い気がした。
彼女は思い出のなかの人ではなくて、今もどこかで息をしている、大切な人だからだ。
ルーは紙袋を開いて、
それがもっと苦くても、あるいは胸焼けするほど甘くても、どちらでも構わない。
君と一緒にいられるのなら。
「僕は、アンナを助けに行く」
ルーが振り返った先には、花束を手にしたティカとレイモンドがいた。
二人の魔女は顔を見あわせ――呆れ笑いとともに、そろって返事をする。
「知ってる」
*****
その日、ルーたちは日暮れを待って、ティカの持ってきた花束に火をつけた。
なにもかもが燃え尽きた裏庭で、
それは無くした何かを
あるいは、大切な何かを取り戻す――旅立ちのための
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