KHM153 / 第五章 煌華祭

第1話 裏庭の魔女

 アンナ・ビルツは、議会に戻った。


 かつての革命家がまつりごとの場から姿を消して久しく、ヴェリスの議会は驚きをもって彼女を出迎える。良く言えば丁寧、言葉を選ばずに言うなられものにれるような議会の反応は、しかし、すぐに一変した。


 アンナ・ビルツが議会の決定に口を出すようになったからだ。


 彼女は議案の瑕疵かしを見抜き、ことごとくをくつがえした。

 彼女は議員の私欲をあばき、三人の議員を議会から追放した。

 彼女は革命の頃の罪人を裁きの場に立たせ、何人かに死刑を言い渡した。


 純黒のドレスに、真っ黒なレースの手袋。胸元に黒銀の薔薇十字ロザリオを身に着けた彼女を、議会は恐れるようになった。なるほど。たしかに彼女は、円卓を囲む十二席のうちの一つに座っている。自分たちと彼女は、平等であるかのように見える。


 だが、実際はどうだ。


 アンナ・ビルツの冷たい青の目にすくめられて、逆らえる人間は一人もいない。抑制のきいた彼女の言葉も、その決定も、まったくもって正しいが、正義ではない。。古参の議員に耳打ちしたのは、新しく議会に加わった若緑色の目の青年だった。アンナ・ビルツの、人の命を奪うこともいとわぬ苛烈さは、処刑した先王を思い起こさせる。長く暗い冬の夜のごとき恐怖が、流行病はやりやまいさながらに、議員たちの心をむしばんだ。


 かくして議会は、アンナ・ビルツを追放することに決めた。彼女をのぞく満場一致で、彼女を罪人としてあつかうこととしたのだった。


 アンナ・ビルツは、国に惨禍さんかをもたらした先王の、最後の娘である。


 彼女は父王ふおうの圧政から国民を救ったが、その戦いを紐解ひもとけば、明らかに罪のない民を犠牲にするものが多くあった。


 王政から決別し、我らの国が正しい歴史を刻むためには、革命という戦を起こした人間もまた、罪に問うべきだ。


 ゆえに、アンナ・ビルツの死刑を求める。



 円卓に響く実に民主的な宣告を、アンナ・ビルツは表情一つ変えずに聞いている。



 *****


「ありえないよ」


 ティカが開口一番に言った。その言葉はしかし、宿の一室に虚しく響くばかりだった。


 未明の火事に見舞われ、ビルツてい裏庭バックガーデンも含めて、ほとんどが焼失した。住む場所を失った五人は、だから、当座をしのぐために、街の宿に逃げ込むことなった。


 火事の日以来、神経をとがらせているティカと、めっきり口数が少なくなってしまった双子ふたごのヴィナとニケ。怪我けがのせいで顔色がすぐれないレイモンド。そして自分。小さな部屋に集まった面々を数えあげたあと、ルーは疲れをおぼえて、視線を床に落とす。


 燃えさかる屋敷から、アンナとアルヴィムは姿を消した。それで終わりにすればよかったのに、自分はこうしてまだ、生きている――まるで他人事ひとごとのように思ったところで、ルーは己の愚かさを笑いたくなった。


 生き残った理由に、不思議な点など一つもない。


 あの場所から逃げたからだ。

 火の手をおそれて、僕は逃げた。

 彼女を追いかけることもせずに、ただただ無様ぶざまに、逃げ出した。


「ねぇ、聞いてるの」


 刺々とげとげしい声に、ルーは顔をあげた。大衆紙タブロイドを小卓に叩きつけたティカが、不機嫌そうに腕を組んでいる。


「アンナが処刑されるんだよ。このままで良いわけ?」

「……良いもなにも」ルーは暗い声で言った。「そう決まったんだろう。なら、くつがえせない」

「それがおかしいって言ってんの」ティカは声高こわだかに言い返した。「考えてもみなよ。どうして、たかが議会の人間が、アンナの死刑を決められるわけ? しかもたった数日で」

「それだけ、革命の頃の彼女の行いが悪だったということだろう」

「革命は終わってるでしょ。もう三年も前に」

「だが、殺された人間は戻ってこない。その恨みが消えるわけでもない」

「っ、あのねえ! ボクが言いたいのは、そういうことじゃなくて、」


 がたん、と音がした。


 ディエンの双子の片割れ――赤毛のヴィナが、窓際まどぎわの椅子から立ち上がる。床にしゃがみこんでいた片割れのニケが、不安そうな顔つきになった。「……ヴィナ?」


「そうよ」片割れの気遣いを無視して、ヴィナは暗い目つきで言った。「ダディは帰ってこないの。レイモンド・ラメドが殺したから」


 ベッドに浅く座ったレイモンドは、顔をうつむけたまま、ぴくりとも動かなかった。


 ヴィナが何かをこらえるように顔をしかめ、小走りで部屋を出ていく。ニケも慌てて、彼女の後を追いかけた。なぐさめる声のあとに、すすり泣きが聞こえてくる。


 重苦しい沈黙が落ちた。午後の日差しが、卓の上の大衆紙タブロイドを照らしている。やがてティカがため息をつき、ぼそりと言った。「


 ティカは大衆紙タブロイドをめくり、ある一面を示した。


 悪名高き革命家の素顔――そんな見出しの下に、引き伸ばされた白黒モノクロの写真がある。急いで撮られたのだろう。画面の三分の一ほどがぼけていた。けれど、肝心なものは、しっかりと映されている。


 何人かの議員に混じって、アンナ・ビルツが回廊かいろうを歩いているのだった。背筋をぴんと伸ばし、真っ黒なドレスに身を包んでいる。まつりごとに関わる男たちは、総じてアンナ・ビルツよりも歳上で、彼女と同じように黒い礼服を着ている――にも関わらず、若い女の威圧的な存在感は異様だった。


 ティカの指先が、写真をたたく。


「これをったのは、フラウだよ。間違いない。こういう画角が好きなんだ。空気感をうまく切り出して、写真に収める技術もある……なにより、すきを見て写真を撮るのもうまい」ティカは早口に言った。「でもね。ボクは、アンナが、そうやすやすと盗撮とうさつを許すとは思えないわけ。わざと写真に撮られてやったと考えるほうが、よっぽど自然だ。フラウは、アルヴィムとも関わってるみたいだった……アンナとアルヴィムが繋がっていて、フラウもそれに巻き込まれてる。これがボクの見立て」

「つまり君は、フラウ・ライゼンを助けたいと考えている。アンナ・ビルツではなく」ルーは静かに言った。

「両方だよ」ティカが返した。「でも、ボク一人でできると思う? 無理でしょ。そんなことは、分かってるんだ……だからボクは、君をその気にさせたいわけ。ねぇ。本当にアンナを助けたいと思わないの?」


 ルーは、アンナ・ビルツの凍りついた眼差しから目をそらした。別れぎわの、彼女の言葉が耳にこびりついている。落胆した声が。


 彼では、私を殺せないわ。


「――助けられることを、アンナ・ビルツは望んでいない」ルーはゆっくりと言った。どこまでも落ち着きをはらっていて、他人事ひとごとのような声音だった。「ティカ・フェリス……君はさっき、ありえない、と言ったな。こんなにも早く、アンナ・ビルツの処刑が定まるのはありえない、と」

「……そうだけど」

「君の指摘は正しい。だが、アンナ・ビルツの仕組んだことであるというのなら、納得がいく。彼女は、死にたがっているんだ。だから表舞台にもどった。自身が人殺しであることを強く印象づけるような行動をとった。人々が自分を悪だと思うよう、仕向けてみせた。実際、彼女の起こした革命で、多くの人間が死んだのだから……アンナ・ビルツを殺すための材料は、十分にそろっていたはずだ」

「なにそれ。意味分かんないよ」ティカが顔をしかめた。「自分で自分を殺す準備をする? なんでそんな回りくどいこと……」

「たったひとつ――自分の死だけでは、不足なんだ。彼女にとって」ルーは言った。「彼女のせいで、多くの人間が死んだ。それに見合うだけの罰を、アンナ・ビルツは求めている」


 きっと、それを与えられるのが先代――アルヴィムだったのだ。だからアンナ・ビルツは、彼を選んだ。かの男は、アンナ・ビルツへの復讐ふくしゅうを望んでいた。それは、考えうる限りの苦痛を与えて殺すことと同義で、まさに、アンナ・ビルツの望みそのものだった。


 そして、僕はそれができなかった。ルーの心が沈む。


 だから選ばれなかった。

 簡単なことだ。

 あまりにも、簡単すぎる。


 不意に、腕を強くつかまれた。


 顔をあげたルーは、ティカが紫水晶色アメジストの目に怒りを滲ませていることに気づく。何事かと問う前に、ティカが言った。


「君がそんなに腰抜こしぬけなら、ボクにも考えがある。来て――レイモンド、君もだよ」


 レイモンドが戸惑とまどったような顔をしつつも、腰を浮かせた。戻ってきて以来、ティカは徹底的てっていてきに彼をけていたのだから、当然のことだ。いったい、どういうつもりなのか。尋ねる時間は、しかし、ルーにもレイモンドにも与えられない。


 ティカは二人を引き連れて、宿の外に出た。道中で宿の主に話をつけ、木製の棒を二本調達する。長さはちょうど、広げた両腕くらいだ。訓練用の槍に、似ていなくもない。ルーのかんは見事に当たった。


 宿の裏手――私道しどうとも、共用の庭ともつかぬ場所に連れて行かれた。れかけた下草しもくさと、細い枝を天に伸ばすばかりの木がえている。煌華祭ファルヤード初日のにぎわいは遠く、晴天に乾いた秋風が吹くばかりだ。


「体に、棒が触れたら負け」ルーに向かって棒を投げてよこしながら、ティカは言った。「あるいは、どちらかが降参するまで。降参する気なんて、ボクはさらさらないけどね。ルー、君が負けたら、ボクの言うことを聞いてもらう」


 審判役のレイモンドが、所在投しょざいなげに立ち尽くしている。彼とちらと視線をかわしたあと、ルーは戸惑いながらティカを見た。


「本気なのか」

「はっ。もしかして、馬鹿にしてる?」

「そういうつもりでは、っ」


 不意にティカが、ルーの眼前に棒の先端を突きつけた。ルーが言葉を切って沈黙すると、彼女はふん、と鼻を鳴らす。


「今のはおまけだよ」木の棒を鮮やかな手つきで引き戻して、ティカは鋭く目を細めた。「でも、次はない」


 開始の合図もなく、ティカが再び踏み込んでくる。ルーは咄嗟とっさに、木の棒で受け止めた。衝撃は軽い。自身の態勢が崩れることもない。むしろ、バランスをくずしたのはティカのほうだ。


 いいや、それも違う。


 ティカは、勢いを殺さず地面をった。重なり合った棒を起点に、曲芸師きょくげいしのごとく体を反転させる。


 しなやかに伸びたつま先が狙う先は、ルーの右目。


 ルーは右手の甲で、ティカの蹴りを防いだ。にぶい痛みに顔をしかめる。ティカは地面に降り立ち、地面すれすれで木の棒を振るった。左だ。見るよりも早く、ルーは足元に敵意を感じる。けられるか。いな


 数瞬で状況を判じた。ルーは棒を右手から左手に素早く持ち替え、下からすくいあげるようにして、ティカの木の棒を絡め取った。かんっ、と軽やかな音がして、ティカの棒が宙を舞う。顔をこわばらせた彼女が気の毒になり、ルーはつま先で土をりあげるにとどめた。


 舞いあがった土埃つちぼこりから視界を守るように、ティカがルーと距離を置く。彼女の足元に、木の棒が転がった。


「終わりにしよう」ルーはため息をつき、自身の武器の切っ先を下げる。「分かっただろう。これ以上は無駄だ」

「……嫌だ」

「ティカ・フェリス、」

「じゃあ、あんたがあきらめろよっ!」


 怒りを爆発させたティカの剣幕けんまくに、ルーはたじろいだ。黒髪の舞台役者は、武器を拾いあげながら言う。


「最初に言ったでしょ。どちらかが降参すれば、こんなみたいな戦いは終わるんだ。あんたに言わせれば、くだらない、稽古けいこにもならない、無駄な戦いがさ。じゃあ、早く降参しろよ。抵抗しないでよ。とっとと負けて、。簡単なことじゃないか。あきらめて、ボクに従えばいい。あるいは、逃げればいいんだ。ボクの前から。この街から。この国から――本当に、心の底から、アンナのことをあきらめきれるっていうのなら」

「……そ、れは……」

「ボクは、アンナを救わない」


 突き放すような宣告に、ルーの心臓がずきりと痛んだ。


 ティカは紫水晶アメジストの目に一瞬だけ痛みをよぎらせ――けれど、視線をそらさない。


「当然でしょ。ボクは天才じゃない。英雄でもない。武人でもない。だからきっと、一つしか守れない。アンナもフラウも大切さ。でもね、どちらか一方を選べと言われれば、ぜったいにフラウを選ぶ」

「……なぜ」

「笑わせんな」武器をルーへ向けながら、ティカは不敵に笑った。「ボクがフラウのことを、諦めてないからだ」


 木の棒を手に、ティカが再び突進してきた。まっすぐな軌道だ。目論見もくろみはないだろう。何か特別な技術があるわけでもない。先の身のこなしは見事だったが、あれでさえ、本当に通用するのは舞台だけだ。現実の戦いでは、すきが大きすぎて、使いものにならない。


 そして――そうやって悠長ゆうちょうに考えられるだけの余裕が、僕にはあるのだ。


 ルーはようやくティカの怒りを理解して――木の棒を握りしめた。


 ティカの渾身こんしんの一撃を、ルーは最小限の動きで払いのける。素早く棒を引き戻し、ティカの胸元めがけて棒を振るった。


 ティカが顔を歪めて、半身をのけぞらせる。ルーの攻撃が空を切る。けれどそれさえも、予想できたことだ。


 ルーは足払いをかけた。ティカがバランスを崩して地面に倒れる。その手から武器が離れた。


 紫の薔薇十字ロザリオが輝く胸元に、ルーは木の棒の先端をそっと突き立てる。


「僕の勝ちだ」


 ルーは静かに宣言する。

 

 ティカはしばし呆然としていたが、やがて眉間みけんしわを寄せた。


「……最初から、そうしろっての」


 不機嫌極まりない声で呟いて、ティカが木の棒を払いのけた。ルーがなにか言う前に、彼女はさっさと身を起こし、宿に戻ってしまう。


 ルーは彼女を追いかけようとして、やめた。木の棒を握ったままの手を眺め、目を伏せる。


「――これで、良かったんだと思うよ」


 レイモンドの声がした。ルーが顔をあげれば、右肩に痛々しく包帯をまいたままの青年が、気弱な笑みを浮かべる。「ティカも、馬鹿じゃない。思ったことはすぐに口にするけど」


「分かっている」ルーは、己の不甲斐ふがいなさに、ため息をついた。「ティカ・フェリスには損な役回りをさせた」

「どうかな。案外、好き勝手言えて、すっきりしてるかもしれない……なんて、俺なんかが、何かを言う権利もないんだけどさ」


 つかの間、沈黙が落ちた。重苦しくはないが、互いになにかの答えを探すような沈黙だった。


 レイモンドは宿のほうを見やり、それからもう一度、ルーへ視線を向ける。「アンナさんを助けるのか?」


 ルーはゆっくりと息を吸って、いた。


「……まだ、分からない」

「……そうか」

「〈王狼おうろう〉を……仲間を殺したのは僕だ。だが一方で、アンナ・ビルツが指示をしなければ、そもそも僕は仲間を殺さずにすんだかもしれない。そう考えることを、やめられないんだ。このおよんでも」ルーは言葉を切った。自分の気持ちを的確に言い表すための言葉を探して、けれど結局、なにも見つけられずに、肩を落とす。「……でも僕は、ティカ・フェリスに負けたくないとも、思った」


 レイモンドが暗い面持ちになった。「ルー。君は、俺をうらんでもいいと思う」


 ルーは驚いて、目をしばたいた。


「なぜ、そんなことを?」

「君がアンナ・ビルツへの恨みを思い出したのは、俺が原因だ。そうだろ? 俺が神鍵クラヴィスを使わなければ……君は今でも、アンナさんのことを大切に思えていただろう。そもそも、にすら、ならなかったかもしれない」


 こんなこと、という言葉の中には、はかりしれない悲しみがこめられていた。


 レイモンドは思い詰めた表情をしていて――夏の庭で別れる直前の、正しさにこだわる彼とはまったくの別人だ。強さはなく、悲嘆がある。うまく息つぎができずに、おぼれてしまいそうな、そんな顔をしている。


 レイモンドは本当に、なにもかもが自分のせいだと思っているのだろう。裏庭の破綻はたんも、アンナとフラウがいなくなったことも、彼自身の手でディエンを殺さなければならなかったことも。その自責の感情は、長年ルーが抱え続けてきたものとまったく同じだ。


 そうだ。ルーは、ふと、気がついた。僕は……僕のせいだと思っていたのだ。〈王狼おうろう〉の息の根を止めたのは、結局のところ、僕だった、と。


 アンナ・ビルツ。あなたと再会しなければ、僕は一生、僕を許せなかっただろう。あるいは、すぐにでも命を絶っていただろう。


 けれど、僕たちは再会した。そしてあなたは、言ったのだ。私が〈王狼おうろう〉を殺すよう指示をした、と。


 だから僕は、あなたのせいにした。それで、ようやく、生きることができるようになった。途方とほうもない罪悪感を、あなたが肩代かたがわりしてくれたからだ。


 でも、たぶんそれは、正しくなかった。

 もっと、できることがあったはずなのだ。


「……僕は」ルーは、ゆっくりと言った。「すべてが君のせいではないと、思う」


 レイモンドが、はっとしたように顔をあげた。ルーは、青年の赤銅色の目を見る。あの頃の自分と、同じ目をした彼を見て――あの頃の自分が欲しかった言葉を、あるいは、彼女に伝えるべきだった言葉を、探す。


「君の言うとおり、あの裏庭はいびつだったんだ」ルーは言った。「たくさんの秘密があった。それがいつ、誰によって明かされるか……たぶん、それだけのことだった」

「でも……俺のせいで、君とアンナさんの仲は、良くない方向にいったんじゃないのか」


 ルーは、はっきりと首を横にふった。


「その一点については、断言できる。君のせいじゃない……僕と、アンナのせいだ」


 夏の一件で、自分とアンナの仲が良くない方向にかたむいた。それは事実だ。であるならば、秘密が明かされるまでは、自分とアンナは良い方向にいたということだ。果たして、ほんとうにそうだったか。


 まさか、そんなはずがない。


 すべてを忘れた君が、楽しげに笑っていて。仲間の死の真実から目をそむけた僕が、君と季節を重ねた。あの時間は、たしかに美しかった。


 けれど、やはり、正しくはなかった。

 だからこうして、消えてしまったのだ。

 呆気あっけなく。跡形あとかたもなく。花びらのひとつも残さないで。


 それは自分たちの責任であって、他の誰のせいでもない。


「レイモンド」不安げな顔をする青年の名を呼んで、ルーは表情をゆるめた。「僕は君を、うらんではいない。そのことだけは、忘れないでほしい」


 レイモンドの目が揺れた。そのことに、彼自身も気づいたのだろう。恥じるように顔をうつむけ、鼻をすする。「……君は人たらしだな」


 レイモンドの返事は八つ当たりのようでもあり、冗談めいてもいる。ルーはほっとしながら、小さく笑った。


「それは初めて言われた」

「まぁ……うん、そうだね。たしかに君は、アンナさん以外にはよそよそしいから」

「そうなのか」

「そうだよ」レイモンドはさりげない動作で目元をぬぐって、ルーのほうを見た。「君は、アンナさんのことを、ほんとうに大切にしてた。君がどういう結論を出そうと――それに対して世界中がなんと言おうと、その一点だけは、俺たち魔女が保証できる」


 何気ないけれど、力強い言葉だった。結局、励まされているのは自分のほうだ。そんなことに気がついて、ルーは苦笑する。「ありがとう、レイモンド」


 ルーたちは口を閉じた。それは互いに、自分の考えを整理するための時間で――やがて三度目の沈黙は、心地よい秋風に溶けて、消える。


 地面に転がった木の棒を拾いあげて、レイモンドが言った。


「俺、ティカを探しに行ってくるよ」

「僕も行こうか」


 ルーから木の棒を受け取りながら、レイモンドは肩をすくめた。


「いや、いい。君は君で、どうしたいか考えるべきだ。後悔しないように」

「……後悔か」

「俺が言えた義理じゃないけどさ」寂しさと優しさを赤銅色しゃくどういろの目にともして、レイモンドは言った。「君にとっての大切な人がまだ生きているのなら、できるだけのことはしたほうがいい。まだ声は届くんだから」

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