間章あるいは少女の断片
Posthumous manuscript -xxxx-
いくつものベッドが並べられた部屋の片隅で、両足をなくした兵士が息絶えようとしている。
「俺は幸せです」
古い倉庫を片付け、
ふらりと伸ばされた彼の右手を
汚れてくすんだ窓から、じわりと
「アンナ様のお役に立てたことは、俺の誇りです」ぼんやりと天井を見上げたまま、兵士は言った。「ここまで駆けたかいがありました……俺の故郷を、助けてくださいますか」
アンナはうなずいた。男の手をいっそう強く握る。
「もちろんなのだわ。私は、あなたがたのために戦っているのよ。ましてあなたは、東端のヴィゼルから、命を
「アンナ様にお会いできるのなら、東から北まで、たいした距離じゃありません……なんといっても、足が早いことだけが
「……そうね。私達の誇りよ」
「ははっ……そう言っていただけるなんて……おふくろが喜ぶ……早く帰らないと……そうだ、すぐそこに俺の好きな……
男の声が途切れた。
アンナは、息絶えた男の手を離す。静かに祈りを捧げて立ち上がった。
死んでいるのか生きているのか判別のつかない――墓標のような
革命軍に加わって半年ほどの青年は、いたましげな顔つきをしていた。
「
アンナは小さく頷きながら、粗末な
三人は、背の低い建物に挟まれた、うら寂しい道を歩く。
国の北端、花の街ミレイユと歌われた土地は、厳しい冬の季節を迎えている。雪こそ降らないが、乾いて冷たい風が間断なく吹きすさび、夜ともなれば、いっそうひどくなる――ゆえに人々は、寒さをしのぐため、
やせた土地でもあり、気候にも恵まれない。だが北側の港と、王都を結んだ直線上にミレイユは存在する。そのことに目をつけた商人たちが、交易の街として盛り立てた。流れ込んだ富が街を
されど半月前、国王軍がミレイユへ目をつけた。
軍略上は、大逆人アンナ・ビルツから、北の土地を守るため。
政略上は、
三つの動機のうち、もっとも重んじられたのは貴族たちの意向で、だから国王軍はミレイユに進軍した。
彼らは夜の街へ火をかけ、焼き出された人間の命と、その財産を奪った。日が昇れば一転、なに食わぬ顔で「何者かが火を放ち、盗みを働いた。いやいや、この時勢だ。革命軍の内通者に違いない」とのたまった。反論する人間がいれば――あるいは、彼らが疑わしいと断じた人間がいれば、次々と処刑してまわった。
アンナたち革命軍が駆けつけたときには、女子供も含めて、百人あまりが命を落としていた。今やミレイユに
幾筋かに別れた細道を正確に選びながら、アンナは問う。
「ここの戦況は?」
「
「国王軍側の兵士の数が、想定以上に多い」アンナは言う。
「だろうな。何者かが、
「私達の側の人間が、国王軍へ情報を漏らした」
「裏切り者か」ディエンが愉快そうに片眉をあげた。「いよいよ、大人数の組織らしくなってきたね」
「あるいは、義に厚い人間よ」アンナは淡々と返した。「どちらでも構わないわ。それより、次に打つべき手だけれど」
「アンナ様、我々は
青年の進言に、アンナはぴたりと足を止めた。白い息を吐き、振り返る。
アンナは、護衛になったばかりの青年を見た。
「兵は送らないわ。東は陽動で、本命はミレイユ。何日も前に、そう説明したはずだけれど?」
青年が小さく口を開けた。「ですが」動揺した己を恥じるように、彼は
「あちらには大半の国王軍が集結しているのだから、そうでしょうね」
「あなたは先ほど、約束されたではありませんか。
「死人には、すべての
「っ、
「重みは同じ。けれど、数は同じではない。ならば当然、数の多いほうを救える選択肢をとるべきよ」
青年が押し黙った。「若いね」とのんきな感想を漏らしながら、ディエンがアンナへ紙束を差し出す。
推測される国王軍の備蓄の量と、
国王軍が拠点と定めた
攻略法を定めるのに、いくばくも時間はかからない。実にありきたりで
「
青年がぎょっとした。ディエンは平然と問いかける。
「逃げようとするやつはどうする?」
「あの
ディエンがうなずいた。ちょっと待ってください、と青年が震える声で言う。
「なにを……なにを言ってるんですか。アンナ様」
「なに」アンナは短く復唱し、首をかしげた。「この戦いに勝つための話だけれど」
「勝てばいいってものじゃないでしょう!」
青年が声を
「駄目です。おやめください」
「なぜ?」
「なぜ? そんなことも分からないのですか? あなたは敵のただなかに、俺たちの仲間を放りこもうとしているのですよ。逃げ道も用意せずに。それじゃあ、彼らは助からない。火にまかれて死んでしまう。慈悲をお見せください、アンナ様。あなたなら、いくらでも他の策を思いつけるはずだ。才気あふれる、あなたならば」
「兵の忠義を利用するような方法ではなく、ね」アンナは、ふ、と息を
青年が顔を
アンナは
「私の見立てでは」アンナは静かに言う。「国王軍とまともにやりあったときの、こちらの損失が五十よ。けが人も含めれば、百は超える。これを
「……っ、俺たちは、数では……」
「数の話はお
名前を呼ばれた青年――ローランが、体をこわばらせた。それを無視して、アンナは淡々と言葉を連ねる。
「あなたが私のもとにやってきたのが、半年前。三ヶ月前に兵士たちの長を務めることになったのよね。私の護衛になったのは、二十八日前だわ。模範的で、義に厚く、部下からもたいそう
アンナは一度言葉を切り、青の目を細めた。
「あなたは
不意に、ローランの顔つきが変わった。焦りと怒りがないまぜになった表情だ。青年はアンナに
ローランの手がむなしく空を切り、地面に投げ出される。
男を
アンナは、作戦本部代わりに使っている宿屋に戻った。食堂にいた兵士たちが、逃げるように視線をそらす。その数で、アンナは彼らの心情をはかった。次はしおらしい一面でもみせようか、とも考える。どこぞの女役者みたいに、美しく情感たっぷりに泣いてみるとか? ぞんがい悪くないかもしれない。
狭い廊下を抜け、自室の扉を開けたアンナは、足を止めた。
簡易ベットと書き物机、小さな庭に面した窓。なにもかもが夜の闇に沈んでいる。ここまではいつもどおりだ。
されど
白銀の髪に若緑色の目を持つ男だ。動きやすそうな白の服に、短剣を一つ
「やぁ、アンナ・ビルツ。元気そうだね」
「……なんの御用かしら、〈
「いやだな。元、だよ。君も、それくらいは知っているだろう? あるいは、俺の今の名前も、俺がここにいる理由も、知っているのかもしれないけれどね」
「リリアの
アンナがぼそりと呟けば、男が
「感心しないな、アンナ・ビルツ」アルヴィムという名の初代〈
「私を殺しに来たのね」
「君がそれを望むのなら、楽には殺してあげないさ。これは復讐だよ」
アンナは唇を引き結んだ。アルヴィムが彼女の肩に触れ、ささやく。
「ところで、〈
心臓がどきりと鳴った。
「彼らの
「心配せずとも」アルヴィムは言った。「俺はしがない脇役なのだから、勝手に動いたりはしないさ。でもねえ、まさか〈
アンナは返事ができなかった。「おや」と、アルヴィムがおおげさに首をかしげてみせる。
「違うのかい? おかしいな。彼らは君にとっての敵だ。〈
アンナは息をのんだ。胸がぎゅっと締めつけられる。すがるような細い声で尋ねた。「……できるの?」
男が、声をたてて笑った。乾いて、虚ろな笑い声だ。それから、つ、と笑みを消して、アルヴィムは吐き捨てるように言う。
「お前がそれを望むなんて。救いがたいほどに
目を見開いたまま、アンナは立ちつくした。
必死に押し隠していた弱さを、眼前に突きつけられたからだった。その
「わ、たしは……」息が、うまくできない。アンナは気づかぬうちに、顔を
私は、どうすればいいんだろう。
私は、どうすればよかったんだろう。
視界に影が落ちた。ぼんやりと顔をあげた先、アルヴィムが奇妙なほど満ち足りた表情で言う。
「大丈夫さ。俺が、ルーを助けてあげよう」
その言葉は、たちの悪い酒のようだった。飲み干せば後悔する。
きっと、誰も幸せにならないだろうと、アンナは思う。
そう思うのに、震える唇は勝手に動いている。
「……助けて、くれるの……」
「もちろんだとも」アルヴィムの若緑色の目が、
「……それは……でも、無理よ。私の兵士では、彼らを殺せない、」
「馬鹿なふりをしないでもらいたいね。〈
図星をさされて、アンナは
一番確実で、最悪の方法を、理解している。
夜の空気を吸い、アンナは暗い声で言う。
「――〈
*****
アルヴィムが出ていったあと、アンナはへたりこんだ。ずきずきと痛む手のひらをぼんやりと見て、そこではじめて、自分が強く手を握りしめていたことに気づく。
白い肌に、ぽつぽつと赤い血が滲んでいた。ささやかな光景に、しかし、アンナは不意に、泣きたくなる。
私はいったい、何をしてるんだろう。
こんなにもたくさんの人を殺して。死にに行けと命じて。死ぬことが
死ぬべきなのは私なのに。
あの時、火をかけられるべきは私で、生き残るべきは
――でも、じゃあ、ここで立ち止まるの? アンナは自問する。たくさんの人を
私が死ねば、私の側についた民は全員殺されるのよ。
「っ……」
アンナは痛いほど強く、まぶたを閉じた。
弱気で泣き虫な自分を思い浮かべる。それからすぐに、幻の自分の胸に、短剣を突き刺すところを想像した。幻は、当然弱い。だから悲鳴をあげて、暗闇のなかに消えていく。暗闇でひとりきりになったアンナは、再び殺したい自分を思い浮かべる。短剣を突き立てる。あとはもう、その繰り返しだ。
誰も死なせたくないと泣きわめく自分を殺した。
誰も見捨てたくないと義を訴える自分を殺した。
誰にも嫌われたくないと
殺して、殺して、殺して。
「……殺してよ、誰か……」
ぽつりとつぶやく、弱い自分を、殺す。
扉を叩く音がする。アンナは、ゆらりと立ち上がった。
夜の窓に映るのは、灰色の髪と、冷たい青の目をした女だ。扉を開ければ明かりが差しこんで、窓に映った彼女は美しくも絶対の指導者になる。
訪ねてきたのは、革命軍のなかでも、とりわけアンナへの
華やかで慈悲深い微笑みを向けて、アンナは部屋へ招き入れる。
「ごきげんよう、みなさん。今日は私が信頼するあなたたちに、
私は幸せ者だわ。
あなたたちのような民を、部下に持つことができて。
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